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第4章 苦海の章
第142話 恋草
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「と、と、殿!一大事にございまする!」
一月も暮れようかという頃、血相変えて元康のいる書院へ飛び込んできたのは阿部善九郎正勝であった。
「なんじゃ、公方様からの御内書にあった停戦には応じぬと決めたばかりではないか。何ぞ、新たに京から便りでも――」
「いえ、違いまする!成瀬藤蔵正義、出奔!」
「馬鹿な!あの成瀬藤蔵が出奔じゃと!?さては、先日の将軍よりの停戦に応じないことへ不服を訴えてのことか!」
「そうではございませぬ!同僚の某を斬り捨てたとのことで、おそらく処罰を恐れてのことかと存じまする!」
阿部善九郎が血相変えて飛び込んできたものだから、さぞかし大事なのだろうと考えていた元康であったが、詳細を聞いてホッと胸をなでおろす。
「善九郎、針小棒大に報告するでない。一体何事かと思ったではないか」
「はっ、申し訳ございませぬ!されど、成瀬藤蔵がことはいかがなされまするか」
「追手を派遣することもない。そもそも、そんな余力は当家にはない」
「それもそうですな」
出奔した人間を追討する余裕がないだけのことなのだが、『去る者は追わず来る者は拒まず』の精神であると言えば美談に聞こえてくるのが、これまた不思議なものである。
「そうじゃ、善九郎。以前命じた伊東法印が軍書の写本のことじゃが、進捗はどうなっておる」
「はっ、そのことにございますか。合間を縫って進めており、現在は四十八巻中四十三巻まで仕上がっておりますれば。来月中には殿へ献上できるかと存じます」
「そうであったか。忙しいところ済まぬが、来月の献上を楽しみにしておる」
「ははっ!殿のご期待に沿えますよう、しかと写本いたしまする!」
敬愛する主君から楽しみにしていると言われ、阿部善九郎が喜ばないはずもなく。いつしか齢二十二となっている阿部善九郎は張り切った様子で書院を退出していくのであった。
そんな元康の手元には、継父・久松佐渡守よりの書状が広げられている。来月頭に控えている鵜殿藤太郎長照が居城・上之郷城攻めの援軍として向かうことになったゆえ、良しなに頼むと記されている。
だが、書状の内容がそれだけということはなく、妻の於大は息災であるとか、その間に産まれた三郎太郎こと久松勝元、源三郎こと久松勝俊はともに齢十一となり、専ら武芸の稽古に精を出しておること、多劫姫は齢十となりところどころ生母・於大に似たところがあるとか、桶狭間合戦のあった年に生まれた長福丸は三ツとなったことなど、読んでいてほっこりするような内容も記されていた。
隣国・尾張にて異父弟妹たちが健やかに成長し、乱世の只中に会っても幸福に暮らすことができている。それだけで、元康まで不思議と嬉しくなってくる。
そんな折、あらかじめ申し入れがあった長沢松平家の当主・松平源七郎康忠が、祖父として後見し家政を取り仕切る松平上野介親広、松平源七郎の生母であり元康にとって父方の叔母にあたる於久らを伴って、元康のご機嫌伺いにやって来た。
東三河へ遠征するうえで重要な地を領する長沢松平家が来たということもあり、元康は家老の酒井左衛門尉忠次と植村出羽守栄政を同席させたうえで対面した。
「蔵人佐殿、元服の折には大変お世話になりましたこと、改めて御礼申し上げます」
「元服の折、某が源七郎殿へ偏諱した『康』の一字であるが、気に入っていただけたか」
「はっ!そのようなこと、言うまでもございませぬ!主君より諱の一字をいただけるなど、誉れなこと。殿より拝領した『康』の一字に見劣りせぬ立派な当主にならんと祖父より薫陶を受けておるところにございますれば!」
そう、松平源七郎康忠の『康』はこの永禄五年に元服した際、元康が与えた一字なのである。それを気に入るも気に入らないもないのだが、松平源七郎は言葉にうらがあるといった様子はなく、ただ純真に喜んでいる様子であった。
「うむ、それならば良い。そうじゃ、出羽守。矢田姫を呼んで参れ。源七郎殿とともに申し付けたきことがあるゆえな」
「はっ、承知!では、中座させていただきまする!」
元康より矢田姫を呼んでくるように申し付けられた植村出羽守は畏まった様子で主君・元康へはもちろんのこと、長沢松平家の面々へ一礼して退出してゆく。
そんな植村出羽守が離席した後も、広間では何気ない会話が続けられていく。そのような流れの中で、松平上野介が膝を進めた。
「蔵人佐殿、この翁より申し上げたきことがございまする」
「ほう、何であろうか。遠慮のう申してくだされ」
「然らば言上仕る。一昨年の桶狭間合戦以来、寡婦となっておる於久を宗家へ戻し、新たな縁を結んでやってはいただけぬかと」
松平上野介より名の挙がった於久は桶狭間合戦にて討ち死を遂げた先代・松平政忠の正室であり、この場にいる現当主・源七郎の生母。何より、先々代・松平清康の娘であり、先代・松平広忠の妹、すなわち元康にとって叔母にあたる女性なのである。
そんな於久は齢三十四。これから先も寡婦であり続けるよりも、一度実家に戻り、再婚する方が彼女の今後の人生では良いのではないかと、松平上野介は考えたのであった。
「なるほど。二年前であれば源七郎殿は父に続き、母まで引き離されては心に深い傷を負う。されど、こうして一年が過ぎ、源七郎殿も三河国宝飯郡小坂井ほか千八百十貫文を知行された立派な当主となられた。加えて、祖父の上野介殿ほか、叔父である松平信重と松平近清の両名も各々百貫文を知行して補佐にあたっておるし、安泰でありましょう」
「はい。源七郎も於久も同意のうえで、この老いぼれめも申しておるのでございます。何卒、お聞き届けいただけませぬでしょうか」
「よろしい。当人ら合意のうえとあらば、この元康が否とは申せませぬ。然らば、叔母上に問い申す」
「は、はい。何にございましょう」
「これはわしの思い付きじゃ。そこにいる当家の家老、酒井左衛門尉忠次へ再嫁せよと申したらどうじゃ、嫁ぐか」
元康からの提案はまさしく寝耳に水のこと。長沢松平家の面々も面食らったし、突如主君の叔母の再婚相手に指名された家老・酒井左衛門尉もまた、驚かずにはいられなかった。
「殿!それは恐れ多きこと!殿の御身内を某の妻になどと!」
「不服か」
「不服……ではございませぬ!されど、何もこのような老けた者を指名せずとも、もっと他に良き御仁がおられるはず……!」
「おらぬ。於久と齢の近い者は皆、正妻がおる。仮に、その者に叔母上が嫁ぐとなれば、今の正妻を側室としたうえで娶らねばならぬ。愛している妻を側室とするなど、夫婦ともに承諾しかねよう」
酒井左衛門尉が不服でないことは、元康にもよく分かっていた。元康が幼少の頃より付き従うこの堅物は温かな家庭を築くよりも忠義に捧げてきている。正式に妻としたわけではないが、ある女性との間に姫が一人産まれただけ。
このままでは後を継ぐ者がいないどころか、共に老いてゆく妻もいない。そんな三十六になる注進を叔母婿として親族とすることで少しでも、これまでの忠節に報いたいというのが元康の何よりの願いでもあった。
加えて、酒井左衛門尉は於久を娶ること自体、不服というよりも主君の叔母を正妻とすることを恐れ多いと感じているだけなのだということくらい、長い付き合いの元康には分かってしまうのだ。
「家中におらぬと申すならば、他の松平家に嫁がせるということも」
「おわぬわ。まだ齢の近い荒川甲斐守にはすでに我が妹、市場姫が嫁いだ。吉良家当主の三郎様に嫁がせる叔母も定まっておるゆえ、今さら花嫁をすり替えることも叶わぬ」
「そ、それでは……」
「左衛門尉、そんなに叔母上が嫌いか」
元康は意地の悪いことを聞いた。それはあえて聞いたことなのだが、それぐらいしなければ、酒井左衛門尉という男は正直になれないと算段しての問いかけであった。
「そ、そのようなことはございませぬ!」
「よし!叔母上!酒井左衛門尉は嫌いか!」
「そ、そのようなこと、滅相もございませぬ!ご高名は長沢の地まで聞こえております。家老として家中のことをまとめる手腕、比類なきものであると!」
「決まった!叔母上は酒井左衛門尉忠次へ嫁ぐこととする!そのこと、決して違背はならぬ!この場におる者皆が生き証人じゃ!」
少々強引な手であったが、互いが憎しみ合っているのではないのなら、再婚相手としてひとまずのところは問題ない。そう思い、勢いに任せて縁談話を取りまとめた元康。
それだけに、目の前で母親の再婚が決まったことを未だ信じられぬといった様子の松平源七郎は生母の顔と継父となる男の顔を交互に見やっている。
「源七郎殿」
「はいっ!わしから諱に続いてもう一つ贈り物があるのじゃが、その前に左衛門尉がことを継父上と呼んでみてはくれぬか」
眼の前にいる宗家の家老が新たな父親。その事実に少しでも慣れさせておきたい、ということもあり、元康は松平源七郎康忠に無茶ぶりをした。そんな無茶ぶりに応じるとは元康も思っていなかったが、次の瞬間に発された一言に度肝を抜かれることになる。
「ち、継父上!怒ると怖い母ではございますが、何卒よろしくお頼み申し上げまする!」
刹那、上座で胡坐をかく元康と、源七郎の祖父・上野介が笑い出すのが同時であった。怒ると怖いと再婚相手の前で息子に暴露された於久は羞恥で顔を紅に染めている。
しかも、そのことを𠮟りつけたのでは、息子の発言に信ぴょう性が出てしまうため、猫を被ったまま大人しくしているほかなかった。
「ははは、左衛門尉。これは源七郎殿よりの忠告じゃ。叔母上を怒らせぬよう、上手く尻に敷かれよ」
「はっ、ははっ!」
上手く妻の尻に敷かれておけという元康の言葉に、これまた馬鹿正直に畏まった返答をする酒井左衛門尉。それはまたもや、元康と松平上野介の笑いを誘発し、ついには笑う祖父を押さえる側であったはずの松平源七郎までもが腹を抱えて笑ってしまっていた。
そんな酒井左衛門尉と於久を除いた三名が腹を抱えて笑っている状況の中、広間へと舞い戻ってきた植村出羽守と連れてこられた矢田姫は困惑するばかりであった。
広間の入り口で硬直している植村出羽守と矢田姫の姿を捉えた元康は手招きして、広間へ招き入れる。
「姫、寒い中このような場所へ呼び出してすまぬ。そこな松平源七郎殿が隣へ座るがよい」
「は、はい」
矢田姫は兄に言われるまま、正直に松平源七郎が隣にて正座する。それはさながらひな人形の男雛と女雛のようであった。
「父は長沢松平家を兄弟の如く信用しておられたと老臣らから聞いたことがある。それゆえ、某の従弟である源七郎殿にも我が妹を娶っていただきたい」
その元康の言葉を理解するのに、松平源七郎と矢田姫の当人らは数拍の間を置く必要があった。
しかし、理解できないほどの無知ではないことを元康は理解したうえで発した言葉でもある。少し間を置けば、二人にも言わんとすることが伝わるであろう、と。そして、それは予想通りの事象へと帰結した。
齢十七の長沢松平家当主・松平源七郎康忠と、齢十六となった松平宗家当主である松平蔵人佐元康が異母妹・矢田姫。
年齢も限りなく近い二人はお似合いだと、二人を並んで正座させてみて元康は改めて実感していた。そんな実感を胸に、二人へかける言葉を紡いでいく。
「わしは今後とも長沢松平家とは蜜月な間柄でありたいと思う。ゆえに、元服したそなたに妹を娶ってもらおうとな」
「では、以前より考えておったということでしょうや」
「いかにも。じゃが、当初、わしはそこにおる矢田姫を荒川甲斐守へ嫁がせるつもりであった。しかし、於市では松平源七郎とは上手くやれぬのではないかと思い、於市を荒川甲斐守へ、矢田姫をそなたへ嫁がせることに決めた」
「承知いたしました。蔵人佐殿がそう見られたのであらば、この源七郎、謹んで矢田姫さまとの縁組、お受けしたく存じます!」
元康は松平源七郎の瞳を見て逞しく思いながら、傍らに控える矢田姫へと視線を移す。
「姫、兄が勝手に結婚相手を決めたこと、さぞかし嫌であろう」
「いやなどと思うておりませぬ」
「では、松平源七郎殿を夫として望むと、さように言わっしゃるか」
「はい」
「よし、では決まりじゃ!長沢松平と再び縁を結ぶこととなった!今夜は宴じゃ!盛大に祝うとしようぞ!」
酒井左衛門尉忠次と於久、松平源七郎康忠と矢田姫の婚姻が良縁となるか。それは誰にも分からないが、その目出度い門出を、元康主導で催された祝宴によって岡崎城は明朝まで賑わうのであった――
一月も暮れようかという頃、血相変えて元康のいる書院へ飛び込んできたのは阿部善九郎正勝であった。
「なんじゃ、公方様からの御内書にあった停戦には応じぬと決めたばかりではないか。何ぞ、新たに京から便りでも――」
「いえ、違いまする!成瀬藤蔵正義、出奔!」
「馬鹿な!あの成瀬藤蔵が出奔じゃと!?さては、先日の将軍よりの停戦に応じないことへ不服を訴えてのことか!」
「そうではございませぬ!同僚の某を斬り捨てたとのことで、おそらく処罰を恐れてのことかと存じまする!」
阿部善九郎が血相変えて飛び込んできたものだから、さぞかし大事なのだろうと考えていた元康であったが、詳細を聞いてホッと胸をなでおろす。
「善九郎、針小棒大に報告するでない。一体何事かと思ったではないか」
「はっ、申し訳ございませぬ!されど、成瀬藤蔵がことはいかがなされまするか」
「追手を派遣することもない。そもそも、そんな余力は当家にはない」
「それもそうですな」
出奔した人間を追討する余裕がないだけのことなのだが、『去る者は追わず来る者は拒まず』の精神であると言えば美談に聞こえてくるのが、これまた不思議なものである。
「そうじゃ、善九郎。以前命じた伊東法印が軍書の写本のことじゃが、進捗はどうなっておる」
「はっ、そのことにございますか。合間を縫って進めており、現在は四十八巻中四十三巻まで仕上がっておりますれば。来月中には殿へ献上できるかと存じます」
「そうであったか。忙しいところ済まぬが、来月の献上を楽しみにしておる」
「ははっ!殿のご期待に沿えますよう、しかと写本いたしまする!」
敬愛する主君から楽しみにしていると言われ、阿部善九郎が喜ばないはずもなく。いつしか齢二十二となっている阿部善九郎は張り切った様子で書院を退出していくのであった。
そんな元康の手元には、継父・久松佐渡守よりの書状が広げられている。来月頭に控えている鵜殿藤太郎長照が居城・上之郷城攻めの援軍として向かうことになったゆえ、良しなに頼むと記されている。
だが、書状の内容がそれだけということはなく、妻の於大は息災であるとか、その間に産まれた三郎太郎こと久松勝元、源三郎こと久松勝俊はともに齢十一となり、専ら武芸の稽古に精を出しておること、多劫姫は齢十となりところどころ生母・於大に似たところがあるとか、桶狭間合戦のあった年に生まれた長福丸は三ツとなったことなど、読んでいてほっこりするような内容も記されていた。
隣国・尾張にて異父弟妹たちが健やかに成長し、乱世の只中に会っても幸福に暮らすことができている。それだけで、元康まで不思議と嬉しくなってくる。
そんな折、あらかじめ申し入れがあった長沢松平家の当主・松平源七郎康忠が、祖父として後見し家政を取り仕切る松平上野介親広、松平源七郎の生母であり元康にとって父方の叔母にあたる於久らを伴って、元康のご機嫌伺いにやって来た。
東三河へ遠征するうえで重要な地を領する長沢松平家が来たということもあり、元康は家老の酒井左衛門尉忠次と植村出羽守栄政を同席させたうえで対面した。
「蔵人佐殿、元服の折には大変お世話になりましたこと、改めて御礼申し上げます」
「元服の折、某が源七郎殿へ偏諱した『康』の一字であるが、気に入っていただけたか」
「はっ!そのようなこと、言うまでもございませぬ!主君より諱の一字をいただけるなど、誉れなこと。殿より拝領した『康』の一字に見劣りせぬ立派な当主にならんと祖父より薫陶を受けておるところにございますれば!」
そう、松平源七郎康忠の『康』はこの永禄五年に元服した際、元康が与えた一字なのである。それを気に入るも気に入らないもないのだが、松平源七郎は言葉にうらがあるといった様子はなく、ただ純真に喜んでいる様子であった。
「うむ、それならば良い。そうじゃ、出羽守。矢田姫を呼んで参れ。源七郎殿とともに申し付けたきことがあるゆえな」
「はっ、承知!では、中座させていただきまする!」
元康より矢田姫を呼んでくるように申し付けられた植村出羽守は畏まった様子で主君・元康へはもちろんのこと、長沢松平家の面々へ一礼して退出してゆく。
そんな植村出羽守が離席した後も、広間では何気ない会話が続けられていく。そのような流れの中で、松平上野介が膝を進めた。
「蔵人佐殿、この翁より申し上げたきことがございまする」
「ほう、何であろうか。遠慮のう申してくだされ」
「然らば言上仕る。一昨年の桶狭間合戦以来、寡婦となっておる於久を宗家へ戻し、新たな縁を結んでやってはいただけぬかと」
松平上野介より名の挙がった於久は桶狭間合戦にて討ち死を遂げた先代・松平政忠の正室であり、この場にいる現当主・源七郎の生母。何より、先々代・松平清康の娘であり、先代・松平広忠の妹、すなわち元康にとって叔母にあたる女性なのである。
そんな於久は齢三十四。これから先も寡婦であり続けるよりも、一度実家に戻り、再婚する方が彼女の今後の人生では良いのではないかと、松平上野介は考えたのであった。
「なるほど。二年前であれば源七郎殿は父に続き、母まで引き離されては心に深い傷を負う。されど、こうして一年が過ぎ、源七郎殿も三河国宝飯郡小坂井ほか千八百十貫文を知行された立派な当主となられた。加えて、祖父の上野介殿ほか、叔父である松平信重と松平近清の両名も各々百貫文を知行して補佐にあたっておるし、安泰でありましょう」
「はい。源七郎も於久も同意のうえで、この老いぼれめも申しておるのでございます。何卒、お聞き届けいただけませぬでしょうか」
「よろしい。当人ら合意のうえとあらば、この元康が否とは申せませぬ。然らば、叔母上に問い申す」
「は、はい。何にございましょう」
「これはわしの思い付きじゃ。そこにいる当家の家老、酒井左衛門尉忠次へ再嫁せよと申したらどうじゃ、嫁ぐか」
元康からの提案はまさしく寝耳に水のこと。長沢松平家の面々も面食らったし、突如主君の叔母の再婚相手に指名された家老・酒井左衛門尉もまた、驚かずにはいられなかった。
「殿!それは恐れ多きこと!殿の御身内を某の妻になどと!」
「不服か」
「不服……ではございませぬ!されど、何もこのような老けた者を指名せずとも、もっと他に良き御仁がおられるはず……!」
「おらぬ。於久と齢の近い者は皆、正妻がおる。仮に、その者に叔母上が嫁ぐとなれば、今の正妻を側室としたうえで娶らねばならぬ。愛している妻を側室とするなど、夫婦ともに承諾しかねよう」
酒井左衛門尉が不服でないことは、元康にもよく分かっていた。元康が幼少の頃より付き従うこの堅物は温かな家庭を築くよりも忠義に捧げてきている。正式に妻としたわけではないが、ある女性との間に姫が一人産まれただけ。
このままでは後を継ぐ者がいないどころか、共に老いてゆく妻もいない。そんな三十六になる注進を叔母婿として親族とすることで少しでも、これまでの忠節に報いたいというのが元康の何よりの願いでもあった。
加えて、酒井左衛門尉は於久を娶ること自体、不服というよりも主君の叔母を正妻とすることを恐れ多いと感じているだけなのだということくらい、長い付き合いの元康には分かってしまうのだ。
「家中におらぬと申すならば、他の松平家に嫁がせるということも」
「おわぬわ。まだ齢の近い荒川甲斐守にはすでに我が妹、市場姫が嫁いだ。吉良家当主の三郎様に嫁がせる叔母も定まっておるゆえ、今さら花嫁をすり替えることも叶わぬ」
「そ、それでは……」
「左衛門尉、そんなに叔母上が嫌いか」
元康は意地の悪いことを聞いた。それはあえて聞いたことなのだが、それぐらいしなければ、酒井左衛門尉という男は正直になれないと算段しての問いかけであった。
「そ、そのようなことはございませぬ!」
「よし!叔母上!酒井左衛門尉は嫌いか!」
「そ、そのようなこと、滅相もございませぬ!ご高名は長沢の地まで聞こえております。家老として家中のことをまとめる手腕、比類なきものであると!」
「決まった!叔母上は酒井左衛門尉忠次へ嫁ぐこととする!そのこと、決して違背はならぬ!この場におる者皆が生き証人じゃ!」
少々強引な手であったが、互いが憎しみ合っているのではないのなら、再婚相手としてひとまずのところは問題ない。そう思い、勢いに任せて縁談話を取りまとめた元康。
それだけに、目の前で母親の再婚が決まったことを未だ信じられぬといった様子の松平源七郎は生母の顔と継父となる男の顔を交互に見やっている。
「源七郎殿」
「はいっ!わしから諱に続いてもう一つ贈り物があるのじゃが、その前に左衛門尉がことを継父上と呼んでみてはくれぬか」
眼の前にいる宗家の家老が新たな父親。その事実に少しでも慣れさせておきたい、ということもあり、元康は松平源七郎康忠に無茶ぶりをした。そんな無茶ぶりに応じるとは元康も思っていなかったが、次の瞬間に発された一言に度肝を抜かれることになる。
「ち、継父上!怒ると怖い母ではございますが、何卒よろしくお頼み申し上げまする!」
刹那、上座で胡坐をかく元康と、源七郎の祖父・上野介が笑い出すのが同時であった。怒ると怖いと再婚相手の前で息子に暴露された於久は羞恥で顔を紅に染めている。
しかも、そのことを𠮟りつけたのでは、息子の発言に信ぴょう性が出てしまうため、猫を被ったまま大人しくしているほかなかった。
「ははは、左衛門尉。これは源七郎殿よりの忠告じゃ。叔母上を怒らせぬよう、上手く尻に敷かれよ」
「はっ、ははっ!」
上手く妻の尻に敷かれておけという元康の言葉に、これまた馬鹿正直に畏まった返答をする酒井左衛門尉。それはまたもや、元康と松平上野介の笑いを誘発し、ついには笑う祖父を押さえる側であったはずの松平源七郎までもが腹を抱えて笑ってしまっていた。
そんな酒井左衛門尉と於久を除いた三名が腹を抱えて笑っている状況の中、広間へと舞い戻ってきた植村出羽守と連れてこられた矢田姫は困惑するばかりであった。
広間の入り口で硬直している植村出羽守と矢田姫の姿を捉えた元康は手招きして、広間へ招き入れる。
「姫、寒い中このような場所へ呼び出してすまぬ。そこな松平源七郎殿が隣へ座るがよい」
「は、はい」
矢田姫は兄に言われるまま、正直に松平源七郎が隣にて正座する。それはさながらひな人形の男雛と女雛のようであった。
「父は長沢松平家を兄弟の如く信用しておられたと老臣らから聞いたことがある。それゆえ、某の従弟である源七郎殿にも我が妹を娶っていただきたい」
その元康の言葉を理解するのに、松平源七郎と矢田姫の当人らは数拍の間を置く必要があった。
しかし、理解できないほどの無知ではないことを元康は理解したうえで発した言葉でもある。少し間を置けば、二人にも言わんとすることが伝わるであろう、と。そして、それは予想通りの事象へと帰結した。
齢十七の長沢松平家当主・松平源七郎康忠と、齢十六となった松平宗家当主である松平蔵人佐元康が異母妹・矢田姫。
年齢も限りなく近い二人はお似合いだと、二人を並んで正座させてみて元康は改めて実感していた。そんな実感を胸に、二人へかける言葉を紡いでいく。
「わしは今後とも長沢松平家とは蜜月な間柄でありたいと思う。ゆえに、元服したそなたに妹を娶ってもらおうとな」
「では、以前より考えておったということでしょうや」
「いかにも。じゃが、当初、わしはそこにおる矢田姫を荒川甲斐守へ嫁がせるつもりであった。しかし、於市では松平源七郎とは上手くやれぬのではないかと思い、於市を荒川甲斐守へ、矢田姫をそなたへ嫁がせることに決めた」
「承知いたしました。蔵人佐殿がそう見られたのであらば、この源七郎、謹んで矢田姫さまとの縁組、お受けしたく存じます!」
元康は松平源七郎の瞳を見て逞しく思いながら、傍らに控える矢田姫へと視線を移す。
「姫、兄が勝手に結婚相手を決めたこと、さぞかし嫌であろう」
「いやなどと思うておりませぬ」
「では、松平源七郎殿を夫として望むと、さように言わっしゃるか」
「はい」
「よし、では決まりじゃ!長沢松平と再び縁を結ぶこととなった!今夜は宴じゃ!盛大に祝うとしようぞ!」
酒井左衛門尉忠次と於久、松平源七郎康忠と矢田姫の婚姻が良縁となるか。それは誰にも分からないが、その目出度い門出を、元康主導で催された祝宴によって岡崎城は明朝まで賑わうのであった――
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やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
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