不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第156話 清洲同盟の強化

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 永禄六年三月。北関東を上杉輝虎が席巻している頃、元康は再び東三河へと進出し、牛久保城の牧野民部丞成定へと攻勢をかけていた。

「良いか!此度こそ、牛久保城を攻め落とし、豊川以西を我らのものとする!かかれっ!」

 元康率いる岡崎からの本隊と合流した先手の酒井左衛門尉忠次の号令で、松平勢は幾度も攻略に失敗している牛久保城へと進撃したのである。

 二千近い松平勢の進軍に対し、牛久保城内の意見は割れた。戦うか降伏するかではなく、打って出るのか籠城するのか、である。

「民部丞殿!ここは出撃し、調子に乗っておる松平の奴らの鼻っ柱をへし折ってやらねばならぬ!」

「いや、叔父上。ここは籠城あるのみ!敵は勢いに乗り、当家よりも兵数で勝っておる!それを兵数が物を言う野戦にて迎え撃ったのでは、負けるは必定!ここは城を堅守し、後詰めの到着を待つべきでござろう」

 牛久保城主・牧野民部丞と言い争っているのは、義理の叔父・牧野出羽守保成であった。この頑固な老人は野戦を主張し、当主である甥は籠城を主張しているのである。

「殿!某は出羽守殿と同意見にござる!ここは主力を押し出して敵の勢いを削ぎ、しかるのちに籠城策を採るべきにございます!」

「むっ、稲垣重宗までもがそう申すならば、出撃を許可せざるを得まい。こうなれば、野戦にて敵の出鼻を挫いてからの籠城戦じゃ!儂は籠城の支度をここにおる牧野山城守定成とその嫡子である半右衛門正勝と進めておく!吉田城への援軍要請の使者は重宗の子、平右衛門長茂に命じる!よいか皆の者!抜かるでないぞ!」

 牛久保牧野氏きっての猛将・稲垣重宗からも出撃すべきと言われたのでは、牧野民部丞としても出撃することを採択するほかなかった。かくして出撃を許された牧野出羽守と稲垣重宗は勇躍して支度にかかり、稲垣平右衛門は急ぎ吉田城へ馬を走らせていく。

「半右衛門!」

「ははっ!」

「そなたはこれが初めての戦となろう。しかと父の山城守が意見を聞き、決して無理をしてはならぬぞ!」

「はっ!しかと肝に銘じておきまする!」

 牧野民部丞からも激励された牧野半右衛門は父・牧野山城守とともに籠城の支度を進めていく。着々と城内では籠城の支度が進められる一方で、ついに牧野出羽守保成と稲垣重宗による作戦が実行に移されようとしていた。

「然らば、出羽守殿!参りましょうぞ!」

「おう!これより我らは向かってくる敵先鋒へ突撃し、勢いを削ぐ!その後に城内へ引き揚げ、籠城戦へ移る!よしっ、開門せよ!出陣じゃ!」

 血の気の多い老将・牧野出羽守を先頭に、稲垣重宗が続き、鋒矢の陣形にて突撃を敢行する。騎馬隊や槍隊を中心とした部隊による突撃。これにはさしもの酒井左衛門尉とてひとたまりもないかと思われた。

「ははは、やはり打って出て来よったか!」

 ――敵意をむき出しにしてくる牧野勢のこと、必ずどこかで野戦を仕掛けてくる。

 敵の動きを予期していた酒井左衛門尉は進軍をただちに停止させ、手筈通りに陣形を変更。魚鱗の陣形としたのである。

「鉄炮隊、前へ!」

 敵が接近する前の今しか鉄炮の威力を遺憾なく発揮できるときはない。そう判断した酒井左衛門尉の号令で槍隊の後方に控えていた百に満たない鉄炮隊が前へ進み出て、冷たい銃口を向ける。

「敵は鉄炮を撃つつもりか!怯むなっ!あんな精度の低い武器など、恐れる必要はない!突っ込め!」

 弓で狙われているならば、先頭を行く牧野出羽守とてよく知る武器。このまま突撃することを躊躇しただろう。しかし、鉄炮は命中精度が低いと見くびっていることもあり、勢いそのままに突っ込んでいく。

「よしっ、今じゃ!放てっ!」

 鉄炮を恐れぬ牧野出羽守ら騎馬隊に向けて、酒井左衛門尉の号令一下、轟音とともに幾十もの鉛玉が見舞われる。

「ぐっ!」

「ぎゃあっ!」

 射程距離に入ってから放たれた鉛玉が騎馬武者を打ち抜き、次々と落馬させていく。酒井左衛門尉は鉄炮足軽らを下がらせると、槍衾を敷き、その後ろから弓隊に援護射撃を行わせていく。

 そんな白兵戦が展開される中、後ろから続いた稲垣重宗は落馬した騎馬武者の中に白髪頭の老将を発見した。

「あっ、出羽守殿!」

「ううっ、稲垣重宗殿か……!」

「さては撃たれましたな!」

 稲垣重宗が駆け寄ると、牧野出羽守は胸部と左大腿部へ一発ずつ弾丸を受けたようであった。出血もひどく、急いで手当てをせねば危ういと考え、兵士らに担がせたところで次なる異変を察知する。

「稲垣様!あれを!」

「むっ、あれは――」

 小手をかざして遠望してみれば、見えるのは『厭離穢土欣求浄土』と記された異質で、見覚えのある旗であった。

「しまった!元康の本隊が酒井隊を追い越してきたか!」

 てっきり酒井隊の後ろを大人しくついてくるものだとばかり思っていた牧野勢にとって、これは想定外であった。大将が先鋒隊を追い越して、前線まで出張ってきていたのである。

 焦る稲垣重宗ら牧野勢へ向けて、先鋒隊の倍以上の数の轟音が城外の平野に轟く。その轟音が響いた直後、稲垣重宗の周囲にいた騎馬武者や足軽たちが断末魔を挙げて倒れていく。

「稲垣様!」

 他ならぬ稲垣重宗もまた、敵の銃弾を肩口に受け、片膝をついてしまう。だが、元康本隊が騎馬隊を押し出して来るのを視認した稲垣重宗の判断は迅速であった。

「全軍、ただちに撤退せよ!退けっ、退けぇっ!」

 牛久保城外へと出撃した牧野勢は城を目指して駆けた。しかし、勇ましく出撃を主張した両将が負傷していたのでは士気が上がるはずもなく、見るも無残な退却戦となってしまう。

「重宗!無事であったか!」

「殿!某はかすり傷にございますれば……!されど、出羽守殿は――」

 血相を変えて本丸から飛び出してきた牧野民部丞と相対した稲垣重宗は、白布がかけられた牧野出羽守保成へと視線を向ける。

 何とか牛久保城内へ担ぎ込まれた牧野出羽守であったが、手当てした甲斐もなく、この世を去ってしまったのである。

「殿、これは某の失態にございまする!この腹かっ切ってお詫び申し上げまする!」

「よせっ!よさぬかっ!」

 敗戦の責任を取り、腹を斬ろうとする稲垣重宗を牧野民部丞はじめ、周囲にいた者が組み付いて制止する。

 そんな城内のことなどお構いなしに城外からは鬨の声とともに銃声が轟き、松平勢が取り巻いている状況。

 しかし、吉田城方面から今川の軍旗が西へ向けて動き出したのを確認すると、途端に城周辺から松平勢は挟撃をくらうまいと撤収し、先ほどまで合戦が行われていたとは思えない静寂が訪れたのである。

 されど、城内の静けさは異様なものがあった。牧野一族の牧野出羽守戦死の影響は大きく、誰もが口を横一文字に結び、沈黙したまま俯いてしまっている。

 その数日後のことであった。牛久保六騎の一角、牧野山城守定成・半右衛門正勝父子が離反し、松平方に与したのは――

 元康が東三河へ出陣し、牛久保城外にて牧野勢を打ち破ってすぐに岡崎へと帰還したのと同じ頃、信長の命を受けて使者二名が面会を求めてきていた。

「殿!」

 そう言って元康が具足を脱いだのと時を同じくして渡り廊下を駆けてきたのは家老・石川与七郎数正であった。

「いかがした、与七郎」

「はっ、尾張の織田上総介殿より使者が参り、殿への面会を求めておりまする」

「ほう、面会とな。誰が参った」

「滝川左近将監一益殿と河尻与四郎秀隆殿の両名にございます。両名が申すには、竹千代様も同席させたうえで申し伝えたきことがある、とかように申しておりますれば」

「竹千代を……?」

 何ゆえ織田家の使者である滝川左近将監と河尻与四郎が竹千代の同席を求めてくるのか。そこが元康にも解せないところではあった。しかし、断る謂れもないことから、平岩七之助を竹千代の迎えとして派遣し、石川与七郎には織田家からの使者への対応に当たらせた。

 具足を脱ぎ、戦から解放された元康であったが、すぐにも正装へ着替え、使者への対応をせねばならないあわただしさであった。そうして元康は織田家からの使者二名と対面したのである。

「滝川左近将監殿、河尻与四郎殿。この度は岡崎までご足労いただき、かたじけござらぬ。竹千代同席のうえで申し伝えたきことがあると承っておりますが、それはいかなる事由にございましょうか」

 平岩七之助を側に附けられて安心した様子の竹千代をしり目に、元康は織田家からの使者が何の目的で岡崎まで参ったのかをつまびらかにしようとしていた。

 元康から問いかけられ、顔を見合わせる滝川左近将監と河尻与四郎。問いに応じたのは滝川左近将監の方であった。

「はっ、我が主が申すには、蔵人佐殿が嫡男竹千代殿へ、息女を嫁がせたうえで今の両家の間柄を婚姻同盟へ進めたいとのこと」

「ほう、婚姻同盟をと……!」

 これで元康にも織田家の使者である滝川左近将監と河尻与四郎が竹千代の同席を要望してきたのかが腑に落ちた。こと婚姻同盟ともなれば、竹千代もまた当事者であるからだ。

「織田上総介殿には御息女が二人おられたと記憶しておりますが、当家へ輿入れなされるのはどちらの姫君にございましょうか」

「次女の五徳様にございます。齢も竹千代殿と同じく五ツにございますれば」

「河尻与四郎殿。回りくどいことを仰せにならずともよい。某の知る織田上総介殿は婚姻する者同士の齢を気になされる御仁ではござらぬ。何か他にも理由があるのではございますまいか」

 ――勘付かれた!

 そう思って焦っているのが、滝川左近将監と河尻与四郎の表情の一瞬の変化から元康も石川与七郎にも容易に見抜くことができた。

「然らば、蔵人佐殿は次女でなく、長女と縁を結ばれたいとのご意向で?」

「そうではござらぬ。じゃが、そのような齢のこと、織田上総介殿がまことに仰られたとは思えぬ。これ以上、偽りを申されるとあらば、この蔵人佐にも考えがござる」

「お待ちくだされ!正直に申し上げますれば、生母のことにございます」

「生母とな?」

 さしもの元康も織田信長という同盟者に姫君が二人いることは把握していても、その生母のことまで詳細に知っているはずがなかった。それゆえに、嫁いでくる姫のことで生母がどう関わってくるというのか。当然の疑問であった。

「次女の五徳様ご生母は生駒氏、我らが主君との間には五徳様を含めて三人の子がおりまする」

 河尻与四郎は滝川左近将監へ目くばせをしながら、元康への説明を続ける。元康もまた、答えに辿り着いていないのか、話を聞く姿勢が前のめりになっている。

「五徳様の他には男子が二人。一人は嫡男の奇妙丸様。もう一人は次男の茶筅丸様にございまする。ひとえに五徳様を竹千代殿へ嫁がせるのは、いずれ織田家を相続する奇妙丸様の同母妹である五徳様がじきに松平家をお継ぎになられる竹千代殿へ嫁がれることに大きな意義があるからにございます」

 熱のこもった言葉を吐き切った河尻与四郎が顔を上げると、そこにはほろりと涙をこぼす元康の姿があった。

「蔵人佐殿!いかがなされた……!」

「なに、織田上総介殿よりのご配慮が伝わって参ったのでござる。此度の縁組は我らの代に留まらず、次の代を見据えてのことであるのだと、不肖元康にも理解することができましたぞ。ご両名とも、元康が此度の縁組について泣いて喜んでおったと小牧山城の織田上総介殿へお伝えくだされ」

 これにより、元康嫡男・竹千代と信長の次女・五徳の婚約は成立した。両名ともに未だ数えで五歳ということもあり、正式な婚儀はまだまだ先のことにはなるが、松平家と織田家の関係を婚姻同盟へと昇華させたことの意義は大きかった。

「よいか、竹千代。小牧山城におられる織田上総介信長殿はそなたにとって舅ともなる。これほど頼りになる舅は日ノ本中探してもおらぬゆえ、そなたは天運に恵まれた子じゃ」

 織田家からの使者が帰還した後、元康は大人しく座っていた竹千代を差し招いて発した第一声がそれであった。

「殿。此度の縁組、即答してよろしかったのでしょうか」

「案ずるな、七之助。この縁組は竹千代が最も利することとなろうが、我らの東三河制圧にも追い風となろうぞ」

 まだどこか不安げな面持ちの平岩七之助をよそに、元康は幼き日に尾張国熱田の加藤図書の屋敷で奇妙な出で立ちの青年と出会った日を思い返していた。

 ――十六年後、お前の嫡男とその青年の娘が婚約しているのだぞ。

 幼き日の自分にそう言ってやったらどんな顔をするであろうか。そう夢想して笑いがこぼれる、永禄六年の夢見月。
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