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第5章 飛竜乗雲の章
第197話 九牛の一毛
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西三河より本願寺派を放逐した家康はその立場を確固たるものとしていた。しかし、この家康のやり方に納得できない者たちが存在しないわけではなかった。
「三之丞殿、此度の殿のやり方はいかが思われたか」
「いかがも何も、やりすぎじゃ!されど、もはや一揆は骨抜きにされたも同然。今さら抗うこともできぬ」
城下の長屋にて語らうのは齢二十七となった本多弥八郎正信ともう一人の青年であった。一向一揆を起こした昨年に生まれた男子を抱きながら、家康のやり方への不満を吐露している。
そんな青年の名は岸三之丞教明。一揆方に加わり、家康に抗っていた門徒武士の一人である。そんな二人が家康の方針について激論を交わす中、岸三之丞の腕の中では二ツの嫡男・孫六がきゃっきゃと楽しげに笑っている。
「弥八郎殿、某は妻子を連れて三河を出るつもりじゃ。此度の一件さえなければ、松平家に留まるのもやぶさかではなかったが、こうなっては致し方ない」
「まだご嫡子も幼いというのに、この子も連れていくと仰せか」
「そうじゃ。ひとまず上洛して仕官先を探そうと思う」
「そうか、京へ向かわれるか」
岸三之丞の覚悟は固い。そう見てとった本多弥八郎は彼が抱く岸孫六へと視線を移す。親の事情がどうなっているなど、この年の赤子には理解できない。
しかし、このまま十数年留まっておれば、松平家臣として仕官先を探す手間もなくなるものを、出奔したのではこの幼子を路頭に迷わせる可能性もあるのではないか。
そうしたことを目の前の男は考えているのかと、本多弥八郎は問いただしてみたい気持ちもあったが、あえて詮索するような真似はしなかった。
「では、気をつけて向かわれるがよかろう」
「そういたす。こうなっては長居は無用じゃ。して、弥八郎殿は何処へ向かわれるご所存か」
「某か。弟の三弥も藤左衛門も残るつもりのようじゃし、出奔するのは某だけとなりましょうな」
「妻子はいかがなされる。たしか奥方は懐妊しておられたであろうが」
「残していく。身ごもっている女子を連れてはいけぬ」
本多弥八郎はさらりと言ってのけたが、心中穏やかでないことは岸三之丞にも察することができた。なにせ、自分にはその選択が取れなかったのだから。
「されど、妻子を残されると仰せじゃが、残られる弟殿へ預けていかれるか」
「いや、それでは殿から何かお咎めがあった際、庇いきれまい。ゆえに、頼りになる者へ預け、その後某も京へ向かう」
「おう、そうであったか。誰に預けるのかまでは詮索せぬで、次は京で会おう」
ひらひらと手を振り、岸三之丞は妻子を連れて長屋を去っていく。その逞しい武人の背を見送ると、本多弥八郎もまた荷物をまとめ、妊娠中の妻を連れて長屋を出た。そうして向かったのは上和田にある大久保家の屋敷であった。
「すまぬが、七郎右衛門殿はおられるか」
「はっ、おりまする!取り次ぎますゆえ、お名前を伺っておきたく!」
「本多弥八郎と申す」
「本多弥八郎殿ですな。取り次いで参りますゆえ、しばしお待ちを」
若い番兵に取り次ぎを依頼し、本多弥八郎は屋敷の主・大久保七郎右衛門忠世との対面を待つ。その間にも、妊娠中の妻の不安を解きほぐそうと、あれやこれやと話題を提供する本多弥八郎のもとへ、先ほどの番兵が戻ってくる。
「主人より許しが出ましたので、中へお入りくださいませ」
取り次いでくれた番兵にお礼の言葉をかけながら本多弥八郎は妻とともに屋敷へと足を踏み入れる。そうして飾り気のない無骨な屋敷を奥へ奥へと進んでいき、来客対応をするための一室へと通される。
「おう、弥八郎。それに奥方も参られたか」
「久しいな、七郎右衛門殿も壮健そうで何より」
襟を正して二人を出迎えたのが大久保七郎右衛門忠世であった。本多弥八郎よりも六歳年上の彼は、昨年大久保家の主となってからますます貫禄がついてきていた。そんな大久保七郎右衛門へ、本多弥八郎は己の決断を静かに告げていく。
「そうか、三河を去るか」
「うむ。引き留めても無駄じゃぞ」
「分かっておるわ。お主が一度言い出したが最後、頑として聞き入れぬ事はこの七郎右衛門とて存じておる。もう長い付き合いであろうが」
かれこれ付き合いも長い二人の間に、飾り気のある建前も、無益な補足説明も介在させる必要がなかった。ただただ真の言葉のみを伝え、会話が成立していく。
「某はひとまず京へ向かう。しかし、妻は身ごもっており、旅には同伴させられぬ。それゆえ――」
「わしのもとで面倒を見てはくれぬかと、左様に申したいわけか」
「いかにも。このこと、殿からも何ぞ言われようが、我が妻を守り通してくれるのはお主だけだと見込んでの頼みじゃ」
「任せておけ、殿へはわしから上手く言っておいてやる。ほとぼりが冷めたら、生まれた子供の顔でも見に帰って参れ」
「苦労をかけるが、頼む」
「ははは、これも友からの頼みじゃ。引き受けたからには途中で放り出すようなことはせぬで、案ずることはないぞ」
豪快に肩を揺らしながら笑う頼もしい友。それに笑いかけると、本多弥八郎は妻へと言葉をかけ、屋敷を立ち去ろうとする。
「行くのか、弥八郎」
「うむ。妻と生まれてくる子供のこと、どうかよろしく頼む」
本多弥八郎はそれだけ言い残すと、大久保七郎右衛門の屋敷の門をくぐっていく。そうして三河国外へ、そのまま姿を消したのであった。
そうした岸三之丞が妻子を連れて出奔したこと、本多弥八郎が妊娠中の妻を残して国外へ退去したことはまもなく家康の耳に入った。しかし、本当に納得のいかないごく少数の者が出奔したに過ぎず、そう目くじら立てるほどのことではないと、家康は割り切っていた。
「殿、彦五郎にございます」
「おう、よくぞ参った。一向宗寺院の破却について異議を申し立てに参ったか」
「いえ、そのようなことを申すはずがございませぬ。何も浄土真宗の信仰そのものを禁じたわけではございませぬゆえ。寺院や道場も此度の一向一揆に加担しなかったところについては、存続を許されてもおります。むしろ、寛大なる処置に感謝を申し上げねばならぬところにございますれば」
相変わらず、畏まった様子で書院へ入室してくるのは齢三十一となり、貫禄が伴ってきた家老・石川彦五郎家成であった。
「此度伺いに出ましたのは、一向宗寺院どもが牛耳っておりました、三河湾と矢矧川の水運にまつわる利権にございまする」
「それについては、与七郎からも報告を受けておる。此度の寺院や道場を破却した際に判明したことじゃが、大層なものであったとな」
「はい。土呂本宗寺を中心とし、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺、中之郷の浄妙寺、青野の慈光寺、長瀬の願正寺、平坂の無量寿寺を加えた七ヶ寺が牛耳っておりましたが、これを解体したことにより、すべて松平家のものとなっております」
「水運を我らの意志で軍事にも交易にも用いることができるとなれば、大いなる力となる。加えて、本願寺派寺院の寺内町からも不入権を剥奪できたは大きい」
「いかにも。これにてご当家の三河支配はますます安泰となりまする」
中之郷の浄妙寺は矢矧川を渡河すれば北に佐々木上宮寺があり、青野の慈光寺は矢作川を西へ渡河すると野寺本證寺がある立地。加えて、長瀬の願正寺は岡崎城から見て北西方向の矢作川対岸に位置し、平坂の無量寿寺は西尾城の西に存在する寺院である。
そうした一向宗寺院や道場は矢矧川流域に位置していることが大半であり、そうした立地から水運を牛耳りやすかったともいえる。
そんな資金を牛耳っているところへ不入権の兼ね合いで課税することができなかった。その不入権を剥奪できたことにより、そこからも税収が見込めるようになったのである。
そして、交易や物資の輸送についても一向宗寺院に気兼ねすることなく、領主側の一存で押し通せることは家康にとっても笑みが止まらなくなってしまうほどの益を生む。
「これにて西三河で懸念せねばならぬ不安の種は排除することが叶った。残すは東三河の牛久保城と田原城の経略のみ」
「いかにも。田原城は豊後守殿が調略をはじめ、渥美半島を切り崩すべく工作を進めておりまする。左衛門尉殿も上野領での事後処理が片付き次第、吉田城へ入り、牛久保城攻めの総仕上げに取りかかるつもりでおる様子」
「うむ。これならば、年内にも三河一統が成せよう。まことめでたきことじゃ」
「はっ!名実ともに先々代を超えることともなります」
祖父・松平清康が成し遂げ、父・松平広忠が宿願としていた三河一統。それも夢物語だと笑われないほどに前進し、もうじき達成できるところまで漕ぎつけたのである。
だが、そこへ思いがけない一報が石川彦五郎の甥であり、同じく家老でもある石川与七郎数正を通じてもたらされる。
「殿!一大事にございまするぞ!」
「なんじゃ、東三河で変事でも起こったか!」
「いえ、変事は遠江にございまする!まずはこれを!吉田城に詰めておる戸田主殿助殿よりの報せにございます」
石川与七郎が懐から取り出した一通の書状。それを手に取り、戸田主殿助重貞が記した文章へ目を通していく中で、家康の表情はみるみるうちに強張っていく。
「と、殿。書状には何と?」
「彦五郎、そなたも読んでみよ」
家康より手渡された書状をうやうやしく受け取ると、石川彦五郎も同じように書状へ目を通し、家康と同じ反応をしてみせた。
「なんと、飯尾豊前守殿が今川家と和睦したと……!?」
書状に記されていたのは、遠州忩劇を引き起こした張本人ともいえる曳馬城主・飯尾豊前守連龍が今川家と和睦し、叛乱は終息したというものであった。
「何故、豊前守殿は和睦などしてしまわれたのじゃ……」
「恐れながら、この与七郎が調べましたところ、遠州での忩劇は飯尾氏だけが抵抗を続けておる状況にございました。おそらく、孤立することを恐れての和睦であろうかと。付け加えるとすれば、戦争の長期化に伴い、銭や兵糧、武器弾薬が枯渇したのやもしれませぬ」
「そうやもしれぬな。くっ、東三河制圧も間近に控え、次は遠江侵攻をと考えておったが、三河制圧に時をかけすぎたやもしれぬな」
四月に曳馬城にて対面した折、援軍なしで抵抗し続けられるのは半年が限度と飯尾豊前守自身が申していたことを家康も思い出す。とすれば、極限状態まで来援を待ち、そのうえでの和睦という線が濃厚であった。
「また、遠江に放った草の者らが申すには、先の新野親矩討ち死にを受けて、今川家からも良い和睦条件を提示してきたようで」
「そうなれば、渡りに船とばかりに和睦に応じても無理はない、むしろ自然な流れと言えよう」
飯尾豊前守が今川家と和睦を遂げた状況については、家康もやむを得ないとの結論に至った。しかし、ここで遠江での騒動が鎮まったとなれば、駿府の今川治部太輔氏真が再び大軍を擁して三河侵攻に乗り出してくるかもしれない。
「殿、これは田原城と牛久保城の経略を急がねばなりませぬな」
「そうじゃな。この際、上野領の仕置きは出羽守に委ね、左衛門尉へはすぐにも吉田城へ戻り、牛久保城攻めを行うよう命じるとする。事態は一刻を争う」
「然らば、この与七郎がすぐにも書状をしたため、左衛門尉殿のもとへ早馬を飛ばしまする」
「いや、それは彦五郎から行わせる。与七郎は小牧山の織田殿へ使者を派し、遠州での忩劇が鎮まったことを報告せよ。加えて、駿府より今川主力が来援する恐れもあり、万が一に備えて援軍を送ってはもらえぬかと打診せよ」
「ははっ!然らば、至急使者を派遣いたしまする!では、これにて失礼仕る!」
慌ただしく石川与七郎が書院を立ち去ると、その後を追うように石川彦五郎も足早に退出。そうして静寂が訪れた書院には、家康と数名の近侍らが残るばかりとなった。
そんな今川氏真自らの三河侵攻を家康が恐れている頃、同盟相手の織田上総介信長は越後の上杉弾正少弼輝虎と緊密な関係を築き、信長の息子を輝虎の養子に出す話まで持ち上がっていた。
しかし、依然として美濃攻めに兵力を投入したいと考えている信長にとって、家康を支援するだけの余力はなかった。ましてや、武田の脅威が身近に迫っていることもあり、それどころではなかったのだ。
そうして月が神無月から霜月へと移り変わった頃、ついに家康が恐れていた事態が勃発しようとしていたのであった――
「三之丞殿、此度の殿のやり方はいかが思われたか」
「いかがも何も、やりすぎじゃ!されど、もはや一揆は骨抜きにされたも同然。今さら抗うこともできぬ」
城下の長屋にて語らうのは齢二十七となった本多弥八郎正信ともう一人の青年であった。一向一揆を起こした昨年に生まれた男子を抱きながら、家康のやり方への不満を吐露している。
そんな青年の名は岸三之丞教明。一揆方に加わり、家康に抗っていた門徒武士の一人である。そんな二人が家康の方針について激論を交わす中、岸三之丞の腕の中では二ツの嫡男・孫六がきゃっきゃと楽しげに笑っている。
「弥八郎殿、某は妻子を連れて三河を出るつもりじゃ。此度の一件さえなければ、松平家に留まるのもやぶさかではなかったが、こうなっては致し方ない」
「まだご嫡子も幼いというのに、この子も連れていくと仰せか」
「そうじゃ。ひとまず上洛して仕官先を探そうと思う」
「そうか、京へ向かわれるか」
岸三之丞の覚悟は固い。そう見てとった本多弥八郎は彼が抱く岸孫六へと視線を移す。親の事情がどうなっているなど、この年の赤子には理解できない。
しかし、このまま十数年留まっておれば、松平家臣として仕官先を探す手間もなくなるものを、出奔したのではこの幼子を路頭に迷わせる可能性もあるのではないか。
そうしたことを目の前の男は考えているのかと、本多弥八郎は問いただしてみたい気持ちもあったが、あえて詮索するような真似はしなかった。
「では、気をつけて向かわれるがよかろう」
「そういたす。こうなっては長居は無用じゃ。して、弥八郎殿は何処へ向かわれるご所存か」
「某か。弟の三弥も藤左衛門も残るつもりのようじゃし、出奔するのは某だけとなりましょうな」
「妻子はいかがなされる。たしか奥方は懐妊しておられたであろうが」
「残していく。身ごもっている女子を連れてはいけぬ」
本多弥八郎はさらりと言ってのけたが、心中穏やかでないことは岸三之丞にも察することができた。なにせ、自分にはその選択が取れなかったのだから。
「されど、妻子を残されると仰せじゃが、残られる弟殿へ預けていかれるか」
「いや、それでは殿から何かお咎めがあった際、庇いきれまい。ゆえに、頼りになる者へ預け、その後某も京へ向かう」
「おう、そうであったか。誰に預けるのかまでは詮索せぬで、次は京で会おう」
ひらひらと手を振り、岸三之丞は妻子を連れて長屋を去っていく。その逞しい武人の背を見送ると、本多弥八郎もまた荷物をまとめ、妊娠中の妻を連れて長屋を出た。そうして向かったのは上和田にある大久保家の屋敷であった。
「すまぬが、七郎右衛門殿はおられるか」
「はっ、おりまする!取り次ぎますゆえ、お名前を伺っておきたく!」
「本多弥八郎と申す」
「本多弥八郎殿ですな。取り次いで参りますゆえ、しばしお待ちを」
若い番兵に取り次ぎを依頼し、本多弥八郎は屋敷の主・大久保七郎右衛門忠世との対面を待つ。その間にも、妊娠中の妻の不安を解きほぐそうと、あれやこれやと話題を提供する本多弥八郎のもとへ、先ほどの番兵が戻ってくる。
「主人より許しが出ましたので、中へお入りくださいませ」
取り次いでくれた番兵にお礼の言葉をかけながら本多弥八郎は妻とともに屋敷へと足を踏み入れる。そうして飾り気のない無骨な屋敷を奥へ奥へと進んでいき、来客対応をするための一室へと通される。
「おう、弥八郎。それに奥方も参られたか」
「久しいな、七郎右衛門殿も壮健そうで何より」
襟を正して二人を出迎えたのが大久保七郎右衛門忠世であった。本多弥八郎よりも六歳年上の彼は、昨年大久保家の主となってからますます貫禄がついてきていた。そんな大久保七郎右衛門へ、本多弥八郎は己の決断を静かに告げていく。
「そうか、三河を去るか」
「うむ。引き留めても無駄じゃぞ」
「分かっておるわ。お主が一度言い出したが最後、頑として聞き入れぬ事はこの七郎右衛門とて存じておる。もう長い付き合いであろうが」
かれこれ付き合いも長い二人の間に、飾り気のある建前も、無益な補足説明も介在させる必要がなかった。ただただ真の言葉のみを伝え、会話が成立していく。
「某はひとまず京へ向かう。しかし、妻は身ごもっており、旅には同伴させられぬ。それゆえ――」
「わしのもとで面倒を見てはくれぬかと、左様に申したいわけか」
「いかにも。このこと、殿からも何ぞ言われようが、我が妻を守り通してくれるのはお主だけだと見込んでの頼みじゃ」
「任せておけ、殿へはわしから上手く言っておいてやる。ほとぼりが冷めたら、生まれた子供の顔でも見に帰って参れ」
「苦労をかけるが、頼む」
「ははは、これも友からの頼みじゃ。引き受けたからには途中で放り出すようなことはせぬで、案ずることはないぞ」
豪快に肩を揺らしながら笑う頼もしい友。それに笑いかけると、本多弥八郎は妻へと言葉をかけ、屋敷を立ち去ろうとする。
「行くのか、弥八郎」
「うむ。妻と生まれてくる子供のこと、どうかよろしく頼む」
本多弥八郎はそれだけ言い残すと、大久保七郎右衛門の屋敷の門をくぐっていく。そうして三河国外へ、そのまま姿を消したのであった。
そうした岸三之丞が妻子を連れて出奔したこと、本多弥八郎が妊娠中の妻を残して国外へ退去したことはまもなく家康の耳に入った。しかし、本当に納得のいかないごく少数の者が出奔したに過ぎず、そう目くじら立てるほどのことではないと、家康は割り切っていた。
「殿、彦五郎にございます」
「おう、よくぞ参った。一向宗寺院の破却について異議を申し立てに参ったか」
「いえ、そのようなことを申すはずがございませぬ。何も浄土真宗の信仰そのものを禁じたわけではございませぬゆえ。寺院や道場も此度の一向一揆に加担しなかったところについては、存続を許されてもおります。むしろ、寛大なる処置に感謝を申し上げねばならぬところにございますれば」
相変わらず、畏まった様子で書院へ入室してくるのは齢三十一となり、貫禄が伴ってきた家老・石川彦五郎家成であった。
「此度伺いに出ましたのは、一向宗寺院どもが牛耳っておりました、三河湾と矢矧川の水運にまつわる利権にございまする」
「それについては、与七郎からも報告を受けておる。此度の寺院や道場を破却した際に判明したことじゃが、大層なものであったとな」
「はい。土呂本宗寺を中心とし、佐々木上宮寺、針崎勝鬘寺、野寺本證寺、中之郷の浄妙寺、青野の慈光寺、長瀬の願正寺、平坂の無量寿寺を加えた七ヶ寺が牛耳っておりましたが、これを解体したことにより、すべて松平家のものとなっております」
「水運を我らの意志で軍事にも交易にも用いることができるとなれば、大いなる力となる。加えて、本願寺派寺院の寺内町からも不入権を剥奪できたは大きい」
「いかにも。これにてご当家の三河支配はますます安泰となりまする」
中之郷の浄妙寺は矢矧川を渡河すれば北に佐々木上宮寺があり、青野の慈光寺は矢作川を西へ渡河すると野寺本證寺がある立地。加えて、長瀬の願正寺は岡崎城から見て北西方向の矢作川対岸に位置し、平坂の無量寿寺は西尾城の西に存在する寺院である。
そうした一向宗寺院や道場は矢矧川流域に位置していることが大半であり、そうした立地から水運を牛耳りやすかったともいえる。
そんな資金を牛耳っているところへ不入権の兼ね合いで課税することができなかった。その不入権を剥奪できたことにより、そこからも税収が見込めるようになったのである。
そして、交易や物資の輸送についても一向宗寺院に気兼ねすることなく、領主側の一存で押し通せることは家康にとっても笑みが止まらなくなってしまうほどの益を生む。
「これにて西三河で懸念せねばならぬ不安の種は排除することが叶った。残すは東三河の牛久保城と田原城の経略のみ」
「いかにも。田原城は豊後守殿が調略をはじめ、渥美半島を切り崩すべく工作を進めておりまする。左衛門尉殿も上野領での事後処理が片付き次第、吉田城へ入り、牛久保城攻めの総仕上げに取りかかるつもりでおる様子」
「うむ。これならば、年内にも三河一統が成せよう。まことめでたきことじゃ」
「はっ!名実ともに先々代を超えることともなります」
祖父・松平清康が成し遂げ、父・松平広忠が宿願としていた三河一統。それも夢物語だと笑われないほどに前進し、もうじき達成できるところまで漕ぎつけたのである。
だが、そこへ思いがけない一報が石川彦五郎の甥であり、同じく家老でもある石川与七郎数正を通じてもたらされる。
「殿!一大事にございまするぞ!」
「なんじゃ、東三河で変事でも起こったか!」
「いえ、変事は遠江にございまする!まずはこれを!吉田城に詰めておる戸田主殿助殿よりの報せにございます」
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「と、殿。書状には何と?」
「彦五郎、そなたも読んでみよ」
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「なんと、飯尾豊前守殿が今川家と和睦したと……!?」
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「何故、豊前守殿は和睦などしてしまわれたのじゃ……」
「恐れながら、この与七郎が調べましたところ、遠州での忩劇は飯尾氏だけが抵抗を続けておる状況にございました。おそらく、孤立することを恐れての和睦であろうかと。付け加えるとすれば、戦争の長期化に伴い、銭や兵糧、武器弾薬が枯渇したのやもしれませぬ」
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「そうなれば、渡りに船とばかりに和睦に応じても無理はない、むしろ自然な流れと言えよう」
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「然らば、この与七郎がすぐにも書状をしたため、左衛門尉殿のもとへ早馬を飛ばしまする」
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そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
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