不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第138話 頭が動けば尾も動く

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 藤波畷での合戦において本多豊後守広孝が吉良家家老・富永伴五郎忠元を討ち取ったことはその日のうちに岡崎城にて菅沼新八郎定盈らと対面していた元康のもとへも届けられた。

「おお、そうか!あの憎たらしい富永伴五郎を討ったか!」

「はっ!西尾城の酒井雅楽助様ともども、富永伴五郎が散ったとあらば東条城の落城も近いと申しておりました」

「それはわしも同意見じゃ。ともかく、一度砦まで下がらせ、兵らを休ませるよう伝えよ」

 本多豊後守よりの使者にそう伝えた後、元康は改めて西郷孫九郎と菅沼新八郎へと向き直る。

「松平蔵人佐殿。此度の合戦勝利、まこと祝着至極に存じます」

「菅沼新八郎殿に祝われると、より嬉しく思えてならぬ」

「はっ!」

「先ほども申した通り、この元康を頼って岡崎まで参られた以上、助力は惜しまぬ。東条城のことが片付き次第、ただちに東三河へ出陣いたすゆえ、その折は御両所にも道案内をお頼みしたい」

 すでに菅沼新八郎、西郷孫九郎との話もまとまりつつあった。それでもやはり、東条城のことが片付けばと口にする元康が、そう易々と東条城を攻略し、東三河へ向かえるのかは菅沼新八郎としては疑わしかったのだ。

 そんなところへ、吉良家家老の富永伴五郎を討ち取り、合戦にて大勝利を収めたとの吉報がもたらされ、菅沼新八郎の元康への心証は大きく変わっていた。

「然らば、本日のところはこれにて失礼いたしまする。孫九郎殿も早く妻子の無事を確かめたいと思っておりましょう」

「さもありなん。新八郎殿も疲れておりましょう。旧領奪還が成せるまで、短い間ではございますが、ごゆるりと」

「かたじけござらぬ。では、これにて」

「然らば、この西郷孫九郎も失礼いたしまする」

 東三河より遠路はるばるやって来た菅沼新八郎と初めて直に会った元康。元康としても、菅沼新八郎と話す中で想像以上に東三河は劣勢であることが知れたことは大きな収穫であったが、それゆえの焦りも生じていた。

「ひとまず、東条城さえ落ちれば東三河へ軍勢を引き連れて向かえるものを……」

 そういって脇息に寄りかかって嘆息しているところへ、矢継ぎ早に報せがもたらされる。慌てた様子で広間へ駆けこんできたのは、阿部善九郎正勝であった。

「殿!東条城の吉良義昭様よりの御使者到着!」

「なんと!使者は誰じゃ!」

「大河内善兵衛正綱と申す者!齢は殿よりも若う見えまする」

「左様か。ともあれ、これへ通すように。吉良家からの使者じゃ。丁重に対応せよ」

「無論、心得ておりますれば」

 阿部善九郎は一礼し、広間を退出。しばらくすると、天野三郎兵衛康景とともに吉良家の使者・大河内善兵衛を連れてきたのである。

「松平蔵人佐様。お初に御意を得ます、大河内善兵衛と申しまする。此度は我が主、吉良義昭の命を受けて参上いたしました」

「おお、大河内善兵衛殿。よくぞ参られた。して、吉良義昭様は何と仰せであったか」

「ははっ、先刻当家の家老であった富永伴五郎討ち死につき、我が主は降伏を決意なされました」

「降伏なされると、まこと吉良義昭様が申されたのじゃな」

 元康からの問いかけに、沈着冷静に頷く大河内善兵衛。降伏を伝える使者として岡崎城へ来たものであるが、その言語態度たるや肝の座ったものであった。

「いかにもにございまする。もとより吉良家は兄である三郎義安様がお継ぎになられるべきであるとも申しておりました。加えて、降伏するにあたり東条城は開城いたしまするが、籠城していた城兵らの命を取らないことが条件にございまする」

「相分かった。城の受け取りには青野松平勢と土居の本多豊後守を向かわせまするゆえ、その旨吉良義昭様へお取次ぎ願いたい。無論、城兵の命はおろか、吉良義昭様のお命を取るつもりは毛頭ないことも」

「しかと承りました。我が主も安堵いたしましょう。然らば、開城した後の我が主の身柄は何処へ移されるご所存か、今ここでお伺いいたしたく」

 東条城を開城した後、吉良義昭の身柄はどこへ移されるのか。その問いは明らかに吉良義昭から尋ねるように申し付けられたものでなく、目の前にいる大河内善兵衛の一存であることは元康にも容易に想像がついた。

「うむ、東条城北西の岡山村で蟄居していただこうと考えておる。岡崎城へ移せば、再起を図って東条城を襲おうという気も起きぬであろうが、この元康は吉良義昭様が人品を信じておりまする。ゆえに、岡山村でごゆるりと余生を過ごしていただければよいと考えておりまする」

「承知いたしました。然らば、立ち戻って主にそのこと伝えまする!では、これにて失礼いたしまする」

 思いのほか、蟄居先が東条城から離れていないことに安堵したのか、大河内善兵衛は満足げな表情で足取り軽やかに帰路についていく。しかし、この処置に不服そうなのが側でやり取りを聞いていた天野三郎兵衛と阿部善九郎の両名であった。

「殿、恐れながら寛大すぎる処置かと存じます。岡崎城下でなくとも、西尾城へ身柄を移されるが賢明かと」

「某も三郎兵衛殿の意見に同意いたしまする。殿のご意向にそぐわぬ吉良家の人間を生かしておいては、今後の三河平定に障りが出ましょう。ご下命あらば、岡山村に刺客を忍ばせ、折を見て暗殺させまするが……」

「ならぬ!尾は打ち枯らした吉良義昭様を騙し討ちしようなどとは、武士の風上にもおけぬ所業ぞ!もはや西三河は盤石となった!城も所領も召し上げた。これだけで十分であろうが」

 言外に二度とそのようなことを口にするな、と主張する元康の眼に、阿部善九郎も天野三郎兵衛もおとなしく従うほかなかった。

 ともあれ、東条城の吉良義昭降伏を受けて、元康の中で西三河制圧は成ったと思える段階まで進んだ。大給松平家や足助鱸氏は反抗を続けているものの、勢いは衰えている。上野城の酒井将監忠尚や滝脇松平家を牽制として留めておくだけで十分な相手であった。

 そして、後日。青野松平家当主・亀千代と松井左近忠次、土居の本多豊後守広孝が戦勝を祝うべく岡崎城へ登城してきた折に、元康は論功行賞を行ったのである。

「此度の藤波畷合戦における戦勝、まこと見事であった。あの勝利あってこそ東条城攻略が成せたと言っても良い。ゆえに、ひときわ戦功のあった青野松平家と本多豊後守へ褒美を与える」

 元康から直接激賞されたことに、直接戦いに参加した松井左近と本多豊後守は嬉しさで表情筋が思わず緩んでしまう。そんな二人を見て、元康も口角を上げて恩賞を申し伝えていく。

「青野松平家には東条城を含む東条領を与え、当主である松平亀千代自らが東条城へ入ること。加えて、亀千代が未だ六ツと幼いことから引き続き松井左近を名代とすることを認める」

「ははっ!ありがとうございまする!ささっ、亀千代君も」

「松平蔵人佐様、ありがとうございまする。この御恩に報いられますよう、一層の奉公を心掛けて参ります」

「ははは、亀千代。挨拶が堅いぞ。さしずめ、そこな伯父に仕込まれたのであろう。ははは……!」

 顔を赤らめ、うつむく亀千代。そんな可愛い甥っ子に御礼の返答を教え込んだ松井左近までもが頬を紅潮させていた。

「続けて、本多豊後守!そなたには、藤波畷にて討ち取った富永伴五郎が所領であった室の地を加増することといたす!」

「ははっ、ありがとう存じまする!」

「今後とも励んでくれよ」

「無論にございまする!殿の期待に応えられるよう、一層精進して参りまするぞ!」

 そうして吉良義昭が領していた東条城を中心とする東条領にまつわる論功行賞が終わった頃、元康の頭を悩ませる課題が一つあった。

 八ツ面城主で吉良一族である荒川甲斐守義広への恩賞であった。酒井雅楽助政家が東条城へ出兵した際、速やかに援軍を派遣してくれたからこそ、迅速に出陣できた。それゆえに、荒川甲斐守にも何か恩賞を与えていただきたいと酒井雅楽助から打診があったのである。

 しかし、吉良義昭の所領は周辺であり、戦功のあった青野松平家と本多豊後守へ大半を分配し、荒川甲斐守に与えるに相応しい所領は残っていないのである。

 そんな折、元康のもとを訪ねてきたのは西尾城主・酒井雅楽助に加え、継母・田原御前と異母妹の市場姫であった。

「おお、雅楽助。継母上に於市まで参ったか。揃いも揃って、何用か」

「ははっ、先日お願いいたした荒川甲斐守殿への恩賞についてにございまする」

「うむ。そなたはそうであろうと思うておったが、継母上と於市の用件が判然とせぬ」

「それは、某が荒川甲斐守殿へ恩賞を与えるよう殿へ進言したとの噂を耳にしたそうで、直接殿へ話たきことがあるゆえ、一緒に参ると仰せになられたのです」

「ふむ。つまりは、此度の三名の用件は継母上に訊ねた方が良さそうじゃな」

 用件の分かり切っている酒井雅楽助。未だに何が何だか分かっていない様子で兄と継母の顔を交互に見やる市場姫。消去法的に継母である田原御前に用向きを尋ねた方が良いと判断するのは当然の流れともいえた。

「殿は雅楽助殿が申すように荒川甲斐守殿へ恩賞を与えるのはやぶさかではない。しかし、与えられる恩賞がない。その矛盾に悩んでおいでではと思い、こうして罷り越した次第にございます」

「さすがは継母上。お言葉を承る限り、その矛盾を解決する策がおありのようですな」

「ええ。何も恩賞は領地だけではございませぬ」

「むっ、領地以外に何を与えると申されるのか」

「妻にございます」

 領地でないならば、腰の物。すなわち、太刀や馬、鎧といった類のものを与える。そう考えていた元康にとって、田原御前の妻を与えるという発言は思いも寄らないものであったが、同時に興味をそそるものでもあった。

「ははは、よもや妻を与えるとは、この元康も思いつきませんでした。然らば、継母上。そのお考えをお聞かせ願いたい」

「端的に申せば、ここにおる於市を荒川甲斐守殿のもとへ正室として輿入れさせまする。さすれば、松平宗家は吉良一族の方とも縁を結ぶことができ、それは西三河を統治することにも良き繋がりとなりましょう」

「それはそうであるが、於市の生母は平原勘之丞正次の娘じゃ。吉良家に釣り合う家格でないと申されれば、それまでであるかと」

「ゆえに、妾の養女としたうえで嫁がせるのです。生家の戸田氏は鎌倉時代より戸田荘を収めた地頭であり、幕府政所執事の伊勢氏の被官であった豪族にございます。出自がことはこれにてご納得していただけるかと」

 先代当主と側室の間に産まれた平原氏の娘というよりも、先代当主の継室・戸田氏の娘として嫁がせる方が吉良一族である荒川甲斐守にも納得してもらえるだろうというのが、田原御前の主張であった。

 元康としても、戦と婚儀の支度が重なることもあり、慌ただしくなることは目に見えていたが、妹が吉良一族に嫁ぐのだと思うと誇らしかった。

「継母上が申される通り、於市を継母上の養女としたうえで荒川甲斐守殿へ嫁がせることといたしましょう。ついては、詳細は某が書状に認めまする。酒井雅楽助も副状をしたため、わしの書状とともに荒川甲斐守殿へ届けてもらいたい」

「はっ、委細承知いたしました!」

「継母上はひとまず、於市を養女としたうえで次なる報せをお待ちくだされ。その後のことは詳細が決まり次第、改めてご連絡いたしまするゆえ」

「分かりました。では、婚儀のこと、何卒よろしくお願い申し上げます」

 自分の知らないところで縁談が決められたこと、於市は恨むであろうと元康は思った。しかし、敵対している勢力と婚姻同盟を結ぶために嫁がされるよりは、好意的な味方に嫁がせる方が安全であるとも考えていた。

「また、近々、西尾城におられる吉良三郎様にも叔母である俊姫を側室として嫁がせたい。荒川甲斐守殿とだけ姻戚関係となるは、吉良三郎様にあらぬ疑念を抱かせる恐れもあるゆえな」

 元康が吉良一族の荒川甲斐守へ妹を嫁がせたとあれば、弟・義昭を倒したことで自分は用済みになったのだ。ゆえに、元康は吉良家の家督を荒川甲斐守へ継承させる気かもしれないなどと思われては、それこそ西三河支配に支障をきたす。それが、元康の考えであった。

 そんな妹の婚姻で生じる恐れのある事態に、速やかに対応策を講じる元康の姿に、家臣として、義理の母として頼もしく思いながら、訪ねてきた三名たちはそれぞれ書院を退出していく。

 かくして元康は東三河への出兵準備に吉良家との縁談をまとめるという二重にも三重にも忙しい日々を送ることとなるが、翌十月中旬に最も恐れていたことが東より報じられてきたのであった――
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