不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第145話 新たな上之郷城主

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 ついに鵜殿藤太郎長照が居城・上之郷城が陥落し、元康の手に落ちた。加えて、鵜殿藤太郎長照が戦死させたことは今後の三河経略に大きな影響を与えることは言うまでもなかった。

 黄昏の頃、元康が名取山で各隊からの戦果報告を受けているところへ、伴与七郎資定が城北の護摩堂付近で討ち取った鵜殿藤太郎長照の首級を持って姿を現した。

「松平蔵人佐様。こちらが上之郷城主である鵜殿藤太郎長照が首級にございます」

 眼の前で露わとなった首級は紛れもなく鵜殿藤太郎のものであった。その首に対して合掌した後、元康は恩賞として兜と長刀を与えることとし、感状はおって発給することを申し伝えたのである。

「蔵人佐殿、この度の戦、城主である鵜殿藤太郎を討ち取り、上之郷城まで攻落なされたこと、まこと見事な戦にござった。この分では、我らの援軍などなくとも、上首尾に参りましたな」

「継父上、そのようなこと、仰ってはなりませぬ。久松勢が背後に控えているからこそ、皆は背後を気にする必要もなく、城へと攻め入ることが叶ったのでございます」

「そ、そうであろうか。そうであれば良いのじゃが……」

 目立った功績を挙げることなく、戦が集結してしまったことから肩身が狭そうにしている継父を元康は労わった。何より、久松勢がいるからこそ、背後を気にすることなく皆が城へ攻め込めたのは事実であるため、そのことに異議を申し立てる者はいなかった。

 そこへ、東条松平勢の帰着を報せる伝令が本陣へ駆け込み、元康は陣代として東条松平勢を率いて戦った松井左近忠次の登場を今か今かと待った。

「蔵人佐殿!戻りが遅くなり、大変申し訳ござらん!」

「なんの詫びることではない。その汗ばんだ様子、何かあったか」

 自らの前へ参上した松井左近の肌には泥や返り血が付着し、激しく体を動かしたのか、皮膚も汗ばんでいるし、常の時よりも呼吸と共に上下する肩の動きも早いように感じられた。

「城の北東にて鎧甲冑をつけた者らを発見し、その追撃にあたっておりましたゆえ」

「ほう、落ち武者か。して、数は」

「ほんの十名ばかりの一団にございました。某が手勢を率いて追い包み、激しい斬り合いとなりましたが、その中に驚くべき者らを発見し、生け捕りにして参りました」

 あの松井左近が生け捕りにしてくるほどの者とは、そも何者であるのか。そんな期待を抱く元康の前へ引っ立てられてきたのは、まだ十代前半と見える若武者二人であった。

「これまたずいぶんと若いように見えるが、何者じゃ」

「聞いて驚かれませぬよう。なんと、鵜殿藤太郎が子らにございます。こちらが長子の新七郎氏長で、こちらが次子の藤三郎氏次にございますれば」

 元康の前へと連れられてきたのは、鵜殿藤太郎が討たれる間際に逃がした息子たちであった。兄弟はわずかな家臣らととともに丘を下って逃亡していたところを、城の東側を巡回していた松井左近の手勢に発見され、激しく抵抗した末に生け捕られたものであった。

「そうであったか。松井左近、でかしたぞ」

「ははっ!」

 松井左近は一礼すると、二人の身柄を松平宗家の手の者へ委ねて退席していく。そうして、しばらくした頃、ぽつりと口を開いたのは石川与七郎数正であった。

「殿、ここにおる鵜殿藤太郎が子らは人質交換に用いてはいかがでしょうや」

「人質交換か。一体誰と――」

 そこまで言いかけて、元康の脳裏には駿府へ残してきた竹千代のことが思い出された。石川与七郎も、同じ人物を思い浮かべての発言に相違なかった。

「なるほど。わしは平坂街道を阻む上之郷城の鵜殿藤太郎を排除できればよいと考えていたゆえ、この子らの身柄は岡崎城へ連れ帰るか、この子らの叔母が嫁いでいる深溝松平家へ預けるかと思案しておった」

「やはりそうでしたか。されど、某はこの子らを手元に置いたところで、使い道はございませぬ。然らば、駿府に留め置かれている竹千代さまと交換なされるが最善ではないかと思いついたまで」

「ふっ、与七郎。それは名案ぞ。では、発案者のそなたが駿府へ使者に立ち、交渉してきてはくれぬか」

「承知いたしました。然らば、この石川与七郎数正、身命を賭して竹千代さまとの人質交換を成して参りまする!」

「しかと頼むぞ、与七郎!」

 元康は鵜殿新七郎氏長・藤三郎氏次兄弟を嫡男・竹千代と取り換えるという石川与七郎の進言を受け入れ、その交渉に取りかからせた。

 それと時を同じくして、不相城を牽制していた松平薩摩守家広率いる形原松平勢より齢十六となった嫡男・紀伊守家忠が子細を報告するべく、名取山の元康本陣へ入った。

「おお、松平紀伊守殿か。見違えるほどに背丈も伸び、大きくなられた……」

「蔵人佐殿、お久しゅうございます。此度、本陣へ伺いましたのは、不相城にて動きがありましたので、それをお伝えせんがためです」

「ふむ、不相城にて動きか。申されよ」

「はっ。城を守っていた鵜殿長成と鵜殿実成の父子は城を退去。どうやら海路で吉田城へ逃れたげにございまする」

 鵜殿家の分家で唯一調略に乗らなかった不相鵜殿氏の鵜殿長成・実成父子が城を退去。そうなれば、鵜殿氏の拠点はすべて奪えたことになり、これ以上の戦は起きないことになる。

 元康としても、不相鵜殿氏が抵抗することなく吉田城へ落ち延びていったことは喜ばしい限りであった。

「然らば、松平紀伊守。そなたは父の元へ戻り、しばらく不相城に詰めてはもらえぬか。今川方が我らの油断を突いて、城の奪還に動くやもしれぬゆえな」

「はっ、しかと承りました!立ち戻って、父にもその旨伝えておきまする!」

 形原松平家の次期当主であり、家康とは母方の従弟にあたる松平紀伊守家忠はにこりと笑うと、凛然とした様子で退席していく。

 そうして本陣へ残る元康には、大切な職務が残されていた。それは言うまでもなく、此度の戦で得た上之郷鵜殿氏と不相鵜殿氏の所領を誰に任せるかということであった。

 此度の戦で戦功のあった鵜殿領周辺の松平家に分配するのも手であったが、あまり恩賞を与えすぎては背かれた折に、再び平坂街道が敵の手に落ちてしまう危険性が伴う。

 そうなれば、最適であるのは絶対に裏切らず、不平不満が出ない人物。譜代家臣らでは『譜代を贔屓しておる』などと苦情が出ようし、他の松平家ではそれぞれが納得のいくように配分ができなければ、不満を持った松平家が離反することにもなりかねない。

 そんな難しい制約が課せられた中、元康は絶対に不平不満が出ない者に心当たりがあった。

「蔵人佐殿、然らば某は阿久比へ戻らねばなりませぬゆえ、これにて失礼いたしますぞ」

「お待ちくだされ、継父上」

 挨拶をして陣払いに移ろうとする継父・久松佐渡守を元康は呼び止めた。よもや義理の息子に呼び止められるとは思っていなかった久松佐渡守は、さすがに驚いた様子を見せる。

「いかがした、蔵人佐殿」

「継父上に鵜殿藤太郎ら鵜殿氏が治めていた西郡の地をお任せしたい」

「なっ、何を言われるか。某は織田上総介様の了承を得て此度の戦に参陣しておる。松平の家来でもない某に所領を与えるなどと……」

「ならば、松平宗家の家臣となってくださいませ」

 言っていることは無茶苦茶であった。だが、元康としては、この久松佐渡守という男以外に、他の者を納得させられる適任者はいないと思っていたのだ。

 何せ、先代当主・松平広忠正室であり元康生母・於大の方を継室としている、元康にとって義理の父にあたる人物なのだから。

「ゆえに、この元康からも織田殿に掛け合いまする」

「そ、そうか。じゃが、阿久比の所領はいかがすればよい。尾張の知多郡にある所領ごと某を家来にするなど、お二方とも納得なされますまい」

「そうでしょう。逆の立場であれば、某とて承服いたしかねまする。ゆえに、阿久比の所領は久松弥九郎信俊殿にお譲りなされ。弥九郎殿がそのまま織田家臣として阿久比を治め、継父上にはその代替地として西郡を宛がうとあらば織田上総介殿とて否とは申されぬかと」

 元康の説得に久松佐渡守の心は揺らいだ。その検討する素振りを元康は見逃すことなく、追尾していく。

「継父上以外の者では西郡を治めたとして、不平不満が噴出いたしまする。それゆえ、何卒ご承引のほどを」

「……良かろう。織田上総介様が了承なされるか次第じゃが、了承された暁には条件が二つござる」

「条件と。分かりました、承りましょう」

 継父より出される条件とは何なのか、元康は真剣な面持ちで背筋を伸ばして応じる姿勢を見せる。

「一つ、岡崎城下へ久松家の屋敷を造営し、我が妻子らの居住を認めてくださること」

「要するに、我が母や弟妹らが住まうのでありましょう。一点目については断るはずがございませぬ。して、もう一つの条件とは?」

「うむ。それは上之郷城主は某の次男である三郎太郎勝元とし、この久松佐渡守は後見役として政務を見ることにござる」

 本領である阿久比は庶長子・久松弥九郎信俊へ譲り、新たに与えられる上之郷城へは次男・久松三郎太郎勝元を入れたうえで父である久松佐渡守が後見する。これは形式的とはいえ、久松佐渡守が隠居する態となるが、元康としてはこれを承服するよりほかはなかった。

「承知いたした。二つ目の条件も受け入れましょうぞ。されど、何故、三郎太郎を城主に据えられたのでしょうか」

「それは簡単なことにございます。何故、この地に某を置こうとなされるのかを考えたまで。蔵人佐殿が真に欲しておられるのは松平宗家当主の継父という某の立場。ならばいっそのこと、蔵人佐殿の異父弟にあたる三郎太郎を配した方が良いのではないかと思うたまで」

「これは、継父上に一本取られ申した。このまま一本取られて勝ち逃げされたのでは、元康としても武門の名折れにござる」

「ほう、武門の名折れと。然らば、いかになされるおつもりか」

 義理の息子である松平蔵人佐元康という青年がどんな手で一本取り返そうというのか。それを見つめる久松佐渡守の瞳は純粋な興味関心に満ちていた。

「某の異父弟である久松三郎太郎勝元、久松源三郎勝俊、久松長福丸には名字を松平へ改めていただき、久松松平家といたしたく」

「なんと!我が子らに松平の名字をと……!」

「加えて、三郎太郎と源三郎には某の諱から『康』の一字を与え、松平三郎太郎康元、松平源三郎康俊としたいが、いかがでございましょうや」

「それは有り難きこと!あの子らも喜びましょう。いやはや、これでは一本どころか二本も三本も取られてしまいましたな。ははは……」

 さすがに自分の次男、三男、四男への松平名字の授与、加えて次男と三男へ『康』が偏諱されるとは予想だにしなかった久松佐渡守は笑うほかなかった。

 何より、元康より偏諱を受けた久松松平家の所領となれば、松平家中で誰も不平不満を申すことはできない。その点の処置も功を奏しそうなものであった。

「いやはや、とんでもない土産話ができてしまいました」

「ははは、某の無理を聞き届けていただいたお礼と思うていただければ。阿久比へ戻りましたら、母や弟妹たちへよろしくお伝えくだされ」

「うむ、そういたそう。では、当家の隊はこれにて引き揚げさせていただきますぞ。では、これにて」

 上機嫌で名取山の本陣を離れ、手勢をまとめて撤収の支度に取り掛かる久松佐渡守。しっかりと発言の意図を汲み取り、一手返して来るとは大した人物だと元康は改めて感じる遣り取りであった。

「殿。よろしゅうございますか」

「おお、出羽守か。いかがした」

 まだ二十二と若いながらも、家老としてどっしり構えて先ほどまでのやり取りを聞いていた植村出羽守栄政が静かに口を開いた。

「はっ、西郷孫九郎殿より要望のあった西郷領奪還にございまするが、すでに支度を整えております」

「でかした。こういう時こそ、勢いが肝要じゃ。よもや西郷領が狙われていようとは敵も思うてはおるまい。不意を突いて西郷領を奪還して参れ。他にも武勇に優れた本多百助信俊、鳥居四郎左衛門忠広を連れていくがよい」

「ははっ!然らば、手勢を率いて行って参りまする!岡崎城にて吉報をお待ちくだされ!」

 勇躍して本陣を離れた植村出羽守は一足早く岡崎城へ戻り、西郷孫九郎から要望されていた八名郡の西郷領を奪い返すべく、動き出したのである。

 この動きに便乗して、岡崎へと落ち延びてきていた菅沼新八郎定盈もまた、旧領である野田領奪還に向けて家臣らを引き連れて東三河へと向かっていくのであった――
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