不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第126話 善明堤の戦い

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 西尾城の奪取と牛久保城攻めを契機に着々と味方を増やしつつある元康であったが、未だ優勢とは言い難く、切り崩しに手間取っていた。

 西尾城の吉良三郎義安と敵対している幡豆郡東条城には吉良義昭と忠臣・富永伴五郎忠元、宝飯郡牛久保城の牧野民部丞成定、竹谷松平家と小競り合いを繰り広げる宝飯郡上之郷城の鵜殿藤太郎長照、幡豆郡の小笠原左衛門佐広重。

 代替わりしてなお元康に奪われた山中領の支配回復を目論む設楽郡作手亀山城の奥平監物丞定能、加茂郡大給城の松平和泉守親乗、白倉城の山吉田鈴木重勝、大給松平家と縁戚で阿摺衆と犬猿の仲である足助真弓山城の鈴木重直。

 長沢の鳥屋ヶ根城に在番している糟屋宗益をはじめとした今川被官衆、田原城代の朝比奈元智、吉田城代の小原肥前守鎮実、二連木城の戸田主殿助重定、宝飯郡伊奈城の本多助太夫忠俊といった者らは敵対姿勢を明確にしているのだ。

 こうした三河に在する今川方だけでも相当数であるのに、ここへ遠江や駿河の今川勢を加えれば、数のうえでは松平方が圧倒的に劣勢であった。

 ――そんな折の永禄四年四月十五日。

 牛久保城攻めより四日が経過したこの日に元康が菅沼小法師やその叔父・菅沼弥三右衛門定直といった田峯菅沼氏に宛てて本領安堵と一味衆の進退保証、遠江国での所領宛行約束などを認める旨の書状を用意している頃、西三河の南部・幡豆郡で一大事が起ころうとしていた。

「義昭様!中島城に動きがございました!」

「おお、富永伴五郎ではないか!して、その動きとやらはいかなるものじゃ」

「はっ、中島城を守る深溝松平家の松平主殿助伊忠が手勢を率いて中島城を出陣。どこぞへ援軍に向かったものと思われまする!」

「それはよい!この機に中島城を奪ってしまおうぞ」

 忠義に厚い普代家臣・富永伴五郎忠元よりの熱意溢れる報告に中てられ、すっかり中島城攻略に乗り気の東条城の吉良義昭。

 齢二十五と若いながらも才気煥発な富永伴五郎はその才覚を持って吉良義昭に気に入られていた。そんな彼の傍らに侍している富永伴五郎よりも七ツ下の少年・大河内善兵衛正綱より待ったがかけられる。

「富永殿はかように申しておりますが、これは我らをおびき出さんがための計略とも考えられまする。でなくば、取ってくださいとばかりに前線の城を手薄にするとは奇怪にございまする」

「むっ、大河内善兵衛が申すことも一理ある。伴五郎、罠である可能性はあるか」

「斥候からの報告によれば、中島城に詰めていた深溝松平勢は幡豆小笠原氏に苦戦する西尾城の酒井雅楽助らへの援軍として向かった様子。我らがこれまで城に籠るばかりで動こうとしないことから、留守にしても攻められはしないとの油断であるかと」

「左様か。となれば、警戒すべきは深溝城の松平大炊助好景が動きであるか」

 中島城を出陣した松平主殿助は富永伴五郎と同じく齢二十五と若年であるが、その父・大炊助は齢四十四にもなり、各地の戦を経験してきた名の知れた勇士である。そんな古強者がどう動くのかによって、中島城攻略の動きも変わってくるというもの。

「すでに中島城へ援軍に向かうべく深溝城では戦支度が進められておるとのことにございます」

「となれば、急ぎ城攻略へ向かわねばならぬか」

「いえ、城は攻めませぬ」

「な、なんじゃと!?」

 中島城を奪うべきだと進言した富永伴五郎の口から出たのは、城は攻めないという言葉。その真意を測りかねた吉良義昭からは素っ頓狂な声があがった。

「何も中島城攻略を諦めるわけではございませぬ」

「では、いかなるわけじゃ」

「呑気に中島城まで出張ってくる松平大炊助を待ち伏せて討ち取ってしまうのです」

「なっ、そ、そのようなことができ得るのか!?」

 吉良義昭の言葉に黙ってうなずく富永伴五郎。そんな彼の力強く頷く様にこれは何か秘策があるのだと吉良義昭にも感じ取ることができた。

 その富永伴五郎が立てた計略を聞かされた吉良義昭は即座に出陣の許可を出し、怪訝そうな顔つきの大河内善兵衛もそれ以上意見を申すことはせず、吉良義昭より三百もの兵を与えられて勇躍する富永伴五郎の背を静かに見送るばかりであった。

 一方の深溝城では東条城での動きなど知る由もなく、当主・松平大炊助が重臣で二つ年下の板倉八右衛門好重とともに手勢を率いて出陣。手薄となっている中島城を目指したのである。

 そのほかにも松平大炊助の弟である松平定政、浅野定清、市川好之、松平景行といった者たちも後に続いていった。

「八右衛門、蔵人佐殿からは青野松平とともに東条城攻略を命じられたが、さほど守りが堅いわけでもない東条城など我らだけでも容易く攻め取れようぞ」

「なるほど東条城の吉良義昭など我らだけで十分にございましょう。されど、蔵人佐殿が警戒しておられるのは富永伴五郎忠元にございます。あの者は吉良家の忠臣であり、戦上手でありますからな」

「ふん、所詮は二十歳そこらの小童に我らが手こずると思われておるのが心外の極みじゃ。されど、蔵人佐殿ほどの御仁が警戒しておるのじゃ、我らも警戒を強めるべきなのであろうな」

 当主・松平大炊助が重臣の板倉八右衛門と東条吉良家のことを談じながら西へ進軍していると、足利二つ引の旗を付けた軍勢が道の左右より襲いかかってきたのである。

「申し上げます!道の左右より敵襲!東条城の吉良が手の者かと思われまする!」

「数は!」

「我らの半数にも満たない五十そこらにございます!」

「ははは、敵の手の内が読めたわ。中島城へ向かう我らを襲って撤退させ、しかる後に中島城を奪ってしまおうという腹じゃろう。さりとて、そのような少数で我らを討てると思われたとは、侮られたものぞ。よし、一兵たりとも逃がすでない!」

 敵の狙いを看破した松平大炊助指揮する深溝松平勢は左右より襲撃してきた吉良勢を一蹴。四半刻もせぬ間に襲撃者の過半を討ち取ってしまったのである。

「殿、敵が逃げてゆきますぞ」

「おう、逃がすものか!追えっ!一兵たりとて討ち漏らすでないぞ!」

 歴戦の勇士・松平大炊助の号令に奮起した深溝松平勢は逃げる吉良兵を追い討ちしていく。そんな深溝松平勢が永良の善明堤近くに差し掛かった頃、異変が起こった。

「なんじゃ!」

「殿、敵に囲まれましたぞ!我らは百余り。対して、包囲する敵勢は三百はおりましょう」

「ちっ、先ほど仕掛けて参ったは我らをここまで釣りださんがための囮であったか!」

 まんまと図られた深溝松平勢へ、栗毛の馬に跨った若武者が大声で呼びかけていく。

「某、吉良義昭様にお仕えする富永伴五郎忠元と申す!深溝松平の強者たちよ!ここで降伏するというのであらば、命までは取らぬが、いかがいたす!」

 見下した態度で降伏を呼び掛けてきたのが板倉八右衛門からも名前の挙がっていた富永伴五郎であると知った松平大炊助は切歯扼腕する。

「黙れっ!東条吉良の弱兵が数百おろうが、蹴散らして戻るまで!者共!あの小憎らしい小童を討ち取れっ!」

 当主自ら太刀を抜き、馬を走らせて敵勢へと駆け入っていく。その後に続くように重臣・板倉八右衛門らが続き、たちまち吉良勢との白兵戦を展開する。

「うおっ!?」

 しかし、東条吉良勢との戦闘の最中、奮戦する松平大炊助の愛馬の腹帯が切れて鞍が動いてしまったのである。これに驚き、落馬してはなるまいと馬から飛び降りた松平大炊助であったが、さらなる悲劇が彼を襲う。

「うぬっ!」

 吉良勢の尾関修理が放った矢が馬から飛び降りた松平大炊助に命中したのである。首元に矢が突き立った松平大炊助は思いがけない重傷を受けて倒れる。そんな松平大炊助は組み付いてきた山岡薬医と格闘した末、首を斬られてしまったのである。享年四十四。

 思いがけない当主の戦死に、深溝松平勢にも動揺が走る。さらには松平定政、浅野定清、市川好之、松平景行といった松平大炊助好景の弟たちも続けざまに討ち取られる大惨事となってしまう。

 そんな中でも単騎奮戦していた板倉八右衛門であったが、瞬く間に兜首を欲する敵が群がり、体のあちこちに手傷を負わされていた。

「くっ、殿!八右衛門もここまでのようにございまする……!某も今、御傍へ――」

 刹那、後ろから駆け寄ってきた足軽が突き出した槍が板倉八右衛門の胸部を貫き、深溝松平家の重臣である板倉八右衛門好重もまた、主君らの後を追うように善明堤の地にてあえなく討ち死にと相成った。享年四十二。

 この善明堤の戦いにおける大戦果は悠々と東条城へ凱旋した富永伴五郎によって、吉良義昭へと報告されたのである。

「なんと!見事、松平大炊助ら深溝松平勢を壊滅に追いやったとな!」

「はっ!善明堤にて当主である松平大炊助をはじめ、松平定政、浅野定清、市川好之、松平景行といったその弟らも討ち取りましてございます!また、重臣である板倉八右衛門まで始末できたことは望外の戦果にございました!これにて、深溝松平は一気に弱体化しましょう」

「ほほほ、予に楯突く愚か者の末路とはかくあるべし。うむ、実に胸が空く想いぞ。善兵衛!金兵衛!宴の用意をせよ!」

 主君・吉良義昭の側に控えていた大河内善兵衛正綱と大河内金兵衛秀綱は静かに一礼すると、戦勝祝いの宴の支度へ取りかかっていく。

「富永伴五郎!実に天晴な勝利であった!」

「はっ、お褒めに預かり恐悦至極に存じます!」

「して、次なる一手はいかがいたす!」

 次の方策と聞かれ、富永伴五郎は少し考える素振りを見せてから、答えを示す。

「ひとまずは大人しくいたしましょうぞ。深溝松平勢が仇討ちに動いてくることは考えられまするが、何よりも警戒せねばならぬのは岡崎城の松平蔵人佐がいかに対処するか。その一点に尽きまする」

「うむ。じゃが、これほど手痛い敗戦を蒙ったのじゃ。和議を申し出てくることは?」

「まず、ありますまい。今しばらくは様子を見るのがよろしいかと」

 無二の忠臣として信頼している家老・富永伴五郎の言葉を吉良義昭は鵜吞みにした。だが、さすがの富永伴五郎も戦術家ではあったが、戦略家ではない。ゆえに、後の先を狙うことしかできないのであった。

 そんな善明堤における深溝松平大炊助戦死の報は嫡男・主殿助伊忠の元へ直ちに報じられ、その松平主殿助より岡崎城へと注進されたのである。

「馬鹿なっ!大炊助殿とそのご舎弟らに加え、重臣の板倉八右衛門殿までが討ち死にしたと!?」

「はっ!我が主、伊忠はただちに父や叔父らの仇討ちを成したいと申しており、弔い合戦の支度を進めておりまする!」

「承知した。すぐにも主殿助殿が深溝松平家の家督を相続することを認める判物をしたためるゆえ、そなたはそれを持って深溝城へ戻られよ。また、主殿助殿にはわしが『仇討ちはならぬ。わしが必ずや東条城を攻め落とすゆえ、それまでしばし堪えてくれるように』と言伝を頼む」

 これで松平主殿助が独断で仇討ちのために東条城へ合戦を挑んで、万が一にでも討ち死にとなれば、家督はまだ七ツの又八郎が継ぐことになる。今の深溝松平家の体制で七歳の当主、さらには東条城の吉良勢との最前線でもあるのだ。到底領土を防衛することもできない。

 今の元康としては、何が何でも貴重な味方をこれ以上減らすような真似だけはできなかった。それゆえに、使者に伝言と家督相続を認める判物を託して帰らせたのである。

「殿、阿部四郎兵衛忠政にございまする」

「おお、四郎兵衛か。いかがしたか」

「はっ、先ほど酒井雅楽助殿よりの使者が到着したとのこと。たまたま某が応対いたしましたゆえ、ご報告に上がりました」

「ご苦労であった。そうじゃ、四郎兵衛。そなたにはこの田峯菅沼氏宛の書状を託すゆえ、誰ぞ田峯城へ使いの者を立ててはくれぬか」

「心得ました。それと、酒井雅楽助殿の使者は広間へ通してございます」

「うむ、承知した」

 元康は阿部四郎兵衛とともに書院を離れると広間へと向かう。その道中も、いかにして東条城を攻め潰すか。そればかりを思案していた。

 そうして広間にて対面した酒井雅楽助政家の使者からの報告に希望を見出すこととなった。

「なにっ、赤羽根城の高橋政信を攻略する目途が立ったか!」

「はっ、内応者もございますゆえ、残すは一気に攻めるのみ。ゆえに、攻略する許可をいただきたいと我が主は申しておりました!」

「許可いたす!わし自ら援軍に向かうゆえ、それまで待つようにと伝えておくように!」

 元康からの命を受けて西尾城へと使者は立ち返っていく。

 一方で、元康はただちに陣触れし、西尾城南西の赤羽根城目指して岡崎城を発するのであった。
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