不屈の葵

ヌマサン

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第5章 飛竜乗雲の章

第205話 義信事件

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 人々を心身共に疲弊させる暑さも陰りが見え始めた永禄八年九月三日。遠く駿河国ではある老人がその長い長い人生の幕を閉じようとしていた。

「将監殿」

「これは伊豆守殿……」

 家康に反旗を翻すも敗北し、故郷・三河国を追放となって駿河へ逃れた酒井将監忠尚。彼は酒井尚昌と酒井重元の息子二人に支えられて息も絶え絶えに体を起こして出迎えた来客。それは今川御一家衆として重用されていた家康の舅・関口伊豆守氏純であった。

「お加減は優れませぬか」

「ははは、もはやこれほどの年ともなれば、病と縁が結ばれるは必定。決して抗えませぬ」

「左様にございましょう。某も近ごろは体調を崩し、寝込むことが増えもうした」

「某は三河を追われてより体調を崩す日が多うなりました。伊豆守殿も、失脚してより体調を崩すことが多くなったと耳にしておりますが……」

 酒井将監と関口伊豆守。ともに主家の政務から失脚したという点では境遇が似通っており、それこそが二人を結び付ける絆ともなっていた。そんな二人は揃って体調を崩すことが日に日に増える傾向にあった。

「将監殿はかように逞しいご子息がおられるゆえ、死してなおお家は安泰でございましょう」

「ははは、愚息どもでは家名存続くらいは成せようが、かつての儂ほど権勢を振るう立場には至るまい」

「それでも羨ましゅうございます。私には娘二人しかおりませなんだ。瀬名は蔵人佐殿のもとへ、もう一人の姫は助五郎殿へ嫁いでおりましたが先日離縁されましたゆえ」

「たしか婿養子としておった助五郎殿も生家である小田原の北条家へ戻られたと伺っておりまするが」

「そうじゃ。私には老いた妻と出戻った娘がおるのみ。瀬名からは近ごろでは便りもなく、孫たちの消息も分からぬのじゃ」

 すっかり寂しくなった屋敷のことを語る関口伊豆守の眼は自然、西の方を向いていた。

「某が追放された折、竹千代君は七ツ、亀姫は六ツともなり、二人とも息災であると伝え聞きましたが」

「そうか。そうであったか。便りがなければ、息災か否かも分からぬ……」

 しまいには涙を流す関口伊豆守。失脚以後、すっかり衰えを見せ、ずいぶんと白髪も増え、家康が駿府にいた頃とは別人のように老け込んでしまっていた。

「伊豆守殿、一つお頼みしたきことがござる」

「三河一のおとなとも呼ばれた御仁が私へ頼みたいこととは一体なんでございましょう」

「ここにおる愚息らを今川家で仕官できるよう、貴公の伝手で取り計らってはもらえぬか」

「お断りいたします。到底、私などの力ではどうにもなりませぬ」

 気落ちした関口伊豆守に間髪入れずに断られ、さすがの酒井将監も鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきとなる。だが、両者の反応は無理もないことではあった。

「左様か。ともすれば、愚息どもを儂の死後も駿河へ留め置くは不憫じゃ」

「然らば、甲斐の武田家か相模の北条家へ仕官なされよ。今川家では将監殿のご子息らは内通者として常に疑われることとなろうが、武田か北条であればそのような気遣いは無用じゃ。それもあり、今川家へ推挙するのは控えさせていただいたのです」

「そうでござったか。然らば、尚昌は甲斐へ。重元は相模へ向かうがよい。一つの家におっては、何かあった時に危ういゆえな」

 病床に臥している老父の言葉を聞き、酒井尚昌・酒井重元の両名は静かに一礼し、遺命として拝命した。それを見届けた関口伊豆守より、ある提案がなされる。

「然らば、今川家の外交を受け持っておる武田御一門衆である穴山左衛門大夫信君殿、相模へ帰った助五郎殿へ私から書簡を送っておきましょう。さすれば、お二人の仕官も進みやすくなりましょうゆえ」

 そこまで言い終えると、関口伊豆守は書状をしたためるべく、酒井将監の見舞いを切り上げ、早々に退出していく。最後まで親身になってくれた関口伊豆守の対応に感謝しているのか、酒井将監は曇りのない眼でそれを見送った。

 そうして幾度も松平宗家へ反旗を翻した松平宗家の宿老とも言うべき老臣・酒井将監忠尚はその日の夜、息を引き取ったのであった。

 酒井将監忠尚が息を引き取った日の六日後、駿河の今川上総介氏真・甲斐の徳栄軒信玄の運命を大きく変えてしまうことになる出来事が起ころうとしていた――

 来たる九月九日。躑躅ヶ崎館の信玄のもとへ、尾張の織田上総介信長より使者・織田忠寛が派遣されてきたのである。

 その使者を当主・信玄自らが引見。その傍には嫡男・太郎義信が胸を張り、次期当主らしい風格をもって控えていた。

「お初にお目にかかります。織田上総介信長が家臣、織田忠寛にございまする」

「遠く尾州よりよくぞ参られた。儂が甲斐守護の徳栄軒信玄じゃ。これへ控えるは我が嫡男、太郎義信じゃ」

 織田忠寛の挨拶に言葉を返すと、信玄は自慢の嫡男を紹介し、両者が静かに一礼する。緊張を孕む空間において、次に口を開いたのは武田太郎であった。

「当家にとって織田家は同盟国である今川家の敵。何より、某の舅を討った仇にござる。それを承知でこの躑躅ヶ崎館へ乗り込んで参られたか」

「はい。そのこと、我が主も承知の上にございます。我が主は武田家中の方々はそのような私怨に捉われる方々ではないと仰られ、某が派遣される運びとなり、今ここにおりまする」

 使者・織田忠寛の言葉に神経を逆なでされた心地がした武田太郎であったが、齢二十八ともなり怒りを制御することを覚えた武田太郎はあくまでも冷静に対応してみせる。

「なるほど、使者殿が仰られることはもっともじゃ。して、これへ参られたは東美濃のことではございますまいか」

「ご推察の通り、それも一つにございます」

「一つと申したが、何ぞもう一つあると仰りたいのか」

「いかにも。もう一つは正式な同盟締結の申し入れにございまする」

 織田家から武田家へ、正式な同盟締結の申し入れ。それが成せれば、不穏な東美濃情勢の解決も大きく前進することを意味していた。

「当家が織田と同盟を結ぶなど、断じてあり得ぬ!」

「太郎!」

 さすがに憤怒を抑えきれなくなった武田太郎を一喝したのは、齢四十五にもなる徳栄軒信玄その人であった。それまで瞠目し、両者の会話を巌のように聞いていた甲斐の虎がついに動いたのである。

「して、使者殿」

「ははっ!」

「当方としては同盟を結ぶこと、条件次第ではやぶさかではないが、織田殿は何と仰せか」

「はっ、姪にあたる苗木遠山直廉の娘を養女となし、信濃高遠城主となられている諏訪四郎勝頼殿へ娶らせたいと、かように申しておりました」

 信濃高遠城主・諏訪四郎勝頼は信玄にとって四男にあたり、武田太郎にとっては異母弟にあたる者。現在は高遠諏訪家の名跡を継ぎ、東美濃に隣接する信濃国の高遠城へ入っている齢二十歳ともなる若武者である。

「東美濃の遠山苗木氏に織田殿の姪にあたる姫を養女としたうえで、四郎へ嫁がせるか。その儀、受諾いたそう」

「ち、父上!?織田は今川家の仇!同盟国の敵と結ぶなど言語道断にございます!ましてや、駿府の上総介殿へ何の断りもなく……!」

「構わぬ。当家には当家の事情があり、儂には儂の考えがある。それを駿河屋形にとやかく言われる筋合いなどないわ」

 父・信玄の言い分は武田太郎としても甲斐武田家嫡男として理解できる。だが、その理解に感情を伴わせることは極めて難しい事柄であった。

「使者殿、婚儀は早い方が良かろう。今より二ヵ月後の霜月が適当であると思うが、この旨、立ち返って小牧山城の織田殿へお伝え願いたい」

「ははっ、ご承引くださりありがとう存じまする!婚儀を今年十一月に行うとのご意向、たしかに主へ伝えまする!では、これにて失礼いたしまする!」

 信長よりの使者・織田忠寛は一礼して起立すると、行きには荘厳で恐ろしくも思えた躑躅ヶ崎館を後にする。だが、館内の父子の間には気まずい空気が漂ったままであった。

「良いか太郎。これにより東美濃への深入りを避けられ、我らは上野や北信濃での戦いに注力することができるのだ。それは分かるであろう」

「はい」

「織田上総介信長が五年前に討った今川三河守義元はそなたにとって舅であるが、儂にとっても姉の婿。それを討った相手とも時には結ばねばならぬのが乱世の習いというものじゃ」

「それゆえに堪えてくれと、かように申されたいのでしょうが、さりとて承服いたしかねまする!これにて失礼いたしまする!」

 初めは黙って父の言葉を聞いていた武田太郎であったが、利害と理性でもってしても心の内から湧き上がる感情を封じ込めることは至難の業であった。そんな若武者は席を蹴り、不協和音を醸し出しながら廊下を突き進んでいく。

 ――今後も折を見て懇切丁寧に説明すれば理解されるだろう。

 そう見越していた信玄の淡い希望は翌十月初旬、驚くべき形で粉々に打ち砕かれることとなる。

「御屋形様、三郎兵衛尉にございます」

 丑の刻。寝所で眠りにつく主君の眠りを覚ましたのは譜代家老衆の飯富三郎兵衛尉昌景であった。小男でありながら武勇に優れる信玄の腹心である。

「三郎兵衛尉、夜半にいかがした」

「はっ、一刻も早く御屋形様へお知らせせねばならぬことがあり、参上いたしました」

 信玄は飯富三郎兵衛尉の今にも泣きそうなのを堪えながら、何かを必死に訴えかける瞳を見て、ただ事ではないと察知し、寝所へ招き入れた。そして、一呼吸おいて飯富三郎兵衛尉が語ったことは信玄の眠気を吹き飛ばしてしまうほど、衝撃的な事柄であった。

「なにっ、そなたの叔父で太郎の傅役でもある飯富虎昌が謀反を起こそうとしておると……!?」

「はっ、そのこと太郎君も存じておるらしく、長坂勝繁、曾根虎盛といった若君に近しい者らも謀反に加担しておる由」

 飯富三郎兵衛尉の密告に、信玄は拳を震わせた。傅役が謀反を起こそうとしていることを知っていながら何ら手を打とうとしていないあたり、謀反へ嫡男の太郎も加担している可能性が高いと悟ったからだ。

 それと同時に、叔父が謀反を計画していることを密告した飯富三郎兵衛尉の辛さも察することができた。

「三郎兵衛尉、そなたの叔父には腹を切ってもらわねばならぬ」

「無論、承知のうえでこうして御屋形様へお伝えしたのでございます。加えて、ご命令いただければ、長坂勝繁と曾根虎盛の両名へ刺客を送り、成敗いたしまするが、いかがいたしましょうか」

「うむ、謀反を企む者を見過ごしては思わぬ大火となるやもしれぬ。何人たりとも逃すわけには参らぬ」

「然らば、この三郎兵衛尉が手勢をもって両名を成敗することといたしまする」

 飯富三郎兵衛尉の密告により発覚した武田信玄への謀反。中心人物である飯富虎昌は十五日に切腹となり、長坂勝繁、曾根虎盛の両名もまたその前後に成敗されたのである。

 謀反を密告した飯富三郎兵衛尉昌景は叔父・飯富虎昌の赤備えを引き継ぎ、先代・信虎の代に断絶していた山県氏の名跡を継ぎ、山県三郎兵衛尉昌景と名を改めることとなる。

 そして、もう一人の中心人物である武田太郎義信を支持する義信派ともいうべき家臣たちは国外追放となったのだが、甲斐の譜代の者らが多く、武田家中に禍根を残すこととなった。そうして事件はさらなる展開を迎える――

「御屋形様」

「三郎兵衛尉、それに美濃守も揃っておるか」

 冬の接近を日に日に感じさせる晩秋のある日、信玄は山県三郎兵衛尉と馬場美濃守信春を呼び寄せた。それは重臣である二人へ、一大決心を告げるためであった。

「儂は太郎を甲府東光寺に幽閉することを決めた」

「なんと!」

「太郎はあくまでも親今川の立場を変えるつもりはないようじゃ。あやつを許しておいては、家中分裂を招く恐れもある。それゆえ、心を鬼にして臨むこととした」

「幽閉とあらば、太郎様ご正室の松姫は駿府へ送り返すということになりまするか」

「さすが美濃守。細かいことによく気づく。じゃが、当人は甲斐へ留まることを希望しておる。それを無理に引き離すは酷というもの」

 そう、武田太郎義信の正室は今は亡き今川三河守義元の娘で、現当主・上総介氏真の同母妹にあたる松姫。夫婦の間には一人娘も産まれており、仲睦まじい夫婦であった。

 そんな松姫は信玄にとって姪にあたることもあり、大層気に入っていたのもあり、彼女の要望を聞き届けることとしたのである。

「小幡源五郎が送って参った見舞いの書状にも匂わせたが、父子の関係に問題はないと、そのことを家中に示さねばならぬ」

 あくまでも義信を廃嫡する意志はないのだと家中へ伝達する傍ら、来月に迫った織田家との婚姻同盟締結に忙殺される信玄なのであった――
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