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第4章 苦海の章
第119話 鬼が出るか蛇が出るか
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怒涛の勢いで永禄四年の正月も過ぎ去り、早くも二月へ突入した。暦の上では春を迎えるものの、まだまだ厳しい寒さが残る季節である。
畿内では松永弾正久秀が将軍足利義輝よりら桐紋と塗輿の使用を許され、三日後には従四位下に昇叙。この桐紋と塗輿の使用許可は主君である三好長慶・義長父子と同等の待遇であった。
そんな松永弾正は主君・長慶と相住、すなわち同居の関係であり、側近として特に重用されていた。
北近江の浅井新九郎賢政改め浅井備前守長政も近江方面から美濃国へ出陣するなど、二月も畿内方面では盛んに動きがあった。
何より、元康の気にかかっている関東情勢でいえば、上野国厩橋にて越年して 先月より武蔵国へ侵入した長尾弾正少弼景虎は松山城を経て、ついに相模国へ南下し、鎌倉を攻略したのである。
元康の主君である今川氏真や嫡男・竹千代のいる駿府の隣国相模にまで長尾弾正少弼率いる軍勢が押し寄せていた。
こうなっては、氏真としても一層西三河支援どころではなくなっていくのは当然といえば当然のことであり、それは誰の眼から見ても明白であった。
西三河情勢の雲行きが怪しいことに加えて、戦国大名今川氏の支援が政治的にも軍事的にも一切受けられない現状、元康は今後の今川家との関係見直しを考慮せざるを得ない。
そんな折の事、思いがけず岡崎城の元康のもとへ苅谷から使者が訪れたのである。それは桶狭間合戦後、大高城にいた元康たちを三河へ逃す案内役を務めた、とある人物であった。
「松平蔵人佐元康様、お久しゅうございます。浅井六之助忠久、此度も我が主水野下野守信元より密命を受け、罷り越した次第にございまする」
寒さのため、鼻先を赤くし、白い吐息を漏らしながら口上を述べる浅井六之助。三十一になった壮年は時おりにやにやと笑みを漏らしながら元康相手に口上を述べている。
「浅井六之助殿、此度は敵方である我らが岡崎城へお越しとは、さしずめ当城を攻め落とさんがため、内情を視察しに見えられたのでござろう」
「ははは、蔵人佐さまは某の心の内を分かっておいでながら、某を試しておられる」
「おう、試したことは詫びよう。して、そなたの主より命じられた密命とやら、ここで素直に白状いたせ。さもなくば、生きてこの城から出ることは叶わぬぞ」
浅井六之助は敏感に周囲から感じられる殺気を察知した。元康と同席している家臣たちからは殺気など毛ほども感じられないが、壁一枚隔てた向こう側からはおびただしい数の殺気が我が身に集まっているのが感じられる。
家臣らの暴走でないことは元康の不気味な笑みを見ていれば、浅井六之助にも容易に理解できた。それゆえに、ここは正直に用件を告げるが身のためと判断した。
「然らば、言上いたしましょう。我が主は『これ以上、甥である松平蔵人佐様と骨肉の争いを続ける気は毛頭ございませぬ。ゆえ、ここらで松平家と水野家、国衆同士の争いは停止といたしたいと。また、蔵人佐様はさぞかし新たな盟友探しに頭を悩ませておられましょうゆえ、伯父甥の誼で仲立ちいたしたい』と、かように申しておりました」
「ふっ、国衆同士の争い、か。伯父上もまこと面白いことを申す」
改めて国衆であることを明示してくるのには水野下野守なりの意図があった。それに元康とて気づかないはずはなかったし、日夜そのことで頭を悩ませているのだから、見落とすはずがなかった。
国衆とは元来、自らを庇護してくれる勢力に従属するもの。水野下野守は暗に今川家は松平家に対して、その役割を果たしているのだろうか、と示しているのである。
そのうえで、身内同士である松平と水野は戦争を停止すること、『新たな盟友探しの仲立ち』を買って出てきた。すべての意図が汲み取れると、元康は笑いを腹のうちでは抑えきれそうもなかった。
「なるほど。伯父上の申したき儀、この元康にもよう伝わりました。不毛な国衆同士の諍い事、今後一切起こさぬと誓いましょうぞ。付け加えて、伯父上が申される盟友探しの仲立ちもやぶさかではないと返答のほどを」
「ははっ、然らば立ち戻り、主にその旨しかとお伝えいたしまする。では、これにて失礼仕る!」
礼儀正しく一礼をして広間を退出していく浅井六之助。その姿が見えなくなると、元康はそれまで腹の奥に抑え込んでいたものをゆっくりと吐き出す。
「皆の者、先月わしが申したことはよく覚えておろう。松平を守るため、わしは決断の時が来たように思う。皆も存じておろうが、太守様生前には多大な御恩を受けた。決してその恩義を忘れたわけではないが、このような仕打ちを受けては当主として黙って見過ごすわけには参らぬ。それゆえの此度の決心じゃ」
先々代・松平清康存命時、三河一統を成し遂げた松平家も清康亡き後は内乱に次ぐ内乱で衰退の一途を辿り、先代・広忠の代には今川家へ従属せざるを得なかった。
されど、足掛け十四年に及ぶ雌伏の時を経て、松平家は元康のもと、力を盛り返しつつある。その好機を今川家への忠義を貫いてふいにするのは惜しまれる。
「西との和睦については、交渉事に優れた家老の石川与七郎数正を筆頭に、同じく家老の植村新六郎栄政と本多百助光俊の三名に託すことといたす」
「石川与七郎数正、しかと大任を全うできるよう努めまする!」
「植村新六郎栄政、委細承知いたしました!」
「本多百助光俊、右に同じく!」
元康は石川与七郎、植村新六郎、本多百助の頼もしい面構えを流し見ると、酒井左衛門尉忠次へと視線を移す。
「かねており命じておった山中城のこと、そなたに託す。大久保衆と力を合わせ、必ずや事を成し遂げよ!」
「ははっ!三年前、殿が初陣にて華々しい戦果を挙げられた折には旧領の一部である山中領三百貫文が返還されましたが、この手で山中領のすべてを取り戻してご覧にいれまする!」
「うむ、頼むぞ。来月六日は父の、今年の十二月五日は祖父の二十七回忌が控えておる。それまでに、旧領を取り戻し、泉下の父祖の魂を安んじたいのじゃ。しかと頼んだぞ」
「ははっ!万事この酒井左衛門尉忠次めにお任せくだされ!」
山中領が広忠存命時の松平家の所領であったことを鮮明に覚えている酒井左衛門尉は涙をこらえながら、大命を拝した。駿府へ無断で敵方との和睦を進行し、あまつさえ今川家が抑えている旧領を武で以て奪い返そうとは、叛逆に相違ないのである。
されど、元康としては父の十三回忌や祖父の二十七回忌が重なったこともあり、この年こそ松平家の分水嶺に最も相応しいと考えてのことでもあった。
「夏目次郎左衛門尉広次!」
「ははっ!」
「そなたは深溝城の松平大炊助好景殿のもとへ向かい、板倉弾正重定が在番する中島城を奪い取るよう伝えよ。奪った後は深溝松平管轄の城とする旨もしかと伝えよ」
「承知!」
「その後は高木長次郎広正とともに額田郡の岡城を攻めて攻略せよ。中島城を放逐された板倉弾正が逃げる先は岡城となるであろうで、板倉弾正が入った直後に吸収するようにせよ。さりとて、決して殺めてはならぬ!」
「しかと、承りました!」
「高木長次郎広正も同じく!」
元康の命を受けて、和睦交渉の支度にかかる者。旧領である山中領奪還へ向かう者。目障りな今川家臣が在番する城の攻略へ向かう者。
様々であったが、まだ松平は味方であると思われているうちに旧領を奪還してしまおうという元康の考えが見てとれる。
「石川彦五郎」
「ははっ!これにおりまする!」
「そなたには仕上げとして烏屋ヶ根城攻略を命じたい。途次である山中城陥落が成せ、長沢松平家との交渉が成せた暁には、ただちに進軍して城を奪うのじゃ」
「はっ!然らば長沢松平家の松平上野介殿と図って事を進めまする!」
「そうしてくれい」
元康の密命を受けた家老であり母方の従兄である石川彦五郎も秘かに動き出した。こうした本領回復の動きは瞬く間に実行されていく。
ここは岡崎城から見て南西に位置する中島城。城に在番する板倉弾正重定は深夜、突如として挙がった鬨の声に驚き、目を覚ました。
「何事じゃ!」
「てっ、敵襲にございまする!」
「織田か、水野か!」
「分かりませぬが、西より多く人馬の音がいたしまするゆえ、間違いなかろうかと!」
板倉弾正重定としては舌打ちせざるを得なかった。自らの手抜かりに苛立ったこともあるが、矢矧川対岸の桜井、福釜、藤井に何ら動きが見られないことにも苛立っていた。
何なら、東の深溝など目と鼻の先であるのに、何をしているのかと苛立ちをぶちまけたくもなる。
だが、板倉弾正重定最大の手落ちは夜襲を許したことに非ず、敵を織田か水野であると誤認してしまったことにあった。
「殿、すでに門を打ち破り、城内へ突入いたしております」
「板倉八右衛門よ、西よりの攻撃が存外首尾よくいったぞ」
「はい。わずかながら蔵に収納していた織田や水野の旗指物がこのように役立つとは」
「いかにも。加えて、西から攻撃されれば、板倉弾正重定めは東へ逃げる。額田郡まで落ちてもらわねばならぬのだから、ちょうどよいわ」
あえて西へ回り込んで本陣を構えた深溝松平大炊助好景。老境に差し掛かった四十四の武士はその夜、生気を得ていた。その二つ下の板倉八右衛門好重もまた、してやったりと言わんばかりの表情をしている。
「主殿助様よりご注進!」
「おう、倅からか!申してみよ!」
中島城に攻め入った二十五になる嫡子・主殿助伊忠よりの報告に、前のめりになる松平大炊助に伝令は二の句を継いでいく。
「はっ、すでに城の大方を占領いたしました!」
「おお、でかした!」
「加えて、在番していた板倉弾正重定はわずかな手勢とともに額田郡の方へ落ちていった模様にございます」
「よしっ!」
人間、考えていたことのすべてが思うように成せた時の喜びというものはこの上ないものである。
練り上げた策の通り、中島城奪取に成功した深溝松平勢は勝ち鬨を挙げ、すぐさま岡崎城へ戦勝報告の使者を走らせる。
「よし、中島城には倅の主殿助を入れて守らせる。我らは夜明けまでに深溝城へ撤退し、何食わぬ顔で朝を迎えるのじゃ!急げ!」
夜のうちに深溝松平勢が事を成した頃、岡城周囲で待機する松平宗家の軍勢は板倉弾正重定が逃げ込んでくるのを今か今かと手ぐすねを引いていた。
そして、待ちに待った敗残兵が岡城へ駆けこんでいく。
「高木長次郎殿、参りましょうぞ」
「うむ。決して火矢を使ってはならぬぞ!よし、攻撃開始じゃ!弓隊、放て!」
夏目次郎左衛門尉の号令によって放たれる戦慣れした松平勢の弓矢が城門の番をする者をあっという間に射倒し、城内を巡回する兵の命をも無慈悲に奪っていく。
「よし、高木長次郎広正が先陣いたす!者ども、続けや続け!板倉弾正ら今川兵を城から追い出せっ!」
夜陰に紛れての不意打ちに逃げ込んだばかりの板倉弾正重定を含め、在番の今川兵は狼狽する。
「なっ、西から鬨の声じゃ!」
「味方が射られた!敵襲!敵襲!」
「あっ、敵が早くも城門を打ち破らんとしておるぞ!」
氏真より中島城の守備を託されたほどの武士である板倉弾正であっても、こうまで収拾のつかない事態となっては、采配の執りようがなかった。
「板倉弾正さま!すでに逃亡兵が出始めております!」
「じょ、城門が破られましてございますっ!まもなく敵がこちらへやって参りまする!」
板倉弾正は目を凝らして敵の姿を確認しようにも、こうも灯りが少なくてはどうしようもなかった。
「くっ、こうなれば一度吉田城まで退くことといたす!皆、東へ!東へ落ちるのだ!」
かくして、板倉弾正が中島城より逃げ込んだ額田郡の岡城もまた攻落と相成った。深溝松平家が手中に収めた中島城とは異なり、岡城は松平宗家直轄の城として抑えられることとなったのである。
一方、十四年前に今川軍の三河侵攻時に奪われ、作手奥平氏に与えられていた山中領もまた、酒井左衛門尉率いる松平勢による奇襲が決行されていた。
「それっ、臆するでない!敵は油断しておる!今のうちに城を取り戻せ!」
向かってくる敵兵を一太刀で斬り伏せながら陣頭指揮を執るのは酒井左衛門尉。三十五となり、十三年前よりも格段に戦の経験を積んだ武士の鮮やかな采配によって山中城もまた、瞬く間に水の手や曲輪が次々と占領されていく。
「よし、山中城の城占拠は大方成せた!我らの勝利ぞ!勝ち鬨を挙げよ!」
陥落した山中城より旧領の一つを回復した松平勢の咆哮が轟く。ここに、元康の旧領回復の作戦が開始されたのである。
畿内では松永弾正久秀が将軍足利義輝よりら桐紋と塗輿の使用を許され、三日後には従四位下に昇叙。この桐紋と塗輿の使用許可は主君である三好長慶・義長父子と同等の待遇であった。
そんな松永弾正は主君・長慶と相住、すなわち同居の関係であり、側近として特に重用されていた。
北近江の浅井新九郎賢政改め浅井備前守長政も近江方面から美濃国へ出陣するなど、二月も畿内方面では盛んに動きがあった。
何より、元康の気にかかっている関東情勢でいえば、上野国厩橋にて越年して 先月より武蔵国へ侵入した長尾弾正少弼景虎は松山城を経て、ついに相模国へ南下し、鎌倉を攻略したのである。
元康の主君である今川氏真や嫡男・竹千代のいる駿府の隣国相模にまで長尾弾正少弼率いる軍勢が押し寄せていた。
こうなっては、氏真としても一層西三河支援どころではなくなっていくのは当然といえば当然のことであり、それは誰の眼から見ても明白であった。
西三河情勢の雲行きが怪しいことに加えて、戦国大名今川氏の支援が政治的にも軍事的にも一切受けられない現状、元康は今後の今川家との関係見直しを考慮せざるを得ない。
そんな折の事、思いがけず岡崎城の元康のもとへ苅谷から使者が訪れたのである。それは桶狭間合戦後、大高城にいた元康たちを三河へ逃す案内役を務めた、とある人物であった。
「松平蔵人佐元康様、お久しゅうございます。浅井六之助忠久、此度も我が主水野下野守信元より密命を受け、罷り越した次第にございまする」
寒さのため、鼻先を赤くし、白い吐息を漏らしながら口上を述べる浅井六之助。三十一になった壮年は時おりにやにやと笑みを漏らしながら元康相手に口上を述べている。
「浅井六之助殿、此度は敵方である我らが岡崎城へお越しとは、さしずめ当城を攻め落とさんがため、内情を視察しに見えられたのでござろう」
「ははは、蔵人佐さまは某の心の内を分かっておいでながら、某を試しておられる」
「おう、試したことは詫びよう。して、そなたの主より命じられた密命とやら、ここで素直に白状いたせ。さもなくば、生きてこの城から出ることは叶わぬぞ」
浅井六之助は敏感に周囲から感じられる殺気を察知した。元康と同席している家臣たちからは殺気など毛ほども感じられないが、壁一枚隔てた向こう側からはおびただしい数の殺気が我が身に集まっているのが感じられる。
家臣らの暴走でないことは元康の不気味な笑みを見ていれば、浅井六之助にも容易に理解できた。それゆえに、ここは正直に用件を告げるが身のためと判断した。
「然らば、言上いたしましょう。我が主は『これ以上、甥である松平蔵人佐様と骨肉の争いを続ける気は毛頭ございませぬ。ゆえ、ここらで松平家と水野家、国衆同士の争いは停止といたしたいと。また、蔵人佐様はさぞかし新たな盟友探しに頭を悩ませておられましょうゆえ、伯父甥の誼で仲立ちいたしたい』と、かように申しておりました」
「ふっ、国衆同士の争い、か。伯父上もまこと面白いことを申す」
改めて国衆であることを明示してくるのには水野下野守なりの意図があった。それに元康とて気づかないはずはなかったし、日夜そのことで頭を悩ませているのだから、見落とすはずがなかった。
国衆とは元来、自らを庇護してくれる勢力に従属するもの。水野下野守は暗に今川家は松平家に対して、その役割を果たしているのだろうか、と示しているのである。
そのうえで、身内同士である松平と水野は戦争を停止すること、『新たな盟友探しの仲立ち』を買って出てきた。すべての意図が汲み取れると、元康は笑いを腹のうちでは抑えきれそうもなかった。
「なるほど。伯父上の申したき儀、この元康にもよう伝わりました。不毛な国衆同士の諍い事、今後一切起こさぬと誓いましょうぞ。付け加えて、伯父上が申される盟友探しの仲立ちもやぶさかではないと返答のほどを」
「ははっ、然らば立ち戻り、主にその旨しかとお伝えいたしまする。では、これにて失礼仕る!」
礼儀正しく一礼をして広間を退出していく浅井六之助。その姿が見えなくなると、元康はそれまで腹の奥に抑え込んでいたものをゆっくりと吐き出す。
「皆の者、先月わしが申したことはよく覚えておろう。松平を守るため、わしは決断の時が来たように思う。皆も存じておろうが、太守様生前には多大な御恩を受けた。決してその恩義を忘れたわけではないが、このような仕打ちを受けては当主として黙って見過ごすわけには参らぬ。それゆえの此度の決心じゃ」
先々代・松平清康存命時、三河一統を成し遂げた松平家も清康亡き後は内乱に次ぐ内乱で衰退の一途を辿り、先代・広忠の代には今川家へ従属せざるを得なかった。
されど、足掛け十四年に及ぶ雌伏の時を経て、松平家は元康のもと、力を盛り返しつつある。その好機を今川家への忠義を貫いてふいにするのは惜しまれる。
「西との和睦については、交渉事に優れた家老の石川与七郎数正を筆頭に、同じく家老の植村新六郎栄政と本多百助光俊の三名に託すことといたす」
「石川与七郎数正、しかと大任を全うできるよう努めまする!」
「植村新六郎栄政、委細承知いたしました!」
「本多百助光俊、右に同じく!」
元康は石川与七郎、植村新六郎、本多百助の頼もしい面構えを流し見ると、酒井左衛門尉忠次へと視線を移す。
「かねており命じておった山中城のこと、そなたに託す。大久保衆と力を合わせ、必ずや事を成し遂げよ!」
「ははっ!三年前、殿が初陣にて華々しい戦果を挙げられた折には旧領の一部である山中領三百貫文が返還されましたが、この手で山中領のすべてを取り戻してご覧にいれまする!」
「うむ、頼むぞ。来月六日は父の、今年の十二月五日は祖父の二十七回忌が控えておる。それまでに、旧領を取り戻し、泉下の父祖の魂を安んじたいのじゃ。しかと頼んだぞ」
「ははっ!万事この酒井左衛門尉忠次めにお任せくだされ!」
山中領が広忠存命時の松平家の所領であったことを鮮明に覚えている酒井左衛門尉は涙をこらえながら、大命を拝した。駿府へ無断で敵方との和睦を進行し、あまつさえ今川家が抑えている旧領を武で以て奪い返そうとは、叛逆に相違ないのである。
されど、元康としては父の十三回忌や祖父の二十七回忌が重なったこともあり、この年こそ松平家の分水嶺に最も相応しいと考えてのことでもあった。
「夏目次郎左衛門尉広次!」
「ははっ!」
「そなたは深溝城の松平大炊助好景殿のもとへ向かい、板倉弾正重定が在番する中島城を奪い取るよう伝えよ。奪った後は深溝松平管轄の城とする旨もしかと伝えよ」
「承知!」
「その後は高木長次郎広正とともに額田郡の岡城を攻めて攻略せよ。中島城を放逐された板倉弾正が逃げる先は岡城となるであろうで、板倉弾正が入った直後に吸収するようにせよ。さりとて、決して殺めてはならぬ!」
「しかと、承りました!」
「高木長次郎広正も同じく!」
元康の命を受けて、和睦交渉の支度にかかる者。旧領である山中領奪還へ向かう者。目障りな今川家臣が在番する城の攻略へ向かう者。
様々であったが、まだ松平は味方であると思われているうちに旧領を奪還してしまおうという元康の考えが見てとれる。
「石川彦五郎」
「ははっ!これにおりまする!」
「そなたには仕上げとして烏屋ヶ根城攻略を命じたい。途次である山中城陥落が成せ、長沢松平家との交渉が成せた暁には、ただちに進軍して城を奪うのじゃ」
「はっ!然らば長沢松平家の松平上野介殿と図って事を進めまする!」
「そうしてくれい」
元康の密命を受けた家老であり母方の従兄である石川彦五郎も秘かに動き出した。こうした本領回復の動きは瞬く間に実行されていく。
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「何事じゃ!」
「てっ、敵襲にございまする!」
「織田か、水野か!」
「分かりませぬが、西より多く人馬の音がいたしまするゆえ、間違いなかろうかと!」
板倉弾正重定としては舌打ちせざるを得なかった。自らの手抜かりに苛立ったこともあるが、矢矧川対岸の桜井、福釜、藤井に何ら動きが見られないことにも苛立っていた。
何なら、東の深溝など目と鼻の先であるのに、何をしているのかと苛立ちをぶちまけたくもなる。
だが、板倉弾正重定最大の手落ちは夜襲を許したことに非ず、敵を織田か水野であると誤認してしまったことにあった。
「殿、すでに門を打ち破り、城内へ突入いたしております」
「板倉八右衛門よ、西よりの攻撃が存外首尾よくいったぞ」
「はい。わずかながら蔵に収納していた織田や水野の旗指物がこのように役立つとは」
「いかにも。加えて、西から攻撃されれば、板倉弾正重定めは東へ逃げる。額田郡まで落ちてもらわねばならぬのだから、ちょうどよいわ」
あえて西へ回り込んで本陣を構えた深溝松平大炊助好景。老境に差し掛かった四十四の武士はその夜、生気を得ていた。その二つ下の板倉八右衛門好重もまた、してやったりと言わんばかりの表情をしている。
「主殿助様よりご注進!」
「おう、倅からか!申してみよ!」
中島城に攻め入った二十五になる嫡子・主殿助伊忠よりの報告に、前のめりになる松平大炊助に伝令は二の句を継いでいく。
「はっ、すでに城の大方を占領いたしました!」
「おお、でかした!」
「加えて、在番していた板倉弾正重定はわずかな手勢とともに額田郡の方へ落ちていった模様にございます」
「よしっ!」
人間、考えていたことのすべてが思うように成せた時の喜びというものはこの上ないものである。
練り上げた策の通り、中島城奪取に成功した深溝松平勢は勝ち鬨を挙げ、すぐさま岡崎城へ戦勝報告の使者を走らせる。
「よし、中島城には倅の主殿助を入れて守らせる。我らは夜明けまでに深溝城へ撤退し、何食わぬ顔で朝を迎えるのじゃ!急げ!」
夜のうちに深溝松平勢が事を成した頃、岡城周囲で待機する松平宗家の軍勢は板倉弾正重定が逃げ込んでくるのを今か今かと手ぐすねを引いていた。
そして、待ちに待った敗残兵が岡城へ駆けこんでいく。
「高木長次郎殿、参りましょうぞ」
「うむ。決して火矢を使ってはならぬぞ!よし、攻撃開始じゃ!弓隊、放て!」
夏目次郎左衛門尉の号令によって放たれる戦慣れした松平勢の弓矢が城門の番をする者をあっという間に射倒し、城内を巡回する兵の命をも無慈悲に奪っていく。
「よし、高木長次郎広正が先陣いたす!者ども、続けや続け!板倉弾正ら今川兵を城から追い出せっ!」
夜陰に紛れての不意打ちに逃げ込んだばかりの板倉弾正重定を含め、在番の今川兵は狼狽する。
「なっ、西から鬨の声じゃ!」
「味方が射られた!敵襲!敵襲!」
「あっ、敵が早くも城門を打ち破らんとしておるぞ!」
氏真より中島城の守備を託されたほどの武士である板倉弾正であっても、こうまで収拾のつかない事態となっては、采配の執りようがなかった。
「板倉弾正さま!すでに逃亡兵が出始めております!」
「じょ、城門が破られましてございますっ!まもなく敵がこちらへやって参りまする!」
板倉弾正は目を凝らして敵の姿を確認しようにも、こうも灯りが少なくてはどうしようもなかった。
「くっ、こうなれば一度吉田城まで退くことといたす!皆、東へ!東へ落ちるのだ!」
かくして、板倉弾正が中島城より逃げ込んだ額田郡の岡城もまた攻落と相成った。深溝松平家が手中に収めた中島城とは異なり、岡城は松平宗家直轄の城として抑えられることとなったのである。
一方、十四年前に今川軍の三河侵攻時に奪われ、作手奥平氏に与えられていた山中領もまた、酒井左衛門尉率いる松平勢による奇襲が決行されていた。
「それっ、臆するでない!敵は油断しておる!今のうちに城を取り戻せ!」
向かってくる敵兵を一太刀で斬り伏せながら陣頭指揮を執るのは酒井左衛門尉。三十五となり、十三年前よりも格段に戦の経験を積んだ武士の鮮やかな采配によって山中城もまた、瞬く間に水の手や曲輪が次々と占領されていく。
「よし、山中城の城占拠は大方成せた!我らの勝利ぞ!勝ち鬨を挙げよ!」
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小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
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公式HP:アラウコの叫び
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