不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第136話 影の形に随うが如し

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 宇津山城主・朝比奈紀伊守泰長と堀江城主・大澤左衛門佐基胤らによる奇襲を受け、五本松城が陥落。加えて、当主・西郷弾正左衛門正勝は館に火を放って自刃し、嫡子・孫六郎元正は敵の矢を多数受けて討ち死に。

 その一方は夜陰に紛れて五本松城を脱出した者によって、一刻の後に西郷氏の本拠・月ヶ谷城へ伝えられた。

 それを聞いた月ヶ谷城に残る西郷家臣らは二派に割れた。当主らの仇討ちと称して撤退抗戦すべきという一派、いっそ今川へ帰参して家名存続を願い出るべきだという一派であった。

「菅沼新八郎殿、いかが思われるか!仇討ちか降伏か!」

 月ヶ谷城に滞在し古巣・野田城の奪還を志す若武者・菅沼新八郎定盈。彼は野田城を追われた後、付き従う百に満たない家臣らとともに八名郡の西郷領に身を隠していた。

 ただの客人であったならば西郷家臣らも意見など求めなかったが、菅沼新八郎は龍拈寺にて処刑された当主・西郷正勝正室の甥にあたる者であり、五本松城で壮絶な討ち死を遂げた西郷孫六郎にとって母方の従兄弟にあたる人物なのだ。

 西郷弾正左衛門正勝の命によって、一門に匹敵する待遇で庇護されていた菅沼新八郎の意見やいかに。議論が紛糾する中、西郷家臣らはじっと二十歳の若武者の動静を窺う。

「恐れながら、某は今すぐの仇討ちにも降伏にも反対でござる」

「何と仰せか!」

「まあ、話は最後まで聞かれよ。この月ヶ谷城には孫六郎殿の遺児であられる孫太郎君、市十郎君がおられる。加えて、岡崎へ入っておられる孫九郎殿の妻子もこれへおられる」

「だ、だから何が申されたいのか!」

 敵が半里先の山向こうにいるということもあり、西郷家臣らは明らかに焦っていた。それでは良い結論など出ようはずもないと頭の中で笑いながら菅沼新八郎は自らの考えを述べていく。

「敵は宇津山城の朝比奈と堀江城の大澤というならば号して千五百。これに、騒ぎを聞きつけた吉田城や二連木城から援軍が加われば南北より三千近い敵に囲まれるであろう。となれば、そちらの方が申されるように籠城してもうひと合戦挑んだとして、幾日持ちこたえられようか」

「そ、それは……」

「某の見たところ、城に詰めておる兵らが力を合わせても十日と持ちますまい。その間に援軍が来る見込みもない。となれば、城が落ちるは必定。そうなれば、敵の手に落ちた西郷一族は見せしめのために処刑されましょう。そうなれば、岡崎城におられる孫九郎殿以外、名家西郷家の御血筋を受け継ぐ方がおらぬことになる」

「むむむ……」

「むむむではござらぬぞ!仮に降伏したとしても、当主が幼いだのと難癖をつけられ、かつての松平宗家のように今川家の無能な後見人が付けられ、良いようにこき使われるだけの弱小国衆に成り下がる」

 ここまで菅沼新八郎が弁舌を振るう頃には主戦派も降伏派も口を閉ざし、返す言葉もないといった様子であった。

「然らば、菅沼新八郎殿。貴殿は戦うのでも降伏するのでもないのであれば、いかにすべきとお考えか」

「今宵のうちに志ある者らだけで城を抜ける」

「城を捨てると!?」

 思いがけない選択肢に広間に集まる家臣らは互いに目を見合わせた。一戦も交えることなく城を捨てる。これは確かに戦って滅亡するとも、降伏して家名存続を図るのとも違った選択肢である。

「そうじゃ。某は本日中にそうするつもりじゃ。滅亡の巻き添えにされるのは甚だ不本意というもの。されど、城を抜けると仰るならば、責任もって孫太郎君と市十郎君、孫九郎殿の妻子をお逃がしいたす」

「逃がすというても、貴殿の野田城は落ちておりましょう。そも何処へ落ち延びるおつもりで」

「今川の奴らが一番嫌がる場所で、一番此度の仕返しができるところじゃ」

「そ、そのようなところがございましょうか」

「ある!孫九郎殿が一足先に入っておられる岡崎城じゃ!」

 松平蔵人佐元康の居城・岡崎城。東三河では不利でこそあるが、西三河では優勢に戦を進め、西三河一統も間近に迫っている。ひとまず、そこまで落ちれば命を落とす心配もなく、再起することも可能となる。

「されど、ここより岡崎城は九里も離れた地。道中、豊川の渡河もあれば、牧野領を突っ切ってもいかねばなりませぬ。まこと辿りつけましょうか」

「それはそうじゃが、この新八郎に策あり。すでに行路も決めておりますれば。同意ならぬと申すならば、これまでにござる。某とて命も無駄な時も惜しい。ただちにここを発ちますれば」

 膝を立てて今にも立ち上がろうとする菅沼新八郎。それを見て、家臣一同は覚悟を決めたように顔を見合わせて頷き合う。

「然らば、当家からも人を向かわせましょう。ゆえに、孫太郎君や市十郎君、孫九郎殿がご妻子もともに岡崎へ連れていってはいただけぬか」

「無論じゃ。これで、この新八郎も今日まで世話になった叔父らへ恩返しができるというもの。ただ、残られる方はなるべく時間を稼いでくだされ。降伏の交渉なり、何なりと手段はございましょうゆえ」

「承知いたした!」

「必ずや松平蔵人佐殿より援兵を得て戻って参るゆえ、西郷領が奪還されるその日まで皆々様も生きながらえてくだされよ」

 菅沼新八郎は野田城から伴ってきた自家の家臣に加え、生き残った西郷一族と護衛の家臣らを伴って、その夜のうちに城を抜けた。男ばかりの旅路であれば、翌日の昼前には岡崎城までたどり着けるであろうが、女子供同伴とあっては思うような速さは出せない。

 急ぎたいが急ぐわけにもいかない。そんな中、敵に見つからないよう、敵の目をかいくぐっていく西三河までの決死の逃避行が始まったのである。

 そんな八名郡の西郷領で起こった変事は二日後の十三日頃、岡崎城にいる元康のもとへ伝わった。元康はただちに西郷孫九郎を呼び寄せ、そのことを包み隠さず伝えることとした。

「孫九郎殿、よくぞ参られた」

「この西郷孫九郎、蔵人佐殿のお召しとあらばいつでも参上いたしまするぞ」

「それはかたじけない。そんな孫九郎殿に、一つ伝えねばならぬことがある」

 元康が悲壮な面持ちで左右の拳をぎゅっと握りしめたのを、西郷孫九郎が見逃すはずもなかった。

「さては、東三河で何かございましたか」

「その通りじゃ。二日前の十一日、中山峠を越えてきた宇津山城の朝比奈紀伊守泰長や堀江城の大澤左衛門佐基胤らによって五本松城が奇襲を受けた。五本松城は落城し、当主であった西郷弾正左衛門正勝殿は自刃。援軍に駆け付けた孫六郎元正殿も討ち死なされたとのことじゃ」

 元康からの報せに、西郷孫九郎は床に突っ伏して嗚咽する。父と兄が同時に亡くなったなどと言われて、平然としていられる方がどうかしているのだ。

 元康も目をつむり、称名して冥福を祈る中で西郷孫九郎はむせび泣き続けた。そうして四半刻が過ぎた頃、ようやく西郷孫九郎は涙も止まりかけていたが、すでに目元は真っ赤になっていた。

「蔵人佐殿、みっともないところをお見せいたした」

「もう、よろしいのか」

「はい。泣いてばかりいては、父も兄も浮かばれませぬ」

「左様か。孫九郎殿はまこと、お強い方じゃ」

「そのようなことはございませぬ。強いと申すは、父や兄のような武士がことを申すのです」

 その言葉の節々から西郷孫九郎にとって亡くなった父や兄への想いがいかなるものであったのか、十二分に伝わってくる。元康としても、頼みとする味方を失ったことに悲しんでいられなかった。

 目の前に自分よりも悲しんでいる人がいると、人というものは涙を流せぬものなのかもしれない。

「重ねて、今ごろ月ヶ谷城も包囲されていようが、この元康の力量が不足しておるがため、救いに向かうことも叶わなんだ。まこと申し訳ござらぬ」

「蔵人佐殿!そう謝らないでくださいませ!この西郷孫九郎、たとえ城に残してきた甥や妻子が殺されようとも怨みはいたしませぬ!こうして父が某を岡崎城へ送ってくださったのも、あるいはこうなることを見越しての判断であったのだと信じておりますれば。必ずや、某の手で旧領を回復してご覧にいれまする!」

「その折にはこの元康、惜しみなく支援することを約束いたそう」

 支援すると西郷孫九郎へ約束した元康であったが、その胸中は複雑な想いであった。野田菅沼氏に続いて、八名郡の西郷氏を助けることができなかった。

 となれば、東三河で反今川を掲げているのは豊川三人衆最後の一人・設楽越中守貞通の川路城、田峯城の菅沼惣領家、島田菅沼家の菅沼伊賀守定勝、長篠菅沼家の菅沼貞景、白鳥山城の後藤善心といった国衆らと、大塚城に籠る牧野吉右衛門をはじめ、牛久保牧野氏を離反した一族ばかり。

 今回の五本松城の一件を聞きつければ、今川家へ帰参する者も多く出るであろうことは誰の目から見ても明らか。東三河での形勢不利を覆すためにも西三河制圧を成し遂げることこそが最優先課題であった。

「ただちに小牧砦の本多豊後守と津平砦の松井左近へ使者を!東条城攻略を急ぐようにとな!また、西尾城の酒井雅楽助にも使いを出し、東条城攻略のため、ただちに出陣して後詰めをするようにと伝えよ!」

 もはや東三河情勢は予断を許さない状況。長期戦を見据えて付城を築かせたが、短期決戦へと方針を転換せざるを得なかった。かくして、岡崎城から西尾城と東条城攻略のために築かれた付城へ急使が立てられた。

 すでに配備してある軍勢だけで攻め落とせぬようならば、自らも出陣せねばならぬ。そう覚悟を決めた元康が戦支度にかかろうとした刹那、血相を変えて広間へ飛び込んできたのは酒井左衛門尉忠次であった。

「殿!長沢より報せ!」

「よもや、牛久保の牧野が攻め込んできたか!」

「いいえ!違いまする!一刻前、長沢松平家の館へ菅沼新八郎殿が西郷孫六郎殿の遺児二人とここにおられる孫九郎殿の妻子を連れて入られたとのこと!」

「あっ、義兄上!それはまことか!」

 酒井左衛門尉よりもたらされた衝撃的な報せに、元康より早く食いついたのは他ならぬ西郷孫九郎であった。西郷孫九郎を宥めながら、酒井左衛門尉は元康への報告を続けていく。

「加えて、菅沼新八郎殿一行は長沢城を発ったそうで、あと二刻とかからず岡崎城へ入られましょう」

「左様か。ここまでの道中、敵の領内を突っ切って参られたのじゃ。心身ともに疲れ切っておろう。食事と風呂の用意をさせて待つとする。そなたはただちに東海道を東へ進み、菅沼新八郎殿らと合流せよ」

「はっ、承知いたしました!」

 ひとまず、元康自らの出陣は一日遅らせることとなった。遠路はるばる東三河より菅沼新八郎定盈が西郷一族を引き連れてきたというのだから、これと面会しないわけにはいかない。

「孫九郎殿。甥御やご妻子が無事であったとのこと、まことにようござった」

「はっ!まこと新八郎殿には感謝してもし足りぬ……!」

「たしか、菅沼新八郎殿と孫九郎殿は従兄弟同士の間柄であったか」

「はい、某の母は新八郎殿の叔母にあたりまするゆえ」

「そうであった。うむ、必ずや野田菅沼氏の旧領も八名郡の西郷氏の所領も奪還してみせるゆえ、それまではこの岡崎にてご逗留くだされ」

「何から何までかたじけのうございまする」

 菅沼新八郎が西郷一族を救出して岡崎まで逃れてきた。これにより、元康としても野田菅沼領と西郷領を奪還する、すなわち東三河へ兵を出す大義名分が得られた。

 何より、東三河の地の利に明るい者が西郷孫九郎だけでなく、菅沼新八郎も加わり、二名になるのだ。これほど東三河へ向かうにあたって心強い味方はないといってもよかった。

「まずは東条城の吉良義昭攻めじゃ。ここが首尾よう参れば、年内に今一度東三河へ出兵することも叶おうぞ」

「それはまことにございまするか!」

「うむ。先月は牛久保城を落とせなんだが、此度はこれまで鳥屋ヶ根城攻めに回していた軍勢も投入したうえで、牛久保城を攻め落としますぞ!さすれば上之郷城の鵜殿藤太郎が所領を除く豊川以西までは我らの勢力。これまでよりも野田菅沼領と西郷領の奪還に着手しやすくもなりまする」

「これは有り難い。新八郎殿が参られたら、今の御言葉を当人の面前でおっしゃってくださいませ。そのお言葉を聞けば、きっと皆も勇気を得ましょうぞ」

 西郷孫九郎の言葉に頷き返した元康。そんな彼の視線は東三河へ向かう前に片づけねばならない懸念事項である東条城のある方角を捉えていた――
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