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第5章 飛竜乗雲の章
第206話 天下再興の要請と飯尾連龍謀殺
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永禄八年十一月。義信事件の残滓が漂う武田家は尾張から美濃へ勢力を拡大する織田信長との婚姻同盟締結に踏み切った。
東美濃の苗木遠山直廉の娘・勝姫が叔父・信長の養女となったうえで信濃国高遠城主で武田信玄の四男・諏訪四郎勝頼へ輿入れを果たしたのである。
そして、年内には武田家は美濃の一色龍興とも美濃出身の高僧・快川紹喜の仲介で同盟を締結させたことで、東美濃情勢へ深入りすることを避け、抗争が激化している上杉家へと注力する方向へ舵を切ったのである。
そうして永禄の政変において将軍足利義輝が殺害されてから半年が経ったことを意味する十一月。将軍を殺害し、その従兄弟にあたる足利義栄を将軍に就任させようとしていた三好・松永が畿内での主導権をめぐって内部抗争を開始したのである。
十一月十六日、若き三好家当主・三好左京大夫義継を担ぐ三好三人衆が松永弾正久秀と断交。三好家中を二分する大乱へと発展していく。
それは京への入洛を望み、山城の隣国・近江より機を伺い続ける足利義輝の弟・一乗院覚慶にとっては好都合なことであった。
そんな一乗院覚慶は各地の大名・国衆に天下再興、すなわち室町幕府再興のために自らが入洛することに助力するよう呼び掛けていたのである。そして、その一乗院覚慶からの要請は三河平定を進める岡崎城の家康のもとへも届けられた。
「殿!江州甲賀郡和田におられる一乗院覚慶様より書状が届いておりまする!」
「与七郎、見せよ!」
血相を変えて書院へ飛び込んできた家老・石川与七郎数正が持参した書状には和田城主の和田伊賀守惟政殿の副状も発給されており、紛れもない一乗院覚慶の書状であることは明らかであった。
「して、書状にはなんと?」
「うむ、天下再興に力添えを願いたいとかように記されておる」
「となりますれば、公方様を討った三好や松永を追い払い、京へ戻り幕府を再興することが一乗院覚慶様の願いであると」
「そうなるであろう。おそらく、これに織田殿も協力するであろうし、越後の上杉弾正少弼殿も加わるであろうことは明白」
先日、石川与七郎が持ち帰った信長の意向。家康としても同意見であり、この一乗院覚慶入洛へ協力する意志を表明することは、これからの今川家との戦いを優位に進めるうえで欠かせない一手であった。
「一乗院覚慶様へ直接返信するのではなく、近臣である和田伊賀守殿へ返書を発するが礼儀であろうか」
「いかにも。当家はまもなく三河国主となる家柄ではございますが、三河守護を仰せつかっているわけでも、朝廷より官職を賜っているわけでもございませぬ。分不相応であると書札慮外の扱いを受けましょう」
「そうなるであろうな。然らば、和田伊賀守殿へ入洛の際には従軍することを返事することといたそう」
「それがよろしいかと」
客観的に見れば松平家は無位無官である。そのことを家康は石川与七郎の発言から気づかされた。
しかし、この一乗院覚慶から天下再興への助力を求められたこと自体、家康としては喜ばしいことであった。なにせ、要請が届いた時点で松平家が幕府から独自の勢力として認識されていることを意味するからである。
「殿、ご満悦にございまするが、何ぞ良いことでもあられましたか」
「うむ。こうして将軍家より要請が届いたことは当家が将軍家より独立した勢力として認められていることの証左。これが嬉しくないはずがなかろう」
「なるほど、殿の仰る通りにございますな。されど、入洛の際には従軍する旨の返書を送ったならば、まことに入洛の際には従軍せねばならなくなりませぬぞ」
「そうなのじゃが、そうでも言っておかねば一乗院覚慶様は満足なさらぬであろう。その時に今川との戦がどうなっておるのか、それ次第では援軍を送るのみともなろう」
家康としても一乗院覚慶の入洛へ協力したい意思はあるし、自らが三河の軍勢を率いて従いたいところ。しかし、その留守を今川家に突かれることにでもなれば、たちまち帰る家を失うことにもなってしまう。
それゆえに、家康の進退すべてに今川家との戦が大きく絡んでくるのである。
「殿が返書をしたためられた和田伊賀守殿ですが、今は織田殿に上洛へ協力してもらうことを約していただくべく、尾張へ入って折衝中とのこと」
「ほう、それは確かな筋からの報せか」
「はっ、取次役の滝川左近将監殿よりの報せにござれば、まず間違いなかろうかと」
「ならば、この書状は尾張へ直接届けさせるとする。その方が話も早く進もうものぞ」
家康は十一月二十日付の返書を尾張に入った和田伊賀守へ届けさせることとしたのだが、その翌日、和田伊賀守の所領である甲賀郡和田の地にて、和田伊賀守自身予想だにしなかった事態が勃発したのである。
「覚慶様、まことに移座されるおつもりで!?」
「そうじゃ。六角承禎より野洲郡矢島を在所することの許諾は得ておる。野洲郡は甲賀郡よりも京に近い。何より、六角家が後ろ盾であることを内輪揉め最中の三好や松永らに知らしめることも叶う」
「されど、伊賀守殿に無断で動くは筋違いかと」
「案ずるな、伊賀守はそのようなことで腹を立てるような男ではない。そうと決まれば、すぐにも向かうとしようぞ」
奉公衆の制止を振り切り、和田伊賀守に無断で一乗院覚慶は野洲郡矢島村へ移り住んで在所とし、矢島御所と称された。
三好と松永が争っている今こそ、上洛の好機だと考えた一乗院覚慶のこの行動に後日、和田伊賀守が不在の間に移座したことを激怒していることを伝え聞いた一乗院覚慶は謝罪の書状を送る羽目になる。
そうして一乗院覚慶の入洛へ協力するべく、家康も動いた中で蚊帳の外とでも言うべき勢力が一つ存在していた。そう、駿府の今川上総介氏真であった。
一層冬の寒さが厳しくなる十二月、駿府館の氏真のもとへは良いとは言えない報せばかりがもたらされていた。
そんな齢二十八ともなる若き当主の周りには十九歳となった正室・春姫や老いてなお孫を後見し続ける今川義元生母・寿桂尼といった一門や三浦右衛門大夫真明といった側近、懸川城主・朝比奈備後守泰朝といった譜代の重臣が集まっていた。
「御屋形様、甲斐での変事はお聞きになられましたか」
「それは伝え聞いておる。我が妹、松の夫である太郎殿が甲府東光寺に幽閉されたそうではないか」
「いかにも。これは武田家は甲駿同盟を解消し、駿河へ攻め寄せるつもりではございますまいかと――」
武田家は矛先を駿河へと転じようとしている。その疑念を躊躇せず口に出した三浦右衛門大夫の言葉を半ばにて遮ったのは氏真ではなく、祖母・寿桂尼であった。
「右衛門大夫殿、よろしいですか」
「はっ、尼御台様!某の発言に誤りがございましたでしょうか」
「ええ。たしかに太郎殿は幽閉されましたが、それは御父上の暗殺を企て蹶起しようとなされたがため。何より、廃嫡するとの話もございませぬ」
理路整然と語る寿桂尼は老いてなお今川家を支える柱石らしい、確かな眼を持っていた。しかし、あくまでも武田を疑ってかかる三浦右衛門大夫は不服であると語気を強めて反論する。
「されど、事実上の廃嫡といっても差し支えないことであると、この右衛門大夫は考えまする」
「それが浅はかというものです。良いですか、あくまでも太郎殿が蹶起したのは織田家と武田家の同盟締結に反対なされたからだと聞いております。そして、その甲尾同盟は武力衝突の起こった東美濃情勢を解決せんがためであると」
「お言葉ではございますが、いかなる理由であっても同盟国であるご当家へ何の断りもなく亡き太守様の仇と婚姻同盟を締結するなど言語道断!ご当家を軽んじている何よりの証にございましょう!それゆえに御屋形様の妹婿でもある太郎殿を幽閉したのだと考えまする!」
駿府館に漂う肌寒い空気ごと温度を上昇させるが如く三浦右衛門大夫は寿桂尼と武田家と織田家の婚姻同盟締結について丁々発止でやり合う。しかし、議論は平行線をたどり、解決の糸口は見えないままであった。
「おばあ様。右衛門大夫ももうよい。その件はまた日を改めようぞ。さて、備中守。豊前守らは城下の自邸へ入ったか」
「はっ、昨晩屋敷へ入り、御屋形様よりの呼び出しを待っておりまする。屋敷へは当主である飯尾豊前守連龍のほか、老父と妻、家臣ら数十名が詰めておりまする」
「左様か。良いか、一人たりとて討ち漏らすでないぞ。あやつの曳馬城を攻めた折、予の側近であった三浦備後守正俊が討ち死にさせられてもおるのじゃ。今さら、豊前守を信用などできぬわ」
「仰せの通りにございまする!備後守殿の仇討ちでもございますれば、老人であろうと女子供であろうと容赦はいたしませぬゆえ、吉報をお待ちくだされ!では行って参りまする!」
朝比奈備中守は氏真より与えられた命令を遂行するべく、手勢を引き連れて飯尾豊前守らの宿所へ走った。万が一に備え、三浦右衛門大夫の手勢も後詰めと称して朝比奈勢に追随していく。
そうして氏真からの和議に応じて投降した飯尾豊前守は思いがけず、今川勢の襲撃を受けることとなった。
時は永禄八年十二月二十日、屋敷内はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。
「殿!一大事にございまする!」
「氏次、いかがした!」
肩に矢を受けたまま広間へ駆け込んだ家臣・森川氏次を見た飯尾豊前守は驚き駆け寄るが、何も聞かずともおおよその事情は読めていた。
「さては今川勢の襲撃か!」
「い、いかにも!先駆けて参ったは懸川城の朝比奈勢、その後ろには三浦の旗指物も確認してございまする!」
「今川譜代の手勢が参ったとあれば、これが今川家中の総意なのであろう。おのれ、氏真め……!かような騙し討ちを仕掛けてくるとは卑劣な!これならば蔵人佐殿へ降るべきであったわ!」
今さらながら今川家へ降伏したことに臍を噛む飯尾豊前守。彼の側ではすべてを察した老父・乗連、事態が読み込めず視線を泳がせる飯尾豊前守の妻・お田鶴の方。
飯尾豊前守は悔し涙を流しながら愛する家族を振り返り、膝から崩れ落ちた。
「父上!お田鶴!某は選択を誤り申した!それが二人へ災いを降りかからせたとあっては、死んでも死にきれぬ……!」
「連龍、泣くでない。もはやどうにもならぬ。たとえ屋敷を抜け落ちたとて、到底曳馬までは帰りつけまい。かくなるうえは、武士らしく潔く散るまでのことよ」
「あなた様、泣かないでくださいまし。田鶴は最期まで旦那様のお傍を離れませぬ」
家族らは涙した。しかし、ゆっくり別れを告げられたのは、その時までであった。たちまち今川の尖兵が広間へ辿り着き、広間に詰めていた飯尾家臣らと壮絶な斬り合いとなる。
「ここから先は一歩も踏み込ませるな!」
そう叫んで力戦していた森川氏次も討たれ、数の暴力ともいえる戦いの果てに広間へ残った飯尾方は飯尾豊前守、老父・乗連、お田鶴の方のみ。そこへ姿を現したのは立派な顎鬚をたくわえ、鎧兜で身を固めた朝比奈備中守であった。
「備中守!肥後守に続き、我らも騙し討ちにしようとは武士の風上にもおけぬ卑怯者め!」
「ははは、卑怯者などとは笑わせる!我らは御屋形様直々の命を受けて参った者!逆心風情に卑怯などと言われる筋合いはないわ!者ども、やれっ!」
武器を持たぬお田鶴の方を庇うように飯尾父子は脇差を抜き払い、鞘を投げ捨てて決死の覚悟で朝比奈勢へ斬りかかる。初めは気迫でもって押していた飯尾父子であったが、初めに討たれたのは老父・乗連であった。
「父上っ!」
「ううむ……」
朝比奈家臣の一太刀を浴び、傷口から血を吹きだしながら仰向けに倒れ込む父の姿が飯尾豊前守の双眸へ映った刹那。自らの腹部から尋常でない熱が伝わってきた。
「ぐっ、ここまでであったか……」
視線を父から下腹部へ移すと、自らに突き立つ長槍が見えた。そして、その一突きを繰り出した朝比奈家臣の顔を見たのが、飯尾豊前守がこの世で見た最後の光景となった。
「あなた様!」
すでに事切れている夫へ駆け寄ったお田鶴の方が鼓動を停止させた胸にすがるように泣きじゃくっていると、鬱陶しいとばかりに冷酷無比な槍が彼女の胸部を背後から貫き、広間へ静寂をもたらした。
「殿自ら女子を手にかけずとも……」
「構わぬ。生かしておいたとて、辱めを受けるのみ。かくなるうえは武士の情けでもって、死を与えることこそが慈悲じゃ。さっ、御屋形様が吉報をお待ちじゃ。行くぞ」
ものの四半刻で落着した惨劇により、飯尾家は無嗣断絶となった。これは三河岡崎の家康にも伝わり、松平と今川とで遠州をめぐる新たな争いへ続いていく――
東美濃の苗木遠山直廉の娘・勝姫が叔父・信長の養女となったうえで信濃国高遠城主で武田信玄の四男・諏訪四郎勝頼へ輿入れを果たしたのである。
そして、年内には武田家は美濃の一色龍興とも美濃出身の高僧・快川紹喜の仲介で同盟を締結させたことで、東美濃情勢へ深入りすることを避け、抗争が激化している上杉家へと注力する方向へ舵を切ったのである。
そうして永禄の政変において将軍足利義輝が殺害されてから半年が経ったことを意味する十一月。将軍を殺害し、その従兄弟にあたる足利義栄を将軍に就任させようとしていた三好・松永が畿内での主導権をめぐって内部抗争を開始したのである。
十一月十六日、若き三好家当主・三好左京大夫義継を担ぐ三好三人衆が松永弾正久秀と断交。三好家中を二分する大乱へと発展していく。
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そんな一乗院覚慶は各地の大名・国衆に天下再興、すなわち室町幕府再興のために自らが入洛することに助力するよう呼び掛けていたのである。そして、その一乗院覚慶からの要請は三河平定を進める岡崎城の家康のもとへも届けられた。
「殿!江州甲賀郡和田におられる一乗院覚慶様より書状が届いておりまする!」
「与七郎、見せよ!」
血相を変えて書院へ飛び込んできた家老・石川与七郎数正が持参した書状には和田城主の和田伊賀守惟政殿の副状も発給されており、紛れもない一乗院覚慶の書状であることは明らかであった。
「して、書状にはなんと?」
「うむ、天下再興に力添えを願いたいとかように記されておる」
「となりますれば、公方様を討った三好や松永を追い払い、京へ戻り幕府を再興することが一乗院覚慶様の願いであると」
「そうなるであろう。おそらく、これに織田殿も協力するであろうし、越後の上杉弾正少弼殿も加わるであろうことは明白」
先日、石川与七郎が持ち帰った信長の意向。家康としても同意見であり、この一乗院覚慶入洛へ協力する意志を表明することは、これからの今川家との戦いを優位に進めるうえで欠かせない一手であった。
「一乗院覚慶様へ直接返信するのではなく、近臣である和田伊賀守殿へ返書を発するが礼儀であろうか」
「いかにも。当家はまもなく三河国主となる家柄ではございますが、三河守護を仰せつかっているわけでも、朝廷より官職を賜っているわけでもございませぬ。分不相応であると書札慮外の扱いを受けましょう」
「そうなるであろうな。然らば、和田伊賀守殿へ入洛の際には従軍することを返事することといたそう」
「それがよろしいかと」
客観的に見れば松平家は無位無官である。そのことを家康は石川与七郎の発言から気づかされた。
しかし、この一乗院覚慶から天下再興への助力を求められたこと自体、家康としては喜ばしいことであった。なにせ、要請が届いた時点で松平家が幕府から独自の勢力として認識されていることを意味するからである。
「殿、ご満悦にございまするが、何ぞ良いことでもあられましたか」
「うむ。こうして将軍家より要請が届いたことは当家が将軍家より独立した勢力として認められていることの証左。これが嬉しくないはずがなかろう」
「なるほど、殿の仰る通りにございますな。されど、入洛の際には従軍する旨の返書を送ったならば、まことに入洛の際には従軍せねばならなくなりませぬぞ」
「そうなのじゃが、そうでも言っておかねば一乗院覚慶様は満足なさらぬであろう。その時に今川との戦がどうなっておるのか、それ次第では援軍を送るのみともなろう」
家康としても一乗院覚慶の入洛へ協力したい意思はあるし、自らが三河の軍勢を率いて従いたいところ。しかし、その留守を今川家に突かれることにでもなれば、たちまち帰る家を失うことにもなってしまう。
それゆえに、家康の進退すべてに今川家との戦が大きく絡んでくるのである。
「殿が返書をしたためられた和田伊賀守殿ですが、今は織田殿に上洛へ協力してもらうことを約していただくべく、尾張へ入って折衝中とのこと」
「ほう、それは確かな筋からの報せか」
「はっ、取次役の滝川左近将監殿よりの報せにござれば、まず間違いなかろうかと」
「ならば、この書状は尾張へ直接届けさせるとする。その方が話も早く進もうものぞ」
家康は十一月二十日付の返書を尾張に入った和田伊賀守へ届けさせることとしたのだが、その翌日、和田伊賀守の所領である甲賀郡和田の地にて、和田伊賀守自身予想だにしなかった事態が勃発したのである。
「覚慶様、まことに移座されるおつもりで!?」
「そうじゃ。六角承禎より野洲郡矢島を在所することの許諾は得ておる。野洲郡は甲賀郡よりも京に近い。何より、六角家が後ろ盾であることを内輪揉め最中の三好や松永らに知らしめることも叶う」
「されど、伊賀守殿に無断で動くは筋違いかと」
「案ずるな、伊賀守はそのようなことで腹を立てるような男ではない。そうと決まれば、すぐにも向かうとしようぞ」
奉公衆の制止を振り切り、和田伊賀守に無断で一乗院覚慶は野洲郡矢島村へ移り住んで在所とし、矢島御所と称された。
三好と松永が争っている今こそ、上洛の好機だと考えた一乗院覚慶のこの行動に後日、和田伊賀守が不在の間に移座したことを激怒していることを伝え聞いた一乗院覚慶は謝罪の書状を送る羽目になる。
そうして一乗院覚慶の入洛へ協力するべく、家康も動いた中で蚊帳の外とでも言うべき勢力が一つ存在していた。そう、駿府の今川上総介氏真であった。
一層冬の寒さが厳しくなる十二月、駿府館の氏真のもとへは良いとは言えない報せばかりがもたらされていた。
そんな齢二十八ともなる若き当主の周りには十九歳となった正室・春姫や老いてなお孫を後見し続ける今川義元生母・寿桂尼といった一門や三浦右衛門大夫真明といった側近、懸川城主・朝比奈備後守泰朝といった譜代の重臣が集まっていた。
「御屋形様、甲斐での変事はお聞きになられましたか」
「それは伝え聞いておる。我が妹、松の夫である太郎殿が甲府東光寺に幽閉されたそうではないか」
「いかにも。これは武田家は甲駿同盟を解消し、駿河へ攻め寄せるつもりではございますまいかと――」
武田家は矛先を駿河へと転じようとしている。その疑念を躊躇せず口に出した三浦右衛門大夫の言葉を半ばにて遮ったのは氏真ではなく、祖母・寿桂尼であった。
「右衛門大夫殿、よろしいですか」
「はっ、尼御台様!某の発言に誤りがございましたでしょうか」
「ええ。たしかに太郎殿は幽閉されましたが、それは御父上の暗殺を企て蹶起しようとなされたがため。何より、廃嫡するとの話もございませぬ」
理路整然と語る寿桂尼は老いてなお今川家を支える柱石らしい、確かな眼を持っていた。しかし、あくまでも武田を疑ってかかる三浦右衛門大夫は不服であると語気を強めて反論する。
「されど、事実上の廃嫡といっても差し支えないことであると、この右衛門大夫は考えまする」
「それが浅はかというものです。良いですか、あくまでも太郎殿が蹶起したのは織田家と武田家の同盟締結に反対なされたからだと聞いております。そして、その甲尾同盟は武力衝突の起こった東美濃情勢を解決せんがためであると」
「お言葉ではございますが、いかなる理由であっても同盟国であるご当家へ何の断りもなく亡き太守様の仇と婚姻同盟を締結するなど言語道断!ご当家を軽んじている何よりの証にございましょう!それゆえに御屋形様の妹婿でもある太郎殿を幽閉したのだと考えまする!」
駿府館に漂う肌寒い空気ごと温度を上昇させるが如く三浦右衛門大夫は寿桂尼と武田家と織田家の婚姻同盟締結について丁々発止でやり合う。しかし、議論は平行線をたどり、解決の糸口は見えないままであった。
「おばあ様。右衛門大夫ももうよい。その件はまた日を改めようぞ。さて、備中守。豊前守らは城下の自邸へ入ったか」
「はっ、昨晩屋敷へ入り、御屋形様よりの呼び出しを待っておりまする。屋敷へは当主である飯尾豊前守連龍のほか、老父と妻、家臣ら数十名が詰めておりまする」
「左様か。良いか、一人たりとて討ち漏らすでないぞ。あやつの曳馬城を攻めた折、予の側近であった三浦備後守正俊が討ち死にさせられてもおるのじゃ。今さら、豊前守を信用などできぬわ」
「仰せの通りにございまする!備後守殿の仇討ちでもございますれば、老人であろうと女子供であろうと容赦はいたしませぬゆえ、吉報をお待ちくだされ!では行って参りまする!」
朝比奈備中守は氏真より与えられた命令を遂行するべく、手勢を引き連れて飯尾豊前守らの宿所へ走った。万が一に備え、三浦右衛門大夫の手勢も後詰めと称して朝比奈勢に追随していく。
そうして氏真からの和議に応じて投降した飯尾豊前守は思いがけず、今川勢の襲撃を受けることとなった。
時は永禄八年十二月二十日、屋敷内はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。
「殿!一大事にございまする!」
「氏次、いかがした!」
肩に矢を受けたまま広間へ駆け込んだ家臣・森川氏次を見た飯尾豊前守は驚き駆け寄るが、何も聞かずともおおよその事情は読めていた。
「さては今川勢の襲撃か!」
「い、いかにも!先駆けて参ったは懸川城の朝比奈勢、その後ろには三浦の旗指物も確認してございまする!」
「今川譜代の手勢が参ったとあれば、これが今川家中の総意なのであろう。おのれ、氏真め……!かような騙し討ちを仕掛けてくるとは卑劣な!これならば蔵人佐殿へ降るべきであったわ!」
今さらながら今川家へ降伏したことに臍を噛む飯尾豊前守。彼の側ではすべてを察した老父・乗連、事態が読み込めず視線を泳がせる飯尾豊前守の妻・お田鶴の方。
飯尾豊前守は悔し涙を流しながら愛する家族を振り返り、膝から崩れ落ちた。
「父上!お田鶴!某は選択を誤り申した!それが二人へ災いを降りかからせたとあっては、死んでも死にきれぬ……!」
「連龍、泣くでない。もはやどうにもならぬ。たとえ屋敷を抜け落ちたとて、到底曳馬までは帰りつけまい。かくなるうえは、武士らしく潔く散るまでのことよ」
「あなた様、泣かないでくださいまし。田鶴は最期まで旦那様のお傍を離れませぬ」
家族らは涙した。しかし、ゆっくり別れを告げられたのは、その時までであった。たちまち今川の尖兵が広間へ辿り着き、広間に詰めていた飯尾家臣らと壮絶な斬り合いとなる。
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そう叫んで力戦していた森川氏次も討たれ、数の暴力ともいえる戦いの果てに広間へ残った飯尾方は飯尾豊前守、老父・乗連、お田鶴の方のみ。そこへ姿を現したのは立派な顎鬚をたくわえ、鎧兜で身を固めた朝比奈備中守であった。
「備中守!肥後守に続き、我らも騙し討ちにしようとは武士の風上にもおけぬ卑怯者め!」
「ははは、卑怯者などとは笑わせる!我らは御屋形様直々の命を受けて参った者!逆心風情に卑怯などと言われる筋合いはないわ!者ども、やれっ!」
武器を持たぬお田鶴の方を庇うように飯尾父子は脇差を抜き払い、鞘を投げ捨てて決死の覚悟で朝比奈勢へ斬りかかる。初めは気迫でもって押していた飯尾父子であったが、初めに討たれたのは老父・乗連であった。
「父上っ!」
「ううむ……」
朝比奈家臣の一太刀を浴び、傷口から血を吹きだしながら仰向けに倒れ込む父の姿が飯尾豊前守の双眸へ映った刹那。自らの腹部から尋常でない熱が伝わってきた。
「ぐっ、ここまでであったか……」
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「あなた様!」
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「殿自ら女子を手にかけずとも……」
「構わぬ。生かしておいたとて、辱めを受けるのみ。かくなるうえは武士の情けでもって、死を与えることこそが慈悲じゃ。さっ、御屋形様が吉報をお待ちじゃ。行くぞ」
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公式HP:アラウコの叫び
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