不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第114話 泣きっ面に蜂

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 石川安芸守忠成から告げられた広瀬城の三宅高清出陣の一報。これには、さすがの元康も想定していなかった事態であった。

「なんと!越戸と申せば、寺部城から見れば矢矧川を渡った北東辺りか。なるほど梅ヶ坪城を攻める我らの背後を狙う算段……否、我らの城攻めはまだ知るまい。となれば、後詰めするつもりであったか」

「伝達の速さを鑑みれば、今ようやく越戸にて梅ヶ坪城が攻められている報せを耳にしている頃かと」

 その通りであろうと元康も感じた。だとすれば、今ごろ梅ヶ坪城への後詰めではなく、梅ヶ坪城の救援へ策を練り直している頃かもしれなかった。

「そうじゃ、出陣したは三宅高清と申しておったが、三宅高貞ではないのか」

「はい。なんでも、先のご当家との合戦において受けた傷がもとで危篤であると。それゆえに、嫡男である三宅高清が父に代わって来援したものと思われまする」

「そうであったか。ともあれ、三宅高清が到着するまでに梅ヶ坪城を陥落させるのは至難の業じゃ。ここは先に三宅高清を制する必要があると考えるが、安芸守の存念はいかがか」

「それが良いかと。ここは誰ぞに城攻めを続ける隊と三宅高清を迎撃する隊の二手に分かれるが妥当かと」

 元康は味方の猛攻によって外郭が攻められ、火の手が上がり始めている梅ヶ坪城を見ながらどうすべきか、じっと考えていた。

「よし、ここには五百おれば十分じゃろう。残る千をわし自らが率いて三宅高清を迎え撃つ!」

「なんと!殿自ら参られると!?」

「そうじゃ。そなたと鳥居伊賀守、本多肥後守、渡辺八右衛門といった手練れを連れて参る。城攻めの方はそなたの三男でわしの従兄でもある石川彦五郎に委ねる。あやつならば、卒なくこなすであろう」

 そこまでの人選を考えているのならば、と石川安芸守も同意した。何より、共に参る鳥居伊賀守忠吉も本多肥後守忠真も渡辺八右衛門義綱も百戦錬磨の古強者。不測の事態への備えとしては万全といっても良かった。

「然らば、各所への手配は某が済ませて参りまする。殿は出陣の支度を」

「おお、頼むぞ、安芸守」

 頼りになる老臣・石川安芸守が万事手配を済ませると、ただちに元康が出陣の号令を発した。勇ましく丸に三つ葉葵の旗と厭離穢土欣求浄土の旗を靡かせながら東進。その一方は越戸にて野営最中の三宅高清にも物見から報せが入っていた。

「なっ、松平蔵人佐自ら千もの兵を引き連れてこれへ向かっておると!?」

「はっ!また、梅ヶ坪城から火の手が上がっており、すでに陥落したものと思われまする」

「よし、決めた!わしは決めたぞ!御船城へ向かうぞ!」

「殿、御船城へ向かうとは、撤退の下知にございましょうか」

 三宅高清が口にした御船城とは、広瀬城南西にある城。すなわち、ここ越戸の地から撤退することを意味していた。

「ば、ばかを申せ!撤退ではない!引き返すんじゃ!」

「それを撤退と申すのでは――」

 家臣との問答を途中で打ち切った三宅高清は即時撤退を決断。何せ、周囲にいるのは先の松平勢との激戦に敗れて数を減らした手勢が五百。

 そもそもが梅ヶ坪城へ後詰めすること自体、乗り気でない士気の低い集団。それに対し、向かってくるのは戦意に満ちた倍近い松平勢なのであるから、野戦など思案するに値しなかった。

 元康が三宅勢の姿を捉えた頃には、大半が矢矧川を渡河し終えて御船城方面へ逃れていくところであった。

「殿、これでは追い討ちすることも叶いませぬな」

「おお、八右衛門か。そなたほどの弓の腕前でも、川の対岸の敵を射ることは叶わぬか」

「はっ、当てられぬこともございませぬが、仕留めることは難しゅうございます」

「じゃが、当てられるのか。まこと恐ろしいものじゃ」

 主君から褒められて嬉しいのか、頭頂部をぽりぽりとかく老将・渡辺八右衛門。そんな傍らの老人を見やりながら撤退の命を下す元康。

 元康らが戻った頃には梅ヶ坪城は二の曲輪まで攻め込んでいた。それを見た元康は攻撃中止の命を下す。

「城攻めはそれまでで良い。此度の遠征はこれまでとし、梅ヶ坪城は二の曲輪まで火をかけよ」

 元康は梅ヶ坪城へ止めを刺すことはせず、拳母城の包囲も解いたうえで全軍に撤退を命じた。それに意見したのは上野城の酒井将監忠尚であった。

「殿、こうまで有利に戦いを進めておられるのに撤退とはいかなるご所存で」

「なに、先に見た三宅高清率いる三宅勢の士気の低さを見て、性急に事を進める必要はないと判断したまで。なにより、深入りしては兵らを稲刈りの時期までに戻すことが叶わぬ」

「むっ、それもそうですな。然らば、次の戦は稲刈りを終えし後になりましょうか」

「うむ。そのつもりじゃ。次こそはあの拳母城の中条常隆を下し、伊保城を落とすこととしたい」

「承知しましたぞ。その際には、ぜひとも上野城へご一報くださいませ」

「言うまでもないこと。そうじゃ、織田方の動きについて掴んだならば、ただちに岡崎城へ注進すること、合わせて依頼しておく」

 元康は上野城の酒井将監へ今後の動向や依頼したいことなどを一通り伝えた次は、今回援軍要請に応じてくれていた則定鈴木康政に礼を述べていた。

「此度はご助力いただき、元康、心底より御礼申し上げる」

「おおっ、蔵人佐殿!今川家親類衆の蔵人佐殿からそのようなお言葉をいただけたこと、恐悦至極にございます!そうじゃ、先の加茂郡西部への出兵では当家の支援をしていただけたこと、この場を借りてお礼申し上げますぞ」

「なんの、駿府の御屋形様より西三河防衛を託された者として、当然のことをしたまでにござる。次は稲刈り後に加茂郡西部を制圧するつもりゆえ、その折に再び合力いただきたい」

「はっ、承知いたしましたぞ!然らば、次は実りの秋にお会いしましょうぞ!」

 そう言って明るく笑いながら手勢を率いて九久平城へ引き揚げる則定鈴木康政と別れた元康は無事に岡崎城へ撤退した。

 まもなくして八月に入った時分に、元康の属する今川領国の同盟先である北条家が支配する関東において、とんでもない事態が発生する。

 相模の獅子と渾名され、隠居しながらも実権を握る『御本城様』・北条左京大夫氏康、父の隠居を受けて家督を継承した北条新九郎氏政。

 「二御屋形」「御両殿」と称される形体に移行した北条家の勢力拡大に苦しめられている関東諸将からの要請を受け、八月に越後の龍と渾名される軍神が関東へ召喚されたのである。

 関東諸将の要請を受けた長尾弾正少弼景虎は庇護していた関東管領・上杉憲政を奉じて三国峠を越える越山を実行。沼田城・厩橋城・岩下城・赤石城など上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、関東侵攻を開始したのである。

 この時、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた北条氏康は包囲を解かざるを得なくなり、上野国制圧を進める長尾景虎へ備えなくてはならない事態となる。

 この長尾景虎の関東侵攻によって、甲相駿三国同盟の各国は関東を中止せざるを得なくなった。甲斐の武田信玄はもちろん、元康の主君である駿河の今川治部太輔氏真も、である。

 すなわち、かねてより元康が舅の関口刑部少輔氏純や後見役の朝比奈丹波守親徳を通じて要請していた三河への援軍派遣は叶わぬ夢となったのである。

「くそっ!」

 そのことを伝える関口刑部少輔からの書状を読み終えた元康の第一声は悔しさをにじませるどころか、あふれ出ていた。

「この分では同盟先の北条家から御屋形様のもとへ援軍要請の使者が入ることは明白。御屋形様のご正室は北条左京大夫殿の四女、それに助五郎の実父の危機なのじゃ。御屋形様の性格を考えれば、こちらよりも関東への援軍を優先されることは想像に難くない……!」

 ただでさえ、駿府の今川氏真は先々月は尾張侵攻で戦功のあった家臣に新恩所領を与えたり、感状を出すなど戦功認定に追われ、三河への援軍然り氏真自らの仇討ち然り、尾張の織田信長に対する軍事行動すべてが先延ばしとなっている。

 関口刑部少輔や朝比奈丹波守と書状をやり取りする中で、氏真が現在桶狭間合戦で討ち死した家臣に向けた代替わりの安堵。

 加えて、元康が判物を発給した中島の崇福寺や山中法蔵寺のように先代義元が認めていた寺社の特権を当主・氏真の名で改めて認めなければならないのだ。

 こうした家臣や寺社への対応を済ませなければ軍事的な負担を課すことができない以上やむを得ないことと元康も割り切っていたが、そこへ来ての長尾景虎による関東侵攻。泣きっ面に蜂とはまさにこのことであった。

「じゃが、ここからわしに何ができるわけでもない。そうじゃ、何もできぬのじゃ……」

 幸いにも駿府にいる縁者から今川家を取り巻く情勢を知ることはできる。問題は知って怒ったり泣きわめくことではないはずだ。そう己の弱い心を叱咤する。

「まずは今月二十二日の高祖父の十七回忌法要をつつがなく済ませること。それに専念するとしようぞ」

 折しも永禄三年の八月二十二日は元康の高祖父・松平長親の十七回忌。自身に竹千代を名乗るよう、父・広忠に意見したのは他でもない高祖父なのだ。

 そんな高祖父の十七回忌法要をしっかり行い、先祖の御霊を供養することも当主の務め。怠ることは許されぬ。

 そうして元康が法要の支度を進めている頃、清洲城の織田上総介信長はといえば。

 腹心の森三左衛門可成とともに宿敵・美濃を取り巻く情勢について、談義しているところであった。

「三左衛門、それはまことか!」

「はっ、今月中旬に浅井新九郎賢政が六角軍を相手に野良田の戦いで勝利を収めたとのこと!」

「で、あるか。たしか、浅井新九郎は元服したての若武者であったな」

「はい。浅井久政が嫡男にて昨年の元服では六角承禎こと六角義賢より偏諱を受けた武士にございます。加えて、正室であった六角家重臣の娘を送り返して、昨年四月より浅井家と六角家は敵対関係にございますれば」

 浅井新九郎賢政。浅井久政の嫡男である彼は、六角軍の攻撃を受けた高野瀬秀隆の肥田城を救援しに出陣し、六角軍を破ったのである。

「ふっ、六角家としては穏やかではなかろう。偏諱を授け、格下と見くびっていた浅井の小童が牙をむいてきたのだからな」

「はい。それゆえに、当主の六角右衛門督義治はご当家にとって不俱戴天の仇である美濃の一色治部大輔義龍と同盟を結ばんとしている由」

「その話はおれの耳にも入っておる。加えて、六角右衛門督が父、六角承禎は美濃を簒奪した斎藤家のことを快く思っておらず、伝統的な同盟相手である土岐氏の美濃復帰を志向しておるともな」

 因縁の相手である美濃の義龍のことを話している時の信長は生き生きとしていた。先日、今川義元を打ち破り、尾張から今川方の勢力を駆逐したのは、すべてが美濃攻めのためでもあったのだ。

 ゆえに、信長の眼は今川義元如何に関わらず、常に美濃を見ていたのだと言っても良い。

「さては殿、美濃攻めをお考えにございまするか」

「うむ。権六に支度させておる。今月下旬を出陣と定めておるところじゃ。無論、三左衛門。そなたも共に参れ」

「無論にございます!此度の侵攻も西美濃でしょうや」

 信長は勘の鋭い森三左衛門の言葉に肯定の意味を込めて頷く。六月朔日に鳴海城を開城させた後、翌二日には清洲を出陣して西美濃へ侵攻していた。

 そのため、今回の西美濃侵攻は桶狭間以後に限定しても二度目となる。こうまで美濃制圧を急ぐのは、信長としても一色治部大輔義龍を侮れぬ大敵を認識しているからであろうと森三左衛門は考えていた。

「されど、あまり深入りはできませぬぞ」

「三河のことであろう」

「はい。今川方の松平蔵人佐元康によって水野下野守殿は三度返り討ちに遭い、加茂郡西部の当家方の勢力は蹂躙されるがままとなっておりますれば」

「あの竹千代がよくもまあ、それだけの武者に成長したものよ」

「て、敵を褒めておられる場合では……」

 森三左衛門の言葉に信長も自然と笑みがこぼれる。幼き日に熱田の加藤図書の屋敷で会った折、一目見て弟のように思えた童が、今では今川家親類衆として西三河に立ちはだかっているのである。それを思うだけで、うれし涙が零れそうになる。

「殿?」

「案ずるな。此度の西美濃侵攻が上首尾に行けば、次は加茂郡西部じゃ。やはり黙らせておかねばならぬでな」

 信長にとって目下の敵が美濃の一色治部大輔であることに変わりはない。だが、その次の獲物として、元康のことがちらつき始めていようとは、岡崎の元康は知る由もなかった――
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