不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第139話 今川氏真、三河出陣を表明す

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 松平元康が東条城の吉良義昭を降伏させ、西三河制圧に王手をかけた。その面白くない報せは、ただちに遠く駿河の駿府館へと報じられた。

 九月下旬に報せを受け取って以来、今川氏真は悩みながらも同盟先との交渉を続けていた。

 甲信の武田信玄は次なる侵攻先を西上野と定めて着々と支度を進めており、援軍を派遣することは叶わない。加えて、相模の北条左京大夫氏康・新九郎氏政父子も今年も越山してくるであろう上杉弾正少弼政虎に武田軍と協調して当たるべく戦支度を進めていたところ。

 武田・北条ともに西へと目を向ける余力はなく、氏真としては無念極まりない外交の成果となっていた。

 そんな氏真は十月も半ばに差し掛かった頃、駿府館の大広間へ一門衆や重臣を招集し、ある一大事を決断したことを内外に宣言することとした。

 氏真の側には齢十五の正室・春姫、祖母・寿桂尼といった女性陣を含め、武田六郎信友や北条助五郎氏規といった若い一門衆から浅井小四郎政敏、葛山左衛門佐氏元、瀬名陸奥守氏俊・関口刑部少輔氏純兄弟といった先代の頃から活躍している経験豊富な一門衆や御一家衆が居並ぶ。

 譜代家臣でいえば、遠江懸川城主・朝比奈備中守泰朝や朝比奈丹波守親徳・兵衛尉元長父子、桶狭間合戦を生き延びた庵原将監忠縁、鳴海城で最後まで奮戦した岡部元信、吉田城代である大原肥前守資良の子・三浦右衛門大夫真明、氏真からの信頼厚い文官の三浦備後守正俊、岡部次郎右衛門尉正綱といった錚々たる顔ぶれであった。

「皆の者、此度はよくぞ集まってくれた。この氏真、父よりの恩義を忘れることなく今日まで奉公してくれておるそなたらに感謝しておる。そんなそなたらをこれへ集めたは、三河がことで予が決めたことを聞き届けて貰わんがためである」

 感謝を家臣らへ改めて伝える折の凛とした声音は、三河のことに触れた途端、重苦しく、どこか淀んだ何かを感じさせる声へと変質した。

「予、自ら三河へ出陣し、錯乱いたした三河の国衆どもを悉く成敗する所存である。これ以上、三河を荒らす松平蔵人佐の一派を捨て置くわけには参らぬゆえな。出陣の日時は決めておらぬが、予は今年のうちに実施したい。それについて、皆の思うところを述べて貰いたい」

 当主・今川氏真自らが三河へ出陣し、松平蔵人佐ら反今川の国衆を成敗する。それを当主自身が発言したことの重みに、その場に居合わせた者らは動揺した。むしろ、動揺することなく、平然としていられる方がどうかしているといってもよい。

「御屋形様!朝比奈丹波守にございまする」

「おう、そなたか。朝比奈備中守に岡部元信、庵原将監もじゃが、父と共に尾張まで遠征したことのあるそなたは、いかが思うぞ」

「はっ、率いてゆかれる兵数によりまするが、まず、年内に三河へ出陣することは厳しゅうございましょう」

「それは何故じゃ」

 ぐっと息をのみ込み、さあ反対意見を聞こうといった面持ちで朝比奈丹波守へ向き合う氏真。半年前までであれば、感情的になり激昂していたであろうが、父の死から時が経ち、徐々に為政者としての風格を帯びつつある。

「まず第一に気候の面にございます。これより本格的に冬の季節が到来いたしまする。東三河で当家に逆らう国衆らは奥三河の山岳地帯を本拠とする者らが多うございますれば、冬の山々での合戦は将兵に強いる負担が多くなりまする」

「ならば、西三河へ矛先を転じればよいのではないか」

「それは危ういかと。東三河で不服を申しておる者らを野放しにしたうえで御屋形様自ら西三河へ向かわれては、糧道や退路を断たれる恐れがございます。加えて、進軍路のことがございます」

「なに、兵站や退路が断たれるだけが懸念されることではないと申すか」

 氏真の言葉に深く頷く朝比奈丹波守。ちらと視線を左右へ動かせば、岡部元信や朝比奈備中守、庵原将監といった者たちは深く頷いている。ここまで一様に同じ反応を示されては、氏真としても理由を尋ねずにはいられなかった。

「よし、その進軍路のことも意見を申してみよ」

「牛久保までは問題なく行軍できましょう。されど、ここから道は大きく二つに分かれまする。一つは言うまでもなく東海道、もう一つは鵜殿藤太郎長照殿の居城である上之郷城などがある平坂街道にございまする。両街道ともに大軍の利点を活かしづらい地形であり、合戦が長期化する恐れもございまする」

「なるほど、そうであったか。それゆえに、東三河で予に従わぬ者らを征伐せねば、退路を断たれると申したのじゃな」

 そう言って、氏真はうなずきながら考える素振りを見せる。その呑み込みの早さには、相対していた朝比奈丹波守が一番驚かされていた。

 何より、そうして家臣の意見を考慮し、いかにすべきか考える素振りが先代・義元と重なる部分があったのである。そのことが、その場に居合わせる重臣一同の胸を打つ何かがあった。そうなると、他の者らも率先して自らの意見を述べ始める。

 朝比奈丹波守の意見はもっともであるといった意見はもとより、兵数を算段するならこのくらいの数になるだろうといった推算やそれに基づく調達すべき武器兵粮といった物資の量を文官たちが概算する。

「御屋形様が号令を発すれば遠江衆と駿河衆で一万、三河国衆らや駐留している被官らの軍勢も合わせれば一万五千ほどは集められましょう。ただ、それだけの数を養う兵粮や武具を買い付けて調達することを考慮するならば、早くても来年初夏となりましょう」

「おお、それほどの数となるか。昨年父が行った尾張侵攻に引けを取らぬ数。これならば、松平蔵人佐を筆頭とする当家を離反した国衆どもも恐れをなしてひれ伏すであろう。じゃが、来年初夏の出陣か……」

 瀬名陸奥守や三浦備後守らが大雑把に計算した数字に、心躍らせる氏真であったが、同時に決行は早くても来年の夏と聞き、少し落胆したかのような面持ちになる。そんな主君の表情の変化を見逃すことなく、朝比奈備中守が御前へ進み出る。

「御屋形様、出兵の時期はいたし方ございませぬ。されど、それまで何もできぬわけではございませぬぞ」

「ほう、ならば朝比奈備中守はその間に何ができると申すのか」

「はっ、然らば本日表明なされた御屋形様のお気持ちを流布するのでございます」

「それはどういうことじゃ。予にも分かるように申せ」

「はっ、御屋形様御自ら三河へ進軍することを表明なさったことを三河中で言いふらすのでございます。さすれば、三河の国衆らの心を揺さぶり、あるいは戦意を挫くことにも繋がるやもしれませぬ」

「その手があったか。よし、そのことは三浦右衛門大夫を通じて吉田城代の大原肥前守へ通達することとしようぞ」

 良いことを聞いた。本心からそう思っていることが表情にも表れている氏真。そんな今川氏真自らの三河侵攻を示唆する風説は数日の後には岡崎城の元康の耳にも届いた。

「なにっ、今川氏真自らが三河へ出陣じゃと!」

「ま、まだ駿府館を発ったわけではございませぬが、駿府館は兵粮や武具の値が高騰しており、戦支度に入ったものと思われまする」

「ちっ、面倒な……」

 草の者を前に思わず舌打ちしてしまう元康であったが、今川氏真自らの出陣は元康が最も恐れていた事態である。それもようやく西三河の基盤が安定し、これより東三河へ本格的に攻め入らんとしている折に、である。

「蔵人佐殿!一大事にござる!」

「おお、菅沼新八郎殿に西郷孫九郎殿。さては、東三河で何事かございましたか」

「いかにも。野田領に潜伏しておる某の家臣よりの報せによれば、島田城の菅沼伊賀守定勝殿が作手亀山城の奥平監物丞定能に攻められ、長篠城の菅沼貞景殿も鈴木重時らの攻撃を受けておるとのこと。田峯城の菅沼惣領家も今川へ帰参すべきとの意見が出始めておるようで」

 貴重な東三河での味方勢力がまたもや減ろうとしている。そのことは、菅沼新八郎や西郷孫九郎はもとより、元康にとっても由々しき事態であった。

「かくなるうえは、今月下旬に某自らが手勢を率いて東三河へ出兵いたしましょう。兵数は今の時期では二千が限度となろうが、牛久保城攻略を成すためにも今動かねばならぬ。菅沼新八郎殿と西郷孫九郎殿。ご両名は地の利に明るいゆえ、案内役をお頼みしたい」

「断る謂れがござらぬ!のう、孫九郎殿!」

「うむ。むしろ、こちらがお願いせねばならぬ立場。何卒、旧領奪還にお力添えを!」

「かたじけござらぬ。然らば、ご両名も出陣の支度を。東三河の味方を見殺しにはできぬゆえ、でき得る限りの協力はさせていただきます。然らば、某はただちに重臣らと協議せねばなりませぬゆえ、お二人は今しばらくお待ちくださいますよう」

 元康は一度、菅沼新八郎定盈や西郷孫九郎を下がらせると、四家老らを呼び寄せ、東三河出兵のことを打ち合わせた。もとより、出陣するつもりであったこともあり、大方支度は整っており、残す準備はわずかばかりとなっていた。

「そうです。殿、此度は何処へ本陣を置かれるおつもりでしょうか」

「なんじゃ、与七郎。それは前にも申した通り、豊川八幡宮と決めて、神主よりの許可も得たところではないか」

「はい。ゆえに、その前に乱暴狼藉を禁ずる禁制を発給しておくべきかと。駿府の今川氏真自ら三河へ出陣してくることを聞き、寺社や周辺の領民らも怯えておりましょうゆえ」

「なるほど。それもそうじゃな。ならば、すぐにも禁制を発給しておくこととしよう。やはり与七郎はよく細かいことに気がつく。今後も至らない箇所があれば、遠慮のう申せ」

「ははっ!」

 石川与七郎数正の指摘を受け入れた元康はすぐにも、寺社や領民の心を味方に付けるべく、工作を強化。禁制を発給するなどして、自分たちは無道な真似はしないことを知らしめたのである。

 そうして万事支度を整えた元康は、満を持して三度目の正直となる牛久保城攻略に向けて、岡崎城を出陣。いつも通り、東海道を東へ進み、予定していた豊川八幡宮へ布陣したのである。

 永禄四年の間だけで四月、八月、今回の十月に行なった牛久保城攻めであったが、またもや牛久保城を攻略することはできなかった。

「殿」

「おお、大久保七郎右衛門か。いかがした」

「はっ、今後の三河制圧について殿に献策したきことがあると申す者を連れて参りましてございます」

「なんと、そなたから推挙したい者がおると申すか。よい、これへ通せ」

 豊川八幡宮に本陣を構え、膠着状態に苛立ちを覚える元康のもとへ参上したのは大久保七郎右衛門忠世であった。立派に髭をたくわえた元康よりも齢が十も上のいかめしい豪傑である。

 主に戦場での槍働きで目覚ましい活躍を見せる彼の口から『献策』という気になる言葉が聞こえてきたのでは、元康も気にならないはずがなかった。

 元康からの許可を得た大久保七郎右衛門が連れてきたのは華奢でみすぼらしい胴丸姿に反して、利発そうな面持ちをした薄髭の青年であった。

「殿、この者が本多弥八郎正信にございます」

「本多弥八郎にございまする。ご拝顔の栄に浴し、恐悦至極に存じます」

「おお、そなたが七郎右衛門が推挙したいと申しておった者か。今はどこに仕えておるのか」

「はい。松平蔵人佐元康様にお仕えしております」

 本人を前にして、あなたに仕えていると申してにやりと笑う本多弥八郎。その発言にさすがの元康も面食らった様子であった。

「某は武士の身でありながら槍働きではお役に立てず、これまで殿より感状をいただくほどの武功は挙げられておりませぬ」

「ふむ。じゃが、わざわざ七郎右衛門がわしに引き合わせたほどの者じゃ。そなたにも見どころがあるのであろう」

「はっ、謀略に優れておりまする」

「謀略とな。何ぞ功績を立てたことでもあるのか」

「これから立てようかと思うておるところでございます」

 謀略に優れると言いながら、今までそれで成果を挙げたことはない。そう自分で断言し、妙な自信に溢れている目の前の男を信用すべきか、さすがに元康も迷ってしまう。それを見かねて、たまらず大久保七郎右衛門が口を挟む。

「殿、この者は大層頭が切れまする。加えて、性根の腐った……ごほん、突拍子もないことを思いつく奴なのです。何卒、話だけでも」

「よ、良かろう。いくつか気になるところはあるが、その策とやら、申してみるがよい」

「然らば……」

 そう言って、咳ばらいを一つ。周囲の木々が風に撫でられ、ざわめく中、本多弥八郎が口を開いて申したのである。

「殿、牛久保よりも先に攻めるべきは上之郷にございまする」と。
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