不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第107話 怨み骨髄に入る

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 古鼠坂の戦いを制した元康率いる松平勢に追われ、三宅高貞は息も絶え絶えに居城・広瀬城へと逃げ帰った。

「父上!その傷は!?」

「おお、わしの可愛い高清よ。不覚にも憎い松平勢と戦うて負った傷じゃ」

 見るからに痛々しい刀創が胸元と左大腿部の計二ヵ所、槍創右わき腹に一ヵ所。背中には敗走時に負った矢傷が四ヵ所と生きているのが不思議なほどであった。

「これだけの傷を負っては二度と戦場には出れぬ。無念じゃ」

「父上、お気の弱いことを申されますな!必ずや、傷は回復いたしまする!」

 健気な嫡男・三宅高清が父・高貞を励ましているところへ、広瀬城下へ松平勢が攻め寄せ、これ見よがしに勝利の勝鬨を挙げて、寺部城へ引き返していったというのである。

「おのれ、松平蔵人佐!父上の無念、この三宅高清が必ずや晴らしてみせる!」

 悔し涙を擦りながら三宅高清が己の膝に幾度も拳を振り下ろしている頃、元康は悠々と寺部城まで引き返して来ていた。

「殿、古鼠坂での勝利、まこと祝着至極に存じ奉ります」

「うむ。して、豊後守。寺部城の様子はいかがであったか」

「はっ、まったく打って出てくる気配などございませぬ。ただひたすらに、援軍が来るのを信じて堅守しておる気にございますれば」

「ならば、時をかけても致し方あるまい。首実験をするとしようぞ」

 元康は広瀬城からの援軍・三宅高貞率いる軍勢を撃滅したことを寺部城へ示すべく、寺部城の前で首実験を始める。それを見た寺部城の守兵たちの士気は見る見るうちに低下していく。それは城主・鈴木重教とて例外ではなかった。

「あ、あれは三宅勢の首ではないか」

「はっ、三宅家臣の首が幾十も並べられており、足軽どもは城を抜け出し始めております」

「おのれっ、何故松平勢に勝てぬのじゃ……!」

 広瀬城の三宅高清と同じく、口惜し気に涙を流す鈴木重教へさらなる悲報が届けられる。

「申し上げます!松平勢が城下に火をかけ、陣払いを開始しております!」

 今回もまた、寺部城の鈴木氏、広瀬城の三宅氏は元康に惨敗する形となった。残酷なまでに敗北を突きつける城下を焼く炎に、鈴木重教は泣き崩れるほかなかった――

 野見山を越えて岡崎城へ凱旋した元康。その頃には加茂郡西部における連戦連勝は領民らにも伝わっており、松平領国内は歓喜に湧いていた。

「殿、此度の凱旋!まこと、お見事にございまする!」

「おお、大久保新八郎。お主ほどの歴戦の強者から見ても、称賛に値する勝利か」

「当然にございまする!これほどまでに鮮やかに勝利を収め、さらには長期化させることなく、速やかに帰陣なされた。泉下の清康公、広忠公も嬉し泣きしておられましょうぞ」

「ははは、そうか。早く戦を切り上げたのは水野に加茂郡出兵の虚を突かれはせぬかと案じてのことであったが、して、その水野に動きはあったか」

 元康からの問いかけに、大久保新八郎忠俊は静かに首を横に振って見せる。未だに緒川、苅谷ともに出兵する気配はなく、案ずることはないというのが、大久保新八郎の見解であった。

「よし、決めたぞ。水野が動く気配がなく、織田軍は鳴海城にかかりきりの今こそ、奪われた沓掛城を奪還する好機である!皆にはもうひと働きしてもらうことといたす!」

「然らば、兵員の入れ替えをなされませ。此度の三宅勢との激戦で疲弊した者らを引き連れての沓掛城攻めは控えるべきでござる」

「いかにもそうじゃ。では、新八郎率いる大久保党が供をせよ。また、伴って参る者らの選抜は新八郎に一任することといたす。出陣は明日辰の刻じゃ」

「ははっ、お任せくだされ!」

 かくして大久保新八郎が責任もって沓掛城攻めの将兵を選抜し、戦支度を整えていく。

 苅谷を横目に、遠く尾張国沓掛城へ攻め入るという策に松平家臣で驚かぬ者はいなかったが、それだけに織田軍も手薄であろうと大久保老人の言葉に勇気を得て、再び松平勢は岡崎城を出陣。

 沓掛城までは北西におよそ五里の距離であったが、途中境川の渡河もあり、想定していた以上に時を要してしまう。それでも、松平勢が沓掛城へ攻め込んでくるなど想定もしていなかった織田軍は、見事に不意を衝かれることとなった。

「げ、玄蕃允様!一大事にございます!」

「いかがした!」

「南東より松平勢が鎌倉街道を進軍して参ります!その数、およそ千五百!」

「なっ、松平のみで尾張へ侵攻してきたと申すか!今川義元が討たれたばかりで、そんな無謀なことをするはずがない!」

「い、偽りではございませぬ!」

 伝令の慌てふためく様に、虚偽の報告ではないことを悟った沓掛城の守将・織田玄蕃允秀敏。

 つい先日、鷲津砦にて朝比奈備中守泰朝率いる今川軍相手に死闘を繰り広げた彼は、その時丸根砦を攻め落とした松平蔵人佐元康と対峙する羽目になったのである。

「ここには五百もおらぬ。ひとまず、鳴海城を包囲しておられる殿へ救援要請の使者を!まずは全軍を城外へ押し出して一戦し、その後に沓掛城に籠城することといたす!支度を急げ!」

 織田玄蕃允の判断たるや迅速を極めていた。そして、寺部城の鈴木重教と異なっていたのは、援軍を要請しながらも城外へ打って出る決断をしたことにある。

 織田玄蕃允率いる数百の織田軍は我に数倍する松平勢に対して野戦を挑んだ。これは松平勢としても想定外であり、思いがけず押される形となる。

「殿!先陣が織田軍の突撃を受けて混乱いたしておる由!」

「ちっ、織田玄蕃允を侮っておったわ!ここは――」

 元康が撤退の命を下そうとした刹那、打って出てきた織田軍が一斉に城へ向けて退却し始めたのである。この突然の総退却に唖然とする松平勢をしり目に織田軍は沓掛城へ逃げ込むことに成功。籠城の構えを見せたのであった。

「さては、初めから一戦仕掛け、しかる後に籠城する算段であったか。よし、ならば手筈通りに沓掛城を包囲せよ!」

 気を取り直して松平勢が沓掛城を包囲。織田軍に奪われてしまった沓掛城が再び今川方の手に取り戻されるか。

 そう思われた矢先、元康のもとへ鳴海城方面を偵察していた足軽らが血相変えた様子で帰陣してきたのである。

「と、殿!一大事にございまする!」

「鳴海城が陥落したか!」

「えっと、今川義元公の首級と引き換えに鳴海城は開城と相成りました」

 鳴海城の開城。この結果は元康に限らず、近いうちに起こることであろうとは予想していた。しかし、城と引き換えに主君の首級を要求するという知恵は元康にもなかった。

「さすがは義理堅い岡部丹波守殿じゃ」

「殿!感心している場合ではございませぬ!」

 鳴海城の開城を伝えたのとは別の者が注進する。その内容に、さすがの元康も蒼ざめるほかなかった。なぜなら、それこそが元康の最も恐れていた事態であったからである。

「鳴海城を落とした織田軍がここ、沓掛城へ向かってきております!先発隊は佐久間右衛門尉信盛率いる千五百!その後に、織田信長が本隊三千も続いてくる模様!」

 ここへ向かってくる織田の援軍と沓掛城の城兵を合わせれば約五千。ここにいる松平勢だけでは二千に満たないのだから、ここで野戦ともなれば万に一つの勝ち目はなかった。

「殿、ここは速やかにお退きくださいませ」

「おう、今度は新八郎か。まことその通りじゃ。常勝軍の織田信長率いる精鋭が来るのだ。ここに留まれば、全滅も有り得る。したがって、此度の戦はこれまでとする」

「では、撤退の支度を。殿はこの大久保新八郎忠俊が責任もって相務めまする!」

「うむ。頼む。じゃが、その前に沓掛の町は焼き払うのだ。退くとはいえ、ただで退くことはならぬ」

 元康の命によって寺部城下に続き、織田方は沓掛城の町を焼き払われる事態となった。

 結局、先発隊の佐久間右衛門尉が到着した時には、城の周囲に松平勢の姿など一兵たりとも見当たらず、すでに境川の渡河を終えて三河へ退却した後であった。

「これは佐久間右衛門尉殿!」

「おお、織田玄蕃允殿ではござらぬか。これは一体――」

「ははっ、松平勢が撤退する前に城下に火をかけていったゆえ、我らがその消火活動にあたっている間に逃げおおせてしまったのでござる」

「むむむ、小憎らしい松平の小僧はそのような真似を働いていったか」

 懸命に町の火を消して回る沓掛城兵らの声が響く中、織田玄蕃允と佐久間右衛門尉が言葉を交わしていると、本隊も遅れて到着したのである。

「これは何としたことぞ」

「と、殿!松平勢が撤退する前に、城下に放火していったのでございます。そのせいで追撃することは叶いませなんだ」

「で、あるか。されど、そなたが消火活動に当たったゆえ、城まで火は回らなかったのだ。でかしたぞ、玄蕃允」

「あ、ありがたき仕合わせ……!」

 信長はすぐにも消火活動に精を出した織田玄蕃允を労うと、境川近くまで馬を進めていく。

「殿、このまま岡崎まで攻め込みまするか」

「いや、おれはこれ以上三河と関わり合いになるつもりはない」

「と、申されますと?」

「ははは、おれが狙うのは美濃じゃ。舅の仇を討ち、尾張と美濃を支配下に置く。三河は水野にくれてやればよい」

 信長の言葉に、ぽんっと相槌を打つ佐久間右衛門尉。少し抜けてはいるが、常に自分に対して忠義を貫いてきた男の肩を何度も叩きながら信長は馬を返していく。

 かくして、元康は信長と直に兵刃を交える事態を回避することに成功した。だが、鳴海城開城と元康が沓掛城へ出兵したことの余波は思いがけないところにも表れていた。

 ――ここは三河国苅谷城。

 元康が岡崎城を出陣して境川を越えて尾張へと攻め入ったとの一報は苅谷城主・水野藤九郎信近にも伝えられていた。

「ははは、あの阿呆な甥っ子は尾張へ攻め込んだか。これで都合よく討ち死でもしてくれれば、松平宗家は駿府におる二ツの竹千代が継ぐことになろうが、まともに機能しまい」

「して、藤九郎兄上はいかがなされるおつもりか。さては、岡崎へ攻め込まれるご所存か」

「たわけめ、岡崎へ行くには矢矧川を渡河せねばならぬ。ゆえに、岡崎からの援軍が見込めぬ今のうちに、矢矧川以西の福釜松平、桜井松平、藤井松平を攻める。攻め込む順番は第一に福釜、次に桜井、最後に藤井じゃ」

 指を繰りながら笑いが止まらぬ様子の水野藤九郎。そんな異母兄の様子に、水野伝兵衛近信は出陣した後のことを尋ねる。

「承知いたしました。然らば、城外に兵を集めまする。して、留守居はいかがなされまするか」

「嫡子である信政に任せるつもりじゃ。腕の立つそなたは戦場に連れて行きたいゆえな」

「わかり申した。この伝兵衛の槍働き、ご期待くだされ!」

 兄に褒められて嬉しいのか、槍を突いて見せる動きをする水野伝兵衛。そんな兄弟仲睦まじい様子のまま、城外へ甲冑姿で繰り出していく。その中には緒川の下野守より援軍として派遣された高木主水助清秀の姿もあった。

「よし、これより矢矧川以西の松平家の拠点を制圧しに向かう!まずは福釜、次に桜井、藤井の順に攻め落とすことといたす!皆の者、覚悟は良いな!」

「「おおっ!」」

「では出陣――」

 号令を発して南東へと進軍を開始しようとした刹那、突如、北方より鬨の声があがる。

「なんじゃ!」

「兄上、あれは今川赤鳥の旗!今川軍じゃ!」

「馬鹿な、このようなところに今川軍が居ようはずが――」

 わずか数百ばかりの今川軍であるが、どこに潜んでいたのか。それは他でもない、織田信長に対し、今川義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を提示した岡部丹波守元信率いる鳴海城の籠城衆である。

「いたぞ、太守様に面従腹背しておった水野じゃ!太守様を死へ追いやったのはあ奴らじゃ!駿府へ戻る前に、憎たらしい水野を根絶やしにしてくれようぞ!者共、この岡部丹波守に後れを取るでないぞ!かかれぇ!」

 敵は松平だけだと認識していた水野勢にとって、この北からの来襲は寝耳に水。それも、織田軍との合戦で高名している岡部丹波守が攻めてきたというのだから、水野兵はそれだけで怯え始める。

「伝兵衛!陣形を変え、北よりの敵に応戦せよ!」

「おう!」

 野獣のような咆哮とともに槍を振りかざしながら水野伝兵衛は隊列を変え、北から攻め寄せる岡部勢を迎撃していく。

「怯むなっ、応戦せよ!」

 太刀を抜き、督戦する水野藤九郎。されど、あっという間に味方を蹴散らして肉薄してきた岡部丹波守の一閃が空気を斬り裂いてくるのを視界に捉えた次の瞬間には、視界は宙を舞っていた。
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