不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第165話 飯尾豊前守逆心

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 一向一揆の蜂起。これに対して、家康が徳政を発したうえで一向一揆勢の出方を窺う方針を固めたのと時を同じくして隣国遠江においても一大事が勃発。

 曳馬城主・飯尾豊前守連龍が主君・今川上総介氏真に対して叛乱を起こしたのである。飯尾氏が治める曳馬城は先代の今川義元、当代の今川氏真が尾張や三河へ遠征する際に必ず通過する交通の要衝。

 そんな遠江国曳馬城主である飯尾豊前守が今川氏に反旗を翻したことは遠江国内はもちろんのこと、東三河で松平方と対峙する今川方の心を大きく揺さぶる結果となった。

 そのような一大事が岡崎よりも早く、東三河経略を担う家老・酒井左衛門尉忠次のもとへと届けられた。

「左衛門尉殿、何ぞ一大事にございまするか」

「おお、助太夫殿。それに、隼人佑殿も伊奈城よりお越しくだされたか」

 酒井左衛門尉を訪ねてきたのは伊奈城主の本多助太夫忠俊と、その三男で十七歳の隼人佑忠次。彼らと入れ替わるように退出していった者が息を切らしていたこともあり、父子ともども何か大事でもあったかと気にかかっている様子であった。

「嫡男の修理亮光忠は岡崎へ援軍に向かわせ、拙者は牛久保城や吉田城を牽制するため、宝飯郡小坂井に砦を構築しておるところにござる」

「左様でござったか。申し出てくだされば、人夫をこちらからも供出いたしましたものを」

「ははは、そこまでしていただかずとも砦は築けまする。して、先ほどどなたかと話しておられたご様子でござったが」

 着座してすぐに両者ともに本題に入ることは避け、近況報告混じりの会話がなされる。そのうえで、本多助太夫の方から疑問を投げかける形で本題へと入った。

「聞いて驚かれるな。遠州曳馬城主の飯尾豊前守が今川家へ反旗を翻してござる」

「なんと!あの飯尾豊前守がか……!」

「実は殿の命を受けて、某が調略に当たっていたのじゃが、よもやもう挙兵へ移るとは思うておらず、仰天しておるところ」

「蔵人佐殿は遠江へも調略をしておられたか。まあ、拙者も昨年、宇津山城におる婿殿を利用して兄弟喧嘩を起こさせはいたしたが」

 本多助太夫が言うのは宇津山城主・朝比奈真次がことである。その宇津山城と飯尾豊前守の居城・曳馬城とは浜名湖沿岸の重要拠点。そこを調略を用いて荒らすことが再びの今川氏真の三河入りを妨げることになると家康も目を付けていたのである。

 それだけに、曳馬での飯尾豊前守挙兵は東三河経略を進める酒井左衛門尉にとっても、岡崎城で離反者や三河一向一揆の鎮圧に当たる家康にとっては朗報以外の何物でもなかった。

「やはり先の三州急用が悪手でござった」

「そうでしょうな。殿を征伐せんがため、領国中に重税を課しながら、三河へ出陣せず関東へ出陣したのじゃ。それでは寺社や地侍らは重税を課されただけとなる。飯尾豊前守が叛乱を起こすのもやむなき仕儀であろう」

「これで東三河の今川方はこちらへ戦を仕掛けてくることはありますまい。何せ、我らを攻めている隙に飯尾豊前守が東三河へ出陣してくることにでもなれば、それどころではない。何より、駿府との往来や物資の供給すらも滞る恐れもある。今は東が気になって仕方があるまい」

「さすがは本多助太夫殿じゃ。この酒井左衛門尉も同じことを思うてござった」

 思いがけず見解が一致したことに、酒井左衛門尉と本多助太夫は膝を叩いて笑いあう。そんな二人を傍からじっと見守る隼人佑は動くことなくその場に座し続ける。

「たしか隼人佑殿は正室がおらなんだか」

「はっ、あいにく縁談話もござらず」

「然らば、この左衛門尉に嫁の成り手に心当たりがござるゆえ、掛け合ってみよう」

「かたじけござらぬ。して、どのような方にございましょうか」

「野田菅沼出の姫じゃ。父子も一度会ったこともあろうが、菅沼新八郎定盈が妹よ」

「野田菅沼家より正室をとは、まこと光栄の至りにございまする……!」

「ははは、隼人佑殿。それはまだ気が早いというもの。向こうも否とは申すまいが、すでに相手が定まっておるやもしれぬゆえ、しばしお待ちくだされよ」

 酒井左衛門尉と父・本多助太夫が話し始めて以来、微動だにせず、話を傾聴する若武者・隼人佑のことを気に入った酒井左衛門尉が縁談話を持ちかける。

 無論、家老の一存では縁組に介入はできないため、折を見て家康の意向も窺わなければならないのだが、そうした手間をかけたいと思える何かが目の前の少年にはあったのだ。

 そうして本多助太夫忠俊・隼人佑忠次父子と酒井左衛門尉の話し合いが終わりを迎えようかという頃、家康のもとへは土居の本多豊後守広孝、上和田砦の大久保七郎右衛門忠世より人質が提出されてきたのである。

「お久しゅうございます。本多豊後守が嫡子、彦次郎康重にございまする。此度は父の命を受け、こちらへ参りましてございます」

「おお、彦次郎か。少し見ぬ間にさらに武士らしゅうなったではないか」

「ありがとう存じまする!一刻も早う殿のお役に立てまするよう、今後も務めて参りまする」

 家康がまだ元康より名を改める前の永禄五年に元服を迎えた本多彦次郎。彼はその時、『康』の一字を拝領し、本多彦次郎康重と名乗ることとなったのである。その時、齢九ツであった彼も一年の歳月を経て、一層男らしくもなっていた。

「じゃが、元服したとはいえ、まだまだそなたは体つきが子どもじゃ。わしはそなたの父の忠節を疑ったことなど一度としてないが、人質として岡崎城へ滞在する間、しっかり稽古を積んでおくのじゃぞ」

「はいっ!精進いたしまする!」

 家康より激励の言葉を受けて、純粋な少年は心の底から感動しているようであった。それをすぐ隣から恨めしそうに見るのは、齢十一の少年・大久保新十郎。大久保七郎右衛門の長子であった。

「そなたの父より人質を出されるとは思わなんだぞ、新十郎」

「はっ、ははっ!しかし、その父からは戦いの役に立たぬそなたが居ても糞の役にも立たぬゆえ、岡崎城にて殿のもとでしかと奉公して参れと面罵されましてございます」

「ははは、それは親心というものじゃ。確かにそなたも彦次郎と同じくまだ体格も小さいゆえ、戦の役には立たぬ。されど、それは親心というものぞ」

「親心……にございますか?」

「そうじゃ。今、上和田砦はいつ一向一揆勢に攻められてもおかしくはない。そこへ、そなたがいたとて一揆勢の手にかかって殺されてしまうであろう。そなたがあと五年早く生まれておれば、そうはなるまい。まあ、要するにそなたの父は新十郎、そなたに死んでほしくないのだ」

「死んでほしくないと?それは真にございましょうか」

「そうであろうとも。子に死んでほしいと願う父はおらぬ。上和田砦よりも岡崎の城に、わしの側に置いておいた方が安全であると、そなたの父は考えたのであろう。それゆえ、そなたをわざと面罵してまで上和田砦から追い出したのだ」

 ――そう言われれば確かにそうかもしれない。

 今の大久保新十郎の顔つきはまさしくそんなことを考えている顔であった。家康とて、大久保七郎右衛門と同じ境遇であったなら、竹千代に嫌われようとも前線から離脱させるであろう。

「よし、両名とも本日より岡崎城にて奉公に励むがよい。じゃが、戦場へは連れていけぬゆえ、そのあたりはしかと肝に銘じておくがよい。初陣は時節が到来したらば、必ず立派に飾らせてやるゆえな」

「はいっ!」

「承知いたしました!」

 家康の言葉の重みをそのまま受け取った少年二人は若さからくる情熱が瞳を輝かせている。これからの城での日々に心躍らせているかのような雰囲気であった。

「彦五郎!彦五郎はおらぬか!」

「はっ、これにおりまする!」

「本多彦次郎と大久保新十郎、両名の世話役はそなたに託す。忙しかろうが、そなたに城でのいろはを教えてやるとよい」

「委細承知いたしました。両名が面倒、この石川彦五郎がしかと見まするゆえ、殿は戦のことに専心くださいませ」

「うむ、頼んだぞ」

 本多彦次郎と大久保新十郎の身柄を委ねられた石川彦五郎家成は二人の少し前を歩きながら、振り返るたびに優しさを帯びた眼光を向けるのであった。齢三十と若いが、さすがは四児の父といったところである。

 そうして石川彦五郎が少年二人を伴って広間を退出した直後、城門付近から馬の嘶き声に幾重にも重なった人の声が聞こえだす。

「殿」

「おお、与左衛門か。その顔を見るに、敵襲ではなさそうじゃな」

「はい。伊奈城より本多修理亮光忠殿、柏原城より鵜殿長祐殿がそれぞれ手勢を引っ提げて参りました。おそらく、岡崎の危機と思い、急ぎ駆けつけて参ったのでしょう。皆々息を切らしておりまするゆえ、この与左衛門が一存で水を与えておりまする」

「そうであったか。宝飯郡より駆けて参ったのであれば、さぞかし疲れておるであろう。ひとまず、水を与えて休息させてやるがよい。腹も減っておろうで、握り飯も恵んでやるがよい。加えて、本多修理亮と鵜殿長祐の両名にはわしのいる広間へ参るようにも伝えよ」

「ははっ、そういたしまする」

 不用心といえば不用心であるが、高力与左衛門清長という男は慈悲深く寛容であった。ある意味で、大急ぎで救援に駆け付けた者たちを真っ先に対応したのは高力与左衛門で正解であったのかもしれない。

 それはともかく、家康が痺れた足を伸ばす間もなく、本多修理亮と鵜殿長祐の両名は高力与左衛門の案内で広間へとやって来た。両名とも水を飲んで落ち着いてきたのか、高力与左衛門から聞いた話よりも呼吸の乱れは少ない。

「蔵人佐殿、本多修理亮光忠ただいま参上仕りました」

「鵜殿長祐、岡崎が窮地との知らせを受け、手勢を率いて駆けつけた次第!」

「両名とも顔を上げてくだされ。ご両家からの援兵、まことにかたじけない。数多の家臣が離反したこともあり、味方がますます少なっておる中の援軍、家康心より御礼申し上げる」

 上座に控える家康が深々と頭を下げたことに、本多修理亮も鵜殿長祐も慌てて、顔を上げてくれるよう頼みだす。

 そこへ喜色満面の鳥居彦右衛門尉元忠が駆け足で渡り廊下を渡ってくるのが家康の位置からも確認することができた。

「殿!吉報にございまする!」

「やはりそうか。して、吉報とはなんじゃ」

「はっ、先ほど左衛門尉殿より早馬があり、その者が申すには遠州曳馬城主の飯尾豊前守連龍が今川氏真に対して反旗を翻し、戦支度を進めておると!」

「しめた!」

 思いがけない遠州での変事に家康は強く膝を打った。これまで裏切りに次ぐ裏切りで東三河経略どころか、かえって今川氏真がいつ三河へ侵攻してくるかと、苛立ちや不安から眠れぬ夜を過ごして家康にとって、紛れもなく朗報であった。

「蔵人佐殿。飯尾豊前守逆心とは、我らにとっては追い風にございますぞ」

「うむ。以前より左衛門尉に命じて調略に当たらせておったが、今調略が実を結ぶとは思わなんだ」

「なんと、遠江まで調略の手を伸ばしておられたとは、この本多修理亮感服いたしました」

「これで東三河の国衆らも西ばかり向いてもおれなくなり、今川の援軍を恐れる必要もなくなった!西三河の叛乱と一向一揆を一掃するはまさに今ぞ!」

 松平領が叛乱や一向一揆で疲弊するだけならば今川方が圧倒的優位であった。

 しかし、前線の東三河と駿府とを分断するかのように遠江で叛乱が起きたとあっては、今川方の足並みは大いに乱れ、東三河の今川方は松平方と飯尾豊前守が連携して挟撃に動くことを恐れて身動きが取れなくなる。

 その間に家康が成すべきことは東三河や遠江の国衆らの調略は言うまでもないが、上野城の酒井将監忠尚、東条城の吉良義昭、八ツ面城の荒川甲斐守義広、桜井の松平監物家次、大草の松平昌久、幡豆郡寺部城の小笠原広重といった反乱者と一向一揆勢を制圧すること。

 ――天はまだわしを見捨ててはおらなんだか!

 己の武運が尽きたのではないかと思えるほどの苦境に立たされていた家康の心にも希望の炎が灯される。

「よし、彦右衛門尉!」

「ははっ!」

「ただちに植村出羽守のもとへ行き、わしの書状を持って小牧山城の織田上総介殿がもとへ使いせよと伝えて参れ!書状は今よりしたためるゆえ、半刻後に届けさせる。わしからの書状を受け取り次第、ただちに出立できるよう支度を整えておくようにと伝えよ!」

「しょっ、承知いたしました!」

 主君の語気から急ぎの用件だと感じ取った鳥居彦右衛門尉は大急ぎで広間を退出していく。かくして、家康は信長へ援軍要請を入れながら着々と戦支度を進めていくのであった――
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