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第4章 苦海の章
第158話 枯れ木に片喰の花
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永禄六年五月上旬。一進一退を繰り返す東三河の戦況に注視している元康のもとへ、土崩瓦解の一報が飛び込んできたのである。
「殿!一大事にございまする!」
そう叫んで元康のいる書院へ飛び込んできたのは石川与七郎数正――ではなく、その祖父・安芸守忠成であった。
「いかがした!またもや氏真が大軍を率いて駿府を発したか!」
「いえ!違いまする!」
「ではなんじゃ!早う申せ!」
「はっ!端的に申せば、上野城の酒井将監忠尚が当家を離反!」
長らく松平宗家を宿老として支えてきた酒井将監が離反した。その知らせは元康にとって、寝起きの頭に拳骨を振り下ろされたかのような錯覚を与えた。
「馬鹿な!当家を支える宿老が離反などと……!」
「真のことにございまする!すでに上野城に手勢を集め、進軍の手筈を整え始めてもおりまする!」
「じゃが、酒井将監は当家の宿老!話し合えば解決の道もあろう!」
「恐れながら、酒井将監は某や鳥居伊賀守殿と異なり、これまでに三度離反した過去がございます!一度目は殿がお産まれになる二年前の天文九年、二度目は松平蔵人信孝が反旗を翻した折の天文十二年、三度目は先代がお亡くなりになった直後の天文十八年」
指を繰りながら酒井将監がこれまで三度反旗を翻してきたことを元康に伝える石川安芸守。その言葉に、元康は少しずつ平静さを取り戻していく。
「天文十八年ともなれば、前回の離反より十四年が経過しておる。しかも、わしが当主となってからの謀反は初めてのこと。加えて、老齢じゃ。そんな酒井将監が挙兵したとあらば、相当な覚悟が伴ったと見るべきか」
「いかにも。今さら交渉の余地など甘いことを申しておる場合ではございますまい」
石川安芸守の冷酷な言葉に元康は沈黙する。もはや酒井将監との戦は避けられないのだというつらい現実を突きつけられたのだから無理もない。
「安芸守、酒井将監へ与同者はおらぬか。単独での謀反とは到底思えぬ」
「ございまする。将監の家臣では榊原七郎右衛門清政や芝山小兵衛正員。酒井一族からは酒井作右衛門重勝。他にも足立右馬助遠定、高木九助広正、大原左近右衛門惟宗、鳥居四郎左衛門尉忠広、本多弥八郎正信といった者らが離反し、上野城へ参集しておるとの由」
榊原七郎右衛門清政は元康の小姓を務める榊原小平太の二ツ上の兄で齢は十八。酒井作右衛門重勝は少年の頃に大樹寺で顔を合わせたこともあるが、今では十五歳になり元服も済ませたと聞いている。
足立右馬助遠定とは初陣の寺部城攻めの折に弟・甚尉を失いながらも奮闘してくれた忠義に厚い家臣。高木九介広正は元康が駿府にいる頃から織田方との合戦で数多の武功を挙げ、三年前の丸根砦攻めにおいても活躍した武人である。
大原左近右衛門惟宗は榊原七郎右衛門清政の舅であるから味方するのは当然ともいえるが、祖父・清康の頃から仕える老臣までもが離反したとはやはり信じられなかった。
極めつけは近侍の鳥居彦右衛門尉元忠の実弟・四郎左衛門尉忠広、策士・本多弥八郎正信といった者たちの離反であった。元康とも齢が近く、少なからず関わる機会も多かった者たちが離れていったことによる精神的な傷というものは決して浅くはなかった。
「殿、大丈夫にございまするか」
「うむ、案ずるな。大事ない」
額に手を当て、目を閉じる元康。そんな若き当主は相次ぐ家臣たちの離反に参ってしまったのではと心配する石川安芸守。元康としては大いに傷ついていたが、それを重臣の前で見せるわけにはいかなかった。
――どこまでいっても松平宗家の当主は自分なのだ。
そう自分に言い聞かせ、毅然と対応するよりほかはなかったのである。そんな折のことである。慌ただしく廊下を走ってくる音が元康と石川安芸守の耳へ飛び込んできたのは。
「殿!本多平八郎にございます!」
「おお、平八郎か。いかがした!」
「はっ!滝脇城の松平出雲守乗高殿よりの報せ!上野城の酒井将監率いる軍勢が矢矧川の渡河を試みておるとのこと!加えて、渡河を試みている渡し場から推測するに岩津妙心寺へ進もうとしておるのではないか、との由!」
大給松平を酒井将監とともに牽制する役割を担っていた滝脇松平からの注進がどこよりも早く的確な内容であった。
仮に上野城から矢矧川を渡河して東岸へ至り、そこから南下すれば大樹寺、そして岡崎城をも射程圏内に収められる。そうなれば、岡崎城の防衛すら危うくなってしまい、元康としても東三河へ目を向けてはいられなくなる。
「平八郎!」
「ははっ!酒井将監を討ち取って参ればよいのでございましょう!蜻蛉切の錆にしてやりますぞ!」
「落ち着け平八郎。そなた、これへおる石川安芸守の指揮下に入り、大樹寺から北進。そうじゃな、酒井将監らが目指しておる岩津妙心寺の北東の林の中へ潜め!」
「敵が来たならば某が突撃して酒井将監を蜻蛉切で串刺しにせよと!」
「何故そうなるのじゃ……。安芸守はわしの言わんとすること、分かっておろうな」
「はっ。手勢を率いて岩津妙心寺北東の林に伏せ、敵を待ち構えればよいのですな。ご案じなさいますな。かの松平蔵人信孝を伏兵で討ち取ったのは某にございますれば、此度は狩りの獲物が老巧な酒井将監となっただけのこと。吉報をお待ちくださいませ!」
老練な石川安芸守はさすがというよりほかなかった。突撃して武功を挙げたがる暴れ馬の本多平八郎忠勝にも分かるように説明を補足し、ただちに出陣の支度へ入っていく。本多平八郎が石川安芸守に連れられて元康のいる書院を去って半刻が経った頃には出陣の法螺貝が鳴り始める。
その法螺貝の音を元康が頼もしく思い耳を傾けていると、鳥居彦右衛門尉と榊原小平太の両名が肩身が狭そうに元康のもとを訪れた。
「殿、此度は不出来な弟がとんでもないことを……!」
「某も家督を継承した兄が勝手なことをしてしまい、申し訳ございませぬ」
そういって、目に涙をためながら頭を下げるのである。なにも鳥居彦右衛門尉も榊原小平太の両名が責任を感じることはないのだ、と声をかけたい元康であったが、それでは何の慰めにもならないことが何よりももどかしかった。
「そう謝ることはあるまい。これもまた、この元康の身の不徳がいたすところ。何より、小平太。そなたの父は元は酒井将監に仕えておったのじゃ。その子が父の主君に与することは道理というものであろう」
「されど、殿に背いたことは事実!腹を斬れと仰せならば、この場にて……」
「たわけたことを申すな!」
ぴしゃりと小平太を𠮟りつける元康。常の元康からは想像もつかない鋭い声に、小平太だけでなく、鳥居彦右衛門尉までもが肩を跳ねさせた。
「決して命を粗末にすることはまかりならぬ。そなたらの兄や弟が背いてしまったことに罪の意識を感じるならば、そなたらが兄や弟の分もわしに奉公せよ!それこそが償いであり、腹を切って終わりにしようなどと逃げるのとはわけが違うわ!」
桶狭間合戦の直後から仕え始めた陪臣の出の榊原小平太であろうと、竹千代と呼ばれていた頃から付き従う鳥居彦右衛門尉であろうと、元康にとっては大切な家臣。それを罪悪感から自害させるようなことだけは、断じて許容できなかった。
「この榊原小平太!兄の分も殿へ奉公いたしまする!」
「不肖鳥居彦右衛門尉、右に同じく!必ずや愚弟の分も槍働きをし、汚名返上してご覧にいれまする!」
「その意気じゃ。わしは此度のように家臣に背かれる、未熟な主君。まだまだ精進していかねばならぬ。そなたらのように、忠義に厚い者らがおれば、わしはこれからも修羅の道を歩んで参れよう」
自分に背いたとはいえ、それまで自分に仕えていた家臣たち。それと戦わなければならないというのは、まさしく修羅の道であった。
元康の言葉に背負っていた罪という荷を下ろすことのできた鳥居彦右衛門尉と榊原小平太が顔を見合わせて笑っていると、胴丸姿の異母弟・内藤三左衛門信成が床を力強く踏みしめながら現れる。
「殿!」
「おう、三左衛門か!何事ぞ!」
「表に上野城より参ったとか申す者が到着!斬り捨ててもよろしゅうございますか!」
「待て!その者は名乗ったか!」
「大須賀五郎左衛門尉とか申す者。齢は酒井左衛門尉殿とさほど変わらぬかと」
――大須賀五郎左衛門尉。
その名を聞き、真っ先に顔色を変えたのが榊原小平太であった。無論、元康も面識のある人物である。
「大須賀五郎左衛門尉と申せば、酒井将監が家臣。そうであろう、小平太」
「はい!某の父とも親しく、幼少の折に幾度か遊んでいただいたことのある御仁にございますれば」
「そうであったか。わしも面識がある人物じゃが、筋の通った立派な人柄であった。三左衛門、丁重にこれへ連れて参れ!決して、手荒な真似をしてはならぬ」
「しょ、承知しました!」
不承不承といった様子で大須賀五郎左衛門尉を呼びに戻っていく内藤三左衛門。斬り捨てる気満々で来たのを斬ってはならないと命令されてしまったのだから、無理もなかった。
そんな元康が元信であった頃に唯一偏諱を受けた内藤三左衛門に伴ってこられた大須賀五郎左衛門尉は先ほどまでの小平太や彦右衛門尉と同じような、申し訳なさをにじませた顔つきをしている。
「蔵人佐殿!此度は元主君の離反を止められず、まこと申し訳ございませぬ!」
「なに、元と申したか」
「はっ!此度の離反も思いとどまるよう、幾度となく進言いたしましたが、聞き入れられず。辞して岡崎へ参った次第にございます!」
「そうか、そうであったか……」
以前会った時もそうであったが、酒井将監と大須賀五郎左衛門尉はお互いのことを信頼している良い主従といった様子であった。そんな大須賀五郎左衛門尉が主従関係を解消してきたという事実が元康の胸に突き刺さる。
だが、そんな元康の心配など吹き飛んでしまうような報せが、大須賀五郎左衛門尉当人の口から発される。
「実は酒井将監は秘かに駿河の今川上総介氏真、甲斐の徳栄軒信玄の調略を受けております」
やはり氏真の調略が裏ではあったのだな。そう思っていた次の瞬間には、甲斐の武田の名まで飛び出したのである。元康としてはその場で白目をむいて仰向けに倒れ込んでしまいそうな、まさしく驚天動地の一言であった。
「お、大須賀殿!それは真か!」
「はい!数日前も、秘かに武田の手の者と密会しておった様子。それからにございまする。日時を定めて挙兵する支度を始められたのは。それまでは、蔵人佐殿の方針に納得がいかぬ。いつかは挙兵して灸を据えてやらねばならぬ、と申されても、何月何日に挙兵すると申すことはございませんでした」
「ふむ。間違いなく、何かあったようじゃな。それだけはわしにも分かる」
不平不満を申していた人間がすぐにも離反を決断するほどの何かがあった密談。実に怪しいことこの上ない話ではあった。
「それ故に某は上野城を去ることに決めたのです。これへ参ったのは裏で今川や武田も動いておることをお伝えし、蔵人佐殿へ仕官するためにございまする!」
「わしに仕えたいと申されるか」
「はっ、この大須賀五郎左衛門尉、次なる主は蔵人佐殿をおいてほかにないと考え、これへ参った次第!武芸には自信もございます!麾下の旗本衆としてお使いいただければ、望むことはございませぬ!」
「左様か。よし、ならばわしに仕えるがよい。そなたほどの武士を召し抱えぬ選択肢はないゆえな」
「ありがとう存じます!粉骨砕身、殿のためにご奉公させていただきまする!」
元康はその日、大須賀五郎左衛門尉という頼りになる家臣を得たのであった。
そして、数日後。東三河経略真っただ中の酒井左衛門尉忠次から受けた報せは、大須賀五郎左衛門尉がもたらした情報を裏付けするものであった。
「見よ、五郎左衛門尉」
「これは家老の酒井左衛門尉殿からの文にございまするな。こ、これは!」
「去る十二日、御油城へ三浦備後守正俊と小笠原清有率いる今川勢が侵攻し、林光正が戦死したとの知らせじゃ。酒井将監の挙兵と日時を打ち合わせ、兵を動かしたのが見てとれる」
「加えて、三浦備後守と申せば、氏真の側近とも聞きまする。側近を東三河へ派遣したということは、近日中にも今川氏真自らの三河侵攻も有り得るのではございますまいか」
「それは危惧せねばならぬ。ゆえに、左衛門尉にも警戒を怠らぬよう命じるつもりじゃ」
――酒井将監を調略したうえでの今川家当主自らが三河へ侵攻。ともすれば、これは昨年以上に苦戦を強いられるやもしれぬ。
そう考え、がりがりと爪を噛む元康なのであった――
「殿!一大事にございまする!」
そう叫んで元康のいる書院へ飛び込んできたのは石川与七郎数正――ではなく、その祖父・安芸守忠成であった。
「いかがした!またもや氏真が大軍を率いて駿府を発したか!」
「いえ!違いまする!」
「ではなんじゃ!早う申せ!」
「はっ!端的に申せば、上野城の酒井将監忠尚が当家を離反!」
長らく松平宗家を宿老として支えてきた酒井将監が離反した。その知らせは元康にとって、寝起きの頭に拳骨を振り下ろされたかのような錯覚を与えた。
「馬鹿な!当家を支える宿老が離反などと……!」
「真のことにございまする!すでに上野城に手勢を集め、進軍の手筈を整え始めてもおりまする!」
「じゃが、酒井将監は当家の宿老!話し合えば解決の道もあろう!」
「恐れながら、酒井将監は某や鳥居伊賀守殿と異なり、これまでに三度離反した過去がございます!一度目は殿がお産まれになる二年前の天文九年、二度目は松平蔵人信孝が反旗を翻した折の天文十二年、三度目は先代がお亡くなりになった直後の天文十八年」
指を繰りながら酒井将監がこれまで三度反旗を翻してきたことを元康に伝える石川安芸守。その言葉に、元康は少しずつ平静さを取り戻していく。
「天文十八年ともなれば、前回の離反より十四年が経過しておる。しかも、わしが当主となってからの謀反は初めてのこと。加えて、老齢じゃ。そんな酒井将監が挙兵したとあらば、相当な覚悟が伴ったと見るべきか」
「いかにも。今さら交渉の余地など甘いことを申しておる場合ではございますまい」
石川安芸守の冷酷な言葉に元康は沈黙する。もはや酒井将監との戦は避けられないのだというつらい現実を突きつけられたのだから無理もない。
「安芸守、酒井将監へ与同者はおらぬか。単独での謀反とは到底思えぬ」
「ございまする。将監の家臣では榊原七郎右衛門清政や芝山小兵衛正員。酒井一族からは酒井作右衛門重勝。他にも足立右馬助遠定、高木九助広正、大原左近右衛門惟宗、鳥居四郎左衛門尉忠広、本多弥八郎正信といった者らが離反し、上野城へ参集しておるとの由」
榊原七郎右衛門清政は元康の小姓を務める榊原小平太の二ツ上の兄で齢は十八。酒井作右衛門重勝は少年の頃に大樹寺で顔を合わせたこともあるが、今では十五歳になり元服も済ませたと聞いている。
足立右馬助遠定とは初陣の寺部城攻めの折に弟・甚尉を失いながらも奮闘してくれた忠義に厚い家臣。高木九介広正は元康が駿府にいる頃から織田方との合戦で数多の武功を挙げ、三年前の丸根砦攻めにおいても活躍した武人である。
大原左近右衛門惟宗は榊原七郎右衛門清政の舅であるから味方するのは当然ともいえるが、祖父・清康の頃から仕える老臣までもが離反したとはやはり信じられなかった。
極めつけは近侍の鳥居彦右衛門尉元忠の実弟・四郎左衛門尉忠広、策士・本多弥八郎正信といった者たちの離反であった。元康とも齢が近く、少なからず関わる機会も多かった者たちが離れていったことによる精神的な傷というものは決して浅くはなかった。
「殿、大丈夫にございまするか」
「うむ、案ずるな。大事ない」
額に手を当て、目を閉じる元康。そんな若き当主は相次ぐ家臣たちの離反に参ってしまったのではと心配する石川安芸守。元康としては大いに傷ついていたが、それを重臣の前で見せるわけにはいかなかった。
――どこまでいっても松平宗家の当主は自分なのだ。
そう自分に言い聞かせ、毅然と対応するよりほかはなかったのである。そんな折のことである。慌ただしく廊下を走ってくる音が元康と石川安芸守の耳へ飛び込んできたのは。
「殿!本多平八郎にございます!」
「おお、平八郎か。いかがした!」
「はっ!滝脇城の松平出雲守乗高殿よりの報せ!上野城の酒井将監率いる軍勢が矢矧川の渡河を試みておるとのこと!加えて、渡河を試みている渡し場から推測するに岩津妙心寺へ進もうとしておるのではないか、との由!」
大給松平を酒井将監とともに牽制する役割を担っていた滝脇松平からの注進がどこよりも早く的確な内容であった。
仮に上野城から矢矧川を渡河して東岸へ至り、そこから南下すれば大樹寺、そして岡崎城をも射程圏内に収められる。そうなれば、岡崎城の防衛すら危うくなってしまい、元康としても東三河へ目を向けてはいられなくなる。
「平八郎!」
「ははっ!酒井将監を討ち取って参ればよいのでございましょう!蜻蛉切の錆にしてやりますぞ!」
「落ち着け平八郎。そなた、これへおる石川安芸守の指揮下に入り、大樹寺から北進。そうじゃな、酒井将監らが目指しておる岩津妙心寺の北東の林の中へ潜め!」
「敵が来たならば某が突撃して酒井将監を蜻蛉切で串刺しにせよと!」
「何故そうなるのじゃ……。安芸守はわしの言わんとすること、分かっておろうな」
「はっ。手勢を率いて岩津妙心寺北東の林に伏せ、敵を待ち構えればよいのですな。ご案じなさいますな。かの松平蔵人信孝を伏兵で討ち取ったのは某にございますれば、此度は狩りの獲物が老巧な酒井将監となっただけのこと。吉報をお待ちくださいませ!」
老練な石川安芸守はさすがというよりほかなかった。突撃して武功を挙げたがる暴れ馬の本多平八郎忠勝にも分かるように説明を補足し、ただちに出陣の支度へ入っていく。本多平八郎が石川安芸守に連れられて元康のいる書院を去って半刻が経った頃には出陣の法螺貝が鳴り始める。
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「殿、此度は不出来な弟がとんでもないことを……!」
「某も家督を継承した兄が勝手なことをしてしまい、申し訳ございませぬ」
そういって、目に涙をためながら頭を下げるのである。なにも鳥居彦右衛門尉も榊原小平太の両名が責任を感じることはないのだ、と声をかけたい元康であったが、それでは何の慰めにもならないことが何よりももどかしかった。
「そう謝ることはあるまい。これもまた、この元康の身の不徳がいたすところ。何より、小平太。そなたの父は元は酒井将監に仕えておったのじゃ。その子が父の主君に与することは道理というものであろう」
「されど、殿に背いたことは事実!腹を斬れと仰せならば、この場にて……」
「たわけたことを申すな!」
ぴしゃりと小平太を𠮟りつける元康。常の元康からは想像もつかない鋭い声に、小平太だけでなく、鳥居彦右衛門尉までもが肩を跳ねさせた。
「決して命を粗末にすることはまかりならぬ。そなたらの兄や弟が背いてしまったことに罪の意識を感じるならば、そなたらが兄や弟の分もわしに奉公せよ!それこそが償いであり、腹を切って終わりにしようなどと逃げるのとはわけが違うわ!」
桶狭間合戦の直後から仕え始めた陪臣の出の榊原小平太であろうと、竹千代と呼ばれていた頃から付き従う鳥居彦右衛門尉であろうと、元康にとっては大切な家臣。それを罪悪感から自害させるようなことだけは、断じて許容できなかった。
「この榊原小平太!兄の分も殿へ奉公いたしまする!」
「不肖鳥居彦右衛門尉、右に同じく!必ずや愚弟の分も槍働きをし、汚名返上してご覧にいれまする!」
「その意気じゃ。わしは此度のように家臣に背かれる、未熟な主君。まだまだ精進していかねばならぬ。そなたらのように、忠義に厚い者らがおれば、わしはこれからも修羅の道を歩んで参れよう」
自分に背いたとはいえ、それまで自分に仕えていた家臣たち。それと戦わなければならないというのは、まさしく修羅の道であった。
元康の言葉に背負っていた罪という荷を下ろすことのできた鳥居彦右衛門尉と榊原小平太が顔を見合わせて笑っていると、胴丸姿の異母弟・内藤三左衛門信成が床を力強く踏みしめながら現れる。
「殿!」
「おう、三左衛門か!何事ぞ!」
「表に上野城より参ったとか申す者が到着!斬り捨ててもよろしゅうございますか!」
「待て!その者は名乗ったか!」
「大須賀五郎左衛門尉とか申す者。齢は酒井左衛門尉殿とさほど変わらぬかと」
――大須賀五郎左衛門尉。
その名を聞き、真っ先に顔色を変えたのが榊原小平太であった。無論、元康も面識のある人物である。
「大須賀五郎左衛門尉と申せば、酒井将監が家臣。そうであろう、小平太」
「はい!某の父とも親しく、幼少の折に幾度か遊んでいただいたことのある御仁にございますれば」
「そうであったか。わしも面識がある人物じゃが、筋の通った立派な人柄であった。三左衛門、丁重にこれへ連れて参れ!決して、手荒な真似をしてはならぬ」
「しょ、承知しました!」
不承不承といった様子で大須賀五郎左衛門尉を呼びに戻っていく内藤三左衛門。斬り捨てる気満々で来たのを斬ってはならないと命令されてしまったのだから、無理もなかった。
そんな元康が元信であった頃に唯一偏諱を受けた内藤三左衛門に伴ってこられた大須賀五郎左衛門尉は先ほどまでの小平太や彦右衛門尉と同じような、申し訳なさをにじませた顔つきをしている。
「蔵人佐殿!此度は元主君の離反を止められず、まこと申し訳ございませぬ!」
「なに、元と申したか」
「はっ!此度の離反も思いとどまるよう、幾度となく進言いたしましたが、聞き入れられず。辞して岡崎へ参った次第にございます!」
「そうか、そうであったか……」
以前会った時もそうであったが、酒井将監と大須賀五郎左衛門尉はお互いのことを信頼している良い主従といった様子であった。そんな大須賀五郎左衛門尉が主従関係を解消してきたという事実が元康の胸に突き刺さる。
だが、そんな元康の心配など吹き飛んでしまうような報せが、大須賀五郎左衛門尉当人の口から発される。
「実は酒井将監は秘かに駿河の今川上総介氏真、甲斐の徳栄軒信玄の調略を受けております」
やはり氏真の調略が裏ではあったのだな。そう思っていた次の瞬間には、甲斐の武田の名まで飛び出したのである。元康としてはその場で白目をむいて仰向けに倒れ込んでしまいそうな、まさしく驚天動地の一言であった。
「お、大須賀殿!それは真か!」
「はい!数日前も、秘かに武田の手の者と密会しておった様子。それからにございまする。日時を定めて挙兵する支度を始められたのは。それまでは、蔵人佐殿の方針に納得がいかぬ。いつかは挙兵して灸を据えてやらねばならぬ、と申されても、何月何日に挙兵すると申すことはございませんでした」
「ふむ。間違いなく、何かあったようじゃな。それだけはわしにも分かる」
不平不満を申していた人間がすぐにも離反を決断するほどの何かがあった密談。実に怪しいことこの上ない話ではあった。
「それ故に某は上野城を去ることに決めたのです。これへ参ったのは裏で今川や武田も動いておることをお伝えし、蔵人佐殿へ仕官するためにございまする!」
「わしに仕えたいと申されるか」
「はっ、この大須賀五郎左衛門尉、次なる主は蔵人佐殿をおいてほかにないと考え、これへ参った次第!武芸には自信もございます!麾下の旗本衆としてお使いいただければ、望むことはございませぬ!」
「左様か。よし、ならばわしに仕えるがよい。そなたほどの武士を召し抱えぬ選択肢はないゆえな」
「ありがとう存じます!粉骨砕身、殿のためにご奉公させていただきまする!」
元康はその日、大須賀五郎左衛門尉という頼りになる家臣を得たのであった。
そして、数日後。東三河経略真っただ中の酒井左衛門尉忠次から受けた報せは、大須賀五郎左衛門尉がもたらした情報を裏付けするものであった。
「見よ、五郎左衛門尉」
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「加えて、三浦備後守と申せば、氏真の側近とも聞きまする。側近を東三河へ派遣したということは、近日中にも今川氏真自らの三河侵攻も有り得るのではございますまいか」
「それは危惧せねばならぬ。ゆえに、左衛門尉にも警戒を怠らぬよう命じるつもりじゃ」
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貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
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