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第4章 苦海の章
第155話 元康と氏真、それぞれの同盟先のこと
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年も明けて永禄六年。織田信長は美濃攻略に邁進するべく、居城を清須から小牧山へと移転させていた。
すっかり雪化粧をした濃尾平野を小牧山城より一望しながら、信長は傍らで控える正室・濃姫と次女の五徳を相手に今後の美濃経略についてを語っていた。
「殿。この小牧山の城からの眺望はまことによいものにございます。さながら城下も清須に比肩するほどの賑わいよう。これを伝え聞けば美濃の者たちも恐れおののきましょう」
「ははは、そうであろう。美濃を制圧するうえでも拠点とするには申し分ない。仮に、ここを敵が落とそうにも絶対に落とせぬ」
「そうおっしゃるのには何かわけがございましょう。ここには我らしかおりませぬゆえ、お聞かせくださいませ」
五ツになったばかりの五徳を膝にのせて頭を優しく撫でながら、濃姫は鋭い視線を夫・信長へと向ける。桶狭間合戦の折には齢二十七であった信長も今年で齢三十、他ならぬ濃姫も齢二十九となり、二人とも一層落ち着いた風格のようなものを身に纏っていた。
「よかろう。この小牧山城は西から北にかけて天池、籠池、天神池、葭池、今池、芳池、間々池、新池、牡若池が密集し、この池や湿地が天然の水堀となっておる。この方面から美濃の者らが攻め込んだとしても、この池や湿地帯は小舟で往来するか、池と池の間を縫うように存在している細き道を通るよりほかはないゆえ、数が多ければ多いほど不利となるは必定」
「なるほど。仰る通りにございます。加えて、西には清須へ通じる街道がございますが、これは城から手に取るように往来が分かります」
「そうじゃ。ここに城がある限り、清須へも美濃勢は進出できぬ」
地勢的にも小牧山城を守りさえすれば、自ずと清須城も守備することができる。そして、濃尾平野西部は木曾川によって東西の往来も困難であり、河川交通を見張る砦を配置しておくだけで事足りる。
それゆえに、清須よりも北東に位置する小牧山へ守りの堅い城を築き、居城とすることで尾張防衛を盤石なものとしようというのが、信長の構想であった。
「加えて、東を見てみよ」
「東にございますか。東は城の西よりも街道が通りやすくもなっておりまするが……」
「そうじゃ。敵が来たならば、ここを遮断すれば敵が背後へ回り込むことを阻止することもできる。加えて、この街道の先には蔵人佐がおる三河岡崎があるゆえな、何かあればこの街道を通って援軍を呼びよせることも可能となる」
「ふふふ、それは逆もまた然り。蔵人佐殿に何かあれば、殿御自ら救援へ赴くことも可能となる。殿がここに座している限り、蔵人佐殿は安泰であり、蔵人佐がしかと岡崎を固めておれば殿も背後の憂いなく美濃経略へ邁進できる。そう申したいのでございましょう」
濃姫は聡かった。信長が一から十まで説明しなくても勝手に察して、そこからさらに腹の内を見透かしたかのような推測をしてくるのである。
「いかにも、お濃が申す通りじゃ。そして、山裾には我が屋敷も含め、家臣らの屋敷を建設し、それぞれ堀と土塁で区画整理させておる」
「ええ、清須より移って参る際にこの目でしかと見ましてございます。加えて、南側の大手口より中腹までは真っ直ぐに大手通が敷設されており、これでは敵が来た折に迎え撃ちにくかろうと思うておりました矢先、中腹から山頂の主郭までの道が九十九折りとなっていたのにはたまげました」
「ははは、ここへ来るまでで城の造りをまこと良く見ておる。山頂に岩崎山から切り出した花崗岩を用いてもおるが、運ぶのに難儀するゆえ中腹までは真っ直ぐにしておる。この方が坂を上る敵を弓鉄炮で狙いやすいこともあるが」
信長が築いた小牧山城は当時としては画期的な城郭であった。この石垣は後の安土城のような高石垣ではないが、その面影を感じさせるものがある。
「お濃よ、そなたのことじゃ。しかと城下町も見物して参ったのであろうな」
「はい。東西南北それぞれ四半里に及ぶ城下町を敵が襲来するとは考えにくい南に建設なされたのでしょう。しかも、家臣らの屋敷だけでなく、町人や商人が住むところも寺社が並ぶ地も一様に区画整理なされたことで城下町全体が整っているようにも感じましてございます」
「ははは、そうかそうか。じゃが、それだけではない。見てみよ、城近くを流れる巾下川を。ここに船着場を設けることで物資を運び入れやすくもなる。加えて、この巾下川は途中で幾つもの川と交わりながら伊勢湾へと注いでおるのだ」
「濃尾平野の河川と伊勢湾を満遍なく活かすことのできる造り、まことお見事にございます」
濃姫にそこまで言われ、信長としても鼻が高かった。北からの敵を迎え撃つにはまたとない防御力を誇り、河川交通や海上交通も活かしていることから、物資搬入や城下町にて商業が必然的に発達する造りともなっている、さながら計画都市とも呼べる構造を有していた。
「それでな、先ほど岡崎城の話が出たが……」
「はい。蜜月な関係にあることがよう分かりました」
「で、あるか。そこでじゃ、春になったならば蔵人佐へ縁談話を持ちかけようと思っておる」
「ほう、縁談話をと……」
今の元康の正室は今川家御一家衆・関口刑部少輔氏純の娘。今では敵対している今川家に所縁の深い姫でもあるから、夫は自らの姉妹を新たに輿入れさせているのであろうか。
信長の口から『縁談』という言葉を聞いた濃姫はそのように予測した。しかし、信長が次に発した言葉は、夫のことを深く理解している濃姫の予想を上回る内容であった。
「そこにおる次女の五徳を蔵人佐が駿府より取り戻した嫡男竹千代と婚約させようと思う」
「なんと!五徳を……!されど、何ゆえ次女である五徳なのでございますか。長幼の順でいけば一の姫がおりましょうほどに」
「ほう、お濃でも分からぬか。簡単なことじゃ。五徳の母が生駒氏だからよ」
五徳の生母が生駒家宗の娘・生駒氏であるから松平元康の嫡男・竹千代へ嫁がせる。それだけを考えたならば、信長が笑いながら放った言葉はいささか理解しかねる。だが、濃姫は生駒氏のことを思い浮かべる中で、一つの解を導き出した。
「奇妙丸殿や茶筅丸殿と生母を同じくするから、にございましょうか」
「そうじゃ。おれの嫡男は奇妙丸と定めてもおるゆえ、次の織田家当主の同母妹を竹千代へ娶らせることの意味は蔵人佐にも通じるはずじゃ。あやつは物分かりが良いゆえ、誰よりも感謝しようぞ。これは我らの次代を見据えての婚儀でもある、とな」
自分たちの子供の代になっても織田と松平は婚姻同盟を結んだ関係であり続ける。それが一人の父親としてどれだけ尊重されているかが十二分に伝わってくるものでもあった。
そうして尾張の織田信長が三河の松平元康との同盟関係の強化へ踏み切ろうとしている頃。北武蔵の松山城外では武田・北条両家の頭が会談していた。
「信玄殿。此度の援軍派遣、氏康、心底より感謝申し上げる。ご嫡男の太郎殿までお越しいただけたことも望外の喜び」
「感謝されるほどのことではござらぬ。盟友の危機とあらば、駆け付けるのが道理。左京大夫殿や新九郎殿とこうして会談の場を持つ機会を得られたのも有り難きこと。ここへ上総介殿がおられたならば、三家の軍勢が揃い踏みともなったのじゃが……」
「いかにも。上総介殿は我が娘婿であり、太郎殿にとっては義理の兄にもあたる。そんな上総介殿は三河での叛乱鎮圧に苦労しておられる様子」
「そのようで。当家にも援軍派遣を打診する使者が幾度となく入っておるが、越後の者が北信濃や関東を荒らしまわっておるゆえ、兵を回せぬで難儀しておる」
体格もあって巌のような武田家当主・徳栄軒信玄は齢四十三。北条家の御隠居である北条左京大夫氏康は信玄よりも六ツ上の四十九、刀創もあって対峙する相手を畏怖させるのに申し分ない迫力がある。
両者ともに各地の合戦を経てきた古強者であり、ただそこに座っているだけで周囲の者を委縮させる覇気に満ちていた。
そんな父親の隣にそれぞれ座している武田太郎義信と北条新九郎氏政は今川上総介氏真と同じく天文七年の生まれで、二十六歳の若武者である。そんな彼らは偉大な父への羨望の眼差しを向けながらやり取りを見守っている。
「どうにも上野沼田城へ入った長尾弾正少弼じゃが、深雪を侵してまで関東へ出張ってきたのじゃ。この松山城を救援したくてたまらないのであろう」
「そうでしょうな。ここには宿敵が勢ぞろいしてもおることゆえ、決戦して打ち負かせば北信濃や関東での戦をともに優位に進めることができるとも算段しておりましょうぞ」
「うむ。もはや松山城に時をかけてはおれぬ。時を置かず攻略してしまうとしよう。当家が放った草の者からの報せでは沼田城から常陸の佐竹や房総の里見、下野の宇都宮へ援軍を求める使者が出ておるらしい」
「敵の狙いは松山城から左京大夫殿や新九郎殿がここへ集結させた兵力を領土防衛へ回して、この松山城を囲む兵数を減らすことにあるのでしょうな」
北条左京大夫が集めた情報から上杉弾正少弼輝虎の狙いを喝破する徳栄軒信玄。その意見に北条左京大夫としても完全に同意見であった。
上杉弾正少弼の狙いを見切った総兵力五万を数える武田・北条連合軍の采配に迷いはなかった。容赦なく松山城を攻略し、扇谷上杉家を再び滅亡へと追いやることに成功。
上杉軍は上野まで進出してきながら松山城を救えなかった。結果だけを見れば、関東の上杉方を失望させる結果ともなるが、軍神・上杉弾正少弼輝虎も黙ってはいなかった。
信玄率いる武田軍が北条家からの要請を達して引き揚げた三月。上杉弾正少弼は岩槻城に入り、太田美濃守資正と合流。ここから上杉軍の猛反撃が開始されていく。
手始めに小田伊賀守が城主を務める武蔵国騎西城を瞬く間に攻略。この騎西城攻めにおいて北条軍の後詰めが間に合わなかったことに憤激した小田伊賀守の兄で同国忍城主・成田長泰が北条方から離反してしまったのである。
だが、かつて小田原城攻囲の際に無断で陣払いをし、すぐさま北条方へ帰参した成田長泰を信用していない上杉弾正少弼によって強制的に成田長泰は隠居、嫡男・氏長に家督を継承させた。
さらには下総国古河城へ進軍すると簗田晴助を寝返らせて城を奪還し、北上して上野国館林城の赤井文六を攻め滅ぼし、唐沢山城の佐野昌綱や小山城・祇園城の小山秀綱、結城城の結城晴朝を立て続けに降伏させる動きに出ていた。
松山城を攻略して扇谷上杉家を再び攻め滅ぼして勢いに乗る北条方の出鼻を挫くように、上杉輝虎は北条方の城を攻略して北関東を席巻していたのである。
「父上、上杉軍の猛攻は留まるところを知りませぬ!忍城の成田長泰のように当家の対応が後手に回っておることに不満を抱いておる者が増えておるとのこと」
「ちっ、新九郎!」
「はっ、ははっ!」
何か父の癇に障るようなことを口走っただろうかと自らの発言を思い返す北条新九郎氏政へ、雷のような北条左京大夫氏康の怒気を含んだ声が落とされる。
「今、敵のことを何と申したか!」
「はっ、上杉軍と申しましたが……」
「この愚か者めが、長尾じゃ!敵は長尾軍じゃ!」
「さ、されど、関東管領職を正式に継承しておるのに加えて、将軍より偏諱を受けてもおります。旧姓の長尾で呼称するのは……」
「そのようなこと、当家は認めておらぬ!そのようなことを申しているようでは、離反は加速するばかりぞ!」
武田信玄も北条氏康も、上杉輝虎が関東管領となったことを快く思っておらず、未だに長尾弾正少弼と呼称していた。その真意を氏政も理解はしているつもりである。
「承知いたしました。長尾軍が関東を蹂躙し、悉く当家に与する勢力を降伏させております。これを放置いたしては、当家を見限る者が多く出ましょう」
氏政の言葉に、氏康は沈黙を貫いた。上杉輝虎の攻勢を食い止めたい気持ちは氏康にもある。だが、認めたくはないが幕府も認めた正式な関東管領がいるうちは攻勢には出られない。
氏康としては上杉輝虎という名の台風が過ぎ去るのを待つよりほかはなかったのだ。されど、氏政には分かるのだ。この父が決して黙って指を咥えているような愚鈍な人物ではないことを――
「然らば、父上。某は敵の動きを探って参りますゆえ、それが判明次第、甲斐や駿河へ援軍派遣を要請する使者を出しましょうぞ」
ここで大事なのは上杉弾正少弼輝虎という男がいつまで関東にいるのか。それさえ分かれば手の打ちようはある。そう心に誓い、情報収集を行う氏政なのであった。
すっかり雪化粧をした濃尾平野を小牧山城より一望しながら、信長は傍らで控える正室・濃姫と次女の五徳を相手に今後の美濃経略についてを語っていた。
「殿。この小牧山の城からの眺望はまことによいものにございます。さながら城下も清須に比肩するほどの賑わいよう。これを伝え聞けば美濃の者たちも恐れおののきましょう」
「ははは、そうであろう。美濃を制圧するうえでも拠点とするには申し分ない。仮に、ここを敵が落とそうにも絶対に落とせぬ」
「そうおっしゃるのには何かわけがございましょう。ここには我らしかおりませぬゆえ、お聞かせくださいませ」
五ツになったばかりの五徳を膝にのせて頭を優しく撫でながら、濃姫は鋭い視線を夫・信長へと向ける。桶狭間合戦の折には齢二十七であった信長も今年で齢三十、他ならぬ濃姫も齢二十九となり、二人とも一層落ち着いた風格のようなものを身に纏っていた。
「よかろう。この小牧山城は西から北にかけて天池、籠池、天神池、葭池、今池、芳池、間々池、新池、牡若池が密集し、この池や湿地が天然の水堀となっておる。この方面から美濃の者らが攻め込んだとしても、この池や湿地帯は小舟で往来するか、池と池の間を縫うように存在している細き道を通るよりほかはないゆえ、数が多ければ多いほど不利となるは必定」
「なるほど。仰る通りにございます。加えて、西には清須へ通じる街道がございますが、これは城から手に取るように往来が分かります」
「そうじゃ。ここに城がある限り、清須へも美濃勢は進出できぬ」
地勢的にも小牧山城を守りさえすれば、自ずと清須城も守備することができる。そして、濃尾平野西部は木曾川によって東西の往来も困難であり、河川交通を見張る砦を配置しておくだけで事足りる。
それゆえに、清須よりも北東に位置する小牧山へ守りの堅い城を築き、居城とすることで尾張防衛を盤石なものとしようというのが、信長の構想であった。
「加えて、東を見てみよ」
「東にございますか。東は城の西よりも街道が通りやすくもなっておりまするが……」
「そうじゃ。敵が来たならば、ここを遮断すれば敵が背後へ回り込むことを阻止することもできる。加えて、この街道の先には蔵人佐がおる三河岡崎があるゆえな、何かあればこの街道を通って援軍を呼びよせることも可能となる」
「ふふふ、それは逆もまた然り。蔵人佐殿に何かあれば、殿御自ら救援へ赴くことも可能となる。殿がここに座している限り、蔵人佐殿は安泰であり、蔵人佐がしかと岡崎を固めておれば殿も背後の憂いなく美濃経略へ邁進できる。そう申したいのでございましょう」
濃姫は聡かった。信長が一から十まで説明しなくても勝手に察して、そこからさらに腹の内を見透かしたかのような推測をしてくるのである。
「いかにも、お濃が申す通りじゃ。そして、山裾には我が屋敷も含め、家臣らの屋敷を建設し、それぞれ堀と土塁で区画整理させておる」
「ええ、清須より移って参る際にこの目でしかと見ましてございます。加えて、南側の大手口より中腹までは真っ直ぐに大手通が敷設されており、これでは敵が来た折に迎え撃ちにくかろうと思うておりました矢先、中腹から山頂の主郭までの道が九十九折りとなっていたのにはたまげました」
「ははは、ここへ来るまでで城の造りをまこと良く見ておる。山頂に岩崎山から切り出した花崗岩を用いてもおるが、運ぶのに難儀するゆえ中腹までは真っ直ぐにしておる。この方が坂を上る敵を弓鉄炮で狙いやすいこともあるが」
信長が築いた小牧山城は当時としては画期的な城郭であった。この石垣は後の安土城のような高石垣ではないが、その面影を感じさせるものがある。
「お濃よ、そなたのことじゃ。しかと城下町も見物して参ったのであろうな」
「はい。東西南北それぞれ四半里に及ぶ城下町を敵が襲来するとは考えにくい南に建設なされたのでしょう。しかも、家臣らの屋敷だけでなく、町人や商人が住むところも寺社が並ぶ地も一様に区画整理なされたことで城下町全体が整っているようにも感じましてございます」
「ははは、そうかそうか。じゃが、それだけではない。見てみよ、城近くを流れる巾下川を。ここに船着場を設けることで物資を運び入れやすくもなる。加えて、この巾下川は途中で幾つもの川と交わりながら伊勢湾へと注いでおるのだ」
「濃尾平野の河川と伊勢湾を満遍なく活かすことのできる造り、まことお見事にございます」
濃姫にそこまで言われ、信長としても鼻が高かった。北からの敵を迎え撃つにはまたとない防御力を誇り、河川交通や海上交通も活かしていることから、物資搬入や城下町にて商業が必然的に発達する造りともなっている、さながら計画都市とも呼べる構造を有していた。
「それでな、先ほど岡崎城の話が出たが……」
「はい。蜜月な関係にあることがよう分かりました」
「で、あるか。そこでじゃ、春になったならば蔵人佐へ縁談話を持ちかけようと思っておる」
「ほう、縁談話をと……」
今の元康の正室は今川家御一家衆・関口刑部少輔氏純の娘。今では敵対している今川家に所縁の深い姫でもあるから、夫は自らの姉妹を新たに輿入れさせているのであろうか。
信長の口から『縁談』という言葉を聞いた濃姫はそのように予測した。しかし、信長が次に発した言葉は、夫のことを深く理解している濃姫の予想を上回る内容であった。
「そこにおる次女の五徳を蔵人佐が駿府より取り戻した嫡男竹千代と婚約させようと思う」
「なんと!五徳を……!されど、何ゆえ次女である五徳なのでございますか。長幼の順でいけば一の姫がおりましょうほどに」
「ほう、お濃でも分からぬか。簡単なことじゃ。五徳の母が生駒氏だからよ」
五徳の生母が生駒家宗の娘・生駒氏であるから松平元康の嫡男・竹千代へ嫁がせる。それだけを考えたならば、信長が笑いながら放った言葉はいささか理解しかねる。だが、濃姫は生駒氏のことを思い浮かべる中で、一つの解を導き出した。
「奇妙丸殿や茶筅丸殿と生母を同じくするから、にございましょうか」
「そうじゃ。おれの嫡男は奇妙丸と定めてもおるゆえ、次の織田家当主の同母妹を竹千代へ娶らせることの意味は蔵人佐にも通じるはずじゃ。あやつは物分かりが良いゆえ、誰よりも感謝しようぞ。これは我らの次代を見据えての婚儀でもある、とな」
自分たちの子供の代になっても織田と松平は婚姻同盟を結んだ関係であり続ける。それが一人の父親としてどれだけ尊重されているかが十二分に伝わってくるものでもあった。
そうして尾張の織田信長が三河の松平元康との同盟関係の強化へ踏み切ろうとしている頃。北武蔵の松山城外では武田・北条両家の頭が会談していた。
「信玄殿。此度の援軍派遣、氏康、心底より感謝申し上げる。ご嫡男の太郎殿までお越しいただけたことも望外の喜び」
「感謝されるほどのことではござらぬ。盟友の危機とあらば、駆け付けるのが道理。左京大夫殿や新九郎殿とこうして会談の場を持つ機会を得られたのも有り難きこと。ここへ上総介殿がおられたならば、三家の軍勢が揃い踏みともなったのじゃが……」
「いかにも。上総介殿は我が娘婿であり、太郎殿にとっては義理の兄にもあたる。そんな上総介殿は三河での叛乱鎮圧に苦労しておられる様子」
「そのようで。当家にも援軍派遣を打診する使者が幾度となく入っておるが、越後の者が北信濃や関東を荒らしまわっておるゆえ、兵を回せぬで難儀しておる」
体格もあって巌のような武田家当主・徳栄軒信玄は齢四十三。北条家の御隠居である北条左京大夫氏康は信玄よりも六ツ上の四十九、刀創もあって対峙する相手を畏怖させるのに申し分ない迫力がある。
両者ともに各地の合戦を経てきた古強者であり、ただそこに座っているだけで周囲の者を委縮させる覇気に満ちていた。
そんな父親の隣にそれぞれ座している武田太郎義信と北条新九郎氏政は今川上総介氏真と同じく天文七年の生まれで、二十六歳の若武者である。そんな彼らは偉大な父への羨望の眼差しを向けながらやり取りを見守っている。
「どうにも上野沼田城へ入った長尾弾正少弼じゃが、深雪を侵してまで関東へ出張ってきたのじゃ。この松山城を救援したくてたまらないのであろう」
「そうでしょうな。ここには宿敵が勢ぞろいしてもおることゆえ、決戦して打ち負かせば北信濃や関東での戦をともに優位に進めることができるとも算段しておりましょうぞ」
「うむ。もはや松山城に時をかけてはおれぬ。時を置かず攻略してしまうとしよう。当家が放った草の者からの報せでは沼田城から常陸の佐竹や房総の里見、下野の宇都宮へ援軍を求める使者が出ておるらしい」
「敵の狙いは松山城から左京大夫殿や新九郎殿がここへ集結させた兵力を領土防衛へ回して、この松山城を囲む兵数を減らすことにあるのでしょうな」
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「父上、上杉軍の猛攻は留まるところを知りませぬ!忍城の成田長泰のように当家の対応が後手に回っておることに不満を抱いておる者が増えておるとのこと」
「ちっ、新九郎!」
「はっ、ははっ!」
何か父の癇に障るようなことを口走っただろうかと自らの発言を思い返す北条新九郎氏政へ、雷のような北条左京大夫氏康の怒気を含んだ声が落とされる。
「今、敵のことを何と申したか!」
「はっ、上杉軍と申しましたが……」
「この愚か者めが、長尾じゃ!敵は長尾軍じゃ!」
「さ、されど、関東管領職を正式に継承しておるのに加えて、将軍より偏諱を受けてもおります。旧姓の長尾で呼称するのは……」
「そのようなこと、当家は認めておらぬ!そのようなことを申しているようでは、離反は加速するばかりぞ!」
武田信玄も北条氏康も、上杉輝虎が関東管領となったことを快く思っておらず、未だに長尾弾正少弼と呼称していた。その真意を氏政も理解はしているつもりである。
「承知いたしました。長尾軍が関東を蹂躙し、悉く当家に与する勢力を降伏させております。これを放置いたしては、当家を見限る者が多く出ましょう」
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「然らば、父上。某は敵の動きを探って参りますゆえ、それが判明次第、甲斐や駿河へ援軍派遣を要請する使者を出しましょうぞ」
ここで大事なのは上杉弾正少弼輝虎という男がいつまで関東にいるのか。それさえ分かれば手の打ちようはある。そう心に誓い、情報収集を行う氏政なのであった。
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貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
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