不屈の葵

ヌマサン

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第3章 流転輪廻の章

第57話 志を継ぐ名

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 弘治三年十一月十一日。霜月や雪待月とも言われる旧暦十一月は、文字通り霜が降りるだけでなく、雪が降ることもあった。そんな寒さも増してきている中、三河国岡崎では重臣らが集まって談合していた。

 一足早く離席した青木越後と天野清右衛門尉、榊原孫七の三名を除き、石川安芸守忠成、酒井将監忠尚、酒井雅楽助政家の三名がその場に残っていた。

「手あぶりが欠かせぬ季節となって参りましたな」

「まことに。老身には応える寒さじゃわい」

「この寒さとてとこしえに続くものではござらぬ。政務に追われているうちに春が到来する時分となりましょう」

 三名揃って手あぶりで冷え切ってしまった手を温め、少し熱を持った頃。再度、筆を執る。

「では、我ら六名の連署状はこれにて完成したということでよろしいか」

「酒井将監、異存ござらぬ」

「右に同じく」

 その場にいる酒井将監、酒井雅楽助から改めて同意を得た石川安芸は連署状を届けるよう指示を出す。

 届け先は岡崎近郊にある浄妙寺。此度、彼らがしたためた連署状は上和田の天白における寺地の不入を松平広忠・元信父子からの不入権授与に基づいて認めた証状である。

 ちなみに、浄妙寺は十一年前となる天文十五年四月五日に先代・広忠から不入権を認められていた。そして、新たに当主となった元信も父・広忠の不入権授与を継続する。そんな意向を示してもいる連署状なのである。

「雅楽助。駿府におわす殿は壮健であらせられるか」

「はい。武芸の稽古も毎朝欠かさず、奥方様と本を読み耽っておられることもしばしば。駿府館への伺候も滞ることなく行っておられ、今川の現当主よりの覚えもめでたいものがございまする」

「左様か。さすがは殿じゃ」

 舅・石川忠成からの問いかけに、実直に答える酒井政家。彼もまた三十七となり、若さと老いを足して二で割ったような風格を帯びつつあった。

「して、殿の初陣はいつになりそうか。駿府より何か打診はあったか」

「いえ、まったくございませぬ。何せ、ここしばらく今川領国が関わる戦は起きておりませぬゆえな」

「うむ、平和であることは有り難いが、殿にも早く初陣を飾る機会が必要ゆえな」

 平和は嬉しい。それはこの場にいる者を含めて、天下の総意ともいえよう。しかし、主君に晴れ晴れと初陣を飾ってもらい、文字通り冥途の土産にしたい老臣としては初陣にちょうどよい戦が起こってほしいとも思っていた。

「とはいえ、酒井将監殿。三河国内の不穏分子を刺激するようなことだけはしてはなりませぬぞ」

「なんじゃと、儂がそのようなことを企むとでもお思いか」

「幾度となく当家を離反し、今川にも弓を引いたお方。またもや奥平や菅沼を煽りはせぬかと危惧したまでに」

「なにをくだらぬことを!」

「やめぬか、雅楽助。将監殿もこの石川安芸に免じて、婿の無礼な発言はお許しくだされ」

 酒井雅楽助の挑発するような物言いに修羅の形相を浮かべていた酒井将監であったが、石川安芸の仲裁で斬り合いにまで発展することはなかった。

 そうして岡崎では重臣たちは織田との戦もなく、平和な環境下で政務を行っている。それは駿府にいる元信とて同じであり、瞬く間に十一月が過ぎ、年末へと突入していく――

 ちなみに、石川安芸らが連署状をしたためた十一月十一日から十四日後に毛利元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三人の息子たちに宛てて書いたのが、かの有名な三子教訓状なのである。

 それはさておき。年が明けた弘治四年。織田信長のいる清洲城において、軍評定が開かれようとしていた。

「佐久間右衛門尉信盛、ただいま参上いたしました」

「よくぞ参った。して、岩崎城の丹羽若狭守氏識の調略はいかがなっておる」

「それがなんとも。岩崎城は末森城と猿投神社の中間に位置する尾三両国の要害の地城ゆえ、是が非でも味方に付けたく存じまするが、六年前のことを未だ根に持っておる様子」

「で、あるか」

 ――六年前の天文二十年。

 佐久間右衛門尉信盛が調略中の丹羽若狭は従兄弟の尾張藤島城主・丹羽氏秀と対立し、たびたび合戦が起こっていた。その対立している丹羽氏秀に援軍を派遣したのが、他でもない織田信長なのである。

 結果として、丹羽若狭は尾張愛知郡横山で丹羽氏秀を破り、藤島城も領することとなったわけだが、そのことに根を持つ六十を超える老将の調略は難航している。佐久間右衛門尉の言い分はそんなところであった。

「佐久間右衛門尉、そなたの言い分はよく分かった。じゃが、調略は成してもらわねばならぬ。でなくば、近日中に今川に反旗を翻すつもりでおる三河寺部城主・鈴木重辰と広瀬城主・三宅高貞の両名を見殺しにすることとなるゆえな」

「無論、承知しておりまする。ゆえに、早急に調略を成して見せまする」

「おれからの命令はそれだけではない。岡崎の北、すなわち寺部と広瀬を押さえた暁には緒川の水野下野守とも連携し、安城城と岡崎城を奪取する段取りを進めるのだ」

「はっ、ははっ!」

 若き二十五歳の織田信長が思い描く尾張統一。それは今川家による尾張侵攻が始まるまでに成し遂げねばならない。そのための時間を稼ぐためにも、三河情勢を引っかきまわす必要があった。

 信長よりも六つ年上で、先代・信秀の頃から仕える佐久間右衛門尉信盛。これほど信長に敵対する者が多い中、一貫して信長の味方をし続ける忠臣であった。

「右衛門尉、頼むぞ。おれの期待を裏切ってくれるなよ」

「殿、水野下野守が謁見を求めております」

「おお、水野藤二郎か。そなたの兄が参ったと申すか。よい、これへ通せ」

「ははっ!」

 信長に仕える水野下野が異母弟・藤二郎忠分。二十二になった彼は、元信の生母である於大の方と母を同じくする。そんな彼が再び信長の前に姿を現すと、その背後には久しく見ぬ間に顎鬚を蓄えた水野下野守が控えていた。

「水野下野、遠いところよくぞ参った」

「ははっ。この水野下野、信長殿のお呼びとあらばいずこにでも馳せ参じまするぞ」

「ははは、ならばおれが地獄に落ちても参じると申すか」

「じ、地獄の底までもお供いたす覚悟にござれば」

「よいよい。戯言はやめじゃ」

 笑いながら水野下野を制止する信長。十二も年上の男をからかう心の持ちようは並み大抵のものではなかった。

「して、お呼びの件にございまするが、昨年三河を追われた吉良三郎様のことにございましょうや」

「いかにも。あの者を三河に戻させ、吉良家に内紛を引き起こさせる。その援護を水野家が担うことといたせ」

「では、吉良家を用いて今川が注意を南へ向ける間、佐久間右衛門尉どのが加茂郡にて反今川勢力を決起させる手筈にございますな」

「さすがは水野下野。よう分かっておる。ならば、おれが何を申すか、言わずとも分かるであろう」

「はっ、然らば、当家が居城に匿っております吉良三郎を説き伏せ、三河へ送り込みまする」

 ニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべ、広間を去る水野下野守。信長は気味悪さ以上に、有能な従属国衆の当主として彼のことを高く評価していた。

 かくして、織田弾正忠家では尾張統一までの時間稼ぎとして、三河国内に燻る反今川の火種に着火させようとしていた。

 対して、今川家のお膝元・駿府にも寺部城主・鈴木重辰、広瀬城主・三宅高貞らが謀反。

 さらには、いつのまにやら三河入りを果たした吉良三郎義安が西条城北東の荒川山砦を破却し、その先の尾島城を制圧する動きに出ている。そんな風雲急を告げる報せがもたらされていた。

「父上!またもや三河にて逆心いたす輩が!」

「聞き及んでおる。裏では織田上総介信長めが糸を引いておろう。ゆえに、うってつけの者を呼んでおる」

「おお、尾張のうつけ者だけに、っての者をと!」

「……つまらぬことを申すでない」

 想像を上回るくだらない冗談に笑うどころか、笑みがかえって消え失せた様子の今川治部太輔義元。そんな父の様子に、どうすればよいのやらと困り顔の五郎氏真。

 気まずい沈黙に広間が支配される中、関口刑部少輔氏純が娘婿を伴って広間へ入室してくるのであった。

「太守様、御屋形様。松平次郎三郎殿を伴って参りましてございます」

「うむ、大儀であった」

「御屋形様、太守様。松平次郎三郎元信、お召しとのことゆえ、ただいま参上いたしましてございます」

「次郎三郎、よくぞ参った。何故召しだされたのか、分かるか」

「はい。加茂郡寺部城主・鈴木重辰らが逆心のことにございましょうか」

 元信よりの返答に首肯する義元。さすがに元信は状況をよく分かっている。この聡い青年にも、ここは一つ経験を積ませておく方が良い。心の内ではそう思っていた。

「次郎三郎、そなたはいくつになったか」

「はっ、十七になりましてございまする」

 どうして今さら年齢など聞くのか。元信は不思議に思ったが、それについて義元に訊ねるような真似はしなかった。

「そなたが初めて駿府に参った折、まだ八つの童であった。それが元服し、妻を娶り今川家親類衆となっておる。時の流れとはまことに早きものであることよ」

 そう独り言ちる今川治部太輔義元。まるで我が子が成長していく姿を思い返しているような、そんな穏やかな表情にいつしか変わっていた。

「そこでじゃ。次郎三郎は初陣がまだであったであろう」

「はい」

「ゆえに、此度の加茂郡鎮定の総大将を命じるつもりでおる」

「そ、某を加茂郡鎮定の総大将にと……!?」

 ひょっとしたら加茂郡の鎮定には向かわせられるのでは。そんな予感がしていた元信であったが、よもや一手の大将を命じられるとは思っていなかったのである。

「そなたは五郎や助五郎とともに、これからの今川を担ってゆく者。この辺りで戦の経験を積むのは悪くはなかろう」

「さ、左様にございまするな。されど、某に加茂郡鎮定の役が務まりますでしょうか」

「それは予にも分からぬ。じゃが、何事も経験してみねば分からぬものぞ。戦も女子も同じことよ」

 そう言って扇子で口元を隠して笑う義元。その冗談に声を挙げて笑う氏真に、苦笑いする関口刑部少輔。当の元信は一瞬ポカンとした様子であったが、義元が何を言いたかったのかに一拍遅れて気づくと不意に笑みがこぼれていた。

「では、次郎三郎。初陣するにあたり、何ぞ所望するものはあるか」

「然らば、一つ。お願いしたき儀がございまする」

「何なりと申してみよ」

「はっ、本国三河へ入るにあたり、諱を改めとうございます」

 武士の命ともいえる諱。元信の『元』は今川義元から拝領した一字が込められている。そんな諱を変えたいと申し出たのであった。

「ほう。諱を変えると申すか。して、いかなる名とするつもりじゃ」

「ははっ、太守様より授かりし『元』の一字はそのままに、我が祖父清康より「康」の一字と合わせ、『元康』と改めたく。太守様と我が祖父の一字を併せることで、松平家臣らの士気は否が応にも高まりましょう」

「良かろう。ならば、仮名も次郎三郎のままではいかぬな。そうじゃな、清康の父である松平信忠の左近蔵人佐を継ぐ形をとり、蔵人佐を名乗るがよい。うむ、そなたは本日より松平蔵人佐元康と、かように名乗るがよい」

「ははっ!ありがたき仕合わせ!」

 この日、今川義元からの許可を得たうえで、松平次郎三郎元信改め松平蔵人佐元康が誕生した。

 かつて三河一統を成し遂げ、織田信秀が領する尾張へ侵攻した偉大な祖父から名を得ることで、松平一族や岡崎にいる家臣らを奮起させる狙いがあった。

 それを分かったうえで、義元も名を改めることを認めたのである。初陣を前に、名を変える元康の覚悟のほどはその場に同席している氏真と関口刑部少輔にも十二分に伝わっていた。

「次郎三郎……いや、蔵人佐。寺部と広瀬での叛乱鎮圧、そなたの双肩にかかっておる。今川領国の安寧、そして三河一国の平和のためにも、必ずや乱を鎮めて参れ」

「ははっ!御屋形様のご期待に沿えるよう、粉骨砕身の覚悟で事に当たりまする!」

 元康の言葉に、安心したといった様子の表情を浮かべる氏真。元より、彼のことを信頼している氏真らしい淡白な言葉であった。

「婿殿。乱を鎮め、必ずや生きて駿府へ戻って参られよ。万が一にも其方の身に何かあれば、悲しむ者が数多おることを決して忘れてはならぬ」

「舅殿のお言葉、しかと胸に刻んでおきまする」

 駿府館にて、数多の激励を受け、松平蔵人佐元康は初陣の地である三河国加茂郡へと出立するのであった――
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