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第4章 苦海の章
第157話 三州急用
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永禄六年四月。元康が東三河制圧に向けて勢いづき、織田家との婚姻同盟締結へ舵を切ったことを知った駿府の今川氏真がついに動いた。
「備後守、予は決めたぞ」
「はっ、それはいかなる……?」
駿府館にて三浦備後守正俊が氏真より手渡されたのは一通の朱印状であった。
如律令(印文) 棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件
永禄六年 癸亥
四月十日
杉山小太郎殿
望月四郎右衛門殿
「これは……!」
「予は決断したと申しておろう。元康を撃滅するのじゃ。そのための戦費を賄わねばならぬ。先々月にも寺社に対しての特権を停止させておる。諸役賦課の方策を寺社だけでなく、全領国へ発布せねばと思い、この書状をしたためたのじゃ」
氏真が三浦備後守へ渡した書状。
それは三州急用を目的として、これまで棟別銭の免除を許可していた人々をも一時的に課税対象とすることを決定したことを通達し、宛先の両人は軍役を務めているために対象外とすること、今後も棟別免許の特権を破棄する際にも対象としないことが記されていた。
だが、それは翻って、軍役を務めていないなど、別の面で負担を負っていない者には税を免除する特権をはく奪して課税すると申し渡すことでもある。
「御屋形様!たしかに当家は松平と戦うにあたり、銭のやり繰りに苦慮しております!されど、これを国衆や寺社に申し伝えたとて、反発を招くことにもなりましょう!」
「ゆえに朱印状にも記しておるではないか。棟別免許の特権破棄は一時的なものである、と。松平蔵人佐を撃滅した暁には、再び棟別免許の特権を与えるつもりじゃ。無論、杉山らと同じく軍役奉公をしている者らから特権をはく奪するような真似はしておらぬゆえ、案ずることはない」
氏真の言い分は三浦備後守も理解はできる。されど、御前を退出した後も不安を拭い去ることはできなかった。そんな折のこと、朝比奈丹波守親徳が負傷した足を引きずって三浦備後守のもとへ駆けこんできたのである。
「備後守殿、これをご覧あれ!」
「これは……!?」
朝比奈丹波守が持ち込んだ風呂敷を広げると、そこには書状の山が現出する。三浦備後守の目に留まったのは遠江高松神社の神主からの申請書。そして、その書状の山はすべて、寺社からの申請書であった。
「今年二月より行っている棟別免許の特権を一時破棄するとの通達を受けた寺社からの取り消しを求める申請書、いや内容はいずれも嘆願書といってもよい……!」
「よもやこれほどまでに殺到するとは思わなんだ……!こ、これはいかん!」
これまで今川家は軍役を務める給人や寺社への保護措置として棟別諸役の免許特権、いわゆる不入権を与えていた。こうした特権は今川家に対しての様々な奉公の見返りとして保証されたもの。
それを一時的とはいえ破棄するという通達を受けたのでは、寺社としてもたまったものではない。
寺社に対して行っただけで、撤回を求める嘆願書が山ほど届くのだ。これから同じことを領国内の土豪たちへ行おうというのだから、その結果として何が起こるのか、三浦備後守にも恐ろしい光景が目に浮かぶ。
「丹波守殿、御屋形様は土豪らにも棟別諸役の免許特権の一時破棄を通達なさった」
「馬鹿な!?そっ、それでは土豪らも黙ってはおるまいぞ!」
「そうじゃ。されど、この徴税は松平を征伐するための一時的なもの。それが成されればよいだけのことともいえよう」
「それはそうじゃが……」
「松平蔵人佐殿のことは某とてよう存じておる。貴殿にとっては、後見人を務めた御仁でもあるゆえ、さぞ辛かろう」
「ふん、辛いなどと申しては関口刑部少輔と同罪となる。そのようなこと、死んでも言えるものか。それよりも、松平討伐を全領国へ号令したにも等しい。ともすれば、年内に御屋形様は出兵なさりたいのであろう」
わざわざ『元康を討伐するために増税します!』と宣言したのだから、朝比奈丹波守がそう考えるのは至極当然のことであった。
「いかにも。今年の夏を目途に昨年のような大軍勢での出陣を想定してもおる」
「左様か」
「そして、来月中にも某は先遣隊を率いて向かうことも命じられておる」
「なんと!?それは誠か!?」
素っ頓狂な声を上げる朝比奈丹波守を制した後、三浦備後守は静かに頷いた。そして、衝撃の一言を続けていく。
「案ずるな。松平の宿老を一人調略しておる」
「なにっ、松平の宿老を!?」
「左様。先代義元公も実力を高く評価されておわした御仁が当家に味方すると申してきておる。その動きに呼応すべく、某は出陣することとなっておる。近日中にも、その者へ武田の手の者も接触すると御屋形様より伺っておる」
「た、武田家も三河の切り崩しに動いておられたか……!」
今川家・武田家と協調して元康に反旗を翻そうとしており、かの今川義元からも高く評価された松平家の宿老。
それが一体誰であるのか、松平家とのかかわりも深い朝比奈丹波守といえども検討もつかなかった。
「丹波守殿、おそらくは再び一万を超える軍勢を動員しての三河侵攻となろう」
「そう、であろうな。じゃが、御屋形様が撤兵された後も奮戦を続けた板倉弾正殿は嫡男ともども戦死し、先日も牛久保城の牧野勢は手ひどくやられたとも聞いておる。昨年の三河侵攻以上に厳しい戦ともなろう」
「ははは、そのことは腑抜けな関口刑部少輔殿も申しておった。じゃが、此度は松平は内側から崩れるのじゃ。何も案ずることはない。蔵人佐もそれと対峙しておる間、東三河へ目など向けられぬ。その間に御屋形様自ら率いる大軍で西郷も野田菅沼も攻め潰し、一気に岡崎をも制圧する。それですべて終いじゃ」
「そうなれば、棟別諸役の特権も年内にはもとに戻るであろうか」
「そうじゃ。長期化したならば、国中騒ぎともなろうが、年内に制圧できるのであらば、皆も目をつぶるであろうよ」
朝比奈丹波守はひとまず遠江高松神社の神主からの嘆願に応じることを三浦備後守と談じて別れた。
遠江高松神社のように従前通り特権を認めて欲しいと嘆願し、それを保証する旨の返答を勝ち取れた寺社は良い。だが、今川氏によほどの伝手がない限り、氏真から発給された朱印状を帳消しとし、免除を勝ち取ることは至難であり、寺社の間でも不平等が生じていくことになる――
そんな今川領国での異変、すなわち氏真が三州急用を発して、領国内で臨時徴税を行ったことの影響は翌五月、三河にて顕在化しようとしていた。
西三河のとある寺院。今にも一雨ありそうな不穏な天候の下、常なる旅人とは思えない立派な刀を提げた侍集団が屯していた。そこへ、白髪頭の老人に率いられた武士の一団が合流する。
「これは遠路はるばるよくぞ参られた。住職にも話は通してござる。積もる話は中でいたしましょうぞ」
後からやって来た老人に案内される形で、寺院の境内で待機していた侍たちが続いていく。皆が顔を隠すように笠をかぶっている異様な光景であったが、身元のしっかりした老人からの要請だったこともあり、住職は密談の場として提供することに快諾した。
「此度ははるばる信濃より参られたとか。さぞお疲れのことでございましょう」
「なんの。主君よりの密命にござれば、どこへなりとも赴くが臣下の勤めと心得まする。某、伊那郡吉岡城主の下条弾正信氏と申す者」
「おお、よもや甲斐の徳栄軒信玄殿の妹婿ともあろう方が直々に参られるとは」
「それだけ、我が主も貴殿のことを買っており、今川家からの要望に真摯に応えたいと願うておることの証左でもありまする。加えて、此度の密談、伊那郡大島城代を務める秋山伯耆守虎繁を介して伝えられた命にございまする」
「それは心強い。目と鼻の先の東美濃の岩村や苗木の遠山氏、それに加えて久々利氏も武田方として活動されてもおりまする。有事の際には、信濃国伊那郡や東濃からの支援も見込めるとの見解で間違いござらぬか」
老人からの問いかけににやりと笑みを浮かべながら、下条弾正は首肯する。武田信玄より『信』の一字を拝領し、その妹を正室ともしている下条弾正が肯定したというだけで、反骨精神溢れる老人にとって、不気味な勇気を得られる。
「貴殿のもとへは駿府より連絡は入っておりましょう」
「無論入っておりまする。今月中頃には御油城へ侵攻するゆえ、それに呼応して立ち上がるように、と」
「左様にございましたか。加茂郡には大給城の松平和泉守親乗殿、足助真弓山城の鈴木重直殿といった方々もおられましたな」
「さすがは下条弾正殿。三河情勢にもお詳しいご様子」
「当家の間者が三河には多く潜り込んでもおります。もし貴殿が攻められるようなことになれば、今川家だけでなく、当家も支援する支度を整えておりまするゆえ、ご案じなさいますな」
齢三十五にもなる下条弾正は目の前にいる老人の不安をなるべく拭っておきたいのか、念押しするというところに余念がない。それだけ案じられていると同時に、離反することを期待されてもいるのだと解釈した老人は内心ではほくそ笑んでいた。
「そうじゃ、下条弾正殿。今月中にも駿府の御屋形は幕府より御相伴衆に任じられると耳にいたしたが、それは真のことにござろうか」
「ええ、真のことにございます。我が主君も可愛い甥御が御相伴衆となることを大層喜ばれておりまする」
「まこと今川家と武田家は緊密な関係にございますな。そんな両家からの支援が見込めるとあらば、案ずることなく挙兵へと動くことができまする」
扇子で膝を打ち、豪快に肩を揺らして笑う老人は下条弾正から武田家と今川家の情報を次々に引き出していく。自然な流れで話を引き出していくのは、年の功とも言うべきものがあった。
「そうじゃ、当家が今川家より要請を受けて動いておるのか、貴殿はまだ疑っておるのではございますまいか」
「ほう、そのようなことはござらぬ。ご両家で密に情報が交換されておること、これまでのやり取りからも見てとれまするゆえ」
「左様でござるか。ともかく、こちらが今川上総介様直筆の書状にございます」
「拝見いたそう」
せっかく下条弾正自らが書状を持ってきたのだ。それだけでも信用できる。そう踏んだ老人であったが、宛先は他ならぬ武田信玄であり、その内容もまた想定の範囲内であった。
「岡崎を退治する……岡崎とは松平蔵人佐がことを指すのでござろう」
「いかにも。罪深いことに、昨年逆心した伊那郡飯田城主の坂西永忠調略にも松平が関与したことを我らが主も関知するところ。ゆえに、南信濃や東美濃の情勢を落ち着かせるためにも対峙する必要があると判断なされたのです」
「左様でござったか。然らば、我らがその手助けともなりましょう。松平打倒が成せた後は、西三河をお預けくださるよう、甲州屋形様より取り成してくださるよう口添えをお願いしたい」
「うむ、承知いたした。我らが主より駿府の今川上総介殿へその旨お伝えいたそう」
老人からの頼みを快く聞き入れた下条弾正は懐へ氏真書状をしまっていく。老人もまた、甲信の大大名と水面下で交渉できたことに満足し、密談は終幕を迎えようとしていた。
「そうじゃ、貴殿へ一つ聞いておきたきことがござる」
「何でござろう」
「どこまで調略の手を広げられたか、参考までに伺いおきたく」
「然らば、やり取りした書状の写しを持参してござる」
老人が背後に控える家臣から書状の写しを受け取ると、下条弾正へと披露した。
「ほう、計十通にござるか」
「いかにも。五名の書状を二つずつ書き写したものにござれば、五通は下条弾正殿の方から主君へ披露くだされ。残る五通は手間を取らせてしまいまするが、駿府へ転送していただきたい」
「これはこれは。よもやこれほどまでに調略を広げておられたとは、この下条弾正信氏、感服いたしましたぞ」
下条弾正は老人から受け取った書状の写しを懐へしまうと、ゆっくりと腰を上げる。
「お帰りになられまするか」
「はい。一刻も早く主君へお知らせせねばなりませぬゆえ、これにてお暇いたしまする。では、ご武運を甲信の地よりお祈りいたしますぞ。上野城主、酒井将監忠尚殿」
下条弾正からの言葉に深く頭を下げる白髪の老将――上野城主・酒井将監は下条弾正信氏を澪贈ると、麾下の者たちを引き連れて上野城へと引き揚げていくのであった。
永禄六年五月。酒井将監忠尚、四度目の離反が現実のものとなろうとしていた――!
「備後守、予は決めたぞ」
「はっ、それはいかなる……?」
駿府館にて三浦備後守正俊が氏真より手渡されたのは一通の朱印状であった。
如律令(印文) 棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件
永禄六年 癸亥
四月十日
杉山小太郎殿
望月四郎右衛門殿
「これは……!」
「予は決断したと申しておろう。元康を撃滅するのじゃ。そのための戦費を賄わねばならぬ。先々月にも寺社に対しての特権を停止させておる。諸役賦課の方策を寺社だけでなく、全領国へ発布せねばと思い、この書状をしたためたのじゃ」
氏真が三浦備後守へ渡した書状。
それは三州急用を目的として、これまで棟別銭の免除を許可していた人々をも一時的に課税対象とすることを決定したことを通達し、宛先の両人は軍役を務めているために対象外とすること、今後も棟別免許の特権を破棄する際にも対象としないことが記されていた。
だが、それは翻って、軍役を務めていないなど、別の面で負担を負っていない者には税を免除する特権をはく奪して課税すると申し渡すことでもある。
「御屋形様!たしかに当家は松平と戦うにあたり、銭のやり繰りに苦慮しております!されど、これを国衆や寺社に申し伝えたとて、反発を招くことにもなりましょう!」
「ゆえに朱印状にも記しておるではないか。棟別免許の特権破棄は一時的なものである、と。松平蔵人佐を撃滅した暁には、再び棟別免許の特権を与えるつもりじゃ。無論、杉山らと同じく軍役奉公をしている者らから特権をはく奪するような真似はしておらぬゆえ、案ずることはない」
氏真の言い分は三浦備後守も理解はできる。されど、御前を退出した後も不安を拭い去ることはできなかった。そんな折のこと、朝比奈丹波守親徳が負傷した足を引きずって三浦備後守のもとへ駆けこんできたのである。
「備後守殿、これをご覧あれ!」
「これは……!?」
朝比奈丹波守が持ち込んだ風呂敷を広げると、そこには書状の山が現出する。三浦備後守の目に留まったのは遠江高松神社の神主からの申請書。そして、その書状の山はすべて、寺社からの申請書であった。
「今年二月より行っている棟別免許の特権を一時破棄するとの通達を受けた寺社からの取り消しを求める申請書、いや内容はいずれも嘆願書といってもよい……!」
「よもやこれほどまでに殺到するとは思わなんだ……!こ、これはいかん!」
これまで今川家は軍役を務める給人や寺社への保護措置として棟別諸役の免許特権、いわゆる不入権を与えていた。こうした特権は今川家に対しての様々な奉公の見返りとして保証されたもの。
それを一時的とはいえ破棄するという通達を受けたのでは、寺社としてもたまったものではない。
寺社に対して行っただけで、撤回を求める嘆願書が山ほど届くのだ。これから同じことを領国内の土豪たちへ行おうというのだから、その結果として何が起こるのか、三浦備後守にも恐ろしい光景が目に浮かぶ。
「丹波守殿、御屋形様は土豪らにも棟別諸役の免許特権の一時破棄を通達なさった」
「馬鹿な!?そっ、それでは土豪らも黙ってはおるまいぞ!」
「そうじゃ。されど、この徴税は松平を征伐するための一時的なもの。それが成されればよいだけのことともいえよう」
「それはそうじゃが……」
「松平蔵人佐殿のことは某とてよう存じておる。貴殿にとっては、後見人を務めた御仁でもあるゆえ、さぞ辛かろう」
「ふん、辛いなどと申しては関口刑部少輔と同罪となる。そのようなこと、死んでも言えるものか。それよりも、松平討伐を全領国へ号令したにも等しい。ともすれば、年内に御屋形様は出兵なさりたいのであろう」
わざわざ『元康を討伐するために増税します!』と宣言したのだから、朝比奈丹波守がそう考えるのは至極当然のことであった。
「いかにも。今年の夏を目途に昨年のような大軍勢での出陣を想定してもおる」
「左様か」
「そして、来月中にも某は先遣隊を率いて向かうことも命じられておる」
「なんと!?それは誠か!?」
素っ頓狂な声を上げる朝比奈丹波守を制した後、三浦備後守は静かに頷いた。そして、衝撃の一言を続けていく。
「案ずるな。松平の宿老を一人調略しておる」
「なにっ、松平の宿老を!?」
「左様。先代義元公も実力を高く評価されておわした御仁が当家に味方すると申してきておる。その動きに呼応すべく、某は出陣することとなっておる。近日中にも、その者へ武田の手の者も接触すると御屋形様より伺っておる」
「た、武田家も三河の切り崩しに動いておられたか……!」
今川家・武田家と協調して元康に反旗を翻そうとしており、かの今川義元からも高く評価された松平家の宿老。
それが一体誰であるのか、松平家とのかかわりも深い朝比奈丹波守といえども検討もつかなかった。
「丹波守殿、おそらくは再び一万を超える軍勢を動員しての三河侵攻となろう」
「そう、であろうな。じゃが、御屋形様が撤兵された後も奮戦を続けた板倉弾正殿は嫡男ともども戦死し、先日も牛久保城の牧野勢は手ひどくやられたとも聞いておる。昨年の三河侵攻以上に厳しい戦ともなろう」
「ははは、そのことは腑抜けな関口刑部少輔殿も申しておった。じゃが、此度は松平は内側から崩れるのじゃ。何も案ずることはない。蔵人佐もそれと対峙しておる間、東三河へ目など向けられぬ。その間に御屋形様自ら率いる大軍で西郷も野田菅沼も攻め潰し、一気に岡崎をも制圧する。それですべて終いじゃ」
「そうなれば、棟別諸役の特権も年内にはもとに戻るであろうか」
「そうじゃ。長期化したならば、国中騒ぎともなろうが、年内に制圧できるのであらば、皆も目をつぶるであろうよ」
朝比奈丹波守はひとまず遠江高松神社の神主からの嘆願に応じることを三浦備後守と談じて別れた。
遠江高松神社のように従前通り特権を認めて欲しいと嘆願し、それを保証する旨の返答を勝ち取れた寺社は良い。だが、今川氏によほどの伝手がない限り、氏真から発給された朱印状を帳消しとし、免除を勝ち取ることは至難であり、寺社の間でも不平等が生じていくことになる――
そんな今川領国での異変、すなわち氏真が三州急用を発して、領国内で臨時徴税を行ったことの影響は翌五月、三河にて顕在化しようとしていた。
西三河のとある寺院。今にも一雨ありそうな不穏な天候の下、常なる旅人とは思えない立派な刀を提げた侍集団が屯していた。そこへ、白髪頭の老人に率いられた武士の一団が合流する。
「これは遠路はるばるよくぞ参られた。住職にも話は通してござる。積もる話は中でいたしましょうぞ」
後からやって来た老人に案内される形で、寺院の境内で待機していた侍たちが続いていく。皆が顔を隠すように笠をかぶっている異様な光景であったが、身元のしっかりした老人からの要請だったこともあり、住職は密談の場として提供することに快諾した。
「此度ははるばる信濃より参られたとか。さぞお疲れのことでございましょう」
「なんの。主君よりの密命にござれば、どこへなりとも赴くが臣下の勤めと心得まする。某、伊那郡吉岡城主の下条弾正信氏と申す者」
「おお、よもや甲斐の徳栄軒信玄殿の妹婿ともあろう方が直々に参られるとは」
「それだけ、我が主も貴殿のことを買っており、今川家からの要望に真摯に応えたいと願うておることの証左でもありまする。加えて、此度の密談、伊那郡大島城代を務める秋山伯耆守虎繁を介して伝えられた命にございまする」
「それは心強い。目と鼻の先の東美濃の岩村や苗木の遠山氏、それに加えて久々利氏も武田方として活動されてもおりまする。有事の際には、信濃国伊那郡や東濃からの支援も見込めるとの見解で間違いござらぬか」
老人からの問いかけににやりと笑みを浮かべながら、下条弾正は首肯する。武田信玄より『信』の一字を拝領し、その妹を正室ともしている下条弾正が肯定したというだけで、反骨精神溢れる老人にとって、不気味な勇気を得られる。
「貴殿のもとへは駿府より連絡は入っておりましょう」
「無論入っておりまする。今月中頃には御油城へ侵攻するゆえ、それに呼応して立ち上がるように、と」
「左様にございましたか。加茂郡には大給城の松平和泉守親乗殿、足助真弓山城の鈴木重直殿といった方々もおられましたな」
「さすがは下条弾正殿。三河情勢にもお詳しいご様子」
「当家の間者が三河には多く潜り込んでもおります。もし貴殿が攻められるようなことになれば、今川家だけでなく、当家も支援する支度を整えておりまするゆえ、ご案じなさいますな」
齢三十五にもなる下条弾正は目の前にいる老人の不安をなるべく拭っておきたいのか、念押しするというところに余念がない。それだけ案じられていると同時に、離反することを期待されてもいるのだと解釈した老人は内心ではほくそ笑んでいた。
「そうじゃ、下条弾正殿。今月中にも駿府の御屋形は幕府より御相伴衆に任じられると耳にいたしたが、それは真のことにござろうか」
「ええ、真のことにございます。我が主君も可愛い甥御が御相伴衆となることを大層喜ばれておりまする」
「まこと今川家と武田家は緊密な関係にございますな。そんな両家からの支援が見込めるとあらば、案ずることなく挙兵へと動くことができまする」
扇子で膝を打ち、豪快に肩を揺らして笑う老人は下条弾正から武田家と今川家の情報を次々に引き出していく。自然な流れで話を引き出していくのは、年の功とも言うべきものがあった。
「そうじゃ、当家が今川家より要請を受けて動いておるのか、貴殿はまだ疑っておるのではございますまいか」
「ほう、そのようなことはござらぬ。ご両家で密に情報が交換されておること、これまでのやり取りからも見てとれまするゆえ」
「左様でござるか。ともかく、こちらが今川上総介様直筆の書状にございます」
「拝見いたそう」
せっかく下条弾正自らが書状を持ってきたのだ。それだけでも信用できる。そう踏んだ老人であったが、宛先は他ならぬ武田信玄であり、その内容もまた想定の範囲内であった。
「岡崎を退治する……岡崎とは松平蔵人佐がことを指すのでござろう」
「いかにも。罪深いことに、昨年逆心した伊那郡飯田城主の坂西永忠調略にも松平が関与したことを我らが主も関知するところ。ゆえに、南信濃や東美濃の情勢を落ち着かせるためにも対峙する必要があると判断なされたのです」
「左様でござったか。然らば、我らがその手助けともなりましょう。松平打倒が成せた後は、西三河をお預けくださるよう、甲州屋形様より取り成してくださるよう口添えをお願いしたい」
「うむ、承知いたした。我らが主より駿府の今川上総介殿へその旨お伝えいたそう」
老人からの頼みを快く聞き入れた下条弾正は懐へ氏真書状をしまっていく。老人もまた、甲信の大大名と水面下で交渉できたことに満足し、密談は終幕を迎えようとしていた。
「そうじゃ、貴殿へ一つ聞いておきたきことがござる」
「何でござろう」
「どこまで調略の手を広げられたか、参考までに伺いおきたく」
「然らば、やり取りした書状の写しを持参してござる」
老人が背後に控える家臣から書状の写しを受け取ると、下条弾正へと披露した。
「ほう、計十通にござるか」
「いかにも。五名の書状を二つずつ書き写したものにござれば、五通は下条弾正殿の方から主君へ披露くだされ。残る五通は手間を取らせてしまいまするが、駿府へ転送していただきたい」
「これはこれは。よもやこれほどまでに調略を広げておられたとは、この下条弾正信氏、感服いたしましたぞ」
下条弾正は老人から受け取った書状の写しを懐へしまうと、ゆっくりと腰を上げる。
「お帰りになられまするか」
「はい。一刻も早く主君へお知らせせねばなりませぬゆえ、これにてお暇いたしまする。では、ご武運を甲信の地よりお祈りいたしますぞ。上野城主、酒井将監忠尚殿」
下条弾正からの言葉に深く頭を下げる白髪の老将――上野城主・酒井将監は下条弾正信氏を澪贈ると、麾下の者たちを引き連れて上野城へと引き揚げていくのであった。
永禄六年五月。酒井将監忠尚、四度目の離反が現実のものとなろうとしていた――!
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そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
十二輝の忍神 ーシノビガミ― 第一部
陵月夜白(りょうづきやしろ)
歴史・時代
天明三年――浅間山が火を噴いた。
神の怒りに触れたかのように、黒い灰は空を塞ぎ、郷も田畑も人の営みも、容赦なく呑み込んでいく。噴火と飢饉が藩を蝕み、救いを求める声の裏で、名もなき影が蠢いた。灰の夜を踏むのは、血も温もりも失った“黒屍人”。誰が、何のために――。
その災厄に呼応するように、忍びの郷に封じられていた「十二輝の干支の珠」が、ひとつ、またひとつと眠りから解かれる。
珠は器を選び、器は力に喰われ、力は人を裏返す。
伊賀と甲賀の長い因縁、奪われる珠、引き裂かれる同胞。
そして、灰の国で拾い集められていく十二の輝きが揃う時、世界の秩序そのものが――動き出す。
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