113 / 228
第4章 苦海の章
第113話 枝を伐りて根を枯らす
しおりを挟む
水野藤十郎の奮戦もあり、盛り返すかに見えた水野勢。しかし、側面に回り込まれると弱い鋒矢の陣形では、側面攻撃を受けて崩れないはずがなかった。松平勢の反撃に恐れをなして、足軽兵らは戦意を失って逃亡し始める。
「ちっ、逃げるな!戦え!戦わぬか!」
後方に控える水野下野守信元の怒号が辺りに響く。だがしかし、それで兵らの恐怖心が消え去ることはなく、時間の経過に我も我もと逃げる兵が増えていく。こうなっては水野下野守としても二連敗を認めざるを得なかった。
撤退の号令を下すしかないかと考えている彼の左頬を一つの矢がかすめていく。
「何奴!」
「阿部四郎兵衛忠政、これに見参!水野下野守殿とお見受けいたした!二年前の石ヶ瀬での借りを返させていただく!」
そう言い終えるなり、番えていた矢が阿部四郎兵衛のもとを離れて水野下野守の元へ飛来する。だが、第二射は真っ直ぐに水野下野守の眉間を狙ったものであったが、すんでのところで水野下野守の太刀によって叩き落されていた。
「誰ぞ、阿部四郎兵衛とか申す奴を討ち取れ!」
主君である水野下野守の下命に応えて阿部四郎兵衛へ向かっていく者が二、三名。刀を引っ提げた武士に接近されては優れた弓の腕前など無用の長物であった。
「者共!戦はこれまでじゃ!苅谷城へ総退却を命ずる!退けっ、退けぇ!」
戦場に言い捨てた言葉は逃げたくて仕方なかった水野兵の心に刺さった。各々が思い思いに敵中を突破して苅谷城の方面目がけて駆け出す。
はじめは逃がすまいと果敢に追い討ちを仕掛けた大久保喜六郎忠豊を筆頭とする松平勢であったが、まもなくして追撃中止という元康の命が入ったため、双方ともに兵を退いた。
「殿、追撃はなされぬので?」
「おお、七郎右衛門と治右衛門か。いかにも、これ以上の追撃は無用じゃ。これだけ水野を叩いておけば、当面の間は静かになろう。あと二ヵ月もすれば稲刈りも始まるゆえ、苅田狼藉だけは注意せねばならぬであろうが、ひと息つくことくらいは叶うであろう」
闘志みなぎる大久保七郎右衛門忠世と大久保治右衛門忠佐であったが、元康の言葉を聞いて、退却の理由に合点がいった。
たしかにこうまで完膚なきまで叩かれてしまっては水野下野守から戦を仕掛けてくることはそうそうあるまいと思えたからである。
「此度討ち取った敵の首は苅谷城からも見えるよう、この十八町に掛け並べてから陣払いに移る。よいな!」
元康からの号令に応じた松平勢。その次には勝ち鬨があがり、憎き水野勢を相手に二日とも勝利を収め、少なからず打撃を与えたことに歓喜していた。
そうして元康は十八町に敵兵の首を掛け並べてから岡崎へと凱旋したのである。
水野下野守を相手に連勝したと聞き、留守を守っていた鳥居伊賀守忠吉や石川安芸守忠成、大久保新八郎忠俊といった老臣らは歓喜という言葉では言い表せないほどの喜びようを見せていた。
だが、凱旋してからの岡崎城で元康が思い浮かべたのは、たった二日の戦で失った大岡助十郎忠次、杉浦勝重、村越平三郎といった者たちの顔であった。
自分に仕える見知った顔が多く失われたことの傷は元康の心にも深く刻まれている。筧平三郎重忠、筧平十郎重成の父子も重傷を負ったことから、当面の槍働きは期待できないし、他にも深手を負った者はいる。
「殿、松平太郎左衛門由重にございまする」
「おお、大久保喜六郎をかばって受けた傷はいかがじゃ」
「はっ、治療は受けたのですが、再び戦場へ立つことは難しいとの見立て。事実、身体は以前のように思い通りに動きませぬゆえ、かくなるうえは松平郷に退隠させていただきたく、そのお願いをしに上がりました」
「そうであったか。惜しいことではあるが、隠居のことは認めようぞ。くれぐれも命を粗末にするでないぞ」
「無論にございまする。では、殿。拙者はこれにて失礼いたしまする」
今年で三十八となった松平太郎左衛門由重。未だ彼に子はなく、後継ぎもいない。いたのならば代わりに息子を取り立ててやれたものを、と元康は胸中にて悔やんでいた。
岡崎城の書院にて水野家を相手にした戦における論功行賞を進める傍ら、元康は書きかけていた山中法蔵寺への寺領安堵の判物と禁制の仕上げに着手していた。
先月三日に禁制を与えた中島の崇福寺と同じく、山中法蔵寺も今川義元より寺領保証や諸役免除、また狼藉行為の取り締まりを得ていた。
ゆえに、内容としてはあまり難しく考えず、それを追認するだけで良いのだと考えれば、自然に筆が進んだ。
「今後の権益を認可する為政者は今川家ではなく、この松平蔵人佐元康であること、この判物にも記しておくか。文言は……そうじゃな、『向後に至り元康判形無くんば』とでもしておけば良かろう。うむ、これでよい」
眼前に置かれた判物に自分の許可がなければ所有権は認められないのだと記してある。あくまでもこの岡崎領を統治しているのは自分なのだと書状に記すことができようとは、今川義元や太原崇孚存命時では考えられもしなかった。
「太守様も崇孚和尚もおらぬ今、わしがここで織田を防がねば誰が御屋形様や駿府を守るというのじゃ」
正座した大腿部の上で力強く握りしめる拳には悲壮感とどこか拭えぬ悲しみのようなものが多分に混じっていた。
「殿!やりましたぞ!」
「おお、左衛門尉ではないか。それほどまでに嬉しそうに、いかがしたのじゃ」
「はっ、まずはこちらを」
嬉しそうに元康のいる書院へやって来た酒井左衛門尉忠次から手渡された一通の書状。その書状に目を通した元康に、酒井左衛門尉の喜びが乗り移っていく。
「よし、でかした!尾張三河双方にとって要害の地である岩崎城の一色丹羽家が当家につくと申したか!」
「はいっ!一色丹羽家の右近大夫氏識殿は九年前の横山の戦いにて対立する丹羽氏秀へ織田上総介信長が援軍を送ったことを根に持っておられ、それゆえに我らに味方するとのこと!」
「されど、丹羽右近大夫の長子である氏勝には亡き織田備後守信秀の娘が輿入れし、すでに嫡男も産まれておったはず」
「それは横山の戦いよりも一年前のことにございまするゆえ、織田上総介に命じられて我らの内情を探ろうという考えは毛頭なかろうかと」
元康の感じた疑問に対して、これ以上ないほどの返答をしてのける酒井左衛門尉。やはりこの者を家老に任じておいて本当に良かったと、元康は改めて痛感していた。
「左衛門尉、わしは再び加茂郡西部を攻める好機じゃと考えるが、いかが思う」
「某も同意見にございまする。されど、兵員は入れ替える必要がございましょう」
「うむ、そうじゃな」
今回の加茂郡西部への出兵には誰と誰を伴うべきか。元康は先に率いていった者たちの顔を思い浮かべながらよくよく吟味していく。
「よし、先の合戦に引き続き大久保七郎左衛門忠勝、本多肥後守忠真は連れていくとしよう。そして新たに、岡崎城の守備に残していた石川安芸守忠成と石川右近大夫康正の父子、鳥居伊賀守忠吉、渡辺八右衛門義綱といった老巧な者らを連れていくことといたす」
「それは良きお考えかと。加えて、桶狭間の翌日に討たれた則定鈴木重政殿の弟である九久平城の鈴木康政殿、上野城に在している我が叔父、酒井将監忠尚にも出兵を命じてはいかがでしょう」
「うむ、織田の眼が美濃へ向けられている今のうちに動員するとしよう。左衛門尉、よくぞ進言してくれた。そのように取り計らうゆえ、上野城の酒井将監への出陣命令はそなたから伝えておいてくれまいか」
「ははっ!然らば、この後、鳥居伊賀守殿や石川安芸守殿と面会しまするゆえ、加茂郡西部への出陣に加わること、合わせて伝えておきまする」
「助かる。では、伊賀守と安芸守への伝達も任せたぞ、左衛門尉」
頼りになる腹心・酒井左衛門尉が書院を去った後、元康は近侍の天野三郎兵衛康景を呼び、山中法蔵寺宛の判物と禁制を届けるよう命じると、ただちに加茂郡西部を制圧するべく戦支度に取りかかった。
則定鈴木康政へ宛てた援軍要請の書状や他の家臣へいついつにどれだけの兵を率いて参集すべし、といった内容をしたためた文書を作成していく。
そうして迅速に準備が行われた加茂郡西部への出兵は、水野領への出兵と同月、七月下旬に開始された。
「再び加茂郡西部への出兵となる!味方は福谷城と拳母城の中間に位置する藤五城の篠田貞英殿、九久平城の則定鈴木康政殿、福谷城の原田氏重殿、岩崎城の一色丹羽氏識殿と少ない!じゃが、そのほかはすべて敵じゃと考えれば、分かりやすいやもしれぬ!」
その場にいる誰もが思い描いていた以上に、加茂郡西部における今川方は少なかった。それほどまでに織田信長の勢力が伸長してきていることの表れでもあるのだ。
「主だった敵は金谷の拳母城に籠る中条常隆、梅ヶ坪城の三宅氏、伊保城と広瀬城の三宅高清じゃ!これらを順に屈服させ、三河より敵を排除したうえで後顧の憂いを亡くし、織田や水野と対峙する。この構図は前回出陣前にも話した通りじゃ。此度こそはそれを実現せんがための総仕上げと心得よ!」
出陣する敵拠点を明確に示し、どうしてこうも急いで出兵するのか。そうした将兵の疑念を率先して晴らしていく元康。
かくして、今度こそは加茂郡西部の不穏分子を屈服させるのだと認識した屈強な松平勢は岡崎城を出陣。同じ頃、上野城の酒井将監忠尚と九久平城の則定鈴木康政の軍勢が合流し、総勢千二百で中条常隆が籠もる金谷の拳母城へ進軍を開始。
「では、鈴木殿。当家が大手を受け持ちまするゆえ、搦手をお願いいたしまする」
「うむ、承知いたしたぞ。然らば、酒井殿。蔵人佐殿が着陣された暁にはご一報くだされ。先の援軍を直に申し上げたいゆえ」
「心得ました。では、殿が到着いたした折には、ここにおる榊原七郎右衛門長政を向かわせまする」
酒井将監に紹介され、榊原七郎右衛門は目の前にいる鈴木康政へと深々と一礼する。そうして則定鈴木勢が搦手へ布陣し、大手の酒井勢ともども城内の中条常隆への圧力を強める。だが、決して元康到着前の力攻めだけはしなかった。
元康率いる松平宗家の軍勢が到着し、合して三千となった今川方に包囲された中条常隆。もはやこれまでかと覚悟を決めていたが、突如として元康の本隊から三百ほどの隊が残り、残る千五百の手勢を率いて北上していったのである。
「な、なにゆえ松平蔵人佐はこの城を攻めぬ!」
「そ、それは分かりかねまする!されど、残していった松平勢の旗を見るに、石川竜胆と大久保藤、重臣の石川と大久保を残していった模様」
「となれば、必ずや戻ってくるに相違ない。それまでに籠城の支度をでき得る限り整えておくのじゃ!」
中条常隆が城内で備え得る限りの備えをするよう下知した拳母城の大手では、酒井将監と石川右近大夫、大久保七郎左衛門が談笑していた。
「将監殿、殿も考えられましたな」
「いかにも。今頃、北の梅ヶ坪城には拳母城が我らに包囲された報せが入っておろう。次は己の番じゃと備えを始めるところを急襲なされるとは、梅ヶ坪城もたまったものではなかろう」
「まこと、人の心を読んで立ち回られる御方じゃと、この大久保七郎左衛門、深く感じ入ってござる」
そう、元康が目指したのは拳母城の北に位置する梅ヶ坪城。籠城支度を整えられる前に陥落させる動きを取ったのである。
無論、こうして放置している間にも拳母城も籠城戦に備えることはできるが、城を囲まれている以上はその動きも限定的となる。それを分かったうえで、守りを固められては厄介な三宅氏の梅ヶ坪城を先に攻撃しようと考えついたのである。
「殿には経験豊富な石川安芸守殿に鳥居伊賀守殿も付いておられる。他にも四年前の福谷城の戦いで織田方の将を射抜いた弓の名手であらせられる渡辺八右衛門殿に本多肥後守といった名うての猛者が付いておる。梅ヶ坪城攻めは実に上首尾に終わるであろう」
「やはり将監殿の眼から見てもそう映りまするか。ならば、殿がお戻りになられるまで、我らがしかと拳母城を睨みつけておかねばなりませぬな」
そうして三名が話している間にも順調に軍勢を北上させた元康は城外に打って出てきた寡兵の三宅勢を蹴散らし、梅ヶ坪城の包囲を終え、先陣は城の外郭に攻めかかっていた。
「殿、斥候より火急の報せ!」
「おお、安芸守か。何事じゃ、そのように血相変えて」
「ははっ、広瀬城の三宅高清!矢矧川の上の瀬を渡り、越戸に押し寄せたとのこと!」
石川安芸守から告げられた報せに、さすがの元康も焦りを帯びた表情を見せるのであった。
「ちっ、逃げるな!戦え!戦わぬか!」
後方に控える水野下野守信元の怒号が辺りに響く。だがしかし、それで兵らの恐怖心が消え去ることはなく、時間の経過に我も我もと逃げる兵が増えていく。こうなっては水野下野守としても二連敗を認めざるを得なかった。
撤退の号令を下すしかないかと考えている彼の左頬を一つの矢がかすめていく。
「何奴!」
「阿部四郎兵衛忠政、これに見参!水野下野守殿とお見受けいたした!二年前の石ヶ瀬での借りを返させていただく!」
そう言い終えるなり、番えていた矢が阿部四郎兵衛のもとを離れて水野下野守の元へ飛来する。だが、第二射は真っ直ぐに水野下野守の眉間を狙ったものであったが、すんでのところで水野下野守の太刀によって叩き落されていた。
「誰ぞ、阿部四郎兵衛とか申す奴を討ち取れ!」
主君である水野下野守の下命に応えて阿部四郎兵衛へ向かっていく者が二、三名。刀を引っ提げた武士に接近されては優れた弓の腕前など無用の長物であった。
「者共!戦はこれまでじゃ!苅谷城へ総退却を命ずる!退けっ、退けぇ!」
戦場に言い捨てた言葉は逃げたくて仕方なかった水野兵の心に刺さった。各々が思い思いに敵中を突破して苅谷城の方面目がけて駆け出す。
はじめは逃がすまいと果敢に追い討ちを仕掛けた大久保喜六郎忠豊を筆頭とする松平勢であったが、まもなくして追撃中止という元康の命が入ったため、双方ともに兵を退いた。
「殿、追撃はなされぬので?」
「おお、七郎右衛門と治右衛門か。いかにも、これ以上の追撃は無用じゃ。これだけ水野を叩いておけば、当面の間は静かになろう。あと二ヵ月もすれば稲刈りも始まるゆえ、苅田狼藉だけは注意せねばならぬであろうが、ひと息つくことくらいは叶うであろう」
闘志みなぎる大久保七郎右衛門忠世と大久保治右衛門忠佐であったが、元康の言葉を聞いて、退却の理由に合点がいった。
たしかにこうまで完膚なきまで叩かれてしまっては水野下野守から戦を仕掛けてくることはそうそうあるまいと思えたからである。
「此度討ち取った敵の首は苅谷城からも見えるよう、この十八町に掛け並べてから陣払いに移る。よいな!」
元康からの号令に応じた松平勢。その次には勝ち鬨があがり、憎き水野勢を相手に二日とも勝利を収め、少なからず打撃を与えたことに歓喜していた。
そうして元康は十八町に敵兵の首を掛け並べてから岡崎へと凱旋したのである。
水野下野守を相手に連勝したと聞き、留守を守っていた鳥居伊賀守忠吉や石川安芸守忠成、大久保新八郎忠俊といった老臣らは歓喜という言葉では言い表せないほどの喜びようを見せていた。
だが、凱旋してからの岡崎城で元康が思い浮かべたのは、たった二日の戦で失った大岡助十郎忠次、杉浦勝重、村越平三郎といった者たちの顔であった。
自分に仕える見知った顔が多く失われたことの傷は元康の心にも深く刻まれている。筧平三郎重忠、筧平十郎重成の父子も重傷を負ったことから、当面の槍働きは期待できないし、他にも深手を負った者はいる。
「殿、松平太郎左衛門由重にございまする」
「おお、大久保喜六郎をかばって受けた傷はいかがじゃ」
「はっ、治療は受けたのですが、再び戦場へ立つことは難しいとの見立て。事実、身体は以前のように思い通りに動きませぬゆえ、かくなるうえは松平郷に退隠させていただきたく、そのお願いをしに上がりました」
「そうであったか。惜しいことではあるが、隠居のことは認めようぞ。くれぐれも命を粗末にするでないぞ」
「無論にございまする。では、殿。拙者はこれにて失礼いたしまする」
今年で三十八となった松平太郎左衛門由重。未だ彼に子はなく、後継ぎもいない。いたのならば代わりに息子を取り立ててやれたものを、と元康は胸中にて悔やんでいた。
岡崎城の書院にて水野家を相手にした戦における論功行賞を進める傍ら、元康は書きかけていた山中法蔵寺への寺領安堵の判物と禁制の仕上げに着手していた。
先月三日に禁制を与えた中島の崇福寺と同じく、山中法蔵寺も今川義元より寺領保証や諸役免除、また狼藉行為の取り締まりを得ていた。
ゆえに、内容としてはあまり難しく考えず、それを追認するだけで良いのだと考えれば、自然に筆が進んだ。
「今後の権益を認可する為政者は今川家ではなく、この松平蔵人佐元康であること、この判物にも記しておくか。文言は……そうじゃな、『向後に至り元康判形無くんば』とでもしておけば良かろう。うむ、これでよい」
眼前に置かれた判物に自分の許可がなければ所有権は認められないのだと記してある。あくまでもこの岡崎領を統治しているのは自分なのだと書状に記すことができようとは、今川義元や太原崇孚存命時では考えられもしなかった。
「太守様も崇孚和尚もおらぬ今、わしがここで織田を防がねば誰が御屋形様や駿府を守るというのじゃ」
正座した大腿部の上で力強く握りしめる拳には悲壮感とどこか拭えぬ悲しみのようなものが多分に混じっていた。
「殿!やりましたぞ!」
「おお、左衛門尉ではないか。それほどまでに嬉しそうに、いかがしたのじゃ」
「はっ、まずはこちらを」
嬉しそうに元康のいる書院へやって来た酒井左衛門尉忠次から手渡された一通の書状。その書状に目を通した元康に、酒井左衛門尉の喜びが乗り移っていく。
「よし、でかした!尾張三河双方にとって要害の地である岩崎城の一色丹羽家が当家につくと申したか!」
「はいっ!一色丹羽家の右近大夫氏識殿は九年前の横山の戦いにて対立する丹羽氏秀へ織田上総介信長が援軍を送ったことを根に持っておられ、それゆえに我らに味方するとのこと!」
「されど、丹羽右近大夫の長子である氏勝には亡き織田備後守信秀の娘が輿入れし、すでに嫡男も産まれておったはず」
「それは横山の戦いよりも一年前のことにございまするゆえ、織田上総介に命じられて我らの内情を探ろうという考えは毛頭なかろうかと」
元康の感じた疑問に対して、これ以上ないほどの返答をしてのける酒井左衛門尉。やはりこの者を家老に任じておいて本当に良かったと、元康は改めて痛感していた。
「左衛門尉、わしは再び加茂郡西部を攻める好機じゃと考えるが、いかが思う」
「某も同意見にございまする。されど、兵員は入れ替える必要がございましょう」
「うむ、そうじゃな」
今回の加茂郡西部への出兵には誰と誰を伴うべきか。元康は先に率いていった者たちの顔を思い浮かべながらよくよく吟味していく。
「よし、先の合戦に引き続き大久保七郎左衛門忠勝、本多肥後守忠真は連れていくとしよう。そして新たに、岡崎城の守備に残していた石川安芸守忠成と石川右近大夫康正の父子、鳥居伊賀守忠吉、渡辺八右衛門義綱といった老巧な者らを連れていくことといたす」
「それは良きお考えかと。加えて、桶狭間の翌日に討たれた則定鈴木重政殿の弟である九久平城の鈴木康政殿、上野城に在している我が叔父、酒井将監忠尚にも出兵を命じてはいかがでしょう」
「うむ、織田の眼が美濃へ向けられている今のうちに動員するとしよう。左衛門尉、よくぞ進言してくれた。そのように取り計らうゆえ、上野城の酒井将監への出陣命令はそなたから伝えておいてくれまいか」
「ははっ!然らば、この後、鳥居伊賀守殿や石川安芸守殿と面会しまするゆえ、加茂郡西部への出陣に加わること、合わせて伝えておきまする」
「助かる。では、伊賀守と安芸守への伝達も任せたぞ、左衛門尉」
頼りになる腹心・酒井左衛門尉が書院を去った後、元康は近侍の天野三郎兵衛康景を呼び、山中法蔵寺宛の判物と禁制を届けるよう命じると、ただちに加茂郡西部を制圧するべく戦支度に取りかかった。
則定鈴木康政へ宛てた援軍要請の書状や他の家臣へいついつにどれだけの兵を率いて参集すべし、といった内容をしたためた文書を作成していく。
そうして迅速に準備が行われた加茂郡西部への出兵は、水野領への出兵と同月、七月下旬に開始された。
「再び加茂郡西部への出兵となる!味方は福谷城と拳母城の中間に位置する藤五城の篠田貞英殿、九久平城の則定鈴木康政殿、福谷城の原田氏重殿、岩崎城の一色丹羽氏識殿と少ない!じゃが、そのほかはすべて敵じゃと考えれば、分かりやすいやもしれぬ!」
その場にいる誰もが思い描いていた以上に、加茂郡西部における今川方は少なかった。それほどまでに織田信長の勢力が伸長してきていることの表れでもあるのだ。
「主だった敵は金谷の拳母城に籠る中条常隆、梅ヶ坪城の三宅氏、伊保城と広瀬城の三宅高清じゃ!これらを順に屈服させ、三河より敵を排除したうえで後顧の憂いを亡くし、織田や水野と対峙する。この構図は前回出陣前にも話した通りじゃ。此度こそはそれを実現せんがための総仕上げと心得よ!」
出陣する敵拠点を明確に示し、どうしてこうも急いで出兵するのか。そうした将兵の疑念を率先して晴らしていく元康。
かくして、今度こそは加茂郡西部の不穏分子を屈服させるのだと認識した屈強な松平勢は岡崎城を出陣。同じ頃、上野城の酒井将監忠尚と九久平城の則定鈴木康政の軍勢が合流し、総勢千二百で中条常隆が籠もる金谷の拳母城へ進軍を開始。
「では、鈴木殿。当家が大手を受け持ちまするゆえ、搦手をお願いいたしまする」
「うむ、承知いたしたぞ。然らば、酒井殿。蔵人佐殿が着陣された暁にはご一報くだされ。先の援軍を直に申し上げたいゆえ」
「心得ました。では、殿が到着いたした折には、ここにおる榊原七郎右衛門長政を向かわせまする」
酒井将監に紹介され、榊原七郎右衛門は目の前にいる鈴木康政へと深々と一礼する。そうして則定鈴木勢が搦手へ布陣し、大手の酒井勢ともども城内の中条常隆への圧力を強める。だが、決して元康到着前の力攻めだけはしなかった。
元康率いる松平宗家の軍勢が到着し、合して三千となった今川方に包囲された中条常隆。もはやこれまでかと覚悟を決めていたが、突如として元康の本隊から三百ほどの隊が残り、残る千五百の手勢を率いて北上していったのである。
「な、なにゆえ松平蔵人佐はこの城を攻めぬ!」
「そ、それは分かりかねまする!されど、残していった松平勢の旗を見るに、石川竜胆と大久保藤、重臣の石川と大久保を残していった模様」
「となれば、必ずや戻ってくるに相違ない。それまでに籠城の支度をでき得る限り整えておくのじゃ!」
中条常隆が城内で備え得る限りの備えをするよう下知した拳母城の大手では、酒井将監と石川右近大夫、大久保七郎左衛門が談笑していた。
「将監殿、殿も考えられましたな」
「いかにも。今頃、北の梅ヶ坪城には拳母城が我らに包囲された報せが入っておろう。次は己の番じゃと備えを始めるところを急襲なされるとは、梅ヶ坪城もたまったものではなかろう」
「まこと、人の心を読んで立ち回られる御方じゃと、この大久保七郎左衛門、深く感じ入ってござる」
そう、元康が目指したのは拳母城の北に位置する梅ヶ坪城。籠城支度を整えられる前に陥落させる動きを取ったのである。
無論、こうして放置している間にも拳母城も籠城戦に備えることはできるが、城を囲まれている以上はその動きも限定的となる。それを分かったうえで、守りを固められては厄介な三宅氏の梅ヶ坪城を先に攻撃しようと考えついたのである。
「殿には経験豊富な石川安芸守殿に鳥居伊賀守殿も付いておられる。他にも四年前の福谷城の戦いで織田方の将を射抜いた弓の名手であらせられる渡辺八右衛門殿に本多肥後守といった名うての猛者が付いておる。梅ヶ坪城攻めは実に上首尾に終わるであろう」
「やはり将監殿の眼から見てもそう映りまするか。ならば、殿がお戻りになられるまで、我らがしかと拳母城を睨みつけておかねばなりませぬな」
そうして三名が話している間にも順調に軍勢を北上させた元康は城外に打って出てきた寡兵の三宅勢を蹴散らし、梅ヶ坪城の包囲を終え、先陣は城の外郭に攻めかかっていた。
「殿、斥候より火急の報せ!」
「おお、安芸守か。何事じゃ、そのように血相変えて」
「ははっ、広瀬城の三宅高清!矢矧川の上の瀬を渡り、越戸に押し寄せたとのこと!」
石川安芸守から告げられた報せに、さすがの元康も焦りを帯びた表情を見せるのであった。
0
あなたにおすすめの小説
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる