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第4章 苦海の章
第115話 遠水近火を救わず
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怒涛の勢いで雁来月も過ぎ、九月へ突入した。この頃には、元康のもとへも織田信長や関東情勢の新たな情報がもたらされていた。
元康は今後の方策を話し合うためにも、新たに家老に任じていた酒井左衛門尉忠次、石川彦五郎、石川与七郎数正、植村新六郎栄政を呼び寄せていた。
「殿、まずは織田のことについて、この左衛門尉よりお伝えしたきことがございます」
「良い、申してみよ」
「はっ、然らば言上仕ります」
酒井左衛門尉より伝えられたのは先月二十三日に行われた織田上総介信長による西美濃侵攻について。
今川義元の本陣を奇襲した時よりも少ない一千という数で西美濃へ侵攻した織田軍は刈田狼藉、要するに敵地の田畑の作物を刈り取ってしまったのである。
これに対して、長井衛安、丸毛兵庫ら一千の美濃勢と戦闘となり、兵数が互角であったことから中々決着がつかなかったが、森三左衛門可成・柴田権六勝家らが横鑓を容れて長井勢を崩し、勝ちを収めたという主旨であった。
「左衛門尉、織田軍の動向はそれだけか」
「はっ、左様にございます。結果としては織田が長良川まで勢力圏に収めたことになりまするゆえ、着々と美濃攻略を進めているといって良かろうかと」
「うむ。とはいえ、兵数がわずか一千というのが気になる。此度の侵攻は小手調べにすぎぬという意味か、それとも兵力を温存しておきたい腹でもあるのか」
その点について気になっているのは元康だけではない。酒井左衛門尉を含めた家老らも腕を組んで唸るほどに不可解な侵攻であった。
「然らば、新六郎からは何か報告などはあるか」
「はっ、ございまする。加茂郡西部では中条常隆が当家との戦に備え、武器弾薬や兵粮を買い付けていると、福谷城の原田氏重殿、藤五城の篠田貞英殿、九久平城の鈴木康政殿より便りがございました」
「やはり戦支度を始めているか。じゃが、此度こそは拳母城、伊保城を攻め落とし、加茂郡西部の織田方勢力を封殺してくれよう。新六郎、報告大儀」
「ははっ!」
植村新六郎より加茂郡西部の情勢についての報告が終わると、石川彦五郎からは水野家の内情が伝えられた。
「どうやら、緒川から清洲へ援軍要請の使者が頻繁に向かっておるらしく、水野下野守は独力で我らを従えられぬと見て、織田へ支援を求めだしてもおります」
「今、織田が来ては厄介なことになるか。我らが攻勢に出れる期間は残りわずかということでもある。加茂郡西部の制圧は急がねばならぬな」
元康の言葉を首肯する石川彦五郎。懸念している事態は二人の間で共通している。それがゆえの反応であった。
「然らば、某からは関東のことを」
石川与七郎から披露されたのは先月より開始された長尾景虎による関東侵攻にまつわる情報であった。
「まず、上野制圧を進める長尾弾正少弼景虎に対し、北条左京大夫氏康殿は今月武蔵国河越へ出陣し、情勢を見極めんとしている模様。対する越後長尾軍は将軍より認められた正式な関東管領を擁している官軍ゆえに、北条軍も反撃に出づらい模様」
「となれば、関東での緊張状態は長引きそうか」
「はっ、長尾景虎は上野国厩橋城を拠点と位置づけ、長期戦の構え。おそらくは、武田家や今川家にも援軍要請を求める使者はすでに入っているやもしれませぬ」
「これはまた厄介な……」
――どうして!よりにもよって!この時に!長尾景虎は関東へ侵攻したのだ!
そう当たり散らしたい気持ちを堪えながら元康は石川与七郎よりの報告を聞き終えた。
「ただ、一つ気になることを耳にいたしました」
「気になる事?」
「はい。なんでも、長尾景虎率いる越後勢は各地で略奪を繰り広げている、と。恐らくは飢饉の影響で越後では食料が不足しており、それを補うため関東へ侵攻したのではないかと旅の商人共らが口々に申しておりました」
「官軍とは名ばかりの略奪軍ではないか。まこと許しがたい行為じゃが、だとすれば稲刈り前の八月から関東侵攻を始めたのもうなずける」
「いかにも。それに、十一月にもなれば、雪の影響で三国峠は越山できなくなりまするゆえ、長期戦の構えをとっているとなれば、上野国にて長尾軍は越年する腹積もりなのやも」
――有り得る。
そう元康の直感がささやいていた。越後を含めた日本海側は豪雪地帯。飢饉の影響で食料が不足していることに加えて、冬に入る前に上野国へ入れば、幾分か寒さも凌ぎやすい。そこまでを視野に入れての関東侵攻なのだとすれば、合点がいく。
「となれば、此度の越後長尾軍の侵攻を、河越城に入った北条左京大夫殿がいかが判断するか。これによって、駿府の御屋形様が求められることも変わってくる」
「そうなりましょう。北条左京大夫殿の判断如何が我らの命運を握っているといっても過言ではございませぬ」
この世の物事はすべて繋がっている。三河にいる松平元康という青年の運命が遠く関東の武蔵国や上野国の情勢によって大きく左右されようとしているとは、何とも不思議なことではある。
「長尾景虎の関東侵攻が上野国制圧に留まれば、北条と武田の二家で対処するであろうが、仮に武蔵国へ攻め込んできたとすれば、今川家とて他人事では済まされぬ、といったところであろう」
「おそらくはそうなりましょう。そのうえで、当家が如何にするかを考えねばなりませぬ」
「そうじゃな、わしが考える中で今月中に成すべきことは二つ」
元康が立てた人差し指と中指に四家老の視線が集中する。それを確認し、あえて一拍間を開けたうえで言葉を発していく。
「一つは言うまでもなく加茂郡西部の制圧。そしてもう一つが今月中にこちらへ参る瀬名と於亀のことじゃ」
一点目については家老四名とも想像できていたことであるから、さほど驚きはしなかった。されど、二点目を聞き、四人ともが目の色を変えたのである。
「なんと!?御前様や姫様が岡崎へ参られるのでございますか!?」
「うむ、昨日舅殿より書状が届いた。瀬名の体調が良好となって参ったゆえ、東海道を通って於亀ともども岡崎へ向かわせるとな」
「左様にございましたか」
関東情勢のことを熱心に調べて要点を絞って報告していた石川与七郎もこのことは知らなかったのかと思うと、少々おかしく思えてくる。
しかし、この情報は昨日、舅の関口刑部少輔からもたらされたもの。冷静に考えれば、今川家の重臣らが三、四日前に決めたことを松平の家臣が知っていては危ういものがある。
「さすれば、築山に築いておる屋敷のことが問題となりまするな」
「そうとも、彦五郎。そなたに造営を頼んでおったが、順調に進んでおるか」
「はい。お二方がいつ頃到着となるか次第にございますが、今月末には完了となりましょう」
「さすが仕事が早いのう。然らば、仮に到着時に未完成であった場合は完成までの間、継母上のお屋敷へ入っていただくこととしよう」
駿河御前と亀姫の身柄をどうするかについて一応のところは定まった。となれば、最愛の妻と娘が岡崎へ入るまでに戦を済ませ、二人が安心して岡崎で暮らせるようにしたいと思うのが夫であり、父親の心情であった。
「よし、左衛門尉と新六郎はただちに戦支度にかかれ!左衛門尉は上野城の酒井将監と九久平城の鈴木康政殿へは援軍は不要、両名はただただ織田軍に備えるように伝えよ!新六郎は福谷城の原田氏重殿、岩崎城の丹羽右近大夫殿、藤五城の篠田貞英殿にも出陣を伝え、ご加勢には及ばずとも併せて伝えよ!」
「しょ、承知!」
「委細承知いたしました!」
元康からの命を受けると酒井左衛門尉と植村新六郎は吹き飛ばされたかのように書院を飛び出し、石川彦五郎もまた築山の造営を進めるべく退席。残るは石川与七郎のみとなった。
「与七郎、此度は当家の千五百ばかりで済むであろう。疾風迅雷、拳母城と伊保城を陥落させ、戻って参る所存ゆえな」
「はっ。されど、織田上総介が動向にはくれぐれもお気を付けくださいませ。あの者こそ神出鬼没、何処へ現れるか読めませぬゆえ」
「そうじゃな。その言葉、肝に銘じておこうぞ」
元康は石川与七郎からの忠言を胸にしまった後、ただちに戦支度を進めた元康は数日のうちに出陣。
「此度で加茂郡西部を制圧いたす!我に続けっ!」
岡崎城を出陣した元康率いる松平勢は北上し、一直線に中条常隆の拳母城目指して進軍していく。
そんな松平勢が岡崎城を出陣し、拳母城へ向かいつつあるという報せは街道を見張っていた物見によって、中条常隆にももたらされた。
「左様か。松平蔵人佐が来るか」
「籠城の支度は万事整っております!松平の奴らに目にもの見せてやりましょうぞ!」
「いや、打って出て野戦を仕掛ける!」
「なんと!それは何故に!?」
「敵ははなから我らが籠城すると見くびっておる。ならば、裏をかいて野戦を仕掛けてやろうぞ!籠城ならばそれからでも遅くはあるまい!」
重臣らは不安な表情を見せるが、理由まで聞けば納得できないこともない。主の決定によって中条常隆率いる中条勢もまた拳母城を出陣。城めがけてくる松平勢を迎撃するべく、布陣して待ち構えたのである。
「中条常隆は打って出て参ったか。よし、ここは望み通り野戦を挑んでやるとしようぞ!者共、敵は寡兵ぞ!臆してはならぬ!かかれっ!」
元康の号令に、三河各地を転戦して経験を重ねた千軍万馬の松平勢が中条常隆の軍勢へと襲いかかる。
序盤こそ中条常隆の狙い通り、松平勢の攻撃を凌いでいたものの、兵たちの戦闘経験の差が瞬く間に形勢を変えていく。
「申し上げます!第一陣、突破されましてございます!おそらく、第二陣もそう長くはもたぬかと!」
「馬鹿なっ!」
「さっ、ここは城へお退きくださいませ!」
「なぜ、勝てんのじゃ!くそっ、退却じゃ!退却せよ!」
結果を端的に言えば、中条常隆は敗北した。そのまま元康率いる松平勢に追い立てられ、城内へ敗走。さらには、城の外郭までもが松平勢によって打ち破られたのである。
これには、名門の出である中条常隆とて戦意を維持することなど不可能であった。中条常隆は元康に和睦を乞い、その起請文を受理。
それをもって、元康はただちに北の伊保城へ転戦。瞬く間に伊保城の町口を焼き払ってしまうのであった。
そんな無双状態ともいえる常勝軍を率いて、松平元康は味方の原田氏重がいる福谷城へ立ち寄った。
「これは松平蔵人佐殿」
元康から援軍要請が入ればすぐにでも駆けつけられるように備えていたのであろう。鎧を身に纏い、頭に白の鉢巻を締めた武者が元康を小走りで出迎えた。
「原田氏重殿。此度は急な来訪となり、相済まぬ」
「と、とんでもござらぬ!して、ここへ立ち寄られたご用向きは拳母城攻めの件でございましょうか」
「いずれとも違う。すでに拳母城の中条常隆とは和睦となり、伊保城も町口を焼き払っておいたゆえ、じきに降伏を願い出てくるであろう」
「なんと!そ、それでは戦は終いとなったわけですな」
あまりにあっけない戦争終結に驚けばよいのやら、喜べばよいのやら、明らかに戸惑っている様子の原田氏重。そんな彼に、元康は優しい声音で一つの頼みごとをした。
「貴殿には岩崎城の丹羽右近大夫殿へ我が書状を届けて貰いたい」
「あの、そ、某が?」
「うむ。貴殿が丹羽右近大夫殿と昵懇の仲と耳にしたゆえな。どうじゃ、頼まれてくれぬか」
「承知いたしました。今川家親類衆の松平蔵人佐殿たっての願いとあらば、この原田氏重、喜んでお引き受けいたしまする!」
元康の願いを聞き入れ、原田氏重はただちに岩崎城の丹羽右近大夫氏識の元へ足を運んだ。
元康の書状を読んだ丹羽右近大夫は書状にあった『三河国内の乙尾村を知行として与える』との文言に満足し、織田家に与しなくて良かったと安堵しながら今川方の傘下に収まることを決断。
かくして元康に蹂躙されるがままとなった加茂郡西部の諸将は中条常隆を筆頭に、ことごとく元康と和睦して織田の陣営を離れることとなり、見事に元康は加茂郡西部を制圧してしまったのである。
「殿、藤五城の篠田貞英殿より戦勝を祝う使者が到着。此度の殿の勝利を褒めちぎっておりました」
「おお、そうであったか。ならば、わしの奮戦については近日中に駿府の御屋形様のもとへ注進されよう」
今の元康の気持ちとして、駿府の氏真に『自分はしっかりあなた様からの期待に応えておりますぞ』と言いたくて仕方なかった。
――しかし、この元康連戦連勝の吉報は予期せぬ効果をもたらすことになるのである。
元康は今後の方策を話し合うためにも、新たに家老に任じていた酒井左衛門尉忠次、石川彦五郎、石川与七郎数正、植村新六郎栄政を呼び寄せていた。
「殿、まずは織田のことについて、この左衛門尉よりお伝えしたきことがございます」
「良い、申してみよ」
「はっ、然らば言上仕ります」
酒井左衛門尉より伝えられたのは先月二十三日に行われた織田上総介信長による西美濃侵攻について。
今川義元の本陣を奇襲した時よりも少ない一千という数で西美濃へ侵攻した織田軍は刈田狼藉、要するに敵地の田畑の作物を刈り取ってしまったのである。
これに対して、長井衛安、丸毛兵庫ら一千の美濃勢と戦闘となり、兵数が互角であったことから中々決着がつかなかったが、森三左衛門可成・柴田権六勝家らが横鑓を容れて長井勢を崩し、勝ちを収めたという主旨であった。
「左衛門尉、織田軍の動向はそれだけか」
「はっ、左様にございます。結果としては織田が長良川まで勢力圏に収めたことになりまするゆえ、着々と美濃攻略を進めているといって良かろうかと」
「うむ。とはいえ、兵数がわずか一千というのが気になる。此度の侵攻は小手調べにすぎぬという意味か、それとも兵力を温存しておきたい腹でもあるのか」
その点について気になっているのは元康だけではない。酒井左衛門尉を含めた家老らも腕を組んで唸るほどに不可解な侵攻であった。
「然らば、新六郎からは何か報告などはあるか」
「はっ、ございまする。加茂郡西部では中条常隆が当家との戦に備え、武器弾薬や兵粮を買い付けていると、福谷城の原田氏重殿、藤五城の篠田貞英殿、九久平城の鈴木康政殿より便りがございました」
「やはり戦支度を始めているか。じゃが、此度こそは拳母城、伊保城を攻め落とし、加茂郡西部の織田方勢力を封殺してくれよう。新六郎、報告大儀」
「ははっ!」
植村新六郎より加茂郡西部の情勢についての報告が終わると、石川彦五郎からは水野家の内情が伝えられた。
「どうやら、緒川から清洲へ援軍要請の使者が頻繁に向かっておるらしく、水野下野守は独力で我らを従えられぬと見て、織田へ支援を求めだしてもおります」
「今、織田が来ては厄介なことになるか。我らが攻勢に出れる期間は残りわずかということでもある。加茂郡西部の制圧は急がねばならぬな」
元康の言葉を首肯する石川彦五郎。懸念している事態は二人の間で共通している。それがゆえの反応であった。
「然らば、某からは関東のことを」
石川与七郎から披露されたのは先月より開始された長尾景虎による関東侵攻にまつわる情報であった。
「まず、上野制圧を進める長尾弾正少弼景虎に対し、北条左京大夫氏康殿は今月武蔵国河越へ出陣し、情勢を見極めんとしている模様。対する越後長尾軍は将軍より認められた正式な関東管領を擁している官軍ゆえに、北条軍も反撃に出づらい模様」
「となれば、関東での緊張状態は長引きそうか」
「はっ、長尾景虎は上野国厩橋城を拠点と位置づけ、長期戦の構え。おそらくは、武田家や今川家にも援軍要請を求める使者はすでに入っているやもしれませぬ」
「これはまた厄介な……」
――どうして!よりにもよって!この時に!長尾景虎は関東へ侵攻したのだ!
そう当たり散らしたい気持ちを堪えながら元康は石川与七郎よりの報告を聞き終えた。
「ただ、一つ気になることを耳にいたしました」
「気になる事?」
「はい。なんでも、長尾景虎率いる越後勢は各地で略奪を繰り広げている、と。恐らくは飢饉の影響で越後では食料が不足しており、それを補うため関東へ侵攻したのではないかと旅の商人共らが口々に申しておりました」
「官軍とは名ばかりの略奪軍ではないか。まこと許しがたい行為じゃが、だとすれば稲刈り前の八月から関東侵攻を始めたのもうなずける」
「いかにも。それに、十一月にもなれば、雪の影響で三国峠は越山できなくなりまするゆえ、長期戦の構えをとっているとなれば、上野国にて長尾軍は越年する腹積もりなのやも」
――有り得る。
そう元康の直感がささやいていた。越後を含めた日本海側は豪雪地帯。飢饉の影響で食料が不足していることに加えて、冬に入る前に上野国へ入れば、幾分か寒さも凌ぎやすい。そこまでを視野に入れての関東侵攻なのだとすれば、合点がいく。
「となれば、此度の越後長尾軍の侵攻を、河越城に入った北条左京大夫殿がいかが判断するか。これによって、駿府の御屋形様が求められることも変わってくる」
「そうなりましょう。北条左京大夫殿の判断如何が我らの命運を握っているといっても過言ではございませぬ」
この世の物事はすべて繋がっている。三河にいる松平元康という青年の運命が遠く関東の武蔵国や上野国の情勢によって大きく左右されようとしているとは、何とも不思議なことではある。
「長尾景虎の関東侵攻が上野国制圧に留まれば、北条と武田の二家で対処するであろうが、仮に武蔵国へ攻め込んできたとすれば、今川家とて他人事では済まされぬ、といったところであろう」
「おそらくはそうなりましょう。そのうえで、当家が如何にするかを考えねばなりませぬ」
「そうじゃな、わしが考える中で今月中に成すべきことは二つ」
元康が立てた人差し指と中指に四家老の視線が集中する。それを確認し、あえて一拍間を開けたうえで言葉を発していく。
「一つは言うまでもなく加茂郡西部の制圧。そしてもう一つが今月中にこちらへ参る瀬名と於亀のことじゃ」
一点目については家老四名とも想像できていたことであるから、さほど驚きはしなかった。されど、二点目を聞き、四人ともが目の色を変えたのである。
「なんと!?御前様や姫様が岡崎へ参られるのでございますか!?」
「うむ、昨日舅殿より書状が届いた。瀬名の体調が良好となって参ったゆえ、東海道を通って於亀ともども岡崎へ向かわせるとな」
「左様にございましたか」
関東情勢のことを熱心に調べて要点を絞って報告していた石川与七郎もこのことは知らなかったのかと思うと、少々おかしく思えてくる。
しかし、この情報は昨日、舅の関口刑部少輔からもたらされたもの。冷静に考えれば、今川家の重臣らが三、四日前に決めたことを松平の家臣が知っていては危ういものがある。
「さすれば、築山に築いておる屋敷のことが問題となりまするな」
「そうとも、彦五郎。そなたに造営を頼んでおったが、順調に進んでおるか」
「はい。お二方がいつ頃到着となるか次第にございますが、今月末には完了となりましょう」
「さすが仕事が早いのう。然らば、仮に到着時に未完成であった場合は完成までの間、継母上のお屋敷へ入っていただくこととしよう」
駿河御前と亀姫の身柄をどうするかについて一応のところは定まった。となれば、最愛の妻と娘が岡崎へ入るまでに戦を済ませ、二人が安心して岡崎で暮らせるようにしたいと思うのが夫であり、父親の心情であった。
「よし、左衛門尉と新六郎はただちに戦支度にかかれ!左衛門尉は上野城の酒井将監と九久平城の鈴木康政殿へは援軍は不要、両名はただただ織田軍に備えるように伝えよ!新六郎は福谷城の原田氏重殿、岩崎城の丹羽右近大夫殿、藤五城の篠田貞英殿にも出陣を伝え、ご加勢には及ばずとも併せて伝えよ!」
「しょ、承知!」
「委細承知いたしました!」
元康からの命を受けると酒井左衛門尉と植村新六郎は吹き飛ばされたかのように書院を飛び出し、石川彦五郎もまた築山の造営を進めるべく退席。残るは石川与七郎のみとなった。
「与七郎、此度は当家の千五百ばかりで済むであろう。疾風迅雷、拳母城と伊保城を陥落させ、戻って参る所存ゆえな」
「はっ。されど、織田上総介が動向にはくれぐれもお気を付けくださいませ。あの者こそ神出鬼没、何処へ現れるか読めませぬゆえ」
「そうじゃな。その言葉、肝に銘じておこうぞ」
元康は石川与七郎からの忠言を胸にしまった後、ただちに戦支度を進めた元康は数日のうちに出陣。
「此度で加茂郡西部を制圧いたす!我に続けっ!」
岡崎城を出陣した元康率いる松平勢は北上し、一直線に中条常隆の拳母城目指して進軍していく。
そんな松平勢が岡崎城を出陣し、拳母城へ向かいつつあるという報せは街道を見張っていた物見によって、中条常隆にももたらされた。
「左様か。松平蔵人佐が来るか」
「籠城の支度は万事整っております!松平の奴らに目にもの見せてやりましょうぞ!」
「いや、打って出て野戦を仕掛ける!」
「なんと!それは何故に!?」
「敵ははなから我らが籠城すると見くびっておる。ならば、裏をかいて野戦を仕掛けてやろうぞ!籠城ならばそれからでも遅くはあるまい!」
重臣らは不安な表情を見せるが、理由まで聞けば納得できないこともない。主の決定によって中条常隆率いる中条勢もまた拳母城を出陣。城めがけてくる松平勢を迎撃するべく、布陣して待ち構えたのである。
「中条常隆は打って出て参ったか。よし、ここは望み通り野戦を挑んでやるとしようぞ!者共、敵は寡兵ぞ!臆してはならぬ!かかれっ!」
元康の号令に、三河各地を転戦して経験を重ねた千軍万馬の松平勢が中条常隆の軍勢へと襲いかかる。
序盤こそ中条常隆の狙い通り、松平勢の攻撃を凌いでいたものの、兵たちの戦闘経験の差が瞬く間に形勢を変えていく。
「申し上げます!第一陣、突破されましてございます!おそらく、第二陣もそう長くはもたぬかと!」
「馬鹿なっ!」
「さっ、ここは城へお退きくださいませ!」
「なぜ、勝てんのじゃ!くそっ、退却じゃ!退却せよ!」
結果を端的に言えば、中条常隆は敗北した。そのまま元康率いる松平勢に追い立てられ、城内へ敗走。さらには、城の外郭までもが松平勢によって打ち破られたのである。
これには、名門の出である中条常隆とて戦意を維持することなど不可能であった。中条常隆は元康に和睦を乞い、その起請文を受理。
それをもって、元康はただちに北の伊保城へ転戦。瞬く間に伊保城の町口を焼き払ってしまうのであった。
そんな無双状態ともいえる常勝軍を率いて、松平元康は味方の原田氏重がいる福谷城へ立ち寄った。
「これは松平蔵人佐殿」
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「と、とんでもござらぬ!して、ここへ立ち寄られたご用向きは拳母城攻めの件でございましょうか」
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あまりにあっけない戦争終結に驚けばよいのやら、喜べばよいのやら、明らかに戸惑っている様子の原田氏重。そんな彼に、元康は優しい声音で一つの頼みごとをした。
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「承知いたしました。今川家親類衆の松平蔵人佐殿たっての願いとあらば、この原田氏重、喜んでお引き受けいたしまする!」
元康の願いを聞き入れ、原田氏重はただちに岩崎城の丹羽右近大夫氏識の元へ足を運んだ。
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かくして元康に蹂躙されるがままとなった加茂郡西部の諸将は中条常隆を筆頭に、ことごとく元康と和睦して織田の陣営を離れることとなり、見事に元康は加茂郡西部を制圧してしまったのである。
「殿、藤五城の篠田貞英殿より戦勝を祝う使者が到着。此度の殿の勝利を褒めちぎっておりました」
「おお、そうであったか。ならば、わしの奮戦については近日中に駿府の御屋形様のもとへ注進されよう」
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3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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