不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第144話 鵜殿長照という漢

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 戦意が低い先鋒衆の苦戦を見かねて、次鋒として控えていた幡豆郡寺部城主・小笠原左衛門佐広重率いる軍勢が加勢として加わっていく。

 そうした状況になってなお、その後ろに控える松平備後守清善・玄蕃允清宗父子ら竹谷松平勢、松平主殿助伊忠率いる深溝松平勢、松井左近忠次指揮する東条松平勢、西尾城の酒井雅楽助政家が手勢、援軍として駆け付けた久松佐渡守ら諸隊には何の動きも見られなかった。

 それもそのはず。元康が松井左近と酒井雅楽助より提案を受けて実行に移した策を成功裏に終えるべく本多弥八郎とともに練った作戦として、まだ動いてもらっては困るからである。

 今にも爪を噛みだしそうな元康の側へ、そっと忍び足で現れたのは近侍の鳥居彦右衛門尉元忠と本多弥八郎正信の両名であった。

「殿、心が痛まれまするか。鵜殿藤太郎とは駿府館にて何度か見かけた顔にございましょう」

「おお、彦右衛門尉。それに、弥八郎も参ったか。なに、まことに我らに降ったのかを確かめるには、ああして先鋒として当たらせてみるのが一番ゆえな。それに、我らに従わぬ者が見知った顔だからとて、手心を加えるほど、この元康は甘くないぞ。ははは、何を心を痛める必要があるものか――」

 鳥居彦右衛門尉は見逃さなかった。己の主君の笑う顔がどこか引きつっているのを。

 そんな鳥居彦右衛門尉とは対照的に、本多弥八郎はけらけらと笑いながら、城攻めの大義を語ることで元康の傷心を慰めようとする。

「殿、お気に病まれることではございませぬ。所詮は時流を読むこともできず、あのような無謀な籠城戦を挑み、暗愚な今川上総介へ従い続けるような愚か者にございます。それに、攻め方にしても、将棋と同じにございます。敵から奪った三つの歩の駒をぶつけておるだけのこと。叛意ありとあらば、上之郷城が落ちた後にでも謀殺すればよいだけのことにございましょう」

「弥八郎、そのようなことを申すでない。鵜殿藤太郎は今川家に対しての忠義を貫いた天晴な武将じゃ。わしは決して暗愚などとは思わぬ」

「左様にございますか」

 さらりと元康の言葉を受け流した本多弥八郎という男は、さほど鵜殿藤太郎を高く評価してはいなかった。その点では、鵜殿藤太郎を評価する元康の言葉は、正面から取り合うほどの価値はない、まったく心に響かない言葉であったのだ。

 名取山の本陣にて元康が側近らと共に上之郷城攻めをしかと眺めている頃、その名取山を櫓から鵜殿藤太郎が睨みつけていた。

「いかがなされましたか、父上」

「新七郎か。見てみよ、あの松平蔵人佐が本陣を。我らの城など攻めるに値せぬとばかりに、高みの見物を決め込んでおる!まったくいけ好かない奴じゃ!太守様に可愛がられておきながら、織田に与した忠義を知らぬ犬畜生めが!」

「ち、父上。そのように腹を立ててはなりませぬ。今は城を守ることに専念すべきでしょう」

「ちっ、それもそうか」

 名取山の松平本陣から眼下の攻防戦へと目を向ける。幡豆小笠原勢が加わったこともあり、先ほどほど拮抗した攻防戦とはならず、徐々に城方が押され始めているのが手に取るように分かる。

「父上、藤三郎が何やら触れて回っておりまするが……」

「ああ、ここから見た敵の動きを逐一伝えさせておるのじゃ。こうすれば、わしが櫓から声を張り上げずとも城を守れようぞ」

「確かに、見事に敵の攻撃を跳ねのけておりまする……!」

 嫡男・新七郎氏長は今年で齢十四となる。そんな彼は戦のことなどてんで分からないものの、父が巧みに敵の攻撃を防いでいることだけは櫓の上から理解することができた。

 馬を乗り回し、駆け回る次弟・藤三郎氏次の働きもまた見事なものであると新七郎は兄目線で感じており、自分が活躍しているわけではないのにどこか誇らしさを感じてしまっている。

「父上、次は――」

 どのような指示を出されるのですか。そう続くはずだった新七郎の言葉を遮るように城の東西から火の手が上がり、櫓の一つが業火に包まれるのが見えた。

「何事じゃ!」

 鵜殿藤太郎が怒鳴り声をあげると、近くにいた小姓が「見て参りまする!」と即座に答え、駆け出していく。若い小姓が駆け戻ってくると、城内で今起こっている衝撃的な事態がつまびらかにされる。

「申し上げます!城内に敵の手の者が侵入!城内の櫓や蔵へ火をかけて回っておりまする!それを食い止めようと、周囲のお味方が斬りかかっております!」

「侵入者だと!?数は!」

「七、八十人はおるかと。顔を隠した軽装の者らばかりですが、軽やかな身のこなしからして、その辺の雑兵とは比べるべくもないと」

「ちっ!蔵人佐め、小賢しい真似を……!」

 憤怒のまま、鵜殿藤太郎が潰れんばかりに軍配を握りしめた刹那、轟音とともに木製の何かが打ち壊される音が辺りに響いた。

「父上!門が!」

 嫡子・新七郎の悲哀に満ちた叫び声に、首がねじ切れんばかりの勢いで振り向いた鵜殿藤太郎を絶望が襲う。

 かつての味方であった松崎城の金田元政や下之郷城の鵜殿長龍を先頭に、柏原鵜殿氏へ養子に出た弟・鵜殿藤助長忠とその養父で叔父にあたる鵜殿長祐が続いて城内へなだれ込む。

 さらには、幡豆小笠原勢までもが突入し、門から本郭へと続く坂道周辺では守備にあたる鵜殿勢とで血みどろの白兵戦が繰り広げられていた。その中には、門付近へ向かっていた次男・藤三郎氏次の姿もあった。

 ――藤三郎が危うい!

 そう思って父と兄が動き出したのは同時であった。武芸の腕が達者な父に先を譲り、その後に兄が続く。

 加えて、周囲にいた鵜殿勢は城主自ら門付近まで出張ってきたこともあり、勢いを取り戻し、これ以上敵を城内に進ませまいと統率の取れた動きで対抗し始める。

 鵜殿藤太郎が返り血を浴びながら刀や槍を振るって救い出した鵜殿藤三郎は数か所にかすり傷こそ負っていたが、命に別状はなかった。

 城主が次男の無事に安堵しているわずかな間、嫡男・新七郎氏長が指揮を担い、士気の低い松崎城の金田元政や下之郷・柏原両家の鵜殿勢を後退させる。

 残るは幡豆小笠原勢を切り崩せば、再び門を固めて籠城戦を継続できると思われた頃、丸に一つ引両の旗と重ね扇の旗を掲げた軍勢が入れ替わるように乗り込んでくる。

 言うまでもなく、何としても武功を挙げたい松平備後守・玄蕃允父子に率いられた竹谷松平勢と松平主殿助率いる深溝松平勢であった。

 ここまで力を温存していた両家の軍勢の強さはそれまでの先鋒や次鋒などの比ではなく、態勢を整えつつあった鵜殿勢の防御を粉砕していく。

「殿!もはやこれまでにございます!」

「何を申すか!わずか一日とて城を守り切れぬとあっては、武士の恥!最期まで死ぬ気で守り抜かねばならぬ!」

「されど、城の東西は火の手がまわり、落ち延びられるはもはや北門のみ!これで北門まで敵の手に落ちては退路が断たれてしまいまする!」

「もとより退路など不要!先祖より受け継ぎし当城とともに果てるまで!」

「新七郎様や藤三郎様も道連れになされると、かように仰られますか!」

 にじり寄る家老の言葉に、思いがけずハッとさせられた鵜殿藤太郎は傍らの長男・次男を顧みる。二人とも前途有望な十代の若武者。この二人を道連れにする気かと言われては、鵜殿藤太郎ほどの豪傑にも返す言葉もなかった。

「何より、殿が生きておられれば後日、駿府の御屋形様のご助力を得て城も領地も奪い返す機などいくらでもございます!ゆえに、今は落ち延びられるがよいと申しておるのでございます!」

「相分かった!やむを得ぬ、ここは城を捨て、御屋形様へ縋るよりほかはない!城北より逃れることといたす!新七郎!藤三郎!供をせよ!」

 ――供をせよ。

 その言葉はせめてもの元康への抵抗であった。鵜殿藤太郎は嫡子・新七郎と次男・藤三郎ほか、三十名ばかりを引き連れて城を脱出するべく移動を開始する。その時間を稼ぐべく、家老を筆頭に鵜殿家臣らの多くはその場に踏みとどまり、一兵でも多く釘付けにする道を選択した。

 だが、大手門を離れて北へ向かう鵜殿藤太郎らの前に立ちはだかったのは、意外な人物であった。

「藤助……!」

「おう、兄上か」

 柏原鵜殿家を継いだ鵜殿藤助が五十名ばかりの兵を従えて兄とその子らの行く手を遮る。主従ともに顔見知りであることもあり、次の言葉を発して動き出すまでに数拍の時を要した。

「藤助、そなたは兄の首を欲するか」

「それについては、否とお応え申す。我らは上之郷城攻めを命じられたが、兄上らを殺めよとは命じられておらぬ。さっ、我らに構わず先へ進まれよ」

「じゃが……」

「同じ鵜殿家の者ゆえ、味方と間違えてしまった。そう申し開きすれば済み申す。裏切り者の弟などよりも、ご自分とお子らの無事を考えなされ」

 鵜殿藤太郎はそれ以上、弟に言葉をかけることはなかった。すれ違う兄弟の眼から涙がつーっと筋を描いていく――

「父上!あの旗は幡豆小笠原勢!」

「ちっ、追いついてきよったか」

 あともう少しで城外へ逃れられるというところで小笠原左衛門佐率いる幡豆小笠原勢が襲来する。竹谷松平と深溝松平の両勢が果敢に抵抗する鵜殿勢と激闘を繰り広げる脇を抜け、鵜殿藤太郎を追ってきたものであった。

「おう、それなるは鵜殿藤太郎長照殿とお見受けした!某は幡豆郡寺部城主、小笠原左衛門佐広重じゃ!」

「いかにも、わしが鵜殿藤太郎長照じゃ!そなたのような蔵人佐に屈するような木っ端武者なんぞにこの首渡さん!」

「ほざけっ!弓隊、構えっ!」

「飛び道具とは卑怯な……!」

 鵜殿藤太郎とこれ以上押し問答するつもりはないと言わんばかりに、幡豆小笠原勢より弓矢が射かけられる。その矢を受けて、鵜殿勢に死傷者が出ないはずもなく、それを好機と捉えて槍先を揃えて向かってくる幡豆小笠原勢との戦闘へ突入していく。

 文字通り後戻りできない鵜殿勢は精強であり、これまでの合戦による疲労著しい幡豆小笠原勢は一度後退せざるを得なかった。

「父上、敵が一度退きました!今のうちに!」

「おう、皆の者わしに続け!今のうちに、搦手門より脱出するのじゃ!」

 先頭きって搦手門へ走り出した鵜殿藤太郎らはかんぬきを外し、ゆっくり門を押し開ける。しかし、護摩堂の横をすり抜けて門下をくぐり抜けんとしたところで、鵜殿藤太郎は鼻をくすぐる硝煙の香り察知した。

「新七郎!伏せよ!」

 父の言葉に弾かれるように屈んだ鵜殿新七郎の脇を一発の鉛玉がかすめていく。発砲音は全部で五つ、うち二発は新七郎と藤太郎の間にいた家臣二名の側頭部と左大腿部を穿った。

 そして、残る二発は――

「父上!父上っ!」

 とっさに側にいた次男を庇った鵜殿藤太郎へ命中。一発は右の上腕三頭筋を、もう一発は左のふくらはぎへ着弾していた。

「案ずるな、藤三郎。これしき、致命傷ではないわ!」

 そういって藤三郎の頭を荒々しく撫でる鵜殿藤太郎であったが、一行は周囲を刀や槍で武装した軽装の集団に取り囲まれる。

「鵜殿藤太郎長照だな!我らは甲賀衆、伴氏の党類じゃ!」

「この下郎どもが!殿を討たせるな!」

 鵜殿家臣らが甲賀衆へ斬りかかると、たちまちこれに甲賀衆も応じ、互いが手にする白刃を振るい、敵の肉を切り、骨を断つ死闘が繰り広げられる。

 鵜殿藤太郎もまた、持ち前の豪勇で甲賀衆の手の者を二人ほど返り討ちにし、鵜殿藤七郎も危うい場面がありながらも一人を斬り伏せてみせる。だが、鵜殿藤三郎の腕前では一人を斬ることも叶わず、代わりに兄・新七郎が背後から斬って捨てる。

 そんな敵の襲撃を受けている長男と次男へ視線を移した一瞬。鵜殿藤太郎の喉元に一本の矢が撃ち込まれる。

「父上!」

「新七郎!藤三郎を連れていけ!早く!」

 矢を受けて血を流しながらも、甲賀衆の一人と鍔迫り合いを続ける父の姿に長男は反射的に弟の襟首を掴んでいた。

「何をするっ!兄者!」

「逃げるのだ、藤三郎!父上が申したことは命令じゃ!私情で逆らうは許さぬぞ!」

 兄が泣きわめく弟を引きずりながら強引に戦場を離脱する様を見て奮起した父は咆哮とともにつばぜっていた一人を両断する。しかし、力任せに鎖帷子ごと叩き斬ってしまったがために、ついに鵜殿藤太郎の刀は中途でぽっきりと折れ、ついに彼自身も力尽きて膝をついた。

「甲賀衆伴氏一党が一人、伴与七郎資定!その首、頂戴いたす!」

 背後から忍び寄った伴与七郎の手にかかり、ついに上之郷城主・鵜殿藤太郎長照は討ち取られ、上之郷城もまた落城となったのである――
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