不屈の葵

ヌマサン

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第6章 竜吟虎嘯の章

第222話 虎視眈々

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 三河よりも北国にあたる越前国。永禄十年十一月二十一日のこの日、京への帰還を目指す足利義秋が越前朝倉氏の本拠・一乗谷にある安養寺へと移ったのである。

「与一郎、ここが一乗谷か。噂に違わぬ繁栄ぶりであることよ」

「ええ、私も驚いておりますれば」

 安養寺に移った足利義秋は近侍する細川与一郎藤孝と道中で見た景色や、一乗谷の繁栄ぶりなどを口々に話していた。そして、そこへ予め申し入れがあった通り、とある人物も合流したのである。

「義秋様、この度はよくぞ一乗谷へお越しくださいました。朝倉左衛門督義景にございます。ご挨拶が遅れましたこと、平にご容赦くださいませ」

 将軍家の義秋よりも華美な衣装に身を包み挨拶を述べる壮年。彼こそ一乗谷を拠点とする越前朝倉氏の現当主・朝倉左衛門督義景その人である。

「構わぬ。二ヵ月もの間、敦賀にて歓待を受けたこと、望外の喜びであった」

「はっ、敦賀にてお待たせいたしましたが、このようにお迎えする支度が整いましたゆえ、ようやく一乗谷にお迎えできました次第」

 齢三十一の足利義秋よりも四ツ年上の朝倉左衛門督義景であるが、立場の違いからただひたすらに下手に出ていた。

「左衛門督殿、先日も斡旋したが加賀一向一揆との講和を取り計らうつもりでおる。京へ戻るにあたり、頼りとなる貴殿の協力は不可欠。そんな貴殿が加賀に敵を抱えておられては困るのじゃ」

「はっ、然らば義秋様直々の取り計らいにございまする。此度こそ、和議を成立させたく存じます」

「うむ。和議が成立した暁には人質を交換したうえで国境の城と砦は破却とするのじゃ」

「は、破却せよと?」

「そなたは予の帰洛を支えることとなるのじゃ。北に戦の火種を残す必要もあるまい」

「はっ、義秋様の仰せでもございます。一揆勢が講和を呑めば、人質を交換し、ただちに国境の城と砦は破却することといたしましょう」

 朝倉義景が講和条件を呑んだこともあり、義秋は加賀一向一揆との交渉を順調に進め、加賀一向一揆と越前朝倉氏の和議成立にこぎつけてみせた。

 しかし、朝倉氏と加賀一向一揆の講和成就に満足する足利義秋であったが、上洛するにあたって最も頼みにしている大名から思いがけない返答が届けられることとなる。

「与一郎、一大事じゃ!」

「義秋様、いかがなされましたか!」

「見てみよ、この越後よりの書状を」

「越後とは上杉弾正少弼輝虎殿のことにございますな」

 細川与一郎は足利義秋から受け取った書状を広げると、そこに記されていたのは思いがけない内容であった。

「なんと、上洛支援は厳しいと……!」

「うむ。これまで弾正少弼殿が武田や北条と講和できるよう図ってきたが、それも進展が見込めぬ」

「はい。加えて、越中においても一向一揆との戦いが激しくなることも見込まれると記されてもおりまする」

「朝倉と和議を結んだ加賀一向一揆の次は、越中一向一揆と上杉との戦を激化させようとは頭が痛くなって参ったわ」

「これでは弾正少弼殿も申されるように上洛支援は難しいと言わざるを得ませぬ……」

 こうなっては、もはや義秋にとって頼れるのは現在も庇護し続けてくれている朝倉左衛門督義景の力を借りるほかなかった。

「そして、離散していた奉行衆らが続々とここへ集まって来てもおりますれば、幕府の実務を行うに不足はございませぬ」

「うむ。上野清信や大舘晴忠といった重臣をはじめ、諏訪晴長や飯尾昭連、松田頼隆といった奉行衆も帰参してきてもおるゆえな」

「いかにも。ともすれば、三好三人衆どもが担ぎ出した神輿が京へ入ったとて、幕府の実務を担うことはできますまい」

「その通りじゃ。政を担っていた奉行衆八名のうち、六名が予のもとへ帰って来ておるゆえな」

 実際に幕府の行政の実務を担ってきた人間の過半が義秋のもとへ帰ってきていることは彼らは義秋こそが次の将軍だと認識しているからであるのは間違いない。

「京にさえ戻る事叶えば、政も滞りなく進められようものを」

「越後の上杉家が厳しいとなれば、ここは越前の朝倉家へ本格的に上洛支援を要請するよりほかはなかろう」

「そうなりますな。一度、左衛門督殿の朝倉館をお訪ねあそばし、再度上洛支援を打診するしかなかろうかと」

「予も同意見じゃ。かくなるうえは、年末の挨拶と称して館を訪ねるしかないであろうな。その折には与一郎もついて参れ」

「はっ!喜んで!」

 そうして朝倉家と加賀一向一揆の和睦が成せた翌十二月も終わりに差し掛かった頃の二十五日。足利義秋はわずかな供廻りとともに非公式に朝倉館を訪問。上洛戦についての返事を濁す朝倉義景へ挙兵を促すための訪問であった。

「これはこれは義秋様。よもや館にまで参られるとは思いませなんだ。して、此度は一体何の御用にございましょうか」

「うむ。左衛門督殿に上洛戦のため、兵を挙げていただきたく、こうして訪ねて参った次第」

「なるほど、挙兵をと」

「うむ。越前へ参ってからも越後の上杉家をはじめ、様々な大名へ上洛支援を求めて御内書を発給して参り、左衛門督殿も副状を添えてくれておる。されど、諸大名らは隣国との争いにかまけるばかりで、一向に兵を上方へ向かわせる動きは見られぬ。そのような返答ばかりでは困るのじゃ」

「……心中お察しいたしまする。されど、当家も加賀一向一揆との和議が成立したばかり。しばらくは兵も休めねばなりませぬし、何よりこれより北陸は冬にございますれば。雪解けまでは一兵たりとて動かせませぬ」

「然らば、雪解け後ならば兵を出すというわけか」

 義秋からの確認に対し、義景は瞠目して首肯する。今は雪解け後に上洛の兵を起こすことを朝倉家当主から直に取り付けられただけでも良しとしよう。そう言いたげな表情を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。

「然らば、雪解け後の上洛戦の支度をお頼みしましたぞ、左衛門督殿」

「はっ、必ずや」

「うむ。然らば、これにて失礼しよう。与一郎、参るぞ」

 足利義秋が細川与一郎らを引き連れて館を去っていくのを見届けると、越前守護・朝倉左衛門督義景は大きなため息をしたのを、彼らは知らなかった――

 そうして足利義秋が一向に上洛すること叶わず、越前で燻っている頃。信長は義秋から求められて上洛支援の実現に向けて着々と支度を進めていた。

「殿!武田と新たに婚姻同盟を締結なされるとは真にございますか!」

「おう、権六。その通りよ。嫡男の奇妙丸へ信玄殿の息女、松姫を娶わせることとした。されど、両者とも幼いゆえ、婚約に過ぎぬが」

「されど、あまりにも不公平にございまする!殿の嫡男の正室として武田家からは末娘が出されるとは、あまりに不公平ではありませぬか!」

「分かっておる。されど、それほどおれにとって武田は敵に回したくない相手なのだ。ここで武田と事を構える事態に至っては上洛どころではなくなる」

 織田家の宿老・柴田権六勝家としては自分の主家が下に見られているといっても過言ではない縁組に不服であった。しかし、そこまでしてでも上洛を成し遂げたい主君の気持ちも理解できるため、それ以上信長を困らせるような発言は控えた。

「されど、殿。すでに殿は姪を養女として諏訪四郎勝頼へ嫁がせてもおりますれば、何も奇妙丸様のご正室を武田から迎えずとも、婚姻同盟としては十分ではございますまいか」

「否とよ、権六。養女を武田家の嫡男に娶わせておるだけでは信玄殿の心を繋ぎ止めることはできぬ。家格がうえの武田家嫡男におれは姪を養女として嫁がせておる。それを思えば、我が嫡男に信玄殿の息女を迎えられるだけでも有り難いことであると思ってもおる」

「そう仰られれば、その通りにございまするが……」

 まだ言うか、と言わんばかりの信長の視線に射すくめられ、柴田権六は口をつぐんだ。ともあれ、足利義秋を擁して上洛するにあたり、どれだけ武田家のことを気にかけているのか、それだけは柴田権六にも嫌と言うほど理解できた。

「殿!頭の固い権六殿との話は終わりましたか!」

「なんじゃと、今一度申してみよ!」

 権六が口をつぐんだ頃合いを見て、会話に混ざってきた人物の侮辱の言葉に柴田権六は眦をあげて怒りをあらわにする。

 その人物は身の丈が低く、体つきも柴田権六のような武人とは対照的で細身。見た目の第一印象から猿と間違えられそうであった。

「権六、六ツめに斬りかかろうとするでない」

「はっ!申し訳ございませぬ!」

 柴田権六は無意識に手にかけていた刀の柄から手を離すと、猿のような男を一瞥して舌打ちすると再びその場に着座したのである。

 そして、その小柄な男は並の人間では真似できないほどすばしっこい動きで信長の御前へと進み出て正座したのである。

「殿、各地の間者より集めた情報をまとめたものをお持ちいたしました」

「おう、ご苦労であった。簡潔で良い、内容を披露せよ」

「ははっ!まず越後の上杉にございますが、依然として武田や北条とは敵対関係にあり、さらには越中一向一揆との戦いが激化しつつある情勢を受けて到底上洛することは不可能とのこと」

「で、あるか。して、武田はいかがであったか」

「はい。嫡男の死去に伴い、その正室を駿河へ送り返す手筈とのこと。されど、両家では話がまとまらなかったらしく、共通の同盟相手である北条家が中人となり、話がまとまったと専らの噂!」

「で、あるか。やはり武田も上杉も足利義秋様の上洛支援には動けそうもないか」

 小柄な猿のような男が列挙した事柄はすべて信長の想定していた通りであった。自分の想定に狂いがないのであれば、これまで通りの動きで対処して問題ないことを指している。

「また、奇妙丸様との婚約が決まった松姫様にございまするが、武田家中において奇妙丸様ご正室を預かる、という態で扱われておるそうで、なんでも新館御料人と呼ばれているそうにございます」

「ほう、武田家中ではそのような扱いを受けておるか」

「はい。そのことについて異議を申す者はおらぬとのこと。むしろ、越後の上杉家と争っている現状ではご当家と同盟関係をより強固なものにしておくことの重要性を皆が理解しておるげにございまする」

「で、あるか。武田に我らと争うつもりがないのであれば、上洛は容易に成せようものぞ。されど、ともに義秋様をお支えする大名同士、武田と上杉にも仲良くとまでは申さぬが、せめて和睦が成せればよいのだが……」

 武田と上杉は宿敵。その宿敵が足利義秋の上洛支援の一点のみ一致しているのだが、それだけで長年敵対してきた両者のわだかまりが解けるはずもなく、未だに激しく争い続けているのだ。

「殿、かくなるうえは上洛支援に動けるのはご当家と三河の徳川三河守様、北近江の浅井備前守殿。そして、越前にて足利義秋様を庇護しておられる朝倉左衛門督様のみにございましょう」

「そうなるであろう。じゃが、残す敵は六角と三好三人衆ばかり。六角家には侵攻前に再度恭順を求めるつもりでおるし、三好など数年にわたり家中で分裂が起きておるゆえ、我らの敵ではない」

 まさしく信長の言う通りであった。足利義栄を擁する三好三人衆は三好左京大夫義継や松永弾正久秀といった勢力と争っており、三好家といっても一枚岩ではなかった。

 そこに南近江の六角家が加わったところで、尾張と美濃、北伊勢にまで勢力を拡大させた信長にとって恐れるほどの敵ではなかった。

「されど、おれが畿内へ出陣する間に今川めが西へ進出してくることは考えられるゆえ、三州には出陣を命じるつもりはない。まあ、援軍だけは派遣してもらうことにはなるであろうが」

「なるほど、それは名案にございます」

「殿、六角も三好もさほどの敵ではございませぬ。徳川勢まで動員する必要はございますまい」

 信長の発言の真意を組み切れなかった柴田権六。そんな彼に信長が説明を加えるより先に、例の小柄な猿が口喧嘩を吹っかけていく。

「権六殿はやはり頭が固いですな」

「なにっ!」

「わずかばかりの援軍が三河より入れば、連合軍としての威信は否が応でも高まりまする。それゆえ、殿は三河勢の援軍を所望しておられるのです」

 援軍を入れなければ、織田・朝倉・浅井の連合軍となるが、少数でも徳川勢が加われば、織田・朝倉・浅井・徳川の連合軍だと方々で喧伝することができる。その影響力は測り知れないものがあることを猿――木下藤吉郎は十二分に理解していたのであった。
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