不屈の葵

ヌマサン

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第6章 竜吟虎嘯の章

第223話 駿越交渉に向けて

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 永禄十年十二月二十一日。駿府にて誅殺された飯尾豊前守連龍の三回忌の翌日にあたるこの日、今川上総介氏真は重臣の朝比奈備中守泰朝、三浦次郎左衛門氏満の両名を呼び出し、ある事柄について協議を重ねていた。

 身も凍る寒さの中、白い息を吐きながら手あぶりを囲む三名は越後の上杉弾正少弼輝虎が寄こした書状を眺めていた。

「御屋形様、上杉との同盟締結、いかがなされるおつもりで?」

「もはや甲州屋形との交わりは婚姻同盟にあらず。ただ、予がしたためた起請文一枚のみである。あのような紙切れ一枚、あの甲州屋形にとってあってないようなものであろう」

「いかにも。いつ盟約を反故にされてもおかしくありませぬ」

「備中守が申す通り、あのような盟約あってないようなものじゃ。とすれば、武田に対抗するためにも越後の上杉と盟約を交わしておく必要があろう」

 氏真は己の意見を述べる。そして、その意見は信玄に盟約を反故にされることを見据えて、その信玄の宿敵である上杉弾正少弼輝虎と同盟を締結しておく必要がある、ということであった。

 雪解け後の来年二月には氏真の妹・松姫が甲斐を発し、相模を経由して駿河へ帰国する手筈となっている。それまでは武田に妹を人質に取られたままと言っても過言ではないため、氏真の中でいつ頃から本格的に交渉を始めるのか、その目途までも立てられていたのである。

「そもそも我らは上杉と直接敵対に及んだことははございませぬ」

「うむ。武田や北条へ援軍を派遣したことはあっても、今川家として上杉家に戦を仕掛けたことは一度としてない。それゆえに、こうして弾正少弼殿も我が父以来の誼で同盟交渉を持ちかけて来てもおる」

 まさしく氏真の言う通りであった。しかも、氏真の父・義元は第二次川中島合戦の折には上杉弾正少弼輝虎と徳栄軒信玄の和睦を仲介した中人、すなわち松姫の駿河帰国では北条家が務めた役目を引き受けてもいたのだ。

 そうした関係性もあり、武田家の背後を脅かすことのできる位置にいる今川家を味方とできる可能性に賭け、輝虎は同盟締結を打診してきたのである。

「敵の敵を味方とする。さすがは軍神と呼ばれる御仁じゃ。これを味方に付けられれば、甲州屋形とて怖くはない」

「備中守殿が申される通りにございます。上杉との同盟締結はご当家にとっても利益をもたらす話にございます。某も備中守殿も御屋形様と同じく上杉よりの提案に乗ずべきであると考えまする」

 今川譜代の重臣である朝比奈備中守と三浦次郎左衛門の両名も上杉家との同盟締結に賛同したことを受けて、氏真は勇気を得た。

「然らば、この交渉に応じることとしようぞ。されど、おばあ様には内密にせねばならぬ。おばあ様ならばすでに同盟を結んでいる武田と北条、双方と敵対している上杉と同盟を結ぼうなどと正気の沙汰ではないなどと申して反対なされるであろう」

 氏真の父方の祖母・寿桂尼。義元亡き後の今川領国を維持するために長きにわたって氏真を支えてきた今川家の柱石の一人である。しかし、その祖母から言わせれば武士の風上にも置けぬ卑劣な所業。

 それゆえに、氏真はまず越後の上杉弾正少弼輝虎との交渉を水面下で進めることを強いられたのである。

「加えて、これは甲州屋形にも相模の舅殿や義兄殿にも知られてはならぬ」

「まこと、知られれば甲相駿三国同盟に対する背信行為に他なりませぬゆえ、仰せのままにいたしまする」

「然らば両名は副状を出すようにいたせ。予はその間に弾正少弼殿に宛てて同盟締結を受諾する旨の返書をしたためるゆえな」

 氏真は凍える手で文机を引き寄せ、あらかじめ準備を済ませていた紙の上にかじかむ手を手あぶりで温めながら達筆な文字で書き記していく。

 そして、重臣の朝比奈備中守、三浦次郎左衛門の両名も主君から命じられるままに副状を順次したためていく。そうして氏真直筆で輝虎に宛てた書状とそれについての副状の準備が滞りなく進むと、次なる問題を如何にして解決するかの協議に入っていく。

「あとはこの書状をいかにして越後まで届けるか、ですな」

「まさしくそのことよ、備中守。武田にも北条にも怪しまれず、越後へ書状を届けられる者。これを選ぶのが最も難儀しておるところよ」

「然らば、この備中守に妙案がございまする」

「ほう、妙案とな。申してみよ」

「ははっ、越後から駿府までの使者にやって参ったは要明寺なる使僧にございました。然らば、こちらも僧を使者に立てるのはいかがでしょうか。僧侶ならば怪しまれることなく越後まで向かうことも可能となりましょう」

「うむ。なるほど、その手があったか。然らば遊雲斎永順を使いに立てるのが良かろうか」

 遊雲斎永順の名を聞き、朝比奈備中守も三浦次郎左衛門も異議を唱えることはなかった。それどころか、使僧としてはうってつけの人材であった。

「よし、遊雲斎永順をこれへ」

「はっ!」

 氏真の命を受けた小姓が奥書院を飛び出していってから半刻もせぬ間に使僧・遊雲斎永順が到着。ただちに氏真との謁見に臨んだのである。

「御屋形様、お呼びとのことで飛んで参りましたが、何用にございましょうか」

「うむ。この書状を越後へ届けてもらいたい」

「越後へ?」

「そうじゃ。春日山城の上杉弾正少弼輝虎殿へ届けてもらいたい」

 遊雲斎永順は氏真から書状を受け取ったは良いものの、届け先が越後の上杉弾正少弼輝虎と聞き、内心では恐ろしい役目を申し付けられてしまったと冷や汗を流していた。

「どうじゃ、頼めるか。無理じゃと申すならば、他の者に頼むこととする」

「はっ、しかとお申しつけ通り、書状を届けて参りまする。して、この書状のことを存じておられる方はどの程度おられるのでしょうか」

「予とそこにおる重臣二名とそなたのみじゃ。これは重大な役目ゆえ、書状のことを口外することまかりならぬ」

「承知いたしました。では、書状も預かりましたゆえ、旅支度を済ませ、すぐにも越後へ向けて出立したく存じまする」

「うむ、頼むぞ」

 氏真からの密命を帯びた遊雲斎永順は周囲を警戒しながら奥書院を後にし、旅支度をすべく駿府館を後にした。

「それにしても御屋形様」

「いかがした、次郎左衛門」

「いえ、先ほどの遊雲斎永順とのやり取りを聞いていて思ったのですが、この駿越交渉がこと、家中の内通者より武田に伝わることこそ最も警戒せねばなりませぬ」

「そうであろうな」

 ――内通者。

 氏真としてはいるなどと思いたくはないが、油断ならぬ叔父ならば家臣を幾人か調略して情報を得ていることも十二分にあり得る。ともすれば、その内通者に知られないようにするか、二度と知れないようにしてしまうかの選択肢しかなかった。

「おや、皆さま内通者のことをお話しとは丁度良い」

 そう言って現れたのは氏真の側近・三浦右衛門大夫真明であった。意地悪そうな笑みを浮かべる青年は先に主君と内通者について語り合おうとしていた様子の朝比奈備中守や三浦次郎左衛門を流し見ると、主君の氏真に一礼して入室する。

「して、右衛門大夫。先ほど言いかけておったことじゃが、いかなることか」

「はっ、内通者を発見いたしましたゆえ、成敗するにあたり、御屋形様のご裁断を仰ぎたく参上いたした次第」

「なにっ、内通者と申したか!?」

 噂をすれば何とやら。内通者が見つかったとの報せがこうも早く飛び込んでこようとは氏真としても想定外であった。

「して、内通者とは誰のことじゃ」

「はっ、水野弥平大夫忠勝にございまする」

「ほう、弥平大夫がか。たしか蔵人佐の叔父であったか。ともすれば、松平に内通したといったところか」

「いえ、武田に内通してございました」

 松平ではなく武田に内通していた。最も氏真が警戒感を抱いている大名家の名が出たこともあり、氏真は眉をひそめる。さらに三浦右衛門大夫から提出された密書が内通していた罪を裏付けるものとなった。

「ちっ、これまで忠勤に励んでおったゆえ水野出の弥平大夫を成敗することなく用い続けて参ったが、よもやこのような形で裏切られるとは」

「何より恐ろしいのは、甥である松平蔵人佐に内通しなかった水野弥平大夫を武田が調略していたという事実にございますれば」

「うむ。甥ではなく、武田に内通したとは恐ろしきこと。ともすれば、予が考えておる以上に武田に内通している者がおるのやもしれぬ」

「ともあれ、ここは水野弥平大夫を見せしめとすることにございましょう。さすれば、内通を思いとどまる者もおりましょう」

 三浦右衛門大夫は暗に水野弥平大夫を成敗すべし、と氏真に進言しているのである。氏真は決断を迫られていた。

「よし、かくなるうえは弥平大夫を成敗する。ただちに兵を向かわせ、水野弥平大夫を召し捕れ」

「なんと、召し捕るのでございますか?討ち取るのではなく?」

「そうじゃ。他の内通者の情報を得ておるやもしれぬで、尋問する必要もあろう」

「なるほど、承知いたしました!ただちに手勢を引き連れ向かいまする!」

 三浦右衛門大夫は氏真からの命を受け、すぐにも書院を退出すると家臣らに下知を飛ばし、夜通し手勢をかき集め、翌二十二日早暁、水野弥平大夫忠勝の屋敷を包囲するべく出立した。

 だが、三浦の旗指物を付けた軍勢が向かっていることから事態を察した水野弥平大夫の対応は迅速であった。

「三四郎!三四郎はおるか!」

「はいっ!父上!三四郎はこれにおりまする!」

 広間にて覚悟を決めた水野弥平大夫が呼び寄せたのは溺愛する一人息子・三四郎であった。

「良いか、こちらに三浦の軍勢が向かっておるとのこと」

「な、何故三浦様の軍勢がこちらに向かってきておるのですか!」

「さしづめわしが武田に内通したことが知られたのであろう。そして、ここに軍勢を差し向けて参ったということは、井伊肥後守直親殿や飯尾豊前守連龍殿のように成敗され、同じ末路を辿るのであろう」

「で、では某もここで……」

「いや、そのようなことにはさせぬ!三四郎、そなたはすぐにもここを落ち、三河を目指すのじゃ」

「ち、父上を置いてはいけませぬ!」

「言うことを聞け!三四郎!わしはそなたを死なせたくはないのじゃ!父の心を分かってくれ……!」

 逃げるよう命じている、というよりも訴えかけているような父の姿に水野三四郎は何も言い返せず立ち竦んでしまうばかりであった。そんな水野三四郎の肩に優しく父の手が乗せられる。

 しかし、父と息子の別れの時は屋敷の外から聞こえる馬蹄の音と足軽らの緊張感を孕んだ声によって一変させられる。

「ちっ、あの旗は三浦か……!氏真様に重用されたからと調子に乗る右衛門大夫に相違ない!」

「父上っ!父上もともに……!」

「ならぬ!儂が逃げたとあっては追手は血眼になって我らを追ってくる。じゃが、儂が大人しく捕まっておれば、そなただけは逃げられよう」

 水野三四郎は父と一緒に逃げ出したかった。しかし、その決然とした父の顔を見て、不思議と何も言い返すことができなかったのである。

 そして、降伏を勧告する矢文もなく、早々に屋敷の正門を破らんと三浦右衛門大夫の号令で槌隊が前進し、木製の正門から悲鳴のようなけたたましい音が響く。

「三四郎!北の塀の側に井戸があったであろう!そこを通っていくのだ!さすれば、裏山へ逃げられよう!」

「父上……!」

「くどいっ!行けっ、三四郎!生きて父の仇を取れ!」

 水野三四郎は振り返ることなく駆け出した。護衛もかねて信用できる数名の家臣に後を追わせると、水野弥平大夫は屋敷が轟音とともに破られる音を聞きながら静かに正座し、脇差を手にした。

「三四郎、それでよい。それでよいのだ……。父の分まで生きよ」

 粉雪が舞い始めた空を冥途の土産に見上げると、水野弥平大夫は覚悟を決めた面持ちで腹部へ脇差を突き立てる。

 それからしばらくして屋敷へ踏み込んだのは三浦右衛門大夫を筆頭とする三浦勢であった。逆らう水野家臣を撫で斬りにしながら奥へと歩みを進めていく。

「良いか!水野弥平大夫は生け捕りにせよ!元服前の嫡男もおるはずゆえ、取り逃がすでないぞ!」

 そう言った三浦右衛門大夫は縁側で不自然に障子が開かれたままの部屋を見つける。

「むっ、怪しいぞ。誰ぞ付いて参れ!」

 そうして三浦右衛門大夫が抜刀して踏み込んだ室内に残されていたのはこと切れた水野弥平大夫忠勝の姿だった。

「ちっ、してやられたわ……!このこと、ただちに御屋形様へご注進せよ!」

「ははっ!ただちに!」

 側近が弾かれるように屋敷を飛び出していくのをしり目に、三浦右衛門大夫は亡骸へ侮蔑の眼差しを向け、退散するのであった。
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