不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第118話 大木の下に小木育たず

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 怒涛の勢いで侵攻してきた織田軍が去った後の加茂郡。そこには丸に三つ葉葵の旗をつけた一団の姿があった。

「まずは手始めに広瀬城攻めから始めることといたす!者ども、抜かるでないぞ!」

 六花の舞う中、背後に厭離穢土欣求浄土の旗を翻らせながら家臣たちに厳しく申し付けているのは他でもない、松平蔵人佐元康その人であった。

 上野城の酒井将監忠尚よりの報せを受けるなり、まるで織田軍を追撃しているかのような速度で岡崎城を出陣した元康は、文字通り鬼の居ぬ間に洗濯をしようとしていた。

 織田軍が去ったと思ったら、数日たたぬうちに居城・広瀬城を囲まれた三宅高清としてはたまったものではない。

「くそっ、父上が亡くなったところへ、織田軍が攻め込んできたかと思いきや、此度は松平勢が攻め寄せて参るとは……!」

「と、殿!いかがなさいますか!」

「いかがもなにも、籠城よりあるまい!ただちに支度をせよ!」

 理不尽なまでに大勢力に蹂躙される国衆という立場に対する苛立ちをぶつけるように、家臣たちへ指図する三宅高清。

 古鼠坂の戦いにおいて負った傷がもとで息を引き取った父・三宅高貞の葬儀が済んだばかりで、傷心中の三宅高清であったが、乱世という世の中は親の死をただ悲しんでいるだけの人間にも容赦なかった。

 降伏の使者を立てることなく、広瀬城へ攻め寄せる松平勢に広瀬城の三宅勢は到底太刀打ちできなかった。

 もとより織田軍に降伏したばかりで、年内のうちに松平勢が逆襲して来ようとは想像だにしていなかったのである。

 元康陣頭指揮のもと進められた広瀬城の攻防戦は半日と経たずに決着。城門を打ち破られ、城内に松平勢の侵入を許してしまった光景を見て、三宅高清はこの世のすべてを呪いたくなった。

「殿!搦手に敵の姿はございませぬ!今ならば城を落ち、どこかで再起を図ることも……!」

「……もうよい。わしはここで自刃する」

「さ、されど……!」

 暗に介錯をさせようとする主君・三宅高清に、あくまでも落ち延びるべきだと主張する家臣たち。だが、そうしている間にも、三宅高清らがいる本丸にも松平勢の先陣が斬り込み、説得に努めていた家臣たちも次々に斬り合いの中、討ち死していく。

「三宅高清殿とお見受けいたす!覚悟っ!」

 自ら太刀打ちして最後の悪あがきをしていた三宅高清も、眼前に現れた若武者によって槍で突き伏せられ、絶命となった。

 その首級は若武者によって、本陣の元康のもとへと届けられたのである。

「おう、三宅高清を討ったは渡辺半蔵であったか」

 三宅高清を討った若武者――渡辺半蔵守綱は首肯する。相変わらずの槍の腕前に元康も感心しながら、次の戦の事を考えていく。

 広瀬城を落とし、三宅高清を討った勢いで梅ヶ坪城をも制圧した元康は仕上げとばかりに拳母城の中条常隆を降すべく進軍。

 信長に攻められそうになったのと同一月に元康に攻められそうになるという非常事態を前に、中条常隆は迷わなかった。

「殿、拳母城の中条常隆より使者が参りました」

「うむ。して、何と申してきたのだ」

「はっ、降伏したいと」

「和睦ではなく、降伏と?」

 取り次いできた近侍の天野三郎兵衛康景の言葉に、元康は一拍空けて答えを告げた。

「よかろう、中条常隆の降伏を認めようぞ。戦など起こらぬに越したことはないゆえな」

「然らば、起請文と人質を提出させまするか」

「否、ひとまず起請文だけとせよ。人質の件はわしの独断では測りかねることゆえな」

「なるほど。では、別に駿府へお伺いを立てる必要もございますな」

「そうじゃ。そなたは使者に起請文を明朝までに提出するよう申し伝えよ。さもなくば、拳母城は灰燼に帰すであろうともな」

「しかと承りました。その旨、使者に伝えて参りまする」

 優秀な近侍・天野三郎兵衛が中条常隆よりの使者に言伝を伝え、明朝どころか当日中に提出された中条常隆による起請文を受理すると、元康もまた、迅速に加茂郡を離れ、岡崎へと凱旋していったのである。

 そうして、永禄三年のうちに西三河における織田方の勢力をあらかた鎮めた元康。

 今川義元が桶狭間合戦にて討ち死となり、台頭した織田信長に味方する勢力と援軍もないまま戦い続けた永禄三年も終わりを迎え、永禄四年を迎えた。

 正月早々戦が起こることもなく、西三河は平穏そのものであった。元康は家臣たちから新年のあいさつを初めて岡崎城に腰を据えて迎えることができたのである。

 それから数日後のことであった。主君・今川氏真が室町幕府相伴衆の格式に列したとの報せが岡崎城へもたらされたのは。

「与七郎、御屋形様が幕府の相伴衆を拝命したとは真のことか」

「はい。そのようにございます。恐らくは、幕府に威光をもって混乱する領国内を鎮めようとの目論見であろうかと」

「なるほど、関東の事も雲行きが怪しいとのことゆえ、国衆らも太守様が討ち死してまもなく、かような事態に陥ったのじゃ。不安にも感じておろうゆえ、今川の御家は幕府の後ろ盾があるのだと示すことは良き手であろう」

「おそらく、幕府ともつながりのある関口刑部少輔さまや無人斎道有さまご尽力の賜物にございましょう」

「加えて、今の公方様ご正室は近衛家の御出身と聞く。もしかすると、寿桂尼さまを通じて近衛家に働きかけがあったやもしれぬ」

 元康の言葉に、石川与七郎数正は「その通りかもしれぬ」と思った。

 なんにせよ、今川家は名門なのである。幕府や公家との繋がりは政治的なものばかりでなく、文化的交流も盛んに行われている。そうしたことを加味すれば、此度の相伴衆就任はなるべくしてなったと言っても過言ではなかった。

「されど、この左衛門尉が聞くところによれば、正月早々長尾弾正少弼率いる反北条の軍勢が武蔵国へ侵入し、関東の諸将と合流しながら相州小田原を目指している、と」

「房総の里見氏も昨年中に北条家に奪われていた安房や上総の所領を奪還し、下総へ進出しているとも聞く。加えて、北条家に味方する下総の結城氏も小田氏治、佐竹義昭、小山秀綱ら七千もの大軍に結城城を攻められ、窮地に陥っているともいう」

 松平家が今川家に従属していることもあり、その同盟先である北条家が不利な情勢に陥っていることは、能天気に喜んでいられるような事柄ではなかった。

 正月早々お通夜のようにどんよりとした、まるで自分たちが戦に敗れたかのような空気に染められる岡崎城大広間。その空気に耐えかね、元康は昨年末より思案していた胸中の考えを重臣一同の前で披露した。

「皆の衆に問いたきことがある」

 珍しく、元康がほとほと困り果てた様子で家臣たちに意見を問い始めた。そこから察しの良い石川与七郎は酒井左衛門尉に目くばせし、なるべく人の数を減らし、出入りを封鎖したのである。

 残ったのは家老である酒井左衛門尉忠次、石川与七郎数正、植村新六郎栄政、石川彦五郎の四名。

 加えて、老臣では数正の祖父・石川安芸守忠成、数正の実父である石川右近大夫康正、酒井雅楽助政家に鳥居伊賀守忠吉、大久保常源・平右衛門忠員兄弟、平岩七之助の実父・平岩金八郎親重。

 他にも高力与左衛門清長、渡辺半蔵守綱、本多作左衛門重次、土居の本多豊後守広孝、本多百助光俊といった面々や、近侍の鳥居彦右衛門元忠、平岩七之助親吉・善十郎康重兄弟、阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、本多平八郎忠勝、榊原小平太といった面々が同席。

 広間の外を固めるのは大久保七郎左衛門忠勝・喜六郎忠豊の兄弟、大久保左衛門次郎忠次とその長子・八郎右衛門忠重、大久保七郎右衛門忠世と治右衛門忠佐、還俗したばかりの忠世と忠佐の実弟・大久保大八郎忠包といった大久保衆、筧平四郎正重や本多肥後守忠真を加えた武闘派の面々であった。

「我らは駿府の御屋形様のご下命によって西三河を防衛して参った。もとより、主命があろうとなかろうと、ここ岡崎は父祖が守りし地ゆえ守るつもりではおった。それはともかく、命を下すだけ下しておきながら、無責任にも駿府の者共は援軍などさらさら送ってこぬではないか」

 その場にいる者たちは初めて元康の口から出た『無責任』、『駿府の者共』という言葉に、すでに元康の内心が吐露されているように感じられてならなかった。

 援軍に来たのは二連木の戸田主殿助重貞のみ。牛久保の牧野に上之郷の鵜殿、奥平や菅沼、西郷といった国衆らはおろか、今川重臣である吉田城の大原肥前守資良と田原城の朝比奈肥後守元智も援軍を寄こすことはなかった。

「よいか、どの国衆も今川重臣も偉そうに意見だけはしてくるくせに、我らが死に物狂いで織田方の加茂郡国衆や水野氏を相手にしていると知っていながら援軍を送ってこない。敵対していないだけで、こんなもの味方でもなんでもないわ!」

 口にしているうちに元康は腹の奥底に貯め込み、誰にも吐き出せずにいた鬱憤が自分でも驚くほど止まることなく出てくる。いつしか元康は、泣いていた。

 家臣たちの面前で涙を流す様は松平宗家の当主・松平蔵人佐元康ではなく、数えで二十歳となった一人の青年の涙であった。

 そんな一人の青年の涙は、広間にいた重臣や近侍たち、外で余計な人間が話を聞かぬよう警固する武人肌な豪傑たちまで伝播していく。

「このままでは松平は今川家のために使い潰される。誰も言わぬようにしていたゆえ、これまで口にはせなんだが、今日という今日こそは言わせてくれ。太守様の頃ではあり得なかったことじゃ!こんな我らの忠義を踏みにじるような理不尽極まる仕打ち、生まれてこの方経験したことがない!わしは怒っておる!援軍も寄越さない主君にも共に同じ主君を戴くすべての者らに対してじゃ!何ゆえか!死んでいくのは常に、わしのために奉公してくれておる者らばかりだからじゃ!」

 息つく暇もなく吐き出される元康史上最高の憤怒。

 口にしながら元康の脳裏を過ぎったのは無残にも討ち死を遂げた足立金弥、服部市平保俊、大岡助十郎忠次、村越平三郎、杉浦勝重、重傷を負った松平太郎左衛門由重、筧平三郎重忠・平十郎重成父子の顔であった。

「わしはもう我慢がならぬ!このままでは今年が松平最後の年となろう!じゃが、わしは父祖より受け継いだ松平を断絶させる気など毛頭ない!阿部大蔵はこの世におらぬが、同じく我が父に奉公し、今川へ従属を決めたそなたらに問いたい。何故、織田でなく今川への従属を選んだのか!」

 元康の悲しみと怒りの矛先を向けられたと取った石川安芸守、鳥居伊賀守らは戸惑う表情を見せながらも、当時の事を思い返しながら言葉を返していく。

「それは、今川義元公や太原崇孚和尚が御存命の今川家の方が、病床に臥して勢いの衰えた織田備後守信秀の織田家よりも隆盛であったからゆえにございます」

「その方が、従属する当家は外敵より守護していただけるのは今川家であると観たからに他なりませぬ」

 石川安芸守、鳥居伊賀守の言葉を目を閉じて傾聴していた元康は、二人の言葉が途切れるとカッと目を見開いた。

「そうじゃ、老臣どもの判断は正しかった。今川家が後ろ盾であったからこそ、幼少のわしを取り戻すことも叶ったのじゃ。されど、今はいずれが隆盛であるか、忌憚なく申してみよ」

 本当に発言しても良いものかと石川安芸守と鳥居伊賀守は顔を見合わせる。だが、二人の考えに、よどみはなかった。

「「織田、にございまする」」

 今川家親類衆でもある主君を前に口にすることなど、絶対に許されない言葉。そう思って発した言葉を、元康は笑顔とともに受け取った。

「そうじゃ。所領こそ今川の方が広大であるが、まったく統制が取れておらぬ。対して、織田はそのようなことはない。従属している水野家にまで意向が行き届いておる。そのような敵に半年もの間、独力で渡り合った我らは強い。じゃが、これ以上は無理じゃ。ならば、巨大だがまとまりのない今川を切り崩す方が易しいとは思わぬか」

 今は亡き今川義元庇護の下、ここまで成長してきて、そのことに人一倍感謝を忘れぬ元康から発された、耳を疑う一言。

「聞こえなんだか。一枚岩の織田よりも、一枚岩となってはおらぬ今川を切り崩す方が易しいとは思わぬか。わしはそう申しておる」

 口元を見れば確かに笑っているが、目元は笑っていない弱冠二十歳の青年君主の表情に広間にいる全員の視線が集まる。

 この意思表示は後に三州錯乱と氏真に評されることになる出来事の、ほんの序章に過ぎなかった――
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