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第4章 苦海の章
第81話 水野は信用できませぬ!
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緒川の水野下野守信元が織田を見限り、今川家に従属する用意があると苅谷城の水野藤九郎信近を通じて申し出てきた。これまで今川と織田の狭間において、松平以上にしぶとく乱世を渡ってきた水野下野。
元康の予想通り、岡崎の重臣らは「水野は信用ならぬ」の一点張り。岡崎城代の者たちも水野家のことは快く思っていないのが透けて見えた。
「じゃが、太守様の尾張表御出陣を前に水野を下らせたならば、今川軍は安心して岡崎から矢矧川を渡河し、安城や沓掛。そして、鳴海や大高へと進軍できよう。加えて、水野に対する抑えの兵を残す必要もなくなり、後顧の憂いを断って全軍で織田へぶつかれる」
――良いことずくめではないか。
それなのに、重臣らは水野は信用ならぬと過去に捉われて反対する。過去は過去にすぎず、今の情勢はその時とは異なっているというのに――
ふつふつと湧き上がる想いに蓋をしながら元康は近侍や重臣らと共に岡崎城外へ。すでに連署状も認めたし、あとは苅谷にて直接談判すれば良いだけ。しかし、そのことを誰を介して伝えさせるかが問題であった。
水野を嫌う重臣らを向かわせては思いがけず口論となり、事を壊す恐れがある。となれば――
「安芸」
「ははっ!そなたの妻は我が生母の実の姉。すなわち、我が伯母にあたる。そうであろう」
「はっ、おっしゃる通りにございまする。我が妻にとって、水野下野は血の繋がった兄弟にございますれば」
「わしは苅谷へ向かわせる使者として、水野の血を引くそなたの三男、石川彦五郎を向かわせようと思うておる。彦五郎ならば、苅谷の水野藤九郎から見て甥。無下には扱わぬし、こちらの意図を伝えやすかろうと考えての事じゃ」
「なるほど、彦五郎ならば適任やもしれませぬ。それこそ、我が妻よりの書状も添えれば、幾分かわだかまりも解けようかと」
さすがは石川安芸だと、元康は内心では感心していた。よもや、自分の妻にも一筆書かせることで相手のわだかまりを解こうとは、元康もまったく思いつかなかった案である。
「では、そのように頼む。彦五郎からはわしが面会を望んでおることだけ伝えてもらえればよい。場所は苅谷城と指定してもらいたい」
「ま、真に苅谷まで赴かれるので?」
「うむ。岡崎城や大樹寺に招こうものなら、かえって疑念を深めることになり、下手をすれば出てこぬやもしれぬ。ならばいっそ、わしが苅谷へ直に赴けば、確実に水野藤九郎と話もできよう」
そこまで元康に言われては、石川安芸とて反論することなどできなかった。無論、それは傍らで二人のやり取りを聞いている鳥居伊賀や大久保新八郎も同じく。
「では、細かな手配は石川安芸に一任するといたす。また、わしが苅谷に赴く際にも彦五郎を伴って参りたいが、その旨了解してはもらえぬか」
「殿の仰せとあらば、彦五郎をお連れくださいませ。何かのお役に立ちましょう」
「では、頼む」
元康はひらりと愛馬にまたがると一鞭くれて、鳥居彦右衛門尉、平岩七之助の両名とともに大樹寺へ、来た道を戻っていくのであった。
「殿、あれをご覧くださいませ。庵に三階菱の旗指、大草松平の手勢が屯しておりまする」
「おお、まことじゃ」
鳥居彦右衛門尉が鞭で指し示す方向には数十ほどの大草松平の手勢は大樹寺近辺に屯していた。
そんな彼らに臆することなく、元康は声をかけた。
「そなたら、大草松平家の者であろう。わしは松平宗家の当主、松平蔵人佐元康である」
眼の前にいる青年が松平宗家の主であると分かると、大草松平の者らはそそくさを道を開け、大樹寺へ通れるようにしたのである。その中の侍大将から話を聞けば、半刻前に大草松平家の当主一行は大樹寺にて元康のことを待っているというのであった。
「彦右衛門尉、七之助。急ぎ参るとしようぞ」
「「ははっ!」」
元康は息を切らしながら、大草松平家の一行が通されたという客間へと赴く。
そこには茶を飲みながら和尚と話をする白髪交じりの中年男性に、顔中のしわが目を引く白髪頭の老人。そして、まだ年端もいかぬ少年が手遊びしながらも、大人しく座していた。
「お待たせして申し訳ございませぬ。松平蔵人佐元康にございます」
元康の挨拶に、ハッとした様子で中年男性と老人は茶の入った器を置き、元康の方へと向き直った。
「お初にお目にかかります。大草松平家当主、松平善兵衛尉正親にございまする」
元康に真っ先に挨拶したのは今年で四十八になった大草松平家の当主・松平善兵衛尉正親であった。にこりとほほ笑みながら落ち着き払った動作からは、当主としての風格を感じる。
「松平蔵人佐殿。拙者はそこな善兵衛尉が祖父にして先々代の大草松平家当主、松平昌久にございます」
いかにもな年寄りであるが、元康の祖父・清康が存命の頃から松平宗家に従う古株の人物である。そんな老将とここで会えるとは思わず、胸が高鳴る想いであった。
「松平善兵衛尉殿、松平昌久殿。これはまた丁重な挨拶、痛み入りまする」
自分の祖父・清康に近い年齢の大人二人に対し、礼を述べて一礼する元康。そんな若き宗家の主の様子を、大人たちは頼もしげに見やっていた。
「そうじゃ、こちらが善四郎と申して、六ツになった某の一人息子にございますれば。これ、善四郎!手遊びなどせず、挨拶申し上げぬか」
松平善兵衛尉は穏やかな表情から厳格な父としての顔となり、手遊びしていた松平善四郎の手をはたくことで元康の方へと強制的に意識を向けさせる。その後の善四郎の礼は年相応で、子供らしさあふれる可愛げのあるものであった。
「まこと、しつけがなっておりませぬが、何卒ご容赦くださいませ」
「よいよい。その年で頭を下げられれば上々であろう。必要な礼儀など、じきに覚えるであろう」
「そ、そうだと良いのですが」
宗家の主の前で、親の目から見てなっていない礼をしたことに、松平善兵衛尉は冷や汗ものであった。しかし、当の本人は悪く言えば馬耳東風、良く言えば泰然自若といった風を貫いていた。
「そうじゃ、松平蔵人佐殿」
「昌久殿。いかがなされましたか」
「漏れ聞くところによれば、緒川の甥っ子を手なずけるのに苦労しておられるとか」
「甥っ子……にございまするか」
緒川と聞けば、水野下野守信元が真っ先に浮かんでくる元康。しかし、大草松平昌久から見た甥っ子が緒川にいるのであろうか。そのようなことが頭の中で沸々と湧き上がる。
「これは言葉足らずで申し訳ござらぬ。拙者の妹がそなたの亡き祖父、水野右衛門大夫忠茂に正室として嫁いでおり、その間に産まれたが形原松平家当主の薩摩守家広が正室の於丈と水野下野守信元なのじゃ」
「なんと!?ならば、甥と申されたは水野下野がことで……!?」
よもや因縁の水野下野守信元が母は、目の前にいる老人の妹が腹を痛めて産んだ子であったとは、さすがの元康も思いも寄らなかった。
「ははは、やはり蔵人佐殿は知らぬことであったか。無理もない、そなたが生まれる云十年前、今から四十年近く前のことゆえな」
そんなにも前の話なのかと思う反面、あまり意識することのない祖父・清康が存命であった頃に起こったことが今へ繋がっている流れを感じることができたことに喜びを感じてもいた。
「形原松平家に嫁いだ姫君が水野下野守の妹であることは存じておりましたが、よもや二人の生母が大草松平家の出であったとは」
「血縁も縁のうち。実に面白いところで繋がってくるものじゃ」
「これは、昌久殿から一つ教訓を頂いた心地がいたしまする」
「ははは、よいよい。わしはこうして清康公の孫と語らえただけでも、良き冥途の土産となろうぞ」
「そのような縁起の悪いことをおっしゃらず、ここにおられる曾孫のためにも長生きしてくだされ。そして、この元康にも色々なことをご訓示くださいませ」
――血縁という縁は面白いところで繋がって来る。
それは元康にとって、大切な教訓の一つとなった。何より、目の前にいる自分の何倍も生きてきた人物が言う言は説得力が違うことを、身をもって体験することができた瞬間でもあったのだ。
そうして大草松平家の面々との対面も滞りなく済み、一行を門外まで見送った後は再び寺内にて静寂のひと時を満喫していた。
そこへ、一人の老僧が茶を持って元康の元へとやってきた。そう、大草松平家の人々が元康と対面するまで話し相手を務めていた大樹寺の住職である。
「松平蔵人佐元康殿。ご挨拶が遅れました、十三代目住職の登誉にございまする」
「これは登誉上人。こちらこそ、大樹寺に宿泊している身ながら、ご挨拶が遅れてしまい、真に申し訳ござらぬ」
「いえいえ、昨日はちょうど寺を留守にしておりましたゆえ、いたしかたございませぬ。ささっ、まずはお茶でも飲んでくださいませ」
「これは住職自らとはかたじけない。では、遠慮なくいただきまする」
眼の前に置かれた温かい茶は飲み干すたびに、寒さで冷え切った体に熱を与えていく。その感触を楽しみながら、最後まで飲み干していく。
「ほほほ、豪快な飲みっぷりにございまするな」
「いや、これは下品なことを。喉が渇いておりましたゆえ、つい」
「良いのです。冬の空気は乾燥しておりまするからな。喉を潤したくなるのは理にかなっておりまする」
「そうおっしゃっていただけると有難い」
元康が縁側にて登誉上人と茶を飲みながら、何でもないことを談じていると、そこへ鳥居彦右衛門尉が取り次いできた。福釜松平家と藤井松平家の両当主が連れ立って訪問してきたというのだ。
「では、上人。某はこれにて」
「うむ。私めも松平宗家のご当主様とお話しできてようございました。引き続き、こちらのお部屋をお使いくださいませ」
「かたじけない。では、一度失礼いたす」
住職・登誉上人の心遣いに感謝しながら、門前にて馬から降りて待つ福釜・藤井の両松平家当主の元へと早足で赴いた。
「これはご両人とも、此度はご足労いただき、まことかたじけない」
「いやいや、我らこそ参上が遅れましたこと、お詫び申し上げねばならぬとこ。まこと、申し訳ござらぬ」
藤井松平勘四郎信一と目を合わせながら、元康に言葉を返す恰幅のいい福釜松平左馬助親俊。両名の元康に向ける目からは敵視など微塵も感じない、温かみのある視線であった。
「勘四郎殿は、先般の品野城での戦いにおいて尾三両国に武名を轟かせた御仁。そのことは駿府にまで聞こえておりまする」
「これは、恐れ多いこと。監物殿らが織田軍を相手に持ちこたえておったからこそ、某も名を上げる機会を得られたのです」
「そう謙遜なさらず。確かにそうやもしれませぬが、武名を轟かせたこともまた事実にございましょう。某の三ツ上でありながら、織田方にも名を知られておるとは尊敬の念を禁じ得ませぬ」
真っ直ぐな元康の誉め言葉に、藤井松平家当主・勘四郎信一は完全に褒め殺されてしまっていた。それほどの武功者とは思えない細身な体をむず痒そうにもじもじとしている。
その様子をちらと見やる福釜松平左馬助親俊が口を開く。
「殿、伝え聞くところによれば、春には尾張表への出陣がござるとか」
「いかにも。某を大将に松平衆が一丸となって当たらねばならぬ大戦となろう。ゆえに、わしも出陣前に三河へ入り、皆と交流をしておるのです」
「なるほど、合点が参りました。では、我ら福釜、藤井、桜井の碧海衆は対岸の知多半島の水野への備えとされるのでしょうか」
そのことについて、元康は直接の回答を避け、また駿府よりお達しがあるであろうと言って切り抜けた。だが、元康の心の内ではその可能性は高いと感じていた。
何を仕掛けてくるのかが読めない、謀略家の水野下野守信元なのだ。緒川と岡崎の間に位置する桜井、福釜、藤井の三家は備えとして留め置かれることにもなろう。
とはいえ、苅谷での藤九郎信近と面会して確かめねば判断のつかないことではある。それゆえに、元康にとっても難しい問題ではあった。
その後も元康は松平勘四郎と松平左馬助の両名と近ごろの水野の動きで気になる点はないかなどの情報について尋ね、来るべき尾張侵攻では協力してくれるよう懇ろに依頼して別れた。
無論、能見松平家や桜井松平家、大草松平家などと同様に大樹寺の寺門前まで見送り、藤井松平家の丸に酢漿草の旗と福釜松平家の丸に対い梅の旗が見えなくなるまでは寺門の前で立ち続けていた。
――その折であった。入れ替わるように片喰紋の旗指物を付けた一団が現れたのは。
元康の予想通り、岡崎の重臣らは「水野は信用ならぬ」の一点張り。岡崎城代の者たちも水野家のことは快く思っていないのが透けて見えた。
「じゃが、太守様の尾張表御出陣を前に水野を下らせたならば、今川軍は安心して岡崎から矢矧川を渡河し、安城や沓掛。そして、鳴海や大高へと進軍できよう。加えて、水野に対する抑えの兵を残す必要もなくなり、後顧の憂いを断って全軍で織田へぶつかれる」
――良いことずくめではないか。
それなのに、重臣らは水野は信用ならぬと過去に捉われて反対する。過去は過去にすぎず、今の情勢はその時とは異なっているというのに――
ふつふつと湧き上がる想いに蓋をしながら元康は近侍や重臣らと共に岡崎城外へ。すでに連署状も認めたし、あとは苅谷にて直接談判すれば良いだけ。しかし、そのことを誰を介して伝えさせるかが問題であった。
水野を嫌う重臣らを向かわせては思いがけず口論となり、事を壊す恐れがある。となれば――
「安芸」
「ははっ!そなたの妻は我が生母の実の姉。すなわち、我が伯母にあたる。そうであろう」
「はっ、おっしゃる通りにございまする。我が妻にとって、水野下野は血の繋がった兄弟にございますれば」
「わしは苅谷へ向かわせる使者として、水野の血を引くそなたの三男、石川彦五郎を向かわせようと思うておる。彦五郎ならば、苅谷の水野藤九郎から見て甥。無下には扱わぬし、こちらの意図を伝えやすかろうと考えての事じゃ」
「なるほど、彦五郎ならば適任やもしれませぬ。それこそ、我が妻よりの書状も添えれば、幾分かわだかまりも解けようかと」
さすがは石川安芸だと、元康は内心では感心していた。よもや、自分の妻にも一筆書かせることで相手のわだかまりを解こうとは、元康もまったく思いつかなかった案である。
「では、そのように頼む。彦五郎からはわしが面会を望んでおることだけ伝えてもらえればよい。場所は苅谷城と指定してもらいたい」
「ま、真に苅谷まで赴かれるので?」
「うむ。岡崎城や大樹寺に招こうものなら、かえって疑念を深めることになり、下手をすれば出てこぬやもしれぬ。ならばいっそ、わしが苅谷へ直に赴けば、確実に水野藤九郎と話もできよう」
そこまで元康に言われては、石川安芸とて反論することなどできなかった。無論、それは傍らで二人のやり取りを聞いている鳥居伊賀や大久保新八郎も同じく。
「では、細かな手配は石川安芸に一任するといたす。また、わしが苅谷に赴く際にも彦五郎を伴って参りたいが、その旨了解してはもらえぬか」
「殿の仰せとあらば、彦五郎をお連れくださいませ。何かのお役に立ちましょう」
「では、頼む」
元康はひらりと愛馬にまたがると一鞭くれて、鳥居彦右衛門尉、平岩七之助の両名とともに大樹寺へ、来た道を戻っていくのであった。
「殿、あれをご覧くださいませ。庵に三階菱の旗指、大草松平の手勢が屯しておりまする」
「おお、まことじゃ」
鳥居彦右衛門尉が鞭で指し示す方向には数十ほどの大草松平の手勢は大樹寺近辺に屯していた。
そんな彼らに臆することなく、元康は声をかけた。
「そなたら、大草松平家の者であろう。わしは松平宗家の当主、松平蔵人佐元康である」
眼の前にいる青年が松平宗家の主であると分かると、大草松平の者らはそそくさを道を開け、大樹寺へ通れるようにしたのである。その中の侍大将から話を聞けば、半刻前に大草松平家の当主一行は大樹寺にて元康のことを待っているというのであった。
「彦右衛門尉、七之助。急ぎ参るとしようぞ」
「「ははっ!」」
元康は息を切らしながら、大草松平家の一行が通されたという客間へと赴く。
そこには茶を飲みながら和尚と話をする白髪交じりの中年男性に、顔中のしわが目を引く白髪頭の老人。そして、まだ年端もいかぬ少年が手遊びしながらも、大人しく座していた。
「お待たせして申し訳ございませぬ。松平蔵人佐元康にございます」
元康の挨拶に、ハッとした様子で中年男性と老人は茶の入った器を置き、元康の方へと向き直った。
「お初にお目にかかります。大草松平家当主、松平善兵衛尉正親にございまする」
元康に真っ先に挨拶したのは今年で四十八になった大草松平家の当主・松平善兵衛尉正親であった。にこりとほほ笑みながら落ち着き払った動作からは、当主としての風格を感じる。
「松平蔵人佐殿。拙者はそこな善兵衛尉が祖父にして先々代の大草松平家当主、松平昌久にございます」
いかにもな年寄りであるが、元康の祖父・清康が存命の頃から松平宗家に従う古株の人物である。そんな老将とここで会えるとは思わず、胸が高鳴る想いであった。
「松平善兵衛尉殿、松平昌久殿。これはまた丁重な挨拶、痛み入りまする」
自分の祖父・清康に近い年齢の大人二人に対し、礼を述べて一礼する元康。そんな若き宗家の主の様子を、大人たちは頼もしげに見やっていた。
「そうじゃ、こちらが善四郎と申して、六ツになった某の一人息子にございますれば。これ、善四郎!手遊びなどせず、挨拶申し上げぬか」
松平善兵衛尉は穏やかな表情から厳格な父としての顔となり、手遊びしていた松平善四郎の手をはたくことで元康の方へと強制的に意識を向けさせる。その後の善四郎の礼は年相応で、子供らしさあふれる可愛げのあるものであった。
「まこと、しつけがなっておりませぬが、何卒ご容赦くださいませ」
「よいよい。その年で頭を下げられれば上々であろう。必要な礼儀など、じきに覚えるであろう」
「そ、そうだと良いのですが」
宗家の主の前で、親の目から見てなっていない礼をしたことに、松平善兵衛尉は冷や汗ものであった。しかし、当の本人は悪く言えば馬耳東風、良く言えば泰然自若といった風を貫いていた。
「そうじゃ、松平蔵人佐殿」
「昌久殿。いかがなされましたか」
「漏れ聞くところによれば、緒川の甥っ子を手なずけるのに苦労しておられるとか」
「甥っ子……にございまするか」
緒川と聞けば、水野下野守信元が真っ先に浮かんでくる元康。しかし、大草松平昌久から見た甥っ子が緒川にいるのであろうか。そのようなことが頭の中で沸々と湧き上がる。
「これは言葉足らずで申し訳ござらぬ。拙者の妹がそなたの亡き祖父、水野右衛門大夫忠茂に正室として嫁いでおり、その間に産まれたが形原松平家当主の薩摩守家広が正室の於丈と水野下野守信元なのじゃ」
「なんと!?ならば、甥と申されたは水野下野がことで……!?」
よもや因縁の水野下野守信元が母は、目の前にいる老人の妹が腹を痛めて産んだ子であったとは、さすがの元康も思いも寄らなかった。
「ははは、やはり蔵人佐殿は知らぬことであったか。無理もない、そなたが生まれる云十年前、今から四十年近く前のことゆえな」
そんなにも前の話なのかと思う反面、あまり意識することのない祖父・清康が存命であった頃に起こったことが今へ繋がっている流れを感じることができたことに喜びを感じてもいた。
「形原松平家に嫁いだ姫君が水野下野守の妹であることは存じておりましたが、よもや二人の生母が大草松平家の出であったとは」
「血縁も縁のうち。実に面白いところで繋がってくるものじゃ」
「これは、昌久殿から一つ教訓を頂いた心地がいたしまする」
「ははは、よいよい。わしはこうして清康公の孫と語らえただけでも、良き冥途の土産となろうぞ」
「そのような縁起の悪いことをおっしゃらず、ここにおられる曾孫のためにも長生きしてくだされ。そして、この元康にも色々なことをご訓示くださいませ」
――血縁という縁は面白いところで繋がって来る。
それは元康にとって、大切な教訓の一つとなった。何より、目の前にいる自分の何倍も生きてきた人物が言う言は説得力が違うことを、身をもって体験することができた瞬間でもあったのだ。
そうして大草松平家の面々との対面も滞りなく済み、一行を門外まで見送った後は再び寺内にて静寂のひと時を満喫していた。
そこへ、一人の老僧が茶を持って元康の元へとやってきた。そう、大草松平家の人々が元康と対面するまで話し相手を務めていた大樹寺の住職である。
「松平蔵人佐元康殿。ご挨拶が遅れました、十三代目住職の登誉にございまする」
「これは登誉上人。こちらこそ、大樹寺に宿泊している身ながら、ご挨拶が遅れてしまい、真に申し訳ござらぬ」
「いえいえ、昨日はちょうど寺を留守にしておりましたゆえ、いたしかたございませぬ。ささっ、まずはお茶でも飲んでくださいませ」
「これは住職自らとはかたじけない。では、遠慮なくいただきまする」
眼の前に置かれた温かい茶は飲み干すたびに、寒さで冷え切った体に熱を与えていく。その感触を楽しみながら、最後まで飲み干していく。
「ほほほ、豪快な飲みっぷりにございまするな」
「いや、これは下品なことを。喉が渇いておりましたゆえ、つい」
「良いのです。冬の空気は乾燥しておりまするからな。喉を潤したくなるのは理にかなっておりまする」
「そうおっしゃっていただけると有難い」
元康が縁側にて登誉上人と茶を飲みながら、何でもないことを談じていると、そこへ鳥居彦右衛門尉が取り次いできた。福釜松平家と藤井松平家の両当主が連れ立って訪問してきたというのだ。
「では、上人。某はこれにて」
「うむ。私めも松平宗家のご当主様とお話しできてようございました。引き続き、こちらのお部屋をお使いくださいませ」
「かたじけない。では、一度失礼いたす」
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「これはご両人とも、此度はご足労いただき、まことかたじけない」
「いやいや、我らこそ参上が遅れましたこと、お詫び申し上げねばならぬとこ。まこと、申し訳ござらぬ」
藤井松平勘四郎信一と目を合わせながら、元康に言葉を返す恰幅のいい福釜松平左馬助親俊。両名の元康に向ける目からは敵視など微塵も感じない、温かみのある視線であった。
「勘四郎殿は、先般の品野城での戦いにおいて尾三両国に武名を轟かせた御仁。そのことは駿府にまで聞こえておりまする」
「これは、恐れ多いこと。監物殿らが織田軍を相手に持ちこたえておったからこそ、某も名を上げる機会を得られたのです」
「そう謙遜なさらず。確かにそうやもしれませぬが、武名を轟かせたこともまた事実にございましょう。某の三ツ上でありながら、織田方にも名を知られておるとは尊敬の念を禁じ得ませぬ」
真っ直ぐな元康の誉め言葉に、藤井松平家当主・勘四郎信一は完全に褒め殺されてしまっていた。それほどの武功者とは思えない細身な体をむず痒そうにもじもじとしている。
その様子をちらと見やる福釜松平左馬助親俊が口を開く。
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「いかにも。某を大将に松平衆が一丸となって当たらねばならぬ大戦となろう。ゆえに、わしも出陣前に三河へ入り、皆と交流をしておるのです」
「なるほど、合点が参りました。では、我ら福釜、藤井、桜井の碧海衆は対岸の知多半島の水野への備えとされるのでしょうか」
そのことについて、元康は直接の回答を避け、また駿府よりお達しがあるであろうと言って切り抜けた。だが、元康の心の内ではその可能性は高いと感じていた。
何を仕掛けてくるのかが読めない、謀略家の水野下野守信元なのだ。緒川と岡崎の間に位置する桜井、福釜、藤井の三家は備えとして留め置かれることにもなろう。
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その後も元康は松平勘四郎と松平左馬助の両名と近ごろの水野の動きで気になる点はないかなどの情報について尋ね、来るべき尾張侵攻では協力してくれるよう懇ろに依頼して別れた。
無論、能見松平家や桜井松平家、大草松平家などと同様に大樹寺の寺門前まで見送り、藤井松平家の丸に酢漿草の旗と福釜松平家の丸に対い梅の旗が見えなくなるまでは寺門の前で立ち続けていた。
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そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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