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第4章 苦海の章
第106話 古鼠坂の戦い
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主君・今川治部太輔氏真より正式に岡崎城へ入城することを許され、古巣へと帰還を果たした松平蔵人佐元康。
新たに『厭離穢土欣求浄土』の文字が記された馬印を大樹寺の住職・登誉天室より授けられ、心意気を新たに、己が成すべきことを見定めて行動を開始しようとしていた。
「殿」
元康が朝比奈丹波守親徳宛の書状をしたためている折、書院へとやって来たのは家老の酒井左衛門尉忠次であった。
「おお、左衛門尉か。昨晩の宴でのえびすくい、まこと見事であったぞ。満場笑いの渦と化しておったわ」
「はっ、あのようなめでたい席にて某のえびすくいを披露できるとは、まこと光栄の至りにございまする。して、殿。加茂郡への出陣、みな今か今かと待ちわびておりまする」
「そうであるか。先ほども服部半蔵正成も同じことを申してきよったわ。案ずるな、明日辰の刻に発つ。皆にそのことを触れ回っておいてくれ」
「委細承知いたしました。では、これにて失礼いたしまする!」
酒井左衛門尉が書院を立ち去った後、元康は後見役である朝比奈丹波守へ宛てた書状をしたため終え、そっと筆を置いた。
「舅殿に宛ててもう一通書いておくとしよう。朝比奈丹波守殿とともに西三河へ支援をしていただけるよう、御屋形様へ頼んでいただかねばならぬ」
西三河防衛の柱石と位置付けられた今川家親類衆の元康。されど、元康自身の影響下にあるのは西三河の松平庶家や上野城の酒井将監に対してのみ。
東三河国衆を束ねているのは吉田城へ入っている重臣・大原肥前守資良。同じく隣国遠江では懸川城主を務める重臣・朝比奈備中守泰朝の指揮下に入っている。
したがって、この両名へ後詰めを要請することまでしか元康はできない。それでは心もとないために、こうして駿府にいる元康の後見役を務める重臣二名に書状をしたためているのである。
要するに、当主・氏真が大原肥前守や朝比奈備中守へ西三河支援を命じれば、いとも簡単に支援を得られ、織田家や水野家を相手に西三河を防衛することができる。それが元康の考えであった。
「当家が動かしうる兵力は二千数百。緒川水野と苅谷水野だけで三千近くなり、そこへ織田家も加われば、一万には満たずとも号して八、九千にはなろう。それだけの大軍を相手に領土を防衛するには他の三河国衆はもちろんのこと、今川家からの支援なくして成し得ぬこと」
ここ数日、織田軍の動きを探らせたところ、信長率いる本隊は鳴海城を包囲し、降伏開城に向けての交渉を岡部丹波守元信と行っているとの情報を掴んだ。
さらに、水野家も緒川、苅谷両家が戦支度を始めている。織田家が鳴海城を開城させたならば、その勢いで南下しての三河侵攻を企んでいるのかもしれなかった。
「水野家を相手するだけでやっとのところへ、その倍近い織田軍が雪崩れ込む。そうなれば、松平独力では領国防衛もままならぬ。こればかりは、御屋形様の英断に期待するよりほかはないのだ」
心の隅に巣くう不安を追い出すかのように、そう自らへ言い聞かせる。そんな言葉とともに、元康は書状に封をして駿府へ書状を持たせた使者を派遣した。
「残るは領内の寺院への禁制発給や他の松平家の立場を保証する文書も発給せねばならぬか。じゃが、それは加茂郡西部より帰陣してからといたそう」
元康はまだ湿気と暑さがまとわりつく夏の一夜を明かし、友好関係にある則定鈴木氏の鈴木重政・重村兄弟を討ち取った三宅攻めを決行する。
岡崎城へ参集した者たちには土居の本多豊後守広孝や元康初陣の寺部城攻めにも参陣した足立右馬助遠定とその弟・金弥に、大森与八郎、服部半蔵正成の兄・服部市平保俊といった面々であった。
「皆の者!去る二十日、自領へ撤退する最中に則定城の鈴木重政殿と同じく重村殿が兄弟そろって伊保村・加納村で三宅氏に討たれた!共に今川家へ従属する則定鈴木氏の者を手にかけたことはすなわち今川家への反逆である!よって、今川家親類衆である元康自らが制裁を下しに参る!松平ある限り、三河には織田の与党は刈りつくされるのだということ、これよりの戦で証明してやろうぞ!」
元康が澄み切った空へ拳を掲げると、意気軒昂な松平兵らも咆哮しながら空高く拳を挙げる。
「敵は鎌倉時代より加茂郡西部を支配する中条氏の当主である中条常隆の拳母城!加えて、この元康が初陣にて攻め破った寺部城の鈴木重教、広瀬城と伊保城の三宅高貞じゃ!この者らの戦意を喪失させることが此度の出兵の目的じゃ!よいな!」
「「「おおっ!」」」
士気の高い松平勢の様子に安堵しながら、ついに元康は加茂郡西部――後の高橋郡を攻略するべく、岡崎城を出陣した。
元康率いる二千ほどの松平勢は足助街道を北上し、細川から巴川を渡河していく。渡河の後は野見山越えと称される山越えの道を行き、野見の丸根城へと殺到した。
「手始めに、あれに見える丸根城を攻め落とす!者ども、かかれぇ!」
元康率いる松平勢は獲物を視界に捉えた猛獣と化し、城へ一直線に攻めかかる。まさしく不意を衝かれる形となった丸根城の城主は防戦することも敵わず、城を焼いて渋川へと逃げ去っていくのであった。
「殿、初戦を勝利で飾れたこと、祝着に存じます」
「ははは。豊後守、戦はこれからであろう」
「いかにも。次は御立の森城にございまするか」
「そうじゃな。丸根城陥落が知れ渡る前に攻め落とさねばならぬ」
十九歳の若大将・元康の言葉に同意した三十三になる土居郷領主・本多豊後守はただちに各隊へ出立の旨を伝達し、主君に遅れてはならじと土居勢を率いて先陣きって突き進んでいく。
そうして御立の森城もまた、突如として出現した松平勢に対し、満足に抵抗することも叶わず陥落。
「この森村より丸根城主が逃亡したと思われる渋川村にかけてを焼き払え。しかる後に、上野山村より寺部城を攻めに参るぞ」
この森村から渋川村にかけての松平勢による放火は寺部城に籠もる鈴木重教にとって寝耳に水、正しく表現すれば寝耳に焔であろうか。
「馬鹿な、いつの間に敵が攻めてきておったのだ!」
「わ、分かりませぬ!されど、丸に三つ葉葵の旗を確認しております!敵は二年前に当城を攻め落とした松平蔵人佐元康に相違ございませぬ!」
「おう、重辰殿を死へ追いやった憎き松平蔵人佐か!これは二年前の雪辱を晴らす好機ぞ!ただちに広瀬城の三宅高貞に使いを出せ!」
「しょ、承知いたしました!」
家臣へ広瀬城に援軍要請の使者を出すように命じた鈴木重教は城兵を配置につかせ、臨戦態勢を取り始める。
その様子は城の周辺を偵察していた松平勢の斥候によって、元康の元へと注進された。
「殿、城の守りは堅い様子にございまする」
そう改まった様子で告げてきたのは二年前の寺部城攻めにも従軍していた足立右馬助。
「うむ、そうでなくては困る」
「困るとは、如何なる仕儀にございましょうや」
「二年前、降伏してきた三宅高貞の顔を覚えておるか」
寺部城に籠っているのは鈴木重教。であるのに、元康が名を出したのは寺部城からさらに北へ二里先の丘陵の上に位置する広瀬城主・三宅高貞であった。
一体どうして三宅高貞の名が出てくるのか。足立右馬助は内心では首をかしげるばかりであった。
「はっ、心底より従っている様子ではございませんでしたが、それがいかがなされたのです」
「心底より今川へ従っておらぬ三宅高貞が則定鈴木氏の兄弟を討った。これは寝耳に水であったが、討ったのは三宅であると聞いて合点がいった。そんな今川家に鬱憤の溜まっておる三宅高貞のもとへ、二年前に嫌々頭を下げた今川家親類衆の若造がまたやって来たと聞けば、どう出ると思うか」
「それは雪辱を果たすべく、戦を仕掛けて――」
言いかけて足立右馬助は口をつぐんだ。元康が何を狙っているのか、理解できたがためである。
「右馬助にも分かったか。寺部城は三宅高貞を釣る餌にすぎぬ。籠城する鈴木重教も三宅高貞の援軍を頼りにしておるであろうから、先に援軍を叩き潰せば、戦意喪失して自落するであろう」
元康率いる松平勢が鈴木重教が籠もる寺部城を包囲したとの報せ受けた三宅高貞はといえば。
「左様であったか。あの今川義元の腰巾着、松平蔵人佐が参っておったか。これは二年前の雪辱を果たす千載一遇の好機ぞ!今宵丑の刻に出陣し、松平勢に朝駆けを仕掛け、元康めの首を挙げてくれるわ!ただちに出陣の支度をせい!」
この二年間でさらなる鬱憤を蓄積させていた三宅高貞はかつての盟友・鈴木重辰の分の無念を晴らすべく、夜中に広瀬城を出撃。南下して寺部城を救援する動きに出たのである。
元康に三宅勢接近の方が入ったのは寅の刻。まもなく夜が明けようかという頃であった。
「本多豊後守!」
「ははっ、豊後守はこれにおりまする」
「うむ、そなたには寺部城牽制役を任せる。寺部城から一兵たりとも出させてはならぬ」
「心得ました!然らば、殿は北より迫りつつある三宅勢を迎え撃たれるわけですな」
本多豊後守広孝の言葉に元康はうなずくのみであった。本多豊後守をはじめ、留守を任せる者への指示を終えると、残る兵力を引き連れて一木川を越えて北上。平井郷で南下してきた三宅高貞を迎撃したのである。
よもや奇襲しようという相手が猛進してくるなど想定していなかった三宅高貞率いる三宅勢はひどく狼狽した。
「なっ、何故松平勢が平井郷にまで進出しておるのじゃ!?」
「わ、分かりませぬが、我らの進軍を読んでいたとしか考えられませぬ!」
「や、やむを得ぬ!ここで乾坤一擲、松平へ決戦を挑むぞ!者ども、覚悟は良いな!一兵たりとも広瀬城まで進ませてはならぬ!ここで松平勢を根絶やしにする気概で臨め!全軍突撃じゃ!」
三宅高貞の号令で三宅勢は奮い立った。このまま松平勢を進ませては、自分たちの家族の身も危うくなる。そうなれば、戦場にいる男たちは己の家族を守るために死ぬ気で向かっていく――ある意味で三宅勢は背水の陣であったと言っても良かった。
そんな三宅勢は足立右馬助・金弥兄弟が先駆ける松平勢の先陣と激突。飯田街道の古鼠坂にて激しい白兵戦を展開したのである。
「兄者!三宅の奴ら、目が血走っておる!」
「おう、あれは死を覚悟した者の眼じゃ!油断するでないぞ、金弥!」
序盤は坂下の松平勢が優勢に進むかに見えたが、坂上の三宅勢も負けてはいなかった。なりふり構わず松平兵に斬りかかる様は異様であり、一進一退の攻防戦を繰り広げていた。
そんな中、一発の轟音が戦場に轟く。音の発生源は松平勢――ではなく、三宅勢からであった。
「き、金弥!」
足立右馬助の弟・金弥が三宅勢の林長次郎から放たれた鉄炮を受けて、討ち死してしまったのである。
「者共、林長次郎に後れを取るな!このまま松平勢を古鼠坂を坂下まで追い立ててしまえ!」
家臣・林長次郎が足立金弥を鉄炮で撃った機を逃すまいと三宅高貞は前線にて采配を執る。
これにより勢いを増した三宅勢の先陣によって松平勢は飯田街道の古鼠坂の坂の上から攻めかけられ、元康先陣は坂の下まで追い立てられてしまう事態となった。
「ちぃっ、先陣は何をしておるか!」
「どうやら足立金弥が討たれたのを機に、先陣が崩れ出したと……」
「ええい!馬を曳け!槍を持て!わしも前に出る!」
想定外の苦戦ぶりに苛立った元康は槍を引っ提げて旗本を率いて前進。主君が討たれるようなことがあっては一大事と、松平勢は総力を挙げて三宅勢に応戦した。
「殿!大森与八郎が直ちに進んで敵の備えを突破!他の旗本もこれに続き、お味方推しておりまする!」
そう告げてきたのは血まみれの服部市平。元康よりも五ツ年長の二十四歳の若武者は元康へ戦況を告げると、新たな武功を求めて前線へ駆け戻っていく。
「このまま押し戻せ!存外敵は脆いぞ!突き崩せっ!」
元康が槍を掲げると、松平勢は岡崎城であげた以上の咆哮を発しながら三宅勢を坂の上まで押し戻していく。
「皆の者!この服部市平に続け!」
最前線で三宅勢と斬り合う服部市平であったが、乱戦の中、坂の上から飛来した流れ矢が運悪く急所に命中し、絶命。
されど、松平勢の勢いは衰えることなく、三宅勢は恐れをなして散り散りになって逃げだし始める。こうなればいずれが勝ったのかなど、誰の眼から見ても明らかであった。
「よいか、者共!このまま広瀬城まで攻め込むぞ!全軍、進めや進め!」
古鼠坂での激戦を制した元康は休むことなく、三宅高貞の居城・広瀬城へと突き進むのであった――
新たに『厭離穢土欣求浄土』の文字が記された馬印を大樹寺の住職・登誉天室より授けられ、心意気を新たに、己が成すべきことを見定めて行動を開始しようとしていた。
「殿」
元康が朝比奈丹波守親徳宛の書状をしたためている折、書院へとやって来たのは家老の酒井左衛門尉忠次であった。
「おお、左衛門尉か。昨晩の宴でのえびすくい、まこと見事であったぞ。満場笑いの渦と化しておったわ」
「はっ、あのようなめでたい席にて某のえびすくいを披露できるとは、まこと光栄の至りにございまする。して、殿。加茂郡への出陣、みな今か今かと待ちわびておりまする」
「そうであるか。先ほども服部半蔵正成も同じことを申してきよったわ。案ずるな、明日辰の刻に発つ。皆にそのことを触れ回っておいてくれ」
「委細承知いたしました。では、これにて失礼いたしまする!」
酒井左衛門尉が書院を立ち去った後、元康は後見役である朝比奈丹波守へ宛てた書状をしたため終え、そっと筆を置いた。
「舅殿に宛ててもう一通書いておくとしよう。朝比奈丹波守殿とともに西三河へ支援をしていただけるよう、御屋形様へ頼んでいただかねばならぬ」
西三河防衛の柱石と位置付けられた今川家親類衆の元康。されど、元康自身の影響下にあるのは西三河の松平庶家や上野城の酒井将監に対してのみ。
東三河国衆を束ねているのは吉田城へ入っている重臣・大原肥前守資良。同じく隣国遠江では懸川城主を務める重臣・朝比奈備中守泰朝の指揮下に入っている。
したがって、この両名へ後詰めを要請することまでしか元康はできない。それでは心もとないために、こうして駿府にいる元康の後見役を務める重臣二名に書状をしたためているのである。
要するに、当主・氏真が大原肥前守や朝比奈備中守へ西三河支援を命じれば、いとも簡単に支援を得られ、織田家や水野家を相手に西三河を防衛することができる。それが元康の考えであった。
「当家が動かしうる兵力は二千数百。緒川水野と苅谷水野だけで三千近くなり、そこへ織田家も加われば、一万には満たずとも号して八、九千にはなろう。それだけの大軍を相手に領土を防衛するには他の三河国衆はもちろんのこと、今川家からの支援なくして成し得ぬこと」
ここ数日、織田軍の動きを探らせたところ、信長率いる本隊は鳴海城を包囲し、降伏開城に向けての交渉を岡部丹波守元信と行っているとの情報を掴んだ。
さらに、水野家も緒川、苅谷両家が戦支度を始めている。織田家が鳴海城を開城させたならば、その勢いで南下しての三河侵攻を企んでいるのかもしれなかった。
「水野家を相手するだけでやっとのところへ、その倍近い織田軍が雪崩れ込む。そうなれば、松平独力では領国防衛もままならぬ。こればかりは、御屋形様の英断に期待するよりほかはないのだ」
心の隅に巣くう不安を追い出すかのように、そう自らへ言い聞かせる。そんな言葉とともに、元康は書状に封をして駿府へ書状を持たせた使者を派遣した。
「残るは領内の寺院への禁制発給や他の松平家の立場を保証する文書も発給せねばならぬか。じゃが、それは加茂郡西部より帰陣してからといたそう」
元康はまだ湿気と暑さがまとわりつく夏の一夜を明かし、友好関係にある則定鈴木氏の鈴木重政・重村兄弟を討ち取った三宅攻めを決行する。
岡崎城へ参集した者たちには土居の本多豊後守広孝や元康初陣の寺部城攻めにも参陣した足立右馬助遠定とその弟・金弥に、大森与八郎、服部半蔵正成の兄・服部市平保俊といった面々であった。
「皆の者!去る二十日、自領へ撤退する最中に則定城の鈴木重政殿と同じく重村殿が兄弟そろって伊保村・加納村で三宅氏に討たれた!共に今川家へ従属する則定鈴木氏の者を手にかけたことはすなわち今川家への反逆である!よって、今川家親類衆である元康自らが制裁を下しに参る!松平ある限り、三河には織田の与党は刈りつくされるのだということ、これよりの戦で証明してやろうぞ!」
元康が澄み切った空へ拳を掲げると、意気軒昂な松平兵らも咆哮しながら空高く拳を挙げる。
「敵は鎌倉時代より加茂郡西部を支配する中条氏の当主である中条常隆の拳母城!加えて、この元康が初陣にて攻め破った寺部城の鈴木重教、広瀬城と伊保城の三宅高貞じゃ!この者らの戦意を喪失させることが此度の出兵の目的じゃ!よいな!」
「「「おおっ!」」」
士気の高い松平勢の様子に安堵しながら、ついに元康は加茂郡西部――後の高橋郡を攻略するべく、岡崎城を出陣した。
元康率いる二千ほどの松平勢は足助街道を北上し、細川から巴川を渡河していく。渡河の後は野見山越えと称される山越えの道を行き、野見の丸根城へと殺到した。
「手始めに、あれに見える丸根城を攻め落とす!者ども、かかれぇ!」
元康率いる松平勢は獲物を視界に捉えた猛獣と化し、城へ一直線に攻めかかる。まさしく不意を衝かれる形となった丸根城の城主は防戦することも敵わず、城を焼いて渋川へと逃げ去っていくのであった。
「殿、初戦を勝利で飾れたこと、祝着に存じます」
「ははは。豊後守、戦はこれからであろう」
「いかにも。次は御立の森城にございまするか」
「そうじゃな。丸根城陥落が知れ渡る前に攻め落とさねばならぬ」
十九歳の若大将・元康の言葉に同意した三十三になる土居郷領主・本多豊後守はただちに各隊へ出立の旨を伝達し、主君に遅れてはならじと土居勢を率いて先陣きって突き進んでいく。
そうして御立の森城もまた、突如として出現した松平勢に対し、満足に抵抗することも叶わず陥落。
「この森村より丸根城主が逃亡したと思われる渋川村にかけてを焼き払え。しかる後に、上野山村より寺部城を攻めに参るぞ」
この森村から渋川村にかけての松平勢による放火は寺部城に籠もる鈴木重教にとって寝耳に水、正しく表現すれば寝耳に焔であろうか。
「馬鹿な、いつの間に敵が攻めてきておったのだ!」
「わ、分かりませぬ!されど、丸に三つ葉葵の旗を確認しております!敵は二年前に当城を攻め落とした松平蔵人佐元康に相違ございませぬ!」
「おう、重辰殿を死へ追いやった憎き松平蔵人佐か!これは二年前の雪辱を晴らす好機ぞ!ただちに広瀬城の三宅高貞に使いを出せ!」
「しょ、承知いたしました!」
家臣へ広瀬城に援軍要請の使者を出すように命じた鈴木重教は城兵を配置につかせ、臨戦態勢を取り始める。
その様子は城の周辺を偵察していた松平勢の斥候によって、元康の元へと注進された。
「殿、城の守りは堅い様子にございまする」
そう改まった様子で告げてきたのは二年前の寺部城攻めにも従軍していた足立右馬助。
「うむ、そうでなくては困る」
「困るとは、如何なる仕儀にございましょうや」
「二年前、降伏してきた三宅高貞の顔を覚えておるか」
寺部城に籠っているのは鈴木重教。であるのに、元康が名を出したのは寺部城からさらに北へ二里先の丘陵の上に位置する広瀬城主・三宅高貞であった。
一体どうして三宅高貞の名が出てくるのか。足立右馬助は内心では首をかしげるばかりであった。
「はっ、心底より従っている様子ではございませんでしたが、それがいかがなされたのです」
「心底より今川へ従っておらぬ三宅高貞が則定鈴木氏の兄弟を討った。これは寝耳に水であったが、討ったのは三宅であると聞いて合点がいった。そんな今川家に鬱憤の溜まっておる三宅高貞のもとへ、二年前に嫌々頭を下げた今川家親類衆の若造がまたやって来たと聞けば、どう出ると思うか」
「それは雪辱を果たすべく、戦を仕掛けて――」
言いかけて足立右馬助は口をつぐんだ。元康が何を狙っているのか、理解できたがためである。
「右馬助にも分かったか。寺部城は三宅高貞を釣る餌にすぎぬ。籠城する鈴木重教も三宅高貞の援軍を頼りにしておるであろうから、先に援軍を叩き潰せば、戦意喪失して自落するであろう」
元康率いる松平勢が鈴木重教が籠もる寺部城を包囲したとの報せ受けた三宅高貞はといえば。
「左様であったか。あの今川義元の腰巾着、松平蔵人佐が参っておったか。これは二年前の雪辱を果たす千載一遇の好機ぞ!今宵丑の刻に出陣し、松平勢に朝駆けを仕掛け、元康めの首を挙げてくれるわ!ただちに出陣の支度をせい!」
この二年間でさらなる鬱憤を蓄積させていた三宅高貞はかつての盟友・鈴木重辰の分の無念を晴らすべく、夜中に広瀬城を出撃。南下して寺部城を救援する動きに出たのである。
元康に三宅勢接近の方が入ったのは寅の刻。まもなく夜が明けようかという頃であった。
「本多豊後守!」
「ははっ、豊後守はこれにおりまする」
「うむ、そなたには寺部城牽制役を任せる。寺部城から一兵たりとも出させてはならぬ」
「心得ました!然らば、殿は北より迫りつつある三宅勢を迎え撃たれるわけですな」
本多豊後守広孝の言葉に元康はうなずくのみであった。本多豊後守をはじめ、留守を任せる者への指示を終えると、残る兵力を引き連れて一木川を越えて北上。平井郷で南下してきた三宅高貞を迎撃したのである。
よもや奇襲しようという相手が猛進してくるなど想定していなかった三宅高貞率いる三宅勢はひどく狼狽した。
「なっ、何故松平勢が平井郷にまで進出しておるのじゃ!?」
「わ、分かりませぬが、我らの進軍を読んでいたとしか考えられませぬ!」
「や、やむを得ぬ!ここで乾坤一擲、松平へ決戦を挑むぞ!者ども、覚悟は良いな!一兵たりとも広瀬城まで進ませてはならぬ!ここで松平勢を根絶やしにする気概で臨め!全軍突撃じゃ!」
三宅高貞の号令で三宅勢は奮い立った。このまま松平勢を進ませては、自分たちの家族の身も危うくなる。そうなれば、戦場にいる男たちは己の家族を守るために死ぬ気で向かっていく――ある意味で三宅勢は背水の陣であったと言っても良かった。
そんな三宅勢は足立右馬助・金弥兄弟が先駆ける松平勢の先陣と激突。飯田街道の古鼠坂にて激しい白兵戦を展開したのである。
「兄者!三宅の奴ら、目が血走っておる!」
「おう、あれは死を覚悟した者の眼じゃ!油断するでないぞ、金弥!」
序盤は坂下の松平勢が優勢に進むかに見えたが、坂上の三宅勢も負けてはいなかった。なりふり構わず松平兵に斬りかかる様は異様であり、一進一退の攻防戦を繰り広げていた。
そんな中、一発の轟音が戦場に轟く。音の発生源は松平勢――ではなく、三宅勢からであった。
「き、金弥!」
足立右馬助の弟・金弥が三宅勢の林長次郎から放たれた鉄炮を受けて、討ち死してしまったのである。
「者共、林長次郎に後れを取るな!このまま松平勢を古鼠坂を坂下まで追い立ててしまえ!」
家臣・林長次郎が足立金弥を鉄炮で撃った機を逃すまいと三宅高貞は前線にて采配を執る。
これにより勢いを増した三宅勢の先陣によって松平勢は飯田街道の古鼠坂の坂の上から攻めかけられ、元康先陣は坂の下まで追い立てられてしまう事態となった。
「ちぃっ、先陣は何をしておるか!」
「どうやら足立金弥が討たれたのを機に、先陣が崩れ出したと……」
「ええい!馬を曳け!槍を持て!わしも前に出る!」
想定外の苦戦ぶりに苛立った元康は槍を引っ提げて旗本を率いて前進。主君が討たれるようなことがあっては一大事と、松平勢は総力を挙げて三宅勢に応戦した。
「殿!大森与八郎が直ちに進んで敵の備えを突破!他の旗本もこれに続き、お味方推しておりまする!」
そう告げてきたのは血まみれの服部市平。元康よりも五ツ年長の二十四歳の若武者は元康へ戦況を告げると、新たな武功を求めて前線へ駆け戻っていく。
「このまま押し戻せ!存外敵は脆いぞ!突き崩せっ!」
元康が槍を掲げると、松平勢は岡崎城であげた以上の咆哮を発しながら三宅勢を坂の上まで押し戻していく。
「皆の者!この服部市平に続け!」
最前線で三宅勢と斬り合う服部市平であったが、乱戦の中、坂の上から飛来した流れ矢が運悪く急所に命中し、絶命。
されど、松平勢の勢いは衰えることなく、三宅勢は恐れをなして散り散りになって逃げだし始める。こうなればいずれが勝ったのかなど、誰の眼から見ても明らかであった。
「よいか、者共!このまま広瀬城まで攻め込むぞ!全軍、進めや進め!」
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
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