不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第141話 凶報と将軍からの御内書

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 永禄五年正月。気持ちが晴れやかな気分となる新年早々、元康にとっては面白くない事態が東三河にて勃発してしまう。

 それは岡崎城へ逃れてきた川路城の設楽越中守貞通よりもたらされた情報であった。

「設楽越中守殿!そ、それはまことか!?」

 手にしていた扇子を取り落とした元康の驚きと戸惑いが入り混じった声が、それまで静寂に支配されていた岡崎城の広間中へ響き渡る。

 設楽越中守よりもたらされた衝撃的な一報に、その場に同席する四家老を含めた重臣らも凍り付いたかのように体の動きを停止させる。

「はっ、某が居城を捨てて逃げて参ったのは、やむを得ずの仕儀にござる。田峯城の菅沼小法師殿、島田城の菅沼伊賀守定勝殿が菅沼次大夫や奥平監物丞定能らの仲介による今川氏へ再び従属。長篠城の菅沼貞景殿も同様に寝返り、後藤善心殿の白鳥山城は吉田の渡辺平内治が攻撃を受けて落城とあっては、豊川以東で反今川を掲げるは某のみ。到底抗い切れず、居城を捨ててこれへ落ちて参った次第!」

 元康が昨年十月に牛久保城を攻め落とせず、東三河での劣勢を挽回できなかったことが影響したのか、一挙に味方してくれていた東三河の菅沼家が雁首揃えて今川家へ再び従属してしまったのである。

 結局、元康に味方を表明して抗い続けた同志と呼べるのは白鳥山城を攻め落とされた後藤善心と、西郷孫九郎ら八名郡西郷氏・菅沼新八郎定盈の野田菅沼氏・設楽越中守貞通の設楽氏といった豊川三人衆、これに牛久保牧野氏を離反した一族郎党を加えたばかりのごく少数。

 これに対し、今川方は牛久保城の牧野民部丞成定、上之郷城の鵜殿藤太郎長照と庶流筋の不相鵜殿家、作手亀山城の奥平監物丞定能とその一族、加茂郡の大給松平和泉守親乗、足助真弓山城の鈴木重直、白倉城の山吉田鈴木重勝、二連木城の戸田主殿助重貞、伊奈城の本多助太夫忠俊、吉田城代の大原肥前守資良、田原城代の朝比奈元智などが健在。

 ここに帰順した田峯菅沼氏、島田菅沼氏、長篠菅沼氏が新たに加わったうえ、遠江や駿河の諸勢も温存されているという、絶望的なまでの戦力差であった。

 そうした情勢が肌身で理解できる菅沼新八郎と西郷孫九郎は歯ぎしりしながら、事の成り行きを見守っている。設楽越中守を含めて、豊川三人衆にとって旧領を奪還するためにも、ここで元康に屈されては困るのだ。

 それを知ってか知らずか、元康は豊川三人衆を流し見て笑ったのである。

「案ずるでない。ここまで来て、今さら今川家に戻るつもりなど毛頭ない。今すぐは到底無理じゃが、某に真っ先に賛意を示してくださったお三方の期待を裏切るなど、最もやってはならぬことじゃ。そのためにも、成さねばならぬことを一つ一つ行なっていくまでのことぞ」

 そこまで言うと、元康はドンと足音を立てて起立する。その瞳には確かな闘志が宿り、決して希望が失われたようには見えなかった。

「来月頭には上之郷城の鵜殿攻めを行うつもりでおる!これが上首尾に参れば、東海道も平坂街道も当家が押さえることとなり、牛久保城攻めも好転させられよう!加えて、織田家との協議も済み、鵜殿攻めには水野家より援軍を派遣していただくことも決まった!」

 実際に交渉にあたった石川与七郎数正をはじめ、家老たちは胸を張り、元康の言葉に口角を上げる。

「東三河は設楽越中守殿が申されたように、当家に味方する勢力は誰一人おらなんだ!されど、人質としていた家族が惨たらしいやり口で処刑され、所領を捨ててまで某に助けを求めて参られた方々を見捨てる不義は断じてできぬ!そのような不義を働き、生きながらえるなど武門の名折れじゃ!そして、お三方の義に報いることは当家のためにもなる!ゆえに、家臣一同、わしに力を貸してほしい!我が祖父はわしよりも三ツも若い十八で三河一統を成した!祖父やそれに力添えした家臣らにわしやそなたら家臣一同が劣っているのではないこと、証明するは今この時であると、わしは信じる!なあ、皆もそう思うであろう!」

 すっくと背筋を伸ばして演説する元康の姿に、酒井将監忠尚が、石川安芸守忠成が、大久保新八郎忠俊が、鳥居伊賀守忠吉が涙を流していた。老いは感極まり、若きは奮起する。そんな演説を経て、広間には乱世を生きる豪傑らの咆哮が轟いていた――

 東三河から味方勢力が消失したことを受けてなお、松平勢が意気軒昂であろうなどとは夢にも思わない駿府館の今川上総介氏真のもとへ、一月二十日付で一通の御内書が届けられていた。

「御屋形様、お呼びでしょうか」

「関口刑部少輔、よくぞ参った。これを見てみよ」

「はっ、然らば……」

 氏真より召喚された関口刑部少輔氏純は二十五となった若き主君より御内書を受け取る。それは紛れもなく、将軍・足利義輝より発された花押入りの御内書であった。

「当国と岡崎鉾楯の儀につき、関東の通路合期せざるの条、然るべからず、是非を閣き早速和睦せしめば、神妙たるべく候、委細三条大納言ならび文次軒演説すべく候、なお信孝申すべく候なり、穴賢。こ、これは、当家と松平蔵人佐との停戦を命じる御内書!では、先ほどの来客が大納言の三条西実澄様と御使者の文次軒孝阿殿にございましたか!」

「そうじゃ。予が松平と争っておることで京と関東の往来が困難になっておるゆえ、即時停戦するようにとの仰せじゃ」

「では、御屋形様は将軍のお考えに賛同し、即時停戦なされるおつもりで?」

「ははは、寝言を申すでない。この御内書は蔵人佐にも送られたとのことゆえ、あちらが応じなければこちらとしても応じるいわれはない。加えて、文次軒孝阿殿は甲斐や相模にも向かわれるとも申しておった」

 それは将軍・足利義輝の意向であるとして、今川・武田・北条の三家より松平元康へ停戦を求め、それに従わなければ元康を将軍のご意向を無視した輩とみなして堂々と討伐することができる。

「案ずるな。京におわす公方様の意向を無視し、なおかつ甲斐の信玄殿や相模の北条左京大夫殿の仲介を無下にすることが何を意味するか、分からぬほど蔵人佐は愚かではない。遅くとも、予が一万を超える大軍勢で三河へ入れば泣いて詫びてこようほどに」

「そ、それゆえに竹千代を生かしておられると仰られるのですな」

「そうじゃ。それに見てみよ、蔵人佐は昨年嵐鹿毛なる名馬を公方様へ献上したそうじゃが、この書状では岡崎呼ばわりじゃ。所詮は家の格が違うということよ」

「は、はぁ」

 氏真がそこまで言ってなお、関口刑部少輔は一抹の不安を拭い去れなかった。元康が愚かではないことについては、関口刑部少輔も氏真と同意見であったか、到底停戦を受け入れるとは思えないし、今さら武田や北条のことを恐れているとも思えないのだ。

「いかがした、刑部少輔。顔色が悪そうではないか」

「はっ、け、決してそのようなことは……!」

「よいよい、そなたは予の腹心じゃ。父にとっての崇孚和尚のような存在といえよう」

「それは恐れ多いことに……!私の才覚など崇孚禅師の百分の一にも届きませぬ」

「謙遜するでない。礼も過ぎれば無礼になる、とも言うであろう。まぁ、よい。今日は退がって休んでいよ」

 関口刑部少輔は氏真に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いながら、その日の帰路へついていく。

 娘婿である元康が離反して以降、氏真からの信頼が揺らいだわけではないが、家中からは内通していると疑いの目を向けられたり、何かと気を遣うことが多く神経をとがらせてしまっていたこともあり、いつしか今日も生き延びられたと帰路に考えてしまうことが増えていた。

「おお、舅殿。お待ち申しておりました」

「なんと、助五郎殿がお越しであったか」

「ええ。久方ぶりに竹千代に会いとうなりましてな」

「なるほど。それで、竹千代と遊んでおられたか」

 屋敷の広間へたどり着くと、もう一人の娘婿・北条助五郎氏規が楽しそうに四歳になった竹千代。喜怒哀楽などの感情表現が豊かになり、遊び道具を取られると嫉妬したり、怒ったりといった様子が見受けられるようになっていた。

「ほれ、竹千代。おじじ様が帰ってきたぞ」

「おじじ様!」

 北条助五郎に教えられ、しゃがんだ体勢の関口刑部少輔の懐へ飛び込んでいく竹千代。そんな無邪気な竹千代を見るたびに、関口刑部少輔は『この子は父が何をしているのかなど、まったく知らないのだ』と思わされる。

「舅殿。一つ、話したきことが」

「左様か。誰ぞ、竹千代を頼む」

 竹千代のことをたまたま近くにいた関口夫人へ託すと、そのまま人払いを命じていく関口刑部少輔。そうして北条助五郎と二人きりになった広間は静寂で満たされる。

「助五郎殿。して、話とは?」

「はっ、実は駿府館におる妹より書状が参りました」

「ほう、御前様より書状とは。して、何かございましたかな」

「はい。本日、京におわす公方様より三河の松平家との停戦を求める使者が参り、使者殿はそのまま甲斐や相模にも向かわれるとか。それは真のことでございましょうか」

 よもや屋敷へ戻って早々に、十八になった娘婿から先ほどまで主君と話していた話題を持ちかけられるとは予想していなかった関口刑部少輔の表情が強張る。それだけで、聡い北条助五郎には十分伝わってしまっていた。

「なるほど、真のことにございましたか。徳栄軒信玄殿がどのようにお考えになられるかは分かりませぬが、父の考えは愚息にも容易に検討がつきまする」

「なんと、小田原におられる御父君の考えが分かると……!?」

「はい。父の性分です。昨年、長尾弾正少弼に攻められた折、即座に援軍を派遣してくれたことをいたく感謝しておりましょう。加えて、それが影響して、援軍が送られなかった三河で叛乱が起き、今川領国内が混乱していることを申し訳なく思っておりましょう。ゆえに――」

「ゆえに?」

「和睦の調停は率先して動きましょうし、それが成せなかった場合には自ら軍勢を率いて三河へ向かうことも考えられます」

 これは北条助五郎の推測に過ぎない。だが、今川家中の誰彼が申しているのではない。北条左京大夫氏康が四男・北条助五郎氏規が申しているのだから、説得力のある言葉であった。

 加えて、氏康は氏真に正室として嫁いでいる春姫を溺愛していたことは関口刑部少輔も存じていること。それゆえに、可愛い娘の嫁ぎ先に迷惑をかけてしまったことを気に病んでいることは想像に難くなかった。

「助五郎殿が申されたきこと、この関口刑部少輔にも分かり申した。御父君が動かれる前に、舅である私から蔵人佐殿へ働きかけ、和睦に応じさせてはどうか。そう提案しに参られたのであろう」

「さすがは舅殿。某が申すまでもございませんか」

「そのようなこと、蔵人佐殿が離反した頃から幾度も考えて参った。じゃが、それはならぬのじゃ。国衆に過ぎない身でありながら、今川家に敵対することがどれだけ厳しい戦になるのか、それを算段せずに動く武士でないこと、この関口刑部少輔が今川家中では一番存じておる」

「されど、父が動いてはお終いなのです!それまでに何とか……」

 父の手腕を高く評価し、恐れている四男坊としては相婿を父と戦わせたくないのだ。それは関口刑部少輔の眼から見ても、十二分に分かる。だが、関口刑部少輔は頑なであった。

「なんともならぬ。何より、まことに北条家が軍勢が率いてこれるとお思いか」

「それは……!」

「武田家が西上野へ侵攻したといえども、上杉弾正少弼輝虎の脅威が払拭できたわけではない。上杉弾正少弼が関東入りするたびに上杉に靡き、上杉弾正少弼が越後へ戻るたびに北条へ再度従属してくるような国衆らを放置できようか」

「それは無理というもの」

「そうであろう。加えて、房総の里見家をはじめ、関東には北条家に敵対する勢力が未だ数多く存在しておる。これらを鎮めぬうちは左京大夫殿自らが出陣することはない。これがこの関口刑部少輔が導き出した結論じゃ。加えて、同じことを蔵人佐殿も考える。到底、武田も北条も援軍になど来れようはずもない、と」

 ここまで言い切られては、さしもの北条助五郎も返す言葉もなかった。父ならば来る。それは間違いないが、助五郎としても今すぐに来ると言い切れるものではなかった。

 三河へ出陣するとしても、関東を鎮めるのに向こう三年はかかる。その頃には、三河情勢などどう転んでいるか、誰も分からない。

「助五郎殿、厳しい物言いとなってしまったが、他意はござらぬ。何卒お許しくだされ」

 そういって涙を堪えながら頭を下げる、関口刑部少輔なのであった――
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