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第4章 苦海の章
第125話 三州錯乱
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稲垣平右衛門長茂率いる手勢と交戦しているのは牧野一族の牧野弥次右兵衛尉、牧野助兵衛正重ら。裏切り者は牧野平左衛門入道だけかと思いきや、まだ内通者がいたとは、牛久保城内の牧野勢も想定外であった。
しかも、牧野一族が次々と裏切る中、血縁もない忠義者たちが裏切ることなく城を死守せんと奮戦しているのだから、不思議なものである。
そのような中で野田菅沼勢を指揮する菅沼新八郎定盈が接敵したのは、真木兵庫助重信であった。
「貴殿は真木兵庫助重信殿ではござらぬか!」
「おう!いかにも、わしが真木兵庫助じゃ!かくいうそなたは菅沼新八郎であろう!」
「いかにも!手合わせ願おう!」
ここは戦場。周囲で自分の配下たちが切り結んでいる中で大将同士が出会ったのだ。それ以上の無粋な言葉は必要とされなかった。
かたや牧野家臣として数多の合戦に参戦し、討たれることなく今日まで生き延びてきた強者。かたや、経験こそ劣る者の若さと勢いのある若武者。
じりじりと間合いを詰め、斬り込む頃合いを見計らう。そして、先に動いたのは菅沼新八郎であった。
「たあっ!」
「うぬっ!」
大上段から振り下ろされる菅沼新八郎の一太刀を慌てる素振りもなく正面から受けた真木兵庫助。太刀筋を易々と見切っていなければ、そうまで落ち着いて対処することはできない。この胆力は紛れもなく、戦場で培われてきたものである。
その後も菅沼新八郎は激しく斬りかかるが、いずれも真木兵庫助へ届くことはなかった。守勢に回ってこそいるが、若い菅沼新八郎を翻弄して戦いを有利に進めているのは真木兵庫助である。
幾度となく攻撃を仕掛け、鍔迫り合いとなり、またも仕留めるに至らず、また間合いを詰めるところからやり直す。そんなことを繰り返しているうちに、菅沼新八郎も自分の体力を真木兵庫助は削ろうとしているのだと気付いてくる。
とはいえ、攻撃に回らず、自分が守勢に回った時、真木兵庫助の剣術を防ぎえなかったならば、それは死を意味する。
ゆえに、息が上がり始めていても攻撃を仕掛けねばならないのは菅沼新八郎の方であった。だが、肩で息をする菅沼新八郎のに対し、真木兵庫助は薄ら笑いを浮かべていた。ただ勢いのまま打ち込んでくるだけの若造など、特段恐れるほどのこともない。そう感じ取ったのである。
しかし、次の瞬間には菅沼新八郎の刀捌きが別人のように加速する。油断して呆けていた真木兵庫助の反応が一瞬遅れた。このことが両者の命運を分けることへと繋がった。
「ぐっ!」
菅沼新八郎渾身の一太刀は真木兵庫助の腹部を横一文字に斬り裂いた。まだまだ剣術は未熟なれど、若者が有する体力と膂力でもって力業を行使したのである。その刀創が致命傷となり、続けて下からの切りあげが鎧で覆われていない内腿へ発止と斬り込んだのである。
その激痛に反応し、激痛の根源を生みだした若武者へ一太刀浴びせんと刀を振り下ろす真木兵庫助であったが、あまりに距離が近すぎたこともあり、斬ることができなかった。
「くっ、こんなところで……!」
斬り込んだ刀を手前に引き抜いた菅沼新八郎は再び振り下ろされた太刀をかわすと、刀の棟を左足で踏みつけて封じた勢いそのままに胸部に太刀を突きたてた。
「はあぁぁぁぁっ!」
刺し貫いたまま城壁側の蔵の壁際まで押し込んだ頃には、すでに牛久保六騎の一人・真木兵庫助は絶命した後であった。
菅沼新八郎はその首級を獲ると、寄せてくる牧野兵を適当に相手しながら味方のもとへと合流。再び手勢の士気を執りながら牧野兵を押し戻していく。
無論、城兵らの心のよりどころであった真木兵庫助討ち死は大きく響き、隊列が崩れ始める。こうなると、もはや牛久保城防衛どころの騒ぎではなかった。
しかし、残された稲垣平右衛門が手勢を率いて八面六臂の活躍を見せる。裏切って攻め寄せた牧野弥次右兵衛尉、牧野助兵衛正重らを押し戻すと、転じて西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正ら西郷勢へと襲いかかっていく。
その決死の突撃に西郷勢が後ずさりしだしたのを見て、野田菅沼勢が加勢し、防ぎ止めにかかる。
その間も牧野勢との戦いを優勢に進める設楽越中守貞通や松平勢であったが、城外の異変に気付き始める。
「あれは今川赤鳥の旗!さては、吉田城よりの援軍か!」
敵の接近に気づいた設楽越中守は撤退しなければ、援軍に来た今川軍に背後を衝かれることを西郷弾正左衛門と菅沼新八郎へと伝達。
城を攻め落とさんと血気に逸る甥の菅沼新八郎を制しながら、あれほど強硬に城攻め継続を主張していた西郷弾正左衛門は撤退を選択。
かくして、最後の最後まで奮戦した稲垣平右衛門の活躍もあり、牛久保城へ襲来した豊川三人衆と松平の軍勢は各々の所領へと総退却する運びとなったのである。
その後は岩瀬城の岩瀬氏俊や牧野定成といった面々が兵粮を確保したうえで城へ馳せ付け、一度落城寸前にまで追い込まれた牛久保城の守りを固めるのであった。
そこへ城主・牧野民部丞成定が帰還し、吉田城から駆けつけた今川軍の大将である吉田城代を務める大原肥前守資良の子・三浦右衛門大夫真明も合流して敵襲に備え始めたのである。
「殿!」
「おお、稲垣平右衛門。此度はよくぞ城を守り抜いてくれた!大儀であったぞ!」
「いえ、某の功績など微々たるもの。一番の活躍は真木兵庫助殿にございますれば。あの方がおらねばとうに城は陥落しておりました」
「そうであったか。真木兵庫助、討ち死しておらなんだら、直接労いの言葉をかけられたものを……」
怨みを籠めた眼差しで虚空を見つめる牧野民部丞。裏切った一族の名を聞き激怒したものの、義理の叔父である牧野出羽守保成に諫められ、ひとまず憎悪にまみれた矛を収め、三浦右衛門大夫と対面した。
「おお、三浦右衛門大夫殿。此度は援軍、まことかたじけのうござる」
「いえ、牛久保城が陥落しては一大事にございますゆえ、援軍に駆け付けるは至極当然のこと。それよりも、此度牛久保城を攻めたは松平だけでなく、野田菅沼、設楽、西郷の三氏であったとのこと。父はすでに駿府におられる御屋形様へ注進いたし、ご裁断を仰いでおるところ」
「左様にございましたか。加えて、西尾城を守り切れなかったこと、後刻某から駿府へ注進いたす所存」
「承知いたしました。御屋形様よりの下知が入るまで、無断で動くことはなりませぬ。明後日までにはご下知がありましょうゆえ、明々後日には父より今後の方策についての指示があるかと思いまする。では、某はこれにて失礼いたします」
現当主・今川氏真より『真』の一字を偏諱された若武者・三浦右衛門大夫は偉そうに胸を張りながら退出していく。それを見送った牧野民部丞は国衆・牛久保牧野氏を見下すような態度を崩さなかった三浦右衛門大夫への苛立ちを露わにしていた。
「殿、ここは堪えてくださいませ。今川の支援さえ得られれば、此度の仕打ちに対する報復も叶うのです」
「分かっておるわ!じゃが、それとこれとは別儀じゃ!ああ、腹の虫がおさまらぬ!」
齢三十七にもなってみっともない。そう思う叔父・牧野出羽守であったが、稲垣平右衛門はそうは思わなかった。
ロクに戦の経験もない年下の小童が今川家の直臣だからと威張り、見下してくるのだ。これはどれほど齢を重ねようとも屈辱感を味わわずにはいられない出来事だと感じているからでもあった。
ともあれ、牛久保牧野氏の本城・牛久保城を陥落させるまでには至らなかったことは、すぐにも岡崎にいる元康へもただちに報告された。
「そうか、牛久保城は落とせずであったか」
「はっ、牧野家重臣の真木兵庫助重信を討ち取り、城の外郭を破って城内へ突入したものの、続々と援軍が駆けつけ、挟撃される前に退却したとのこと!」
この奇襲攻めが失敗に終わったとなると、元康としても戦略を練り直す必要が出てくる。加えて、此度の奇襲が失敗した理由は元康も十二分に理解していた。
「やはり、長沢の鳥屋ヶ根城攻略を優先させるべきであったか。であれば、わし自ら大軍を率いて攻めることもできたのじゃが、その時は西尾城攻めに向かっておったゆえな」
端的に言えば二正面作戦を行ったことが敗因であったことは明白。主力を西尾城でなく、牛久保城へ回せていたならば、また違った結果になっていたかもしれないのだ。
「されど、牧野一族の切り崩しが成せたことは上々であった。何より、東三河の国衆らの目も覚めたことであろう」
ここまでの戦いすべてを他人事だと解釈していた東三河の国衆らにとって、今回の牛久保城攻めによる衝撃は測り知れない。これは松平方と今川方の戦なのだということに気づいた者たちがどちらに与するか、見極めも付くというもの。
「殿、酒井左衛門尉にございまする」
「左衛門尉か。いかがした」
「はっ、田峯菅沼家の菅沼弥三右衛門定直殿、白鳥山城の後藤善心殿、長篠菅沼家の菅沼貞景殿、島田菅沼家の菅沼久助定勝殿より殿宛ての書状が届いておりまする」
「いずれも東三河ではないか。うむ、見せよ」
酒井左衛門尉忠次が列挙した国衆らが東三河を本拠とする者ばかりであることから、元康はおおむね書状の内容を察することができた。
「うむ、菅沼の惣領家である田峯菅沼家は我らに従属したい、と」
「同盟でなく、従属と……?」
菅沼惣領家との同盟だけでも大きな意味を持つのに、対等な同盟ではなく従属という形をとってきたことに酒井左衛門尉とて驚きを隠せなかった。
「いかにも。加えて、長篠菅沼家も島田菅沼家も惣領家である田峯菅沼家に倣って従属を願い出てきたものと思われる。おそらく、白鳥山城の後藤善心も周囲の状況を鑑みて当家に与する判断をしたのであろう」
「なるほど、合点がゆきました。たしか、今の田峯菅沼家の当主は五年前に雨山合戦にて亡くなった菅沼大膳亮定継が嫡男、まだ幼い小法師にございましたか」
「うむ。ゆえに、実際に家政を差配しておるのはこの書状を寄こした菅沼弥三右衛門じゃ。おそらく、家中の意見も我らに従うことで大方納得しておるのであろう」
「されど、菅沼弥三右衛門と申す者、なかなかしたたかな武士であると某は感じました」
「ほう、したたかと」
酒井左衛門尉の言葉の意味を解するべく、元康は再び手元の菅沼弥三右衛門よりの書状へ視線を落とす。だがしかし、その書状よりしたたかさを感受することはできなかった。
「従属という態にしたのはしたたかである証かと。同盟ともなれば、今川家からみれば松平・田峯菅沼方となりまするが、従属となればひとくくりに松平方となりまする。それすなわち――」
「万が一、今川家へ帰参することとなっても、我らにそそのかされたのだと弁明することも可能となる。すなわち、責任逃れの一手ともなり得る、とかように申したいのだな」
酒井左衛門尉の言葉を引き取る元康。理解の早い主君に頭の上がらぬ酒井左衛門尉は、他に得ている東三河の情勢を伝えていく。
それは牛久保城攻めに失敗した川路城の設楽越中守貞通、野田城の菅沼新八郎定盈、月ヶ谷城の西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正父子が本領へ帰還し、自領防衛のため、守りを固め始めたこと。
中でも、西郷氏は月ヶ谷城北東へ新たに築いた五本松城に父・西郷弾正左衛門が入って守りを固め、月ヶ谷城は嫡男・孫六郎が守備にあたっているとのことであった。
「左衛門尉、何故そうも東三河の動きを詳しく存じておるのじゃ」
「それは東三河の動きを誰よりもよう知っておる御仁から直接聞いたからにございます」
「ほう、それは誰のことじゃ」
「すでに外で待たせておりまする。御前へお連れしてもよろしいでしょうや」
東三河情勢に詳しい人物とやらの入室許可を酒井左衛門尉へ出した元康。脳内では誰のことか、と疑問を抱き、しきりに予想を立てていたのだが、その予想は次の瞬間に入室してきた人物の名を聞いたことで氷解した。
「こちら西郷弾正左衛門殿が次男、西郷孫九郎清員殿にございまする」
「お初に御意を得ます、西郷孫九郎清員にございまする。父より人質として岡崎に赴くよう申し付けられ、これへ参った次第」
「なんと!人質は不要であると書状に記したはず」
「無論、父も存じております。それでも父は蔵人佐殿のもとへ人質を送ると申し、某に白羽の矢が立った次第に」
元康としては人質などなくとも西郷弾正左衛門のことを信用していた。それゆえに人質はいらぬと伝えたのだが、こうして送られてきた以上、送り返すわけにもいかなかった。
かくして西郷孫九郎は元康の側に仕えることとなったのである。
しかも、牧野一族が次々と裏切る中、血縁もない忠義者たちが裏切ることなく城を死守せんと奮戦しているのだから、不思議なものである。
そのような中で野田菅沼勢を指揮する菅沼新八郎定盈が接敵したのは、真木兵庫助重信であった。
「貴殿は真木兵庫助重信殿ではござらぬか!」
「おう!いかにも、わしが真木兵庫助じゃ!かくいうそなたは菅沼新八郎であろう!」
「いかにも!手合わせ願おう!」
ここは戦場。周囲で自分の配下たちが切り結んでいる中で大将同士が出会ったのだ。それ以上の無粋な言葉は必要とされなかった。
かたや牧野家臣として数多の合戦に参戦し、討たれることなく今日まで生き延びてきた強者。かたや、経験こそ劣る者の若さと勢いのある若武者。
じりじりと間合いを詰め、斬り込む頃合いを見計らう。そして、先に動いたのは菅沼新八郎であった。
「たあっ!」
「うぬっ!」
大上段から振り下ろされる菅沼新八郎の一太刀を慌てる素振りもなく正面から受けた真木兵庫助。太刀筋を易々と見切っていなければ、そうまで落ち着いて対処することはできない。この胆力は紛れもなく、戦場で培われてきたものである。
その後も菅沼新八郎は激しく斬りかかるが、いずれも真木兵庫助へ届くことはなかった。守勢に回ってこそいるが、若い菅沼新八郎を翻弄して戦いを有利に進めているのは真木兵庫助である。
幾度となく攻撃を仕掛け、鍔迫り合いとなり、またも仕留めるに至らず、また間合いを詰めるところからやり直す。そんなことを繰り返しているうちに、菅沼新八郎も自分の体力を真木兵庫助は削ろうとしているのだと気付いてくる。
とはいえ、攻撃に回らず、自分が守勢に回った時、真木兵庫助の剣術を防ぎえなかったならば、それは死を意味する。
ゆえに、息が上がり始めていても攻撃を仕掛けねばならないのは菅沼新八郎の方であった。だが、肩で息をする菅沼新八郎のに対し、真木兵庫助は薄ら笑いを浮かべていた。ただ勢いのまま打ち込んでくるだけの若造など、特段恐れるほどのこともない。そう感じ取ったのである。
しかし、次の瞬間には菅沼新八郎の刀捌きが別人のように加速する。油断して呆けていた真木兵庫助の反応が一瞬遅れた。このことが両者の命運を分けることへと繋がった。
「ぐっ!」
菅沼新八郎渾身の一太刀は真木兵庫助の腹部を横一文字に斬り裂いた。まだまだ剣術は未熟なれど、若者が有する体力と膂力でもって力業を行使したのである。その刀創が致命傷となり、続けて下からの切りあげが鎧で覆われていない内腿へ発止と斬り込んだのである。
その激痛に反応し、激痛の根源を生みだした若武者へ一太刀浴びせんと刀を振り下ろす真木兵庫助であったが、あまりに距離が近すぎたこともあり、斬ることができなかった。
「くっ、こんなところで……!」
斬り込んだ刀を手前に引き抜いた菅沼新八郎は再び振り下ろされた太刀をかわすと、刀の棟を左足で踏みつけて封じた勢いそのままに胸部に太刀を突きたてた。
「はあぁぁぁぁっ!」
刺し貫いたまま城壁側の蔵の壁際まで押し込んだ頃には、すでに牛久保六騎の一人・真木兵庫助は絶命した後であった。
菅沼新八郎はその首級を獲ると、寄せてくる牧野兵を適当に相手しながら味方のもとへと合流。再び手勢の士気を執りながら牧野兵を押し戻していく。
無論、城兵らの心のよりどころであった真木兵庫助討ち死は大きく響き、隊列が崩れ始める。こうなると、もはや牛久保城防衛どころの騒ぎではなかった。
しかし、残された稲垣平右衛門が手勢を率いて八面六臂の活躍を見せる。裏切って攻め寄せた牧野弥次右兵衛尉、牧野助兵衛正重らを押し戻すと、転じて西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正ら西郷勢へと襲いかかっていく。
その決死の突撃に西郷勢が後ずさりしだしたのを見て、野田菅沼勢が加勢し、防ぎ止めにかかる。
その間も牧野勢との戦いを優勢に進める設楽越中守貞通や松平勢であったが、城外の異変に気付き始める。
「あれは今川赤鳥の旗!さては、吉田城よりの援軍か!」
敵の接近に気づいた設楽越中守は撤退しなければ、援軍に来た今川軍に背後を衝かれることを西郷弾正左衛門と菅沼新八郎へと伝達。
城を攻め落とさんと血気に逸る甥の菅沼新八郎を制しながら、あれほど強硬に城攻め継続を主張していた西郷弾正左衛門は撤退を選択。
かくして、最後の最後まで奮戦した稲垣平右衛門の活躍もあり、牛久保城へ襲来した豊川三人衆と松平の軍勢は各々の所領へと総退却する運びとなったのである。
その後は岩瀬城の岩瀬氏俊や牧野定成といった面々が兵粮を確保したうえで城へ馳せ付け、一度落城寸前にまで追い込まれた牛久保城の守りを固めるのであった。
そこへ城主・牧野民部丞成定が帰還し、吉田城から駆けつけた今川軍の大将である吉田城代を務める大原肥前守資良の子・三浦右衛門大夫真明も合流して敵襲に備え始めたのである。
「殿!」
「おお、稲垣平右衛門。此度はよくぞ城を守り抜いてくれた!大儀であったぞ!」
「いえ、某の功績など微々たるもの。一番の活躍は真木兵庫助殿にございますれば。あの方がおらねばとうに城は陥落しておりました」
「そうであったか。真木兵庫助、討ち死しておらなんだら、直接労いの言葉をかけられたものを……」
怨みを籠めた眼差しで虚空を見つめる牧野民部丞。裏切った一族の名を聞き激怒したものの、義理の叔父である牧野出羽守保成に諫められ、ひとまず憎悪にまみれた矛を収め、三浦右衛門大夫と対面した。
「おお、三浦右衛門大夫殿。此度は援軍、まことかたじけのうござる」
「いえ、牛久保城が陥落しては一大事にございますゆえ、援軍に駆け付けるは至極当然のこと。それよりも、此度牛久保城を攻めたは松平だけでなく、野田菅沼、設楽、西郷の三氏であったとのこと。父はすでに駿府におられる御屋形様へ注進いたし、ご裁断を仰いでおるところ」
「左様にございましたか。加えて、西尾城を守り切れなかったこと、後刻某から駿府へ注進いたす所存」
「承知いたしました。御屋形様よりの下知が入るまで、無断で動くことはなりませぬ。明後日までにはご下知がありましょうゆえ、明々後日には父より今後の方策についての指示があるかと思いまする。では、某はこれにて失礼いたします」
現当主・今川氏真より『真』の一字を偏諱された若武者・三浦右衛門大夫は偉そうに胸を張りながら退出していく。それを見送った牧野民部丞は国衆・牛久保牧野氏を見下すような態度を崩さなかった三浦右衛門大夫への苛立ちを露わにしていた。
「殿、ここは堪えてくださいませ。今川の支援さえ得られれば、此度の仕打ちに対する報復も叶うのです」
「分かっておるわ!じゃが、それとこれとは別儀じゃ!ああ、腹の虫がおさまらぬ!」
齢三十七にもなってみっともない。そう思う叔父・牧野出羽守であったが、稲垣平右衛門はそうは思わなかった。
ロクに戦の経験もない年下の小童が今川家の直臣だからと威張り、見下してくるのだ。これはどれほど齢を重ねようとも屈辱感を味わわずにはいられない出来事だと感じているからでもあった。
ともあれ、牛久保牧野氏の本城・牛久保城を陥落させるまでには至らなかったことは、すぐにも岡崎にいる元康へもただちに報告された。
「そうか、牛久保城は落とせずであったか」
「はっ、牧野家重臣の真木兵庫助重信を討ち取り、城の外郭を破って城内へ突入したものの、続々と援軍が駆けつけ、挟撃される前に退却したとのこと!」
この奇襲攻めが失敗に終わったとなると、元康としても戦略を練り直す必要が出てくる。加えて、此度の奇襲が失敗した理由は元康も十二分に理解していた。
「やはり、長沢の鳥屋ヶ根城攻略を優先させるべきであったか。であれば、わし自ら大軍を率いて攻めることもできたのじゃが、その時は西尾城攻めに向かっておったゆえな」
端的に言えば二正面作戦を行ったことが敗因であったことは明白。主力を西尾城でなく、牛久保城へ回せていたならば、また違った結果になっていたかもしれないのだ。
「されど、牧野一族の切り崩しが成せたことは上々であった。何より、東三河の国衆らの目も覚めたことであろう」
ここまでの戦いすべてを他人事だと解釈していた東三河の国衆らにとって、今回の牛久保城攻めによる衝撃は測り知れない。これは松平方と今川方の戦なのだということに気づいた者たちがどちらに与するか、見極めも付くというもの。
「殿、酒井左衛門尉にございまする」
「左衛門尉か。いかがした」
「はっ、田峯菅沼家の菅沼弥三右衛門定直殿、白鳥山城の後藤善心殿、長篠菅沼家の菅沼貞景殿、島田菅沼家の菅沼久助定勝殿より殿宛ての書状が届いておりまする」
「いずれも東三河ではないか。うむ、見せよ」
酒井左衛門尉忠次が列挙した国衆らが東三河を本拠とする者ばかりであることから、元康はおおむね書状の内容を察することができた。
「うむ、菅沼の惣領家である田峯菅沼家は我らに従属したい、と」
「同盟でなく、従属と……?」
菅沼惣領家との同盟だけでも大きな意味を持つのに、対等な同盟ではなく従属という形をとってきたことに酒井左衛門尉とて驚きを隠せなかった。
「いかにも。加えて、長篠菅沼家も島田菅沼家も惣領家である田峯菅沼家に倣って従属を願い出てきたものと思われる。おそらく、白鳥山城の後藤善心も周囲の状況を鑑みて当家に与する判断をしたのであろう」
「なるほど、合点がゆきました。たしか、今の田峯菅沼家の当主は五年前に雨山合戦にて亡くなった菅沼大膳亮定継が嫡男、まだ幼い小法師にございましたか」
「うむ。ゆえに、実際に家政を差配しておるのはこの書状を寄こした菅沼弥三右衛門じゃ。おそらく、家中の意見も我らに従うことで大方納得しておるのであろう」
「されど、菅沼弥三右衛門と申す者、なかなかしたたかな武士であると某は感じました」
「ほう、したたかと」
酒井左衛門尉の言葉の意味を解するべく、元康は再び手元の菅沼弥三右衛門よりの書状へ視線を落とす。だがしかし、その書状よりしたたかさを感受することはできなかった。
「従属という態にしたのはしたたかである証かと。同盟ともなれば、今川家からみれば松平・田峯菅沼方となりまするが、従属となればひとくくりに松平方となりまする。それすなわち――」
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酒井左衛門尉の言葉を引き取る元康。理解の早い主君に頭の上がらぬ酒井左衛門尉は、他に得ている東三河の情勢を伝えていく。
それは牛久保城攻めに失敗した川路城の設楽越中守貞通、野田城の菅沼新八郎定盈、月ヶ谷城の西郷弾正左衛門正勝・孫六郎元正父子が本領へ帰還し、自領防衛のため、守りを固め始めたこと。
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「左衛門尉、何故そうも東三河の動きを詳しく存じておるのじゃ」
「それは東三河の動きを誰よりもよう知っておる御仁から直接聞いたからにございます」
「ほう、それは誰のことじゃ」
「すでに外で待たせておりまする。御前へお連れしてもよろしいでしょうや」
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「こちら西郷弾正左衛門殿が次男、西郷孫九郎清員殿にございまする」
「お初に御意を得ます、西郷孫九郎清員にございまする。父より人質として岡崎に赴くよう申し付けられ、これへ参った次第」
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「無論、父も存じております。それでも父は蔵人佐殿のもとへ人質を送ると申し、某に白羽の矢が立った次第に」
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前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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