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第6章 竜吟虎嘯の章
第226話 遠江諸将への調略と駿河での奇妙な噂
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永禄十一年四月、三河国岡崎城。遠江侵攻の機を窺う家康のもとへ、石川彦五郎家成と酒井左衛門尉忠次が一通の書状を持参し、到着したのである。
「殿、こちら上杉家の重臣である河田豊前守殿より届けられた先月十三日付の書状でございまする」
「うむ。存じておる。そちらが二月に出した書状に対する返書であろう。そなたらが届き次第わしに見せに参った書状であろう」
石川彦五郎と酒井左衛門尉が持参した書状。それは越後の上杉弾正少弼輝虎の重臣・河田豊前守長親からの書状であった。
とりわけ上杉家と申し合わせたいとの申し出を喜ばしく思っている、そのうえで今川家との間柄について問い合わせたいという主旨の書状だったのである。
「わしが上杉家と同盟を結びたいと考えているのは何故か、左衛門尉は分かるか」
「はい。我らが遠江へ侵攻するにあたり、障害となるは今川家の同盟相手である武田家と北条家。この両家の介入を避けるために最も有用な同盟先が上杉家であると、殿はお考えなのでございましょう」
酒井左衛門尉の回答は家康的にも文句なしの百点満点であった。
家康が遠江へ侵攻し、これに今川方が苦戦ともなれば、今川家は武田家か北条家へ援軍を要請するに違いない。これを上杉家の協力を得て上杉軍が北信濃や関東へ姿を現せば、武田家や北条家は今川家からの援軍要請に応じているどころではなくなる。
「されど、我らがすぐにも返書をしたためようとしたところ、御止めになられたのは殿ではございませぬか。それが何故か、お聞きしたく我ら両名が罷り越した次第にございまする」
そう、家康は酒井左衛門尉と石川彦五郎が上杉家へ返書を出そうとするのを制止していた。たしかに酒井左衛門尉の発言こそ家康が考えていた計画であったのだ。あくまでも、今年の冬時点ではそれが間違いなく正しかった。
「そなたらも耳にしたのではあるまいか。昨年十二月、織田家と武田家が同盟をより強固にすべく何をしたのかを」
家康からの問いに酒井左衛門尉に代わり、自信ありげな石川彦五郎が回答する。
「織田弾正忠殿がご嫡男奇妙丸様と、甲州屋形の末娘の松姫が婚約したのでございましょう」
「そうじゃ。すでに弾正忠殿は姪を養女として、信玄殿の嫡男となった諏訪四郎殿へ嫁がせており、すでにその間に嫡男も産まれておるが、養女が嫁いでおるのでは大名家同士の婚姻同盟としては不足じゃ。それゆえ、改めて嫡流同士での婚姻を進めることで関係強化を図ろうとしておるのであろう」
「されど、それは織田家と武田家のこと。これが何故当家と上杉家が同盟を締結することに障りがあるのでございましょうや」
「甘いぞ、彦五郎。織田家と武田家が同盟強化を図った時点で上杉家と連携することは難しい。なにせ、我らにとっては同盟者のそのまた同盟者にあたるのが武田家となったのじゃからな。上杉家をけしかけるのは危うい」
つまり、徳川家と武田家は織田家という共通の同盟者を有している。そのため、上杉家に武田家を牽制してもらう必要はもはやないといって良かった。
「されど殿。武田家は今川家とは三国同盟を結んでおり、ましてや北条家も控えておりまする。上杉家と結び、牽制するのが無難であろうかと」
「いやはや、左衛門尉の申すことにも一理ある。じゃが、甲駿同盟は以前のように強固な婚姻同盟に基づくものではない。草の者に調べを入れさせたところ、国境は未だに塩留めによる封鎖が続いておるとのことゆえ、事実上敵対関係にあるといっても良い」
「然らば、我らが遠江へ侵攻し、今川と一戦交えようとも武田が援軍に来ることはない、と殿はお考えなのですな」
「いかにも。じゃが、武田が今川領を我らに経略されていくのを指をくわえてみているほど間抜けではなかろう。すでに次の侵攻先を駿河と見定めておるやもしれぬ」
――武田家が次なる侵攻先を駿河と定めているかもしれない。
家康の口から飛び出たとんでもない発言。しかし、それはあり得ないとは言い切れないことであり、酒井左衛門尉も石川彦五郎もそれが現実となる様を思い浮かべて固唾を飲んだ。
「少なからず、今川も武田も互いを同盟相手とは見ておらぬ。今川が甲斐へ侵攻するが先か、武田が駿河へ侵攻するが先か、その瀬戸際にあるといっても良い」
「これまで通り、雪斎和尚が考案された三国同盟が生きておるならば上杉家と結ぶが得策であった。じゃが、武田と今川がこうも不和となっては、我らは敵の敵、すなわち武田と結ぶが道理と言えよう」
「しかし殿、まだ今川の背後には関東の北条がおりまする。北条家の姫が駿府へ輿入れしている以上、北条の援軍だけは如何ともしがたいかと」
「その通りじゃ。じゃが、我らが攻めるのは遠江。同時に武田が駿河へ攻め入れば、北条は相模本国と伊豆に隣接する駿河に武田を入れさせまいと駿河へ軍勢を派遣し、武田軍と徹底抗戦する道を採るはず。ともすれば、あの武田を相手にしながら遠江まで兵を回す余力はなかろう」
これまでであれば、今川家と戦ううえで大きな障壁となっていた武田家と北条家の援軍。しかし、武田家と今川家が不和になりつつある今、家康の言うように武田家と北条家がお互いを潰し合うことは大いにあり得た。
その間に遠江へ侵攻すれば、家康は漁夫の利を得ることが可能となるのだから、今川と武田の不和は望むところであった。
「そして、この四月に届いた返書を見てみよ」
「これは二俣城将の二俣左衛門尉からにございますか。そして、頭陀寺城の松下氏や久野城主の久野三郎左衛門宗能からの書状もございますな」
「そうじゃ。いずれもわしが調略したものらよ」
自信たっぷりに言う家康から見せられた書状を酒井左衛門尉と石川彦五郎の両名が急ぎ目を通すと、揃って徳川軍が遠江へ侵攻したならば、これに応じるとの旨が記されていた。
「殿、お見事にございまする!」
「よもや曳馬にほど近い頭陀寺城だけでなく、二俣城や久野城まで調略しておられようとは……!」
「うむ。じゃが、まだまだ調略できておらぬ城はまだまだあるのじゃ。うかとはしておれぬ。こうしておる間にも甲駿国境で何かが起きようとしておる。機を逸するわけにはいかぬのじゃ」
そう言って文机のうえで筆を取る主君の姿に、西三河の旗頭と東三河の旗頭は頷き合い、書院を退出。それぞれの持ち場へ戻り、戦支度を進めていくのであった。
そうして家康が遠江侵攻に向けての調略や戦支度を進めている頃、敵対する家康も上杉家と誼を通じようとしていたことなど露知らず、氏真は駿越交渉を進めようと躍起になっていた。
「備中守、次郎左衛門。越後へ送る副状はいかがなっておる」
「はっ、本日付の連署状にございますれば、ご一読くださいませ」
氏真は駿府館奥の書院にて朝比奈備中守泰朝より三浦次郎左衛門氏満とともにしたためた上杉方へ送る書状を受け取り、内容に誤りがないかの確認を行う。
態可申入之処、此方使被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候、則可申入候、猶委曲遊雲斎可申宣候、恐々謹言
四月十五日 三浦次郎左衛門
氏満
朝比奈備中守
泰朝
直江大和守殿
柿崎和泉守殿御宿所
「ほう、我が妹が駿河へ帰国することとなった経緯を述べておるが、いかなるわけじゃ」
「はっ、どうやら上杉方が我らが武田との同盟を継続したことを耳にしたらしく、それを問いただして参りましたゆえ、内実を詳細に説明したのでございまする」
「いや、上杉方の申すことはもっともじゃ。たばかったと思われても致し方ないゆえ、予の書状ともどもこのまま越後へ送るがよい」
「ははっ!」
そこまで言うと、氏真はそっと書状を朝比奈備中守へ返し、越後へ送ることを了承した。
「ふっ」
「御屋形様、いかがなされましたか?」
「いやなに、信玄表裏の文言が愉快ゆえ、ついな」
朝比奈備中守は副状に視線を落とし、そこに記されている『信玄表裏』の文字を見つめる。内容としては、信玄が表裏してきたならばすぐに連絡することを要請するものである。
「御屋形様、使者は再び遊雲斎に任せることといたしますが、よろしいでしょうや」
「構わぬ。あの者ならば、上手くやってくれようぞ」
「はい。今のところ、上杉方とは共に武田信玄の動向に注意し互いに裏切る行為をしないこと、上杉家は当家の要請があり次第信濃へ出兵することですでに合意しております。そして、此度送る書状にある信玄による同盟破棄はそう遠くない時期であろうから連絡を緊密にすること、上杉家へ信玄より計略の書状などが届いたら直ちに知らせることなどで一致を見れば、同盟を結ぶにあたっての条件の擦り合わせは完了となりましょう」
「それでよい。じゃが、越後との同盟締結はなるべく早く行わねばなるまい」
独り言に近い声量で発された氏真の言葉が書院に霧散し、朝比奈備中守は聞き取れずにきょとんとする。そして、当の氏真は遠く北の空を見上げる。
その数日後、春の陽気に満ちる駿府館にて氏真がいかにして武田家と戦うか、絵図を広げて策を練っているところへ、側近の三浦右衛門大夫真明が参上する。
「右衛門大夫、何やら焦っておるようじゃが、いかがした?」
「はっ、実は領内にて奇妙な噂が流れておりまする」
「奇妙な噂?」
三浦右衛門大夫が掴んだという奇妙な噂とは一体何なのか。氏真は食い入るように三浦右衛門大夫の話に聞き入った。
「実は上杉弾正少弼輝虎殿が甲州屋形と北条相模守氏康殿のご両所と和睦するとの内容にございまして」
「なにっ、上杉が武田と北条と和睦!?」
「あくまでも風説に過ぎませぬ。されど、これが真であるならば、上杉家からの援軍は見込めなくなり、ご当家は独力で武田と相対せねばならなくなりまする」
「はたしてそうであろうか」
「……と申されますと?」
三浦右衛門大夫は上杉家が武田・北条の両家と和睦しようとしていると聞けば、焦るものだとばかり思っていた。しかし、目の前の氏真は焦るどころか、瞳を輝かせている。
「良いか、この噂が真であるならば、予が仲介人となろう。さすれば、どうなるであろうか」
「武田と北条、さらには上杉に大きな貸しを作ることとなりましょう」
「それも一つじゃが、もう一つは中人となれば武田は我らと敵対することはできぬ。当家が武田家から妹を帰国させる折に北条家が担った役目に同じともなるゆえな」
「なるほど、そうなれば武田家との戦を回避するとはならずとも、時を稼ぐことくらいはできましょう」
「その通りじゃ。その間に三河の蔵人佐との戦いを決着させられれば、全兵力で武田家にあたることが叶う」
氏真の言うことはもっともであった。それを聞けば、三浦右衛門大夫も名案であると思わず頷いてしまうほどに。
「となれば、御屋形様は仲介人となる旨を名乗り出るおつもりでしょうや」
「うむ。父が第二次川中島合戦の折に武田家と上杉家の和睦で仲立ちしたのと同じことよ」
「然らばその旨、各所へ書状を出しておく必要がございますな」
「そうなろう。右衛門大夫は手間やもしれぬが、その段取りを整えてもらいたい」
「はっ、お任せくださいませ!」
父・大原肥前守資良と同じく今川家への忠誠心に溢れる氏真の若き側近は主君の願いを実現すべく、行動を開始。
氏真は噂が事実ならば仲介役になりたいと名乗り出ることとなるのだが、そのような動きはなく、所詮は噂に過ぎなかった……
そして、この氏真の動きを駿河に潜らせている歩き巫女たちから情報を得てほくそ笑んだのは他ならぬ甲斐の武田信玄であった。
「まこと上総介殿は期待を裏切らぬ良き君主であるぞ、左衛門大夫」
宵闇に包まれる甲斐国躑躅ヶ崎館の奥書院にて燭台に照らしながら書状を読むのは齢四十八の老獪・武田信玄。
その傍らに着座するのは彼の次女の婿にあたる御一門衆の一人・穴山左衛門大夫信君。齢二十八となり、各地で経験を積みつつある若武者は信玄から見せられた書状へと目を通す。
「なるほど、これは当家だけにあらず。北条家も加えた三国同盟への背信行為にございますな」
「その通りよ。弾正忠殿とは今川領侵攻の話を進めつつあるゆえ、いかなる口実でもって侵攻するかだけであったが、これで口実は手に入った」
にやりと笑う舅の顔に、いよいよ今川との戦が始まるのだと確信した穴山左衛門大夫は静かに一礼し、新たなる戦へと思考を巡らせるのであった。
「殿、こちら上杉家の重臣である河田豊前守殿より届けられた先月十三日付の書状でございまする」
「うむ。存じておる。そちらが二月に出した書状に対する返書であろう。そなたらが届き次第わしに見せに参った書状であろう」
石川彦五郎と酒井左衛門尉が持参した書状。それは越後の上杉弾正少弼輝虎の重臣・河田豊前守長親からの書状であった。
とりわけ上杉家と申し合わせたいとの申し出を喜ばしく思っている、そのうえで今川家との間柄について問い合わせたいという主旨の書状だったのである。
「わしが上杉家と同盟を結びたいと考えているのは何故か、左衛門尉は分かるか」
「はい。我らが遠江へ侵攻するにあたり、障害となるは今川家の同盟相手である武田家と北条家。この両家の介入を避けるために最も有用な同盟先が上杉家であると、殿はお考えなのでございましょう」
酒井左衛門尉の回答は家康的にも文句なしの百点満点であった。
家康が遠江へ侵攻し、これに今川方が苦戦ともなれば、今川家は武田家か北条家へ援軍を要請するに違いない。これを上杉家の協力を得て上杉軍が北信濃や関東へ姿を現せば、武田家や北条家は今川家からの援軍要請に応じているどころではなくなる。
「されど、我らがすぐにも返書をしたためようとしたところ、御止めになられたのは殿ではございませぬか。それが何故か、お聞きしたく我ら両名が罷り越した次第にございまする」
そう、家康は酒井左衛門尉と石川彦五郎が上杉家へ返書を出そうとするのを制止していた。たしかに酒井左衛門尉の発言こそ家康が考えていた計画であったのだ。あくまでも、今年の冬時点ではそれが間違いなく正しかった。
「そなたらも耳にしたのではあるまいか。昨年十二月、織田家と武田家が同盟をより強固にすべく何をしたのかを」
家康からの問いに酒井左衛門尉に代わり、自信ありげな石川彦五郎が回答する。
「織田弾正忠殿がご嫡男奇妙丸様と、甲州屋形の末娘の松姫が婚約したのでございましょう」
「そうじゃ。すでに弾正忠殿は姪を養女として、信玄殿の嫡男となった諏訪四郎殿へ嫁がせており、すでにその間に嫡男も産まれておるが、養女が嫁いでおるのでは大名家同士の婚姻同盟としては不足じゃ。それゆえ、改めて嫡流同士での婚姻を進めることで関係強化を図ろうとしておるのであろう」
「されど、それは織田家と武田家のこと。これが何故当家と上杉家が同盟を締結することに障りがあるのでございましょうや」
「甘いぞ、彦五郎。織田家と武田家が同盟強化を図った時点で上杉家と連携することは難しい。なにせ、我らにとっては同盟者のそのまた同盟者にあたるのが武田家となったのじゃからな。上杉家をけしかけるのは危うい」
つまり、徳川家と武田家は織田家という共通の同盟者を有している。そのため、上杉家に武田家を牽制してもらう必要はもはやないといって良かった。
「されど殿。武田家は今川家とは三国同盟を結んでおり、ましてや北条家も控えておりまする。上杉家と結び、牽制するのが無難であろうかと」
「いやはや、左衛門尉の申すことにも一理ある。じゃが、甲駿同盟は以前のように強固な婚姻同盟に基づくものではない。草の者に調べを入れさせたところ、国境は未だに塩留めによる封鎖が続いておるとのことゆえ、事実上敵対関係にあるといっても良い」
「然らば、我らが遠江へ侵攻し、今川と一戦交えようとも武田が援軍に来ることはない、と殿はお考えなのですな」
「いかにも。じゃが、武田が今川領を我らに経略されていくのを指をくわえてみているほど間抜けではなかろう。すでに次の侵攻先を駿河と見定めておるやもしれぬ」
――武田家が次なる侵攻先を駿河と定めているかもしれない。
家康の口から飛び出たとんでもない発言。しかし、それはあり得ないとは言い切れないことであり、酒井左衛門尉も石川彦五郎もそれが現実となる様を思い浮かべて固唾を飲んだ。
「少なからず、今川も武田も互いを同盟相手とは見ておらぬ。今川が甲斐へ侵攻するが先か、武田が駿河へ侵攻するが先か、その瀬戸際にあるといっても良い」
「これまで通り、雪斎和尚が考案された三国同盟が生きておるならば上杉家と結ぶが得策であった。じゃが、武田と今川がこうも不和となっては、我らは敵の敵、すなわち武田と結ぶが道理と言えよう」
「しかし殿、まだ今川の背後には関東の北条がおりまする。北条家の姫が駿府へ輿入れしている以上、北条の援軍だけは如何ともしがたいかと」
「その通りじゃ。じゃが、我らが攻めるのは遠江。同時に武田が駿河へ攻め入れば、北条は相模本国と伊豆に隣接する駿河に武田を入れさせまいと駿河へ軍勢を派遣し、武田軍と徹底抗戦する道を採るはず。ともすれば、あの武田を相手にしながら遠江まで兵を回す余力はなかろう」
これまでであれば、今川家と戦ううえで大きな障壁となっていた武田家と北条家の援軍。しかし、武田家と今川家が不和になりつつある今、家康の言うように武田家と北条家がお互いを潰し合うことは大いにあり得た。
その間に遠江へ侵攻すれば、家康は漁夫の利を得ることが可能となるのだから、今川と武田の不和は望むところであった。
「そして、この四月に届いた返書を見てみよ」
「これは二俣城将の二俣左衛門尉からにございますか。そして、頭陀寺城の松下氏や久野城主の久野三郎左衛門宗能からの書状もございますな」
「そうじゃ。いずれもわしが調略したものらよ」
自信たっぷりに言う家康から見せられた書状を酒井左衛門尉と石川彦五郎の両名が急ぎ目を通すと、揃って徳川軍が遠江へ侵攻したならば、これに応じるとの旨が記されていた。
「殿、お見事にございまする!」
「よもや曳馬にほど近い頭陀寺城だけでなく、二俣城や久野城まで調略しておられようとは……!」
「うむ。じゃが、まだまだ調略できておらぬ城はまだまだあるのじゃ。うかとはしておれぬ。こうしておる間にも甲駿国境で何かが起きようとしておる。機を逸するわけにはいかぬのじゃ」
そう言って文机のうえで筆を取る主君の姿に、西三河の旗頭と東三河の旗頭は頷き合い、書院を退出。それぞれの持ち場へ戻り、戦支度を進めていくのであった。
そうして家康が遠江侵攻に向けての調略や戦支度を進めている頃、敵対する家康も上杉家と誼を通じようとしていたことなど露知らず、氏真は駿越交渉を進めようと躍起になっていた。
「備中守、次郎左衛門。越後へ送る副状はいかがなっておる」
「はっ、本日付の連署状にございますれば、ご一読くださいませ」
氏真は駿府館奥の書院にて朝比奈備中守泰朝より三浦次郎左衛門氏満とともにしたためた上杉方へ送る書状を受け取り、内容に誤りがないかの確認を行う。
態可申入之処、此方使被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候、則可申入候、猶委曲遊雲斎可申宣候、恐々謹言
四月十五日 三浦次郎左衛門
氏満
朝比奈備中守
泰朝
直江大和守殿
柿崎和泉守殿御宿所
「ほう、我が妹が駿河へ帰国することとなった経緯を述べておるが、いかなるわけじゃ」
「はっ、どうやら上杉方が我らが武田との同盟を継続したことを耳にしたらしく、それを問いただして参りましたゆえ、内実を詳細に説明したのでございまする」
「いや、上杉方の申すことはもっともじゃ。たばかったと思われても致し方ないゆえ、予の書状ともどもこのまま越後へ送るがよい」
「ははっ!」
そこまで言うと、氏真はそっと書状を朝比奈備中守へ返し、越後へ送ることを了承した。
「ふっ」
「御屋形様、いかがなされましたか?」
「いやなに、信玄表裏の文言が愉快ゆえ、ついな」
朝比奈備中守は副状に視線を落とし、そこに記されている『信玄表裏』の文字を見つめる。内容としては、信玄が表裏してきたならばすぐに連絡することを要請するものである。
「御屋形様、使者は再び遊雲斎に任せることといたしますが、よろしいでしょうや」
「構わぬ。あの者ならば、上手くやってくれようぞ」
「はい。今のところ、上杉方とは共に武田信玄の動向に注意し互いに裏切る行為をしないこと、上杉家は当家の要請があり次第信濃へ出兵することですでに合意しております。そして、此度送る書状にある信玄による同盟破棄はそう遠くない時期であろうから連絡を緊密にすること、上杉家へ信玄より計略の書状などが届いたら直ちに知らせることなどで一致を見れば、同盟を結ぶにあたっての条件の擦り合わせは完了となりましょう」
「それでよい。じゃが、越後との同盟締結はなるべく早く行わねばなるまい」
独り言に近い声量で発された氏真の言葉が書院に霧散し、朝比奈備中守は聞き取れずにきょとんとする。そして、当の氏真は遠く北の空を見上げる。
その数日後、春の陽気に満ちる駿府館にて氏真がいかにして武田家と戦うか、絵図を広げて策を練っているところへ、側近の三浦右衛門大夫真明が参上する。
「右衛門大夫、何やら焦っておるようじゃが、いかがした?」
「はっ、実は領内にて奇妙な噂が流れておりまする」
「奇妙な噂?」
三浦右衛門大夫が掴んだという奇妙な噂とは一体何なのか。氏真は食い入るように三浦右衛門大夫の話に聞き入った。
「実は上杉弾正少弼輝虎殿が甲州屋形と北条相模守氏康殿のご両所と和睦するとの内容にございまして」
「なにっ、上杉が武田と北条と和睦!?」
「あくまでも風説に過ぎませぬ。されど、これが真であるならば、上杉家からの援軍は見込めなくなり、ご当家は独力で武田と相対せねばならなくなりまする」
「はたしてそうであろうか」
「……と申されますと?」
三浦右衛門大夫は上杉家が武田・北条の両家と和睦しようとしていると聞けば、焦るものだとばかり思っていた。しかし、目の前の氏真は焦るどころか、瞳を輝かせている。
「良いか、この噂が真であるならば、予が仲介人となろう。さすれば、どうなるであろうか」
「武田と北条、さらには上杉に大きな貸しを作ることとなりましょう」
「それも一つじゃが、もう一つは中人となれば武田は我らと敵対することはできぬ。当家が武田家から妹を帰国させる折に北条家が担った役目に同じともなるゆえな」
「なるほど、そうなれば武田家との戦を回避するとはならずとも、時を稼ぐことくらいはできましょう」
「その通りじゃ。その間に三河の蔵人佐との戦いを決着させられれば、全兵力で武田家にあたることが叶う」
氏真の言うことはもっともであった。それを聞けば、三浦右衛門大夫も名案であると思わず頷いてしまうほどに。
「となれば、御屋形様は仲介人となる旨を名乗り出るおつもりでしょうや」
「うむ。父が第二次川中島合戦の折に武田家と上杉家の和睦で仲立ちしたのと同じことよ」
「然らばその旨、各所へ書状を出しておく必要がございますな」
「そうなろう。右衛門大夫は手間やもしれぬが、その段取りを整えてもらいたい」
「はっ、お任せくださいませ!」
父・大原肥前守資良と同じく今川家への忠誠心に溢れる氏真の若き側近は主君の願いを実現すべく、行動を開始。
氏真は噂が事実ならば仲介役になりたいと名乗り出ることとなるのだが、そのような動きはなく、所詮は噂に過ぎなかった……
そして、この氏真の動きを駿河に潜らせている歩き巫女たちから情報を得てほくそ笑んだのは他ならぬ甲斐の武田信玄であった。
「まこと上総介殿は期待を裏切らぬ良き君主であるぞ、左衛門大夫」
宵闇に包まれる甲斐国躑躅ヶ崎館の奥書院にて燭台に照らしながら書状を読むのは齢四十八の老獪・武田信玄。
その傍らに着座するのは彼の次女の婿にあたる御一門衆の一人・穴山左衛門大夫信君。齢二十八となり、各地で経験を積みつつある若武者は信玄から見せられた書状へと目を通す。
「なるほど、これは当家だけにあらず。北条家も加えた三国同盟への背信行為にございますな」
「その通りよ。弾正忠殿とは今川領侵攻の話を進めつつあるゆえ、いかなる口実でもって侵攻するかだけであったが、これで口実は手に入った」
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歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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湖灯
歴史・時代
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湖灯
歴史・時代
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