不屈の葵

ヌマサン

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第5章 飛竜乗雲の章

第202話 槿花一日の栄

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 吉田城を攻略し、三河一統まで牛久保城攻略を残すのみとなった家康率いる松平勢の士気はうなぎ登りであった。

 対する牛久保城へ籠城する牧野勢はといえば、吉田城・田原城の両城から今川勢は駆逐され、駿府の今川上総介氏真からは援軍が送られてくる報せもない、まさしく孤立無援の状態。

 これでは上がる士気も上がらず、もはや城主・牧野民部丞成定の負けん気だけで継戦されているといっても過言ではない状況にあった。

「殿、もはやこれまでにございまする。ここは松平へ降伏し、所領の安堵だけでも認めていただきましょうぞ」

「ならぬ!あのような不意打ちで西尾城を奪い、牛久保城まで攻め落とさんとする卑劣な輩に降伏するなどあり得ぬ!あ、あんな若造に頭を下げるくらいならば、死んだ方がまだ良いわ!ゲホゲホッ……!」

「と、殿!?やはりお加減が優れませんので……!?」

「う、うむ。数日前より寒気がするのじゃ……」

「きょ、今日のところはお休みくださいませ。松平への対応は我ら重臣がいたしまするゆえ……」

「承知した。じゃが、降伏だけは断じて許さぬ。そのこと、しかと肝に銘じておくように――」

 小姓に肩を貸してもらいながら重臣四名が残る広間を退出し、寝所へ戻っていく城主・牧野民部丞。齢四十一とまだ老いたというには早すぎる年齢ではあるが、四年にわたる戦陣の疲労が蓄積し、心身ともに衰弱していることは側で仕える重臣らには一目瞭然であった。

 そんな主君の背中を見送って居直るのは宿老・稲垣重宗。こうなった以上は松平へ降伏するより牧野家が生き残る術がないことは重々承知しているが、当主が頑なにそれを拒むため、困り果てているといった様子であった。

「成元殿はいかが思われるか」

「某は殿のご意思に従うまでじゃ。松平と戦って死ねと言われれば死ぬのみぞ」

 稲垣平右衛門重宗の左隣で胡坐をかくいかつい面をした豪傑・牧野成元はキッパリと言い切ってみせる。

 しかし、その実は主君を思っているようで何も真剣に考えていない、と稲垣平右衛門は内心では呆れ果てていたが、それをおくびにも出さず、右隣の山本帯刀左衛門成行へと意見を求める。

「某は松平へ下るべきであると考える。されど、先ほど平右衛門殿が先ほど殿へ言上しておった所領安堵とはなるまい。そうなれば、知行が減ることともなり、当家の者らは承服すまい」

「それはそうじゃが、それを拒んで滅亡などした暁には所領が減るなどと申してはおれなくなるのじゃ……!」

「平右衛門殿、ちと誤解しておられるようじゃが、降伏せぬと某は申しているのではござらん。所領安堵とはならぬことは必定じゃが、何か別の、家臣どもが納得する条件を出さねばお家内部で離反者が出てもおかしくはないと、某はかように申したいのでござる」

 同僚である山本帯刀左衛門の意見はもっともであると、稲垣平右衛門も頭の中では理解していた。しかし、主君が否と申している限り、その交渉すら進めることができないのである。

「父上、交渉も大事にございますが、今は城の外へ築いた三つの砦をいかにして守るか、ここが肝要にございます。ここを守り切れている限り、牛久保城はそう易々と落ちることはございませぬ」

 宿老・稲垣平右衛門の嫡男で、齢二十七となった若武者・稲垣藤助長茂。彼は父とその同僚らへ向けて城周辺の絵図を拡げ、三つの砦を朱筆で丸をつけていく。

「まず一つは某が守備を受け持っております野瀬砦。二つ目は牧野成元殿が守備に就いておられる真木砦、残るは帯刀左衛門殿が守っておられる宮下砦にございます」

「うむ。じゃが、事ここに至っては策など立てようもない。吉田城と田原城を攻略した松平勢は総力を挙げてこちらへ攻め寄せて参るであろうからな」

「お、仰る通りにございます。すでに東三河の国衆どもが野瀬砦と宮下砦近くに布陣し、酒井左衛門尉率いる松平勢が真木砦を監視できる位置に陣を構えておる状況にございます。ここへ蔵人佐率いる本隊が加われば、敵数は倍以上となるは必定」

 若いながらも幾度となく家康率いる松平勢の猛攻を跳ねのけてきた稲垣藤助長茂であったが、もはや万策尽きたといって良かった。

 これまでは吉田城からの後詰めを当てにしたり、同じく松平家に抵抗する鵜殿家などと連携して立ち向かえば凌ぐことができたのだが、もはやそれらの手立てがすべて封殺されている。誰からも武器や兵糧の支援がなく、援軍が来ることはない。

 その絶望的な状況では、いかなる策士であっても現状を打破する一手を打つことなど不可能に近い。

 そしてついに、恐れていた報せが宿老・稲垣平右衛門らが詰める広間へと注進される。

「申し上げます!吉田城方面より松平勢が大挙して城下へ迫りつつあり!その数、およそ三千!酒井左衛門尉率いる松平勢と合わせれば、およそ六千ともなりまする!敵は部隊を三隊に分け、野瀬砦、真木砦、宮下砦へ向かいつつありまする!」

「ちっ、恐れていることが起こったか!方々、一刻も早く砦へお戻りくだされ!城は不肖稲垣平右衛門が預かり申す!」

「おう!」

「言われるまでもない。ただちに砦へ戻らせていただく」

「父上、どうかご武運を!」

 城主が体調を崩している今、宿老が城を出るわけにはいかない。そのことをその場にいる誰しもが理解しているからこそ、迅速な対応を取ることができた。三将それぞれが牛久保城を飛び出し、各々の持ち場へと戻っていく。

 そうして砦に守将が戻り、砦の兵らの士気が回復しつつあるのを確認した松平勢の諸将は総大将である家康の下知を仰ぐべく、本陣へと参集していた。

「殿、此度の吉田城攻略はまことお見事にございました」

 着陣した家康を出迎えたのは、牛久保城の牽制を担っていた家老・酒井左衛門尉忠次。大原肥前守資良と協同で国衆らの所領の給与を行うなど忙しくしながらも、家康より命じられた牛久保城の監視を怠らない八面六臂の活躍を見せている彼を、家康は労いながら床几へと腰かける。

「皆、よくぞわしが吉田城を攻める間、牛久保城を牽制していてくれた。家康、心底より礼を申す」

「勿体なきお言葉……!」

 家康の言葉に真っ先に涙を流したのは野田菅沼勢を率いる菅沼新八郎定盈。涙を流して喜ぶ同い年の青年に苦笑しながら、家康は酒井左衛門尉から牛久保城包囲の現状を聞き、本多作左衛門重次が用意した周辺の絵図と睨み合う。

「殿、牛久保城攻めの配置はいかがいたしましょうか」

「作左衛門、よくぞ申してくれた。たった今、それが定まったゆえ、皆に伝えるとする」

 絵図が風に吹かれて飛んでいかぬよう、押さえを置く役割を担っていた本多作左衛門から軍勢の配置を尋ねられた家康はにやりと笑みを浮かべた。

「まず、新八郎と孫九郎に美作守を加えた野田菅沼と西郷、作手奥平の軍勢で野瀬砦を攻めよ」

「承知!」

「しかと承りましてございます!」

「委細承知!」

 瞳から溢れる涙を土埃にまみれた袖で乱雑に拭う菅沼新八郎、礼儀正しく一礼して拝命する西郷孫九郎清員、日に焼けた見るからに戦慣れした風貌の奥平美作守定能が各々野瀬砦攻めの命令を受諾する。

 家康は三名の顔を一人一人流し見ると、続けざまに命令を下していく。

「次に、左衛門尉と作左衛門の両名は真木砦を攻めるべし」

「ははっ!お任せくだされ!」

「しかと拝命仕った!」

 強面の部類に入るであろう酒井左衛門尉と本多作左衛門が剛毅溢れる返答をし、真木砦攻めを受け持つ部隊が確定する。

「最後に宮下砦じゃが、七郎右衛門と半蔵を先手とし、我が旗本衆が攻め立てることとする」

 宮下砦へ進むのは大久保七郎右衛門忠世率いる大久保党、渡辺半蔵守綱をはじめとする家康の旗本衆と定まり、これを合図に各隊が砦を攻撃するべく、行動を開始。

 松平勢・牧野勢ともに決戦の気運高まり、曇天模様のなかで開戦を告げる法螺貝の音が響き渡る。

「宮下砦へ一番乗りするは我ら大久保党じゃ!松平に大久保党ありと知らしめてくれようぞ!かかれっ!」

 家康の旗本衆よりも早く砦へ取りつかんと猛進し始めるのは大久保七郎右衛門率いる大久保党。三河一向一揆においても奮戦し、松平の窮地を幾度も救った百戦錬磨の強者たちは走りながら砦へ矢を射かけ、木楯や竹束を駆使して砦から飛来する弓鉄砲を防ぎ、前進していく。

「殿からお許しが出た!我ら旗本衆も前に出ようぞ!」

 胴丸に鉢巻き姿の渡辺半蔵が長槍を担いで飛び出していくと、それに負けじと他の旗本衆も競って駆け出す。

 本隊が宮下砦攻めに動いたのを確認すると、野瀬砦へ野田菅沼勢、西郷勢、作手奥平勢が攻めかかり、外様に先を越されるわけにはいかぬと酒井左衛門尉と本多作左衛門率いる松平勢も真木砦へ襲いかかり、たちまち三つの砦で死闘が繰り広げられる。

「怯むなっ!敵は数が多いだけじゃ!恐れるでない!鉄砲隊、弓隊は構えよ!」

 家康の直臣たちによって最も激しい攻撃を受ける宮下砦の守将・山本帯刀左衛門の怒号が響き渡る。しかし、味方が劣勢が何も兵数だけでないことは当の本人も重々承知していた。

 戦に次ぐ戦を切り抜け、まさしく戦い慣れている者たちが勢揃いしている松平の精鋭が槍先を揃えて向かってきているのだ。もはや勝ち目など初めからないに等しかった。

 山本帯刀左衛門の懸命な防戦空しく、松平勢の槌隊により門は打ち壊され、柵を引き倒して松平勢が砦内部へ侵入し、砦内部での白兵戦となってしまう。

「山本様!もはやこれまでにございます!」

「ちっ、やむを得ぬか!ええい、退けっ!牛久保城まで落ちるのだ!」

 真っ先に落ちたのは山本帯刀左衛門が守備する宮下砦であった。彼の早急な判断により、牧野兵は次々に牛久保城へと後退していく。

 続けて牧野成元が守る真木砦より火の手が上り、こちらへは酒井左衛門尉・本多作左衛門の両名に率いられた松平勢が牧野勢を蹂躙していた。

「左衛門尉殿!敵は牛久保城へ後退していくようじゃ!」

「よし、砦から牧野勢を叩きだすくらいで構わぬ!作左衛門は軽く追い討ちを仕掛けて、武功を稼いで参られよ!某の隊は砦制圧へ回るゆえ」

「おう、承知した!」

 砦制圧は酒井隊、追撃は本多隊と手分けして任に当たり、真木砦制圧は順調に進められていく。一方で、牧野成元は山本帯刀左衛門と同じく、敗残兵らを取りまとめ、牛久保城へ逃げ込んでいった。

 牧野勢の敗色が濃厚となる中、野瀬砦を堅守していたのは若武者・稲垣藤助。野田菅沼、西郷、作手奥平の三氏による激しい攻めを一手に引き受け、門一つ突破させずに守り抜いていた。

「新八郎殿!敵もさる者、未だに門突破もかなわぬ!」

「孫九郎殿、たしか砦の守将は稲垣藤助とか申す若武者であったか」

「いかにも。四年前、我ら豊川三人衆が初めて牛久保城を攻めた折も奮戦していた若武者にございますれば」

「やはりそうであったか。越中守殿率いる設楽勢に代わって、より兵力の多い作手奥平勢が合力してくれておるというのに突破できぬとは、大した若武者ぞ」

 稲垣藤助の鉄壁の守りに菅沼新八郎も西郷孫九郎も怒りを通り越して感嘆してしまっていた。それを傍から見ていた奥平美作守は嘆息し、自軍を押し上げるべく前線へ出ていく。

 一方で、野瀬砦を防衛する稲垣藤助であったが、続々と宮下砦と真木砦陥落の報せが届けられ、進退窮まっていた。

「残る砦は我らのみとなったか」

「はっ!皆さま、無事に牛久保城へ退かれたとの由!」

「ここまで砦を守り通したというに、他が落ちたのでは砦の意味はない。ここは野瀬砦を放棄し、我らも牛久保城へ撤退じゃ!」

 悩んだ末に稲垣藤助が導き出した答えは撤退であった。もはや他の砦が落ちたのであれば、この野瀬砦は包囲するにとどめ、残る全軍で牛久保城へ攻めた方が早い。自分が敵ならばそうすると読んだうえでの決断であった。

 かくして、稲垣藤助が野瀬砦を捨て、牛久保城へ後退したことにより、松平方は牛久保城の周辺にある牧野勢の砦すべての制圧を完了したのである。

 家康は本陣を最も損傷の少ない宮下砦へ移すと、再び牛久保城へ降伏勧告の使者を出すなど、すぐに城攻めに移ろうとはせず、季節は初夏の六月へ突入した。

 しかし、そんな宮下砦の家康のもとへ、驚愕の報せが岡崎城から馬を走らせてきた石川与七郎数正よりもたらされたのである。

「殿!」

「与七郎、いかがした!岡崎にて何事かあったか!?」

「いえ、違いまする!京の二条御所にて将軍足利義輝様、お討ち死に!」

 京の二条御所にて将軍が討たれるという前代未聞の事態。家康もまた、情報量の多さに思考が停止してしまうのであった――
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