不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第104話 移れば変わる世の習い

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 今川義元討ち死の悲報は遠く駿府館にいる今川治部太輔氏真のもとへも聞こえてきた。一大変事を報ずる注進櫛の歯を挽くが如し、であった。駆けこんでくる注進はどれもこれも惨憺たる敗報を告げていく。

 大広間に座して苦りきった表情の氏真の側には祖母の寿桂尼をはじめ、留守を任されていた元康の舅・関口刑部少輔氏純や三浦備後守正俊。元康と同じく関口刑部少輔の娘婿である北条助五郎氏規に、氏真の叔父・武田六郎信友などが居並んでいる。

 三浦左馬助義就、朝比奈主計頭秀詮、蒲原氏徳、一宮宗是、由比美作守正信、庵原右近忠春、藤枝伊賀守氏秋、長谷川伊賀守元長、富永伯耆守氏繁、岡部甲斐守長定、斎藤掃部介利澄、久野元宗、久野氏忠、井伊信濃守直盛、松井左衛門佐宗信――

 戦死者の名が次々と上がる中、氏真と関口刑部少輔、北条助五郎、武田六郎らは松平蔵人佐元康の名が上がらないことに内心ではほっと胸を撫でおろしていた。

 前線からの生還者には関口刑部少輔の兄で武田六郎の舅でもある瀬名陸奥守氏俊、氏真にとって叔母婿にあたる浅井小四郎政敏、駿河国駿東郡葛山城主・葛山左衛門佐氏元、遠江国懸川城主・朝比奈備中守泰朝、三河国宝飯郡上ノ郷城主・鵜殿藤太郎長照、庵原城主・朝比奈丹波守親徳、庵原将監忠縁などの名があった。

「氏真殿」

「なんでしょうか、おばあ様」

 突然の父の死を受けて動揺している氏真に真っ先に声をかけたのは、祖母・寿桂尼であった。

「これより先、まず何をすべきか、分かっておりますね」

「無論、ただちに尾州表へ出陣し、父上の仇討ちをいたしまする!」

 尼御台とも呼ばれる頼れる祖母からの問いかけに対し、氏真は淀みなく己が考える答えを口にした。だが、その言葉に寿桂尼はかぶりを振った。

「違います」

「何をおっしゃいますか!一にも二にも仇討ち!この氏真、むざむざと父を討たれて黙ってはおれませぬ!」

「落ち着きなされ。仇討ちもいずれはせねばなりませぬが、第一に成すべきことではありませぬ」

 仇討ちにはまだ早い。そう釘を指された氏真はしばし考えた後に別なことを口にする。

「では、葬儀にございましょうか」

「それもすべきでしょうが、妾が申したいことは葬儀ではありませぬ」

「で、では、おばあ様は何をせよと仰りたいのでございますか」

「此度、義元殿が決行した尾張侵攻の戦功のあった家臣に新恩所領を与えたり、感状を出すなど戦功を認定することや代替わりした家臣や国衆らに安堵状を発給することです」

 外征にばかり目が向いていた氏真であったが、祖母の言葉を聞いてようやく冷静に領国内のことに目を向けることができた。

「おばあ様、氏真は目が覚めましてございます。仇討ちを成さんがためにも、まずは領国統治に全力を尽くしまする」

「それでよいのです。此度の戦で戦功ある者を賞し、満足のいく褒賞を出す。義元殿とともに亡くなった家臣や従属している国衆らには騒動なく相続ができるように迅速に代替わりを認め、所領安堵を約する判物を発給。また、寺社へも寺領をこれまで通り認める旨の文書を出し、領国内の動揺を鎮めなされ」

「さすがはおばあ様。されど、すでに父上より家督を譲られておりますゆえ、駿河と遠江の領国経営は何とかなりましょう。されど、三河のことや軍事、外交のことは父が担っておりましたゆえ、何から手を付けてよいやら、皆目見当もつきませぬ」

「それについては、妾も後見いたしましょう。三河は織田との境目に位置します、誰ぞ柱石と位置付けられる将に任せること。三河は従属国衆が多い地ゆえ、駿河と遠江の統治が盤石だと理解すれば混乱などは起きませぬ」

 寿桂尼の言葉の一つ一つに、これまでの人生経験が乗っているのではないかと思えるほどの重厚感がある。そんな重みのある言葉を聞き逃すまいと、決死で耳を傾ける氏真。

 真摯にこれからに向き合おうとする当主の姿に、居並ぶ重臣一同にも安心感と、お支えしていこうという気持ちがより強度を増していく。

「然らば、軍事や外交について、おばあ様のご意見を承りたく存じます」

「軍事については三河のこと。恐らく織田は当家へ攻勢を強めて参りましょうゆえ、三河が織田軍の侵攻に耐えうるよう、遠江衆や駿河衆を援軍として派遣し、国境を固めねばなりませぬ」

「なるほど。優先すべきは三河防衛である、と」

「ええ、その通りです。加えて、外交の儀は同盟先の武田家と北条家。両家から見放されては、ここ駿府までもが危うくなります。両家と同盟関係維持するつもりであることを、両家の当主へ伝える必要もあります」

「ま、まこと成さねばならぬことが山積しておりますな。おばあ様、至らぬ孫を後見してくだされよ。この場にいる皆も、予を支えてくれ!当家にとって危急存亡の秋ともいえる時期となろうが、皆の協力なくして乗り切れぬ!」

 関口刑部少輔をはじめ、ここに居合わせているのは氏真を最初から支えていくつもりである者たちばかり。否と申すはずなどなかった。

 そんな折、火急の使者が鳴海城の岡部丹波守元信と大樹寺の松平蔵人佐元康よりやって来た。二人からの使者からの口上を聞いたのち、二通の書状が氏真の手へと渡った。

「御屋形様、岡部丹波守からの書状にはなんと?」

 傍らに控える重臣・関口刑部少輔の発言に、氏真は書状に目を通しながら、要点をかいつまんで広間にいる者たちに聞こえるだけの声量を発していく。

「一つ、鳴海城を堅守し、幸運にも攻め寄せる織田軍を今日まで跳ねのけ続けていること。一つ、近日中にも兵粮も矢玉も尽き果て、落城は免れざること。一つ、大高城は敵の手に渡り、苅谷水野が当家を見限って織田へ従属したこと。一つ、空いた沓掛城には近藤九十郎景春が入城し、松平蔵人佐は三河へ撤退していったこと。一つ、援軍が得られないのであれば、城を枕に討ち死仕る覚悟であること――」

 知りうる限りの味方の情勢が記され、書状のところどころから滲む、苦しい籠城戦を強いられている書状に、読んでいる最中の氏真の頬を幾つもの雫が伝う。

「使者に休息を取らせよ。後ほど予自ら岡部丹波守に宛てて書状をしたためるとする。あれほどの忠勇の士をみすみす父のもとに向かわせるわけにはゆかぬ。今は鳴海城を救援することは叶わぬゆえ、織田方に開城を申し入れ、城を明け渡して駿河まで撤退するよう、命じる文書をな」

 使者は氏真直々の言葉に感涙にむせびながら広間を退出。氏真が評定を終えてよりしたためた書状を持ち帰らせるべく、それまで休息するようにも申し付けた。

 続けて、元康からの使者を引見した氏真は岡部丹波守の使者と同様、口上を受けて後に書状を開いた。

「関口刑部少輔」

「ははっ、何ぞ書状に不都合でもございましたか」

「逆じゃ。この書状からは悲壮感は感じられぬ。されど、どこか頼もしさを感じさせる書状じゃ」

 氏真は元康から送られてきた文に目を通し、要点を洗い出して伝えていく。

「一つ、父とも慕いし太守様の死が未だ信じられぬ想いであること。一つ、大高城を守る任務を放棄して無断で三河へ撤退した行いについて陳謝いたすこと。一つ、緒川と苅谷の両水野氏が織田と合力して松平領を侵す恐れが生じていること。一つ、鳴海城を救いに未だ動けずにいること。一つ、西三河を防衛するためにも自らが岡崎城に入り、城代らに成り代わり敵に侵攻を防ぐ楯とならんこと」

 岡部丹波守が書状は文面すべてから悲壮感が溢れていたのに対し、元康の書状はまず義元討ち死についての想いを述べ、無断で兵を引き上げたことに対しての詫びを盛り込んでいる。

 付け加えて領国が織田・水野に攻め込まれる可能性があることと鳴海城救出に動けていない現状の報告。そして、最後にそれらに備えるためにも、本領岡崎へ入り、西からの侵攻を防ぎたいとの志を示すという構成となっている。

「よかろう。蔵人佐の岡崎城入りを認める文書をしたためることとしようぞ。他の三河国衆らとも連携して織田の侵攻を防がせ、時期が来たならば尾張へ侵攻し、織田上総介信長を討ち、仇討ちを成してみせようぞ!」

 氏真は元康の使者の労をねぎらった後、書状をしたためるまで駿府へ逗留するよう申し付けた。

「関口刑部少輔よ」

「ははっ、御屋形様、何でございましょうか」

「蔵人佐に嫁がせた瀬名じゃが、産み月はいつであったか」

 唐突に元康に正室として嫁いでいる娘へと話題転換したことに戸惑いながらも、関口刑部少輔は何食わぬ顔で質問へ回答する。

「はっ、来月と聞いておりまする。それが何か」

「いや、それが聞ければよい。蔵人佐も妻子のことが気にかかっては、忠勤に励むことなどできまい。ゆえに書状にて、そっと妻子のことを報せてやろうと思ったまでのことよ」

「御屋形様よりのご配慮、三河の松平蔵人佐もさぞかし喜ぶことでしょう」

「うむ。そなたは今日の夜にでも蔵人佐が屋敷を訪ね、瀬名に夫の無事を伝えてやるがよい」

「ありがとう存じます。では、仰せの通りにいたしまする」

 二十三の若き主君よりの配慮に、まもなく四十に届こうかという関口刑部少輔は場を選ばず、号泣してしまいそうであった。

 そうして評定において、今後の方策が定まりし後、関口刑部少輔は自邸へ帰る前に元康の屋敷を訪ねていった。

 突然の訪問に駿府に残っていた留守居の者たちや侍女らは慌てたが、対応そのものはしっかりとしており、関口刑部少輔は突然の訪問となったことを詫びながら娘のもとへと向かった。

「おや、これは父上」

「夜分の訪問となり、申し訳ない。そなたに報せたきことがあり、急いで参ったのじゃ」

「と、殿の身に何かございましたか」

「いや、婿殿は無事じゃ。すでに三河へ撤退し、菩提寺である大樹寺へ入っておるとか」

 すっかり腹部も膨らんだ駿河御前。だが、声音は以前よりも低くなり、笑顔もどこか引きつっているように父親の眼には映った。

「竹千代は達者か」

「ええ、近ごろは食べる物も好き嫌いが出て参り、食事の面で侍女らも手を焼いておりますれば」

「左様であったか。そんな折、竹千代の弟か妹が誕生するとなれば、また変わって来るであろうか」

「そうやもしれませぬ。父上はお加減のほどはいかがでございましょうか」

「ははは、変わりない。太守様討ち死と聞き、心にぽっかりと穴が開いたような寂しさはあるがの」

「お体ご自愛下さい。父上の身に何かあっては、瀬名は耐えられませぬ」

 出産を控えた娘をこれ以上不安にさせてはいけない。そう思った関口刑部少輔は明るい話題は何かないかと考え、身の回りで起こった面白可笑しい話を聞かせるなどして、場を和ませた。

「そうじゃ、尾張より戻った兄の瀬名陸奥守が婿殿のことを褒めておった」

「まぁ、あの伯父様が?」

「そうじゃ。なんでも大高城で直接会った時のこと。太守様が布陣した桶狭間山から大高城にかけて布陣しておる隊がおらず、敵が南から襲いかかった場合に誰も対応できないことを、兄よりも先に見抜いておったそうじゃ。それゆえ、瀬名は良き武士のもとへ嫁いだものだと申しておった」

「そう、殿がそのようなことを。それで、織田軍の奇襲とやらは南から?」

 駿河御前の率直な疑問に、関口刑部少輔は首を横に振った。

「北の方からであったと聞いたぞ。突然の大雨で視界が悪い中、突如として襲撃を受けた。婿殿はその時、大高城におったゆえ、損害を被ることはなかったとのことじゃ」

「では、ご家来衆は皆、無事でしたか。それを聞き、安堵いたしました」

 駿河御前の中では元康のことが心配であったことは言うまでもない。しかし、元康のことだけが心配であったのではなく、特に駿府で幾度も顔を合わせている家臣たちが無事であったかも気がかりであったのだ。

「して、婿殿じゃが、しばしの間、駿府へ戻ることは叶わぬそうじゃ」

「えっ、それはいかなる仕儀にございましょうか」

「うむ。此度のご当家の敗戦により、三河の地は織田の侵攻が相次ぐであろう。太守様を討った勢いに乗じて、侵攻してくる織田軍を迎え撃つ役を承ることになりそうじゃ。三河が織田の手に落ちれば駿府も危うい。婿殿としてはそなたら母子を守りたい一心で、危険な役目を引き受けたのやもしれぬ」

「殿、どうかご無事で」

 関口刑部少輔の言葉を聞き、駿河御前は星が煌めく西の夜空を見上げながら、遠く三河の地にいる夫へと想いを馳せるのであった――
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