不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第82話 明日の事は明日案じよ

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 続いて現れた片喰紋の旗を掲げた一団。それは言うまでもなく、上野城の酒井将監忠尚の一行であった。

「これは酒井将監殿。よくぞ参られた」

「これは殿。本来であれば昨日にも参上すべきところ、一日遅れてしまいまことに申し訳ござらぬ」

「ふむ、酒井将監殿がことじゃ、何事かあったのではないか」

「ははっ、お察しの通りにございまする。織田方の動きが静かすぎるのでございます」

「動きが静かすぎる?」

 酒井将監忠尚が所領は織田方にほど近い加茂郡。そのため、織田軍の動き如何によっては身動きが取れなくなることは元康にも理解できる。

 だがしかし、静かすぎることが遅れたことの理由とどう繋がって来るというのか、元康にも計りかねていた。

「すまぬ、静かすぎるというのはいかなることか、説明を頼む」

「はっ、昨年までは加茂郡に織田軍が侵攻して小競り合いが起こるなど、頻発しておりました。ですが、今年に入ってより一度も小競り合いが起こっておらぬのです」

「それは長年の経験から分かると?」

「左様。このぐらいの時期ならば、すでに二、三度は起きていることが一度もなく、また兆しも見られないのです。斥候を放ったところ、逆に守りを固めている様子で」

 酒井将監の口から聞くと、元康にも怪しいと感じてならない。そこまでして急に静かになったのは、何か裏があるのではなかろうか。そう勘繰ってしまう。

「それゆえに、居城を離れてこれへ参るのが遅れたと」

「はい。留守居に榊原七郎右衛門長政と大須賀五郎左衛門尉を残し、付近の砦の守備を固めさせております」

「それは気がかりであるな。そのような中、大樹寺まで来てくれたこと、改めて礼を申そう。では、詳しきことは中にて――」

「いえ、我らはこの辺りで失礼させていただきたく存じます。もし、加茂郡を欠くことがあっては、岡崎とて枕を高くして眠ることは叶いませぬ。ゆえに、戻って備えを固めたく」

 そこまで酒井将監に言われては、さすがの元康も引き留めることなどできようはずもなく、そのまま門前で立ち話をして別れるのみとなった。

「なるほど、加茂郡の情勢は剣呑であるな。これは太守様にもお伝え申し上げねばならぬ。急ぎ書状を認めるとしようぞ」

 元康は駿府の義元へこれまでに入手した尾張の織田や水野の動きなど、集められた限りの情報を書状に認めていく。そんな折、侍僧が参り、滝脇松平出雲守乗高が面会を求めている旨を取り次いできたのである。

「おお、滝脇より到着したか。取次かたじけない」

 丁寧に侍僧へ礼を述べると、途中までしたためた書状を文机に筆や硯とともに放置したうえで、急いで出迎えに走った。

「お待たせいたした。某が松平宗家の主、松平蔵人佐元康にございます」

「おお、貴殿が……!拙者が滝脇松平家当主、松平出雲守乗高にございまする!」

 自分の近侍である天野三郎兵衛や鳥居彦右衛門尉とそう年は変わらないように見受けられる滝脇松平家当主・出雲守乗高。想像以上に若い人物が来訪したことに驚きつつも、元康は上座へ着座する。

「遠いところ、よくぞお越しくださいました。元康、心より御礼申し上げる」

「顔をお上げくだされ!某のような者にまで易々と頭を下げては……!」

 元康が一礼すると、慌てた様子で走り寄る松平出雲守。あまり堅苦しい挨拶は好きではないのか、評定が引きつっている。

「そういえば、あの憎たらしい大給松平の者らは駿府におるとか」

「ええ、駿府館へ出仕した折、幾度か顔を合わせることもございます」

「蔵人佐殿からすれば、私怨であると鼻で笑われましょうが、四年前に拙者は大給松平との戦で兄と父、祖父を討たれました。いつかその仇を報じてやると思うておるのですが、その機が訪れることはなく」

 元康は察した。おそらく、祖父や父、兄を討った大給松平へ仇討ちをすることを内心では認めてほしいのだ、と。だが、ここで松平一族同士血で血を洗う戦をされれば、宗家の主として監督不行き届きともなり、駿府への印象も悪い。

「出雲守殿のお気持ちは十二分に伝わり申した。されど、松平一族は皆今川氏に従う同志にございまする。今川に従属する者同士での争いは御法度。それゆえ、こらえてくだされとしか、声をかけられませぬ」

 危うく、「申し訳ござらぬ」と付け足そうとしてしまったのを、すんでのところで抑え込んだ。これならば、元康の苦しい立場も十分理解してもらえよう。そう期待する他なかった。

 一番恐れなければならないのは、仇討ちしたさに、織田に鞍替えしてでも今川に従属する大給松平を攻め滅ぼすとなること。そうなれば、滝脇松平を討伐しなければならないのは他ならぬ元康自身なのである。

 仇である大給松平への憎しみを捨てさせることはできずとも、何とか諍いを起こさせず今川に繋ぎとめる。これが肝要であった。

 その後も、昨日今日で一番発する言葉に気を遣いながら、滝脇松平出雲守乗高との対話を半刻ほど続けた。無理に話題をそらせば、神経を逆なでする可能性もある中、元康は実にうまく切り抜けた。

「いや、蔵人佐殿。こうして言葉を交わして、実に名君だと気づかされ申した。まこと、貴殿は松平一族のことを総覧されておられる」

「お褒めにあずかり、恐悦至極に存じます。つきましては、来る尾張表への出陣の折はお力添えのほど、よろしくお願いいたしまする」

「喜んでお引き受けいたしましょうぞ。では、拙者はこれにて失礼いたす」

 他の松平家の当主らと同様、松平出雲守乗高も門外まで見送ると、元康も思わずため息をついてしまった。

「殿、お疲れにございまするな」

「彦右衛門尉にも分かるか」

「はい。特に、滝脇松平との面談は気を遣われたことでしょう。某も近くで耳を立てていて、冷や汗をかいたほどにございます」

「ははは、左様であったか」

 近侍の目から見ても疲労がにじみ出ているというのならば、自分で思っている以上に疲れているのだろう。そう思い、今日は休むこととし、家来衆にもそのように触れ回るように指示を出したのであった。

 しかし、寝室へと戻ってみると、書きかけの書状が文机に置いたままであったため、それだけは急いで仕上げて、駿府へ届けるよう使者を派したのである。

 肉体的疲労よりも精神的な疲労の方が大きいことも珍しいと思い、元康は敷きなおされた布団へと体を委ねる。

「明日は青野松平、深溝松平、竹谷松平、形原松平、五井松平、長沢松平の六家が参るのであったか」

 それに加えて、苅谷水野家からの返答如何によっては長躯苅谷まで赴かねばならないのだ。ここは休めるうちに休んでおくが上策。そう捉えるよりほかはなかった。

「にしても、先祖の菩提寺で眠りにつく。なんとも不思議な感覚じゃ。岡崎の城におった頃とも尾張におった頃とも、無論駿府の屋敷で眠るのとも違う。先祖がわしのことを見守ってくださっておるからであろうか」

 そう思いながら念仏を唱えて少しもすると、眠気に誘われ、夢の世界へと吸い込まれていくのであった。

 そうして気が付けば、丑の刻。普段より一刻近く早く眠ったこともあって、その分早く目が覚めてしまったのである。

「おお、一眠りして疲れが取れた。うむ、これならばまた一日を乗り越えてゆけようものぞ」

 元康はゆっくりと体を起こすと、布団の中の暖気が漏れ、一気に周囲の空気が肌寒いものへと取り換えられる。

「ううっ、この肌寒さだけは何ともならぬか」

 二の腕をさすりながら部屋の外へ出ると、昨日とは違い、僧侶たちよりも早く一日を始められたようで、寺内は静寂そのもの。

「もうひと眠り……と行きたいところではあるが、この寒さで目が覚めてしもうた」

 よりにもよっての丑三つ時。静寂な寺内といえば、ある意味で幻想的な雰囲気の空間である。されど、起きているのが自分一人であると思えば、少しずつ心細く、気味の悪いものに思えてくる。

「何か怪異が出てきそうじゃが、そのようなことなどあるまい」

 所詮は御伽噺。そう思い、廊下を進んで先祖の墓前へ。無心で合掌し、祖父や父が成し遂げたこと、成し遂げられなかったこと。そして、自身の現在の立場から未来へと順に想いを馳せていく。

「二度と、松平を分裂させて相争うようなことにしてはならぬ。父上、先祖の皆々様。どうか、何卒この元康を、松平を、見守り、お導きくださいませ」

 そうして父祖の墓へと参り、心身を整えた元康は再び寝所へ戻る――のではなく、寺内の散策に時をかけることとした。

「こうして、寺内を歩き回るなど、今を逃せば一生ないやもしれぬ」

 そう独り言ちながらめぐる境内。白い息を手へ吹きかけながら、建物の造りから配置などを見物していく。

 そうして半刻が過ぎ、確実に朝は近づきつつある。寅の刻を過ぎると、少しずつ人が動く気配がし始める。それは元康の予想通り、僧侶たち。そして、明け六つにもなると、見知った顔が起床して一日の活動を開始するのである。

「殿、今朝も早うございますな」

「七之助、ようやっと起きたか。なに、早く寝たから早く目が覚めた。それだけのことよ」

「なるほど。して、お加減のほどはいかがにございまするか」

「いたって元気じゃ。朝から先祖の墓にも参ってきたゆえ、活力が体の奥底から湧き上がってくるかのようじゃ」

 起床してすぐの平岩七之助と言葉を交わし、元康は着替えの準備を命じる。そうして着替えも済む頃には、朝日が頭上より大地を照らし始めていた。

「おお、やはり陽の光は体に温もりを与えてくれるのう」

 寒さを味わったからこそ、当然のように昇って来る太陽のぬくもりに感謝することができる。それを味わえただけでも、深夜から明朝にかけて、寺内を散策したことは無駄ではなかった。そう思えてならない元康なのであった。

 それから二刻ほどが経った巳の刻。待ちかねていた使者が到着した。

「殿!石川彦五郎、ただいま参上いたしました」

「おお、苅谷までの使い、ご苦労であった」

「とんでもございません。こちら、水野藤九郎殿よりの書状にございまする」

 うやうやしく捧げられた一書を手にすると、すぐにも読みだす元康。目の前でひざまずく石川彦五郎も、いつしか二十七になり、好青年となっていた。

「うむ、書状の内容はしかと承った。明日の未の刻に苅谷城にて会おうと、かように申してきたのだな」

「はい。その通りにございます。また、殿に会わせたい方がおられるとのことで、その方を含めた三名で夕餉を共にしたいとも申しておりました。加えて、共にしないとあらば、急ぎ返事がほしいとも」

「うむ、わしに引き合わせたい者とは誰なのかが気になるところではあるが、せっかくの心遣いゆえ、夕餉を共にするといたそう」

 すなわち、返事を出す必要はなかった。ともあれ、苅谷での水野藤九郎信近との対面は明日と決まった。

 ならば、今日は残る松平家当主らと順次面会を果たすのみである。

「殿、青野松平家当主御一行が到着いたしましてございます」

「彦右衛門尉、ご苦労。わしもすぐに出迎えるとしようぞ。では、彦五郎はこのまま大樹寺で休息を取っていくがよい」

「ははっ、お言葉に甘えさせていただきまする」

 石川彦五郎の丁寧に手をつき一礼するのを視界の端で見やると、元康は慌ただしく寺門へと向かっていく。

 寺門には青野松平の手勢が数十ほど控えており、その先頭ではまだまだ幼い童が逞しい肉体の壮年に抱きかかえられながら馬を下りるところであった。その傍には、他にも他の侍とは装いから異なる武士が三名控えていた。

「これは松平亀千代殿。遠路はるばるよくぞ参られた」

「まつだいらくらんどのすけどの、このたびはおあいでき、きょうえつしごくにぞんじたてまつります」

「ははは、亀千代殿はまだ五ツと聞いておったが、難しい言葉を流暢に述べられますな。某が松平蔵人佐元康じゃ。青野松平家当主、亀千代殿の来訪を心より歓迎いたしますぞ」

 元康と亀千代の対面はこれまでにないほど見る者の心を和ませる空気を漂わせていた。

 そんな亀千代は四年前、日近合戦において矢を受けて亡くなった松平甚太郎忠茂の一人息子である。

「松平蔵人佐殿!某、松井左近尉忠次と申しまする!駿府館でお会いした以来にございまするな」

「早いもので、あれから九年。某も十九となりました」

「それを申せば、某など四十になり、すっかり老け込んでしまいましたぞ。わはははは……!」

 まったく老け込んだとは思えないと元康がすかさず突っ込み、明るい空気のまま両家の者たちは大樹寺へと入っていくのであった――
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