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第4章 苦海の章
第105話 新たな馬印と岡崎入城
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松平蔵人佐元康が逃げ込むように大樹寺に入ったのは五月二十日。その日、元康たちを追ってきた落ち武者狩りの者たちは大樹寺を取り巻き、騒ぎ立てる有り様であった。
「殿、何やら怪しげな奴が扇動いたしておる様子。じきに寺内へ踏み込んでくるのではございませぬか」
「案ずるな、平八郎。不入権がある限り、何者も許可なく立ち入ることなどできぬ」
具足を解き、大樹寺の一室にて疲れた体を休める元康の側には、まだ十三歳の本多平八郎忠勝の姿があった。元康の言葉を聞くまでは不安そうであった彼も、元康の落ち着き払った様子を見て、徐々に平静さを取り戻していく。
「そうじゃ、扇動しておる者がどうとか申しておったな」
「はい。ここを取り巻く者らを煽っている様子で」
「どうせ、水野家が放った草の者であろう。ああやって、罪なき領民らを扇動して領内を混乱に陥れようとしておるのじゃ」
「合点が参りました。されど、いつまで取り巻くつもりでしょうか」
「ここ数日のうちには退散するであろう。それまでの辛抱じゃ。皆も分かっておると思うが、わしが一歩も寺の外に出てはならぬと申していたこと、伝えて参れ」
「はっ!では、行ってまいります!」
役目を与えられ、嬉しそうにはしゃぐ本多平八郎が退出していくと、室内は驚くほどの静寂が訪れる。
胡坐をかいている元康の前にあるのは、尾張侵攻において肌身離さず身につけていた大小の刀。そのうちの小さい方の刀を鞘から抜き放つと、刀身は鈍い光を放つ。
「太守様、元康はこうして生きて三河の地まで戻ってくることが叶いました。太守様の無念は必ずや、この元康が晴らしまするゆえ、どうか見守っていてくださいませ」
そっと目を閉じ、今は亡き今川義元を瞼の裏に浮かべながら、誰にも聞かれぬような小さい声量で、静かに誓いを立てる。だが、次の瞬間にはそんな元康に組み付いてくる者があった。
「お殿様、ご自害などもってのほか!思い直してくださいませ!」
「何をするか、離せ!離さぬかっ!」
組み付いてきた小柄な少年はどうやら元康が右手に握っている刀を取り上げようとしているらしかった。少年は状況証拠から、元康が自害しようとしていると早合点して、そうはさせまいと組み付いてきたらしかった。
そんな騒ぎを聞きつけて引き返してきた本多平八郎によって少年は取り押さえられ、住職である登誉天室までもが駆けつける騒ぎとなった。
「こ、これは登誉上人までお越しとは」
「我が寺で預かっておる者がとんだご無礼を」
「ほう、名は何と申す。どこの生まれであるか」
「某は榊原七郎右衛門長政が次男、榊原小平太と申します。生まれは三河国上野郷にございまする」
三河の上野に榊原という名字。そこから元康にも目の前にいる少年がどういう出自の者か理解することができた。
「おお、上野城の酒井将監に仕えておる榊原七郎右衛門が次男か」
「はい。すでに兄が家督を継ぐことになっておりますゆえ、ここ大樹寺へ預けられ、勉学に勤しむ日々を送っております」
「そうであったか。うむ、これより優秀な人材が必要となるゆえ、榊原小平太、そちはわしの小姓として仕えよ」
「はっ、ははっ!それは有り難き仕合わせ……!」
かくして本多平八郎と同い年の新たな小姓を得た元康は、改まった様子で住職である登誉天室へと向き直った。
「松平蔵人佐元康殿。まことにご自害なさろうとしておったわけではないのですな」
「いかにも。某にはまだ、成さねばならぬことがございまする」
「然らば、命を重んずる名将である殿へ、餞別をご用意するといたしましょう。しばしお待ちくだされ」
「餞別、にございますか」
一体餞別とは何を指しているのか。皆目見当もつかないまま、元康が登誉天室の言う餞別を待っていると、漢字八文字が墨で大書された白布の旗が室内へ持ち込まれた。
「これは『往生要集』の一節!厭離穢土欣求浄土にございまするか」
「さすがは松平蔵人佐元康殿。ご存じでしたか」
『現実の世の中は穢れた世界であるから、この世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること』を意味する厭離穢土欣求浄土という一節。
それが旗に記されていることに違和感はあれど、不思議と体の内側から活力が湧いてくるような心地がする。
「上人、『厭離穢土欣求浄土』の旗を某の馬印として活用させていただきたく存じます」
元康は登誉天室からの餞別に背中を押され、今後の展望について家臣らと語り合う機会が増えた。
そんな折の二十三日の事であった。駿府の今川治部太輔氏真よりの書状が大樹寺の元康へと届けられたのは。
元康は重臣一同を一室へと集め、今川家当主・氏真からの書状を読み聞かせた。一体、書状には何が記されているのか、その場にいる全員が興味津々といった様子で、書状を手にする元康の一挙手一投足から目が離せずにいた。
「まずもって我らの無事を祝し、岡崎在城を認め、さらには我らの事を三河防衛の柱石であるとまで記されておる。領国内外のことが落ち着けば、御屋形様自ら駿遠三の大軍を率いての仇討ちも考えておられるご様子。それまで織田や水野の侵攻から三河を守り抜くことが当面の我らの使命である、ともな。そして、すでに岡崎城へ使者を派遣しておるゆえ、この書状が届く頃には岡崎城にて動きがあろう、とも書かれておる」
元康はその場にいた榊原弥平兵衛忠政と内藤甚一郎正成へ目くばせすると、心得て候とばかりに両名は退出し、寺の外へと駆けだしていく。
そして、書状の本文末尾にはこう記されていた。
――正室と生まれてくる子については頃合いを見て岡崎城へ送り届ける所存。嫡男竹千代についてはこれまで通り人質として駿府に留め置くこととする。
「瀬名と来月に生まれてくる子は岡崎へ帰って来るか。そうかそうか――」
生まれてくる子供は次男もしくは長女。すでに嫡男は人質としてあるのだから、これ以上の人質はそなたからは不要である。暗に信頼していると言われたようで、元康は嬉しさが幾重にも重なったような心地であった。
「酒井左衛門尉、石川彦五郎、石川与七郎、植村新六郎の四名は前へ」
突然名を呼ばれた四名はどういうわけで呼び出されたのか見当もつかないまま、困惑混じりの表情で元康の面前へと進み出た。
「そなたたちを家老に加えることといたす。わしと年の近く、我が意を汲める者たちを重職につけることで、当家をより強くしていきたい。それがわしの考えじゃ。断るならば今のうちに申し出るがよい」
酒井左衛門尉忠次は齢三十四、母方の従兄でもある石川彦五郎は二十七、彦五郎の甥・石川与七郎数正は二十八、植村新六郎栄政に至っては二十歳であった。
このように元康の近侍や岡崎の老臣たちが居並ぶ場で前に呼び出された彼らに、家老を任せると若き主君に言われて無理であると突っぱねることなどできない。はじめから選択肢など一つに絞られたうえでの言葉であった。
四名とも互いの顔を見合わせた後に、覚悟を決めた面持ちで小さく頷くと、元康の双眸をじっと見つめていく。
「我ら四名、しかと家老職を全うしてご覧にいれまする!」
「よし、決まった。ところでじゃ、一昨日、上野城の酒井将監よりわしの元へ書状が届いた。なんでも、今より三日前の今月二十日、退却中であった則定城の鈴木重政・重村の兄弟が則定城北西の伊保村・加納村で三宅氏によって討たれたとのことじゃ」
則定城は大高城から見て東に位置し、岡崎城から見れば北北東に位置する地。何より、鈴木兄弟は今川方の将。それを討った三宅氏は叛意ありと捉えられる。
「鈴木に三宅と聞きますと、加茂郡での殿の初陣の折のことが鮮明に思い出されまするな」
「やはり彦右衛門尉もか。わしもそう思っておった。おそらく、此度の今川軍敗戦を受けて、織田方へ寝返ったものであろう。水野が動くより先に、短期決戦で三宅氏を仕留め、後顧の憂いを断ったうえで水野に当たろうと思うが、皆の意見を聞きたい」
鳥居彦右衛門尉元忠の言葉に笑いながら頷く元康。先に北の三宅氏を黙らせておいて、いずれ来襲する織田軍や水野軍に備える策。まずもって、老練な大久保新八郎忠俊が同意したことを受け、誰も反対意見を唱える者など出なかった。
「よし、では岡崎城へ入った後、ただちに加茂郡へ出兵することといたす。また、桜井松平家の監物殿よりの書状では二日前の二十一日、沓掛城に戻っていた近藤九十郎景春殿が自害したとのことじゃ。織田軍に攻められた近藤九十郎殿は沓掛城より北東にあり、太守様もご宿泊なさった祐福寺へ逃げ込んだが、そこにも織田軍が迫ったため、進退窮まって寺近くの天神山にて自害して果てたとのことじゃ」
桜井松平監物からの書状が意味するところは、沓掛城も織田軍の手に落ち、いよいよもって、鳴海城が陸の孤島と化したということである。
「あの御屋形様のことじゃ。鳴海城の岡部丹波守殿へ降伏開城し、駿河へ帰還するよう命じておろう。ゆえに、穏便に事は済むであろうが――」
そうなれば、今川家の尾張における拠点のすべてが消失する。翻って、織田家にとっては今川家に占領されていた尾張の拠点をすべて奪還することができたことを意味している。
そこへ、岡崎城の方へ偵察へ赴いていた榊原弥平兵衛と内藤甚一郎の両名が駆け戻ってきた。
「殿!岡崎城代である三浦上野介氏員、飯尾豊前守乗連、田中次郎衛門らが手勢、城を出て東へ向かっておる由!」
「旗指物や武具兵粮なども小荷駄隊が運び出しておるのも、しかとこの目で確認いたしました!」
立て続けの報告に元康は歯を見せて笑った。想像以上に引き揚げが早いことから察するに、城代たちとしても戦場がこちらへ近づいてきたので、引き揚げたくて仕方なかったのではないか。
でなくば、こうも早く手勢や物資をまとめて退去するなど、到底できることではない。
「おそらく、御屋形様からの命を受けて勿怪の幸いと思うたのであろう。ならば、御屋形様よりの命も入ったことゆえ、空き城とならぬよう、我らが守衛に入るとしようぞ」
それからの元康一行の動きは実に迅速であった。登誉天室より受け取った厭離穢土欣求浄土の旗を悠々と風に靡かせながら岡崎城の城門へ。
祖父・松平清康や父・広忠が幾度となく潜り、母・於大の方が輿入れする時にも離縁となって水野家へ送り返す時にも潜った大手門。
「幼少の頃、大手門は随分と大きく見えたものじゃが、今こうして改めて見てみると、小さくなったように感じてもしまう」
「それだけ殿が大きくなられたということでございましょう」
「おお、伊賀守ではないか。童であった頃よりも背も伸びたのだ、小さく思えるのは当然のことなのやもしれぬ」
刈り残した夏草が生い茂っている石垣を見やりながら、元康は古巣・岡崎城へと入城する。城の何処にも軍兵の姿が見えない城内を散策する元康は、改めて鳥居伊賀守忠吉に呼び止められた。
「殿、内密にお見せいたしたい物がございまする」
「見せたい物とな」
「はい」
「よし、鳥居彦右衛門尉のみを伴って参るとする。さっ、伊賀守。案内いたせ」
「では、こちらへ」
足腰の弱った鳥居老人を三男坊である彦右衛門尉が支えながら歩みを進めていく。そうして辿り着いたのは一つの土蔵であった。老人が懐から取り出した錠前を外すと、地響きのような重い音を立てながら扉が開かれる。
「こ、これは……!?」
「驚かれましたかな」
「苦しい中、よくぞこれほどの財を蓄えたものよ」
「種子島十数丁、弾薬と玉薬も百ばかりしかございませぬが、ないよりはよいかと。領内で収穫された年貢米も何十俵と蓄えてございます。当面の軍資金の足しになるか分かりませぬが、いくらか銭の蓄えもございまする」
元康は土蔵の中に納められている物資の多さに息を呑んだ。武具兵粮の類から銭まで山積みとなっているのであるから、元康が驚くのは無理もないことであった。
「伊賀守、どうやら彦右衛門尉すらも知らなかったようじゃが、誰にも見つからぬよう蓄えておったのか」
「はい。いつの日か、殿が岡崎城へ入られた日のために平時より蓄えておりました。このことを知るのは当家の者でも信頼できる一握りの者だけにございますれば」
「済まぬが、ここにある物資はこれよりの戦で使わせてもらうが、それでも良いか」
「無論にございまする。殿にお使いいただくために蓄財した物。遠慮のうお使いくだされ」
元康は鳥居老人がせっせとため込んだ物資に合掌すると、人を呼んで搬出にかかるのであった。今川領国を、ひいては松平領国を守るために。
「殿、何やら怪しげな奴が扇動いたしておる様子。じきに寺内へ踏み込んでくるのではございませぬか」
「案ずるな、平八郎。不入権がある限り、何者も許可なく立ち入ることなどできぬ」
具足を解き、大樹寺の一室にて疲れた体を休める元康の側には、まだ十三歳の本多平八郎忠勝の姿があった。元康の言葉を聞くまでは不安そうであった彼も、元康の落ち着き払った様子を見て、徐々に平静さを取り戻していく。
「そうじゃ、扇動しておる者がどうとか申しておったな」
「はい。ここを取り巻く者らを煽っている様子で」
「どうせ、水野家が放った草の者であろう。ああやって、罪なき領民らを扇動して領内を混乱に陥れようとしておるのじゃ」
「合点が参りました。されど、いつまで取り巻くつもりでしょうか」
「ここ数日のうちには退散するであろう。それまでの辛抱じゃ。皆も分かっておると思うが、わしが一歩も寺の外に出てはならぬと申していたこと、伝えて参れ」
「はっ!では、行ってまいります!」
役目を与えられ、嬉しそうにはしゃぐ本多平八郎が退出していくと、室内は驚くほどの静寂が訪れる。
胡坐をかいている元康の前にあるのは、尾張侵攻において肌身離さず身につけていた大小の刀。そのうちの小さい方の刀を鞘から抜き放つと、刀身は鈍い光を放つ。
「太守様、元康はこうして生きて三河の地まで戻ってくることが叶いました。太守様の無念は必ずや、この元康が晴らしまするゆえ、どうか見守っていてくださいませ」
そっと目を閉じ、今は亡き今川義元を瞼の裏に浮かべながら、誰にも聞かれぬような小さい声量で、静かに誓いを立てる。だが、次の瞬間にはそんな元康に組み付いてくる者があった。
「お殿様、ご自害などもってのほか!思い直してくださいませ!」
「何をするか、離せ!離さぬかっ!」
組み付いてきた小柄な少年はどうやら元康が右手に握っている刀を取り上げようとしているらしかった。少年は状況証拠から、元康が自害しようとしていると早合点して、そうはさせまいと組み付いてきたらしかった。
そんな騒ぎを聞きつけて引き返してきた本多平八郎によって少年は取り押さえられ、住職である登誉天室までもが駆けつける騒ぎとなった。
「こ、これは登誉上人までお越しとは」
「我が寺で預かっておる者がとんだご無礼を」
「ほう、名は何と申す。どこの生まれであるか」
「某は榊原七郎右衛門長政が次男、榊原小平太と申します。生まれは三河国上野郷にございまする」
三河の上野に榊原という名字。そこから元康にも目の前にいる少年がどういう出自の者か理解することができた。
「おお、上野城の酒井将監に仕えておる榊原七郎右衛門が次男か」
「はい。すでに兄が家督を継ぐことになっておりますゆえ、ここ大樹寺へ預けられ、勉学に勤しむ日々を送っております」
「そうであったか。うむ、これより優秀な人材が必要となるゆえ、榊原小平太、そちはわしの小姓として仕えよ」
「はっ、ははっ!それは有り難き仕合わせ……!」
かくして本多平八郎と同い年の新たな小姓を得た元康は、改まった様子で住職である登誉天室へと向き直った。
「松平蔵人佐元康殿。まことにご自害なさろうとしておったわけではないのですな」
「いかにも。某にはまだ、成さねばならぬことがございまする」
「然らば、命を重んずる名将である殿へ、餞別をご用意するといたしましょう。しばしお待ちくだされ」
「餞別、にございますか」
一体餞別とは何を指しているのか。皆目見当もつかないまま、元康が登誉天室の言う餞別を待っていると、漢字八文字が墨で大書された白布の旗が室内へ持ち込まれた。
「これは『往生要集』の一節!厭離穢土欣求浄土にございまするか」
「さすがは松平蔵人佐元康殿。ご存じでしたか」
『現実の世の中は穢れた世界であるから、この世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願い求めること』を意味する厭離穢土欣求浄土という一節。
それが旗に記されていることに違和感はあれど、不思議と体の内側から活力が湧いてくるような心地がする。
「上人、『厭離穢土欣求浄土』の旗を某の馬印として活用させていただきたく存じます」
元康は登誉天室からの餞別に背中を押され、今後の展望について家臣らと語り合う機会が増えた。
そんな折の二十三日の事であった。駿府の今川治部太輔氏真よりの書状が大樹寺の元康へと届けられたのは。
元康は重臣一同を一室へと集め、今川家当主・氏真からの書状を読み聞かせた。一体、書状には何が記されているのか、その場にいる全員が興味津々といった様子で、書状を手にする元康の一挙手一投足から目が離せずにいた。
「まずもって我らの無事を祝し、岡崎在城を認め、さらには我らの事を三河防衛の柱石であるとまで記されておる。領国内外のことが落ち着けば、御屋形様自ら駿遠三の大軍を率いての仇討ちも考えておられるご様子。それまで織田や水野の侵攻から三河を守り抜くことが当面の我らの使命である、ともな。そして、すでに岡崎城へ使者を派遣しておるゆえ、この書状が届く頃には岡崎城にて動きがあろう、とも書かれておる」
元康はその場にいた榊原弥平兵衛忠政と内藤甚一郎正成へ目くばせすると、心得て候とばかりに両名は退出し、寺の外へと駆けだしていく。
そして、書状の本文末尾にはこう記されていた。
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「瀬名と来月に生まれてくる子は岡崎へ帰って来るか。そうかそうか――」
生まれてくる子供は次男もしくは長女。すでに嫡男は人質としてあるのだから、これ以上の人質はそなたからは不要である。暗に信頼していると言われたようで、元康は嬉しさが幾重にも重なったような心地であった。
「酒井左衛門尉、石川彦五郎、石川与七郎、植村新六郎の四名は前へ」
突然名を呼ばれた四名はどういうわけで呼び出されたのか見当もつかないまま、困惑混じりの表情で元康の面前へと進み出た。
「そなたたちを家老に加えることといたす。わしと年の近く、我が意を汲める者たちを重職につけることで、当家をより強くしていきたい。それがわしの考えじゃ。断るならば今のうちに申し出るがよい」
酒井左衛門尉忠次は齢三十四、母方の従兄でもある石川彦五郎は二十七、彦五郎の甥・石川与七郎数正は二十八、植村新六郎栄政に至っては二十歳であった。
このように元康の近侍や岡崎の老臣たちが居並ぶ場で前に呼び出された彼らに、家老を任せると若き主君に言われて無理であると突っぱねることなどできない。はじめから選択肢など一つに絞られたうえでの言葉であった。
四名とも互いの顔を見合わせた後に、覚悟を決めた面持ちで小さく頷くと、元康の双眸をじっと見つめていく。
「我ら四名、しかと家老職を全うしてご覧にいれまする!」
「よし、決まった。ところでじゃ、一昨日、上野城の酒井将監よりわしの元へ書状が届いた。なんでも、今より三日前の今月二十日、退却中であった則定城の鈴木重政・重村の兄弟が則定城北西の伊保村・加納村で三宅氏によって討たれたとのことじゃ」
則定城は大高城から見て東に位置し、岡崎城から見れば北北東に位置する地。何より、鈴木兄弟は今川方の将。それを討った三宅氏は叛意ありと捉えられる。
「鈴木に三宅と聞きますと、加茂郡での殿の初陣の折のことが鮮明に思い出されまするな」
「やはり彦右衛門尉もか。わしもそう思っておった。おそらく、此度の今川軍敗戦を受けて、織田方へ寝返ったものであろう。水野が動くより先に、短期決戦で三宅氏を仕留め、後顧の憂いを断ったうえで水野に当たろうと思うが、皆の意見を聞きたい」
鳥居彦右衛門尉元忠の言葉に笑いながら頷く元康。先に北の三宅氏を黙らせておいて、いずれ来襲する織田軍や水野軍に備える策。まずもって、老練な大久保新八郎忠俊が同意したことを受け、誰も反対意見を唱える者など出なかった。
「よし、では岡崎城へ入った後、ただちに加茂郡へ出兵することといたす。また、桜井松平家の監物殿よりの書状では二日前の二十一日、沓掛城に戻っていた近藤九十郎景春殿が自害したとのことじゃ。織田軍に攻められた近藤九十郎殿は沓掛城より北東にあり、太守様もご宿泊なさった祐福寺へ逃げ込んだが、そこにも織田軍が迫ったため、進退窮まって寺近くの天神山にて自害して果てたとのことじゃ」
桜井松平監物からの書状が意味するところは、沓掛城も織田軍の手に落ち、いよいよもって、鳴海城が陸の孤島と化したということである。
「あの御屋形様のことじゃ。鳴海城の岡部丹波守殿へ降伏開城し、駿河へ帰還するよう命じておろう。ゆえに、穏便に事は済むであろうが――」
そうなれば、今川家の尾張における拠点のすべてが消失する。翻って、織田家にとっては今川家に占領されていた尾張の拠点をすべて奪還することができたことを意味している。
そこへ、岡崎城の方へ偵察へ赴いていた榊原弥平兵衛と内藤甚一郎の両名が駆け戻ってきた。
「殿!岡崎城代である三浦上野介氏員、飯尾豊前守乗連、田中次郎衛門らが手勢、城を出て東へ向かっておる由!」
「旗指物や武具兵粮なども小荷駄隊が運び出しておるのも、しかとこの目で確認いたしました!」
立て続けの報告に元康は歯を見せて笑った。想像以上に引き揚げが早いことから察するに、城代たちとしても戦場がこちらへ近づいてきたので、引き揚げたくて仕方なかったのではないか。
でなくば、こうも早く手勢や物資をまとめて退去するなど、到底できることではない。
「おそらく、御屋形様からの命を受けて勿怪の幸いと思うたのであろう。ならば、御屋形様よりの命も入ったことゆえ、空き城とならぬよう、我らが守衛に入るとしようぞ」
それからの元康一行の動きは実に迅速であった。登誉天室より受け取った厭離穢土欣求浄土の旗を悠々と風に靡かせながら岡崎城の城門へ。
祖父・松平清康や父・広忠が幾度となく潜り、母・於大の方が輿入れする時にも離縁となって水野家へ送り返す時にも潜った大手門。
「幼少の頃、大手門は随分と大きく見えたものじゃが、今こうして改めて見てみると、小さくなったように感じてもしまう」
「それだけ殿が大きくなられたということでございましょう」
「おお、伊賀守ではないか。童であった頃よりも背も伸びたのだ、小さく思えるのは当然のことなのやもしれぬ」
刈り残した夏草が生い茂っている石垣を見やりながら、元康は古巣・岡崎城へと入城する。城の何処にも軍兵の姿が見えない城内を散策する元康は、改めて鳥居伊賀守忠吉に呼び止められた。
「殿、内密にお見せいたしたい物がございまする」
「見せたい物とな」
「はい」
「よし、鳥居彦右衛門尉のみを伴って参るとする。さっ、伊賀守。案内いたせ」
「では、こちらへ」
足腰の弱った鳥居老人を三男坊である彦右衛門尉が支えながら歩みを進めていく。そうして辿り着いたのは一つの土蔵であった。老人が懐から取り出した錠前を外すと、地響きのような重い音を立てながら扉が開かれる。
「こ、これは……!?」
「驚かれましたかな」
「苦しい中、よくぞこれほどの財を蓄えたものよ」
「種子島十数丁、弾薬と玉薬も百ばかりしかございませぬが、ないよりはよいかと。領内で収穫された年貢米も何十俵と蓄えてございます。当面の軍資金の足しになるか分かりませぬが、いくらか銭の蓄えもございまする」
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「伊賀守、どうやら彦右衛門尉すらも知らなかったようじゃが、誰にも見つからぬよう蓄えておったのか」
「はい。いつの日か、殿が岡崎城へ入られた日のために平時より蓄えておりました。このことを知るのは当家の者でも信頼できる一握りの者だけにございますれば」
「済まぬが、ここにある物資はこれよりの戦で使わせてもらうが、それでも良いか」
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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