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しおりを挟むディディアが学園に通えるようになった頃には入寮の手続きは済んでおり、身の回り品は全て配送済みだ。
ファントム侯爵も父親として少しの良心が芽生えたのか、侯爵令息として過ごせるよう衣類など整えてくれたらしい。だからといって今更パパ大好きとはならないが。
清々しい気持ちで屋敷を見上げた。ここに二度と帰るつもりはない。派生スキル【ワープ】の登録箇所であるものの、ディディアはわざわざ消去した。“ファントム侯爵邸”と表示されるのも憎らしい。
「成績は保つように。レイヴン殿とラシェルにも、付き纏うなよ」
「はい。それではさようなら。侯爵閣下」
父親の念を押すような言葉も、これが最後だと思えば気にならない。あばよ、という爽快な気分である。
「ディディア様……、もう、その……ボクは、どうなってもいいですからっ!どうか、レイヴン様には、どうかお近づきになりませんよう!ひえっ……」
最後まで涙を浮かべ、ディディアに懇願するラシェルには辟易する。
このラシェルは、おそらくだが転生者ではない。これまで見た彼の行動から、転生者を匂わせる言動は思い出せなかった。ただ、ゲームの主人公よりも著しく野心が強く、性格が悪いだけだ。
今も、あたかもディディアがラシェルに危害を加えることを前提のように話をしている。しかし、ディディアは一度としてそんなことをしていない。ゲームのディディアとは違うのである。
そして何を言ってもトンデモ解釈をされて泣き出される。そのため、もう何も言わないのがベストだ。舌も頭も、ラシェルのために動かしたくない。
ディディアは『ええ』とだけ機械的に言って、ファントム侯爵家を出たのだった。
『従兄弟を階段から突き落とそうとして自分が落ちた』ということになっているディディアは、久しぶりの登校した姿を遠巻きにされていた。
しかし気にしない。卒業さえできれば友人など不要。
数日。
静かに……普通に過ごしているだけなのに、周囲のヒソヒソは止まらなかった。
かつては休憩時間のたびにレイヴンへ話しかけたり、勝手に追跡したり、ラシェルに絡んだりと騒々しかった自覚はある。かなり迷惑をかけたことだろう。
今のディディアは、徹底的に二人を視界から排除している。
休憩時間は静かに『王都街歩きガイドブック』や『初めての一人暮らし・手続き編』を読み、卒業後を視野に入れて資格の勉強もしていた。主に経営や経理に関するものだ。
こちらの世界はそう言った知識に疎い人間の方が多い。ディディアがゆくゆくは経営者になるのも夢ではなかった。
寮では最も高位貴族となるため、ちょっかいを出す人間もいない。とても快適な生活を謳歌していた。
そんな折に、レイヴンから『話がある』と声をかけられたのだ。
さらりとした銀髪を耳にかけ、ディディアは目の前に佇む男を見た。
いつもディディアを見る目つきは毛虫を見るかのように嫌悪感を滲ませていたが、今は戸惑いの方が強いらしい。思えばディディアから話しかけても、レイヴンから話しかけられることはほとんどなかった。
「………………何か?」
「ここでは話せない。俺について来い」
「婚約が解消されたという連絡は受け取りましたが?それ以外に何か?」
ディディアがそう言うと、教室じゅうがシンと静まった。
少し前に父親から便りがあった。ディディアが有責の婚約破棄は証拠不足のため申請出来ず、早い解決を望んだために『解消』となったことを。
レイヴンはチッと舌打ちをして、乱暴に腕を掴もうとしてくる。それは華麗に避けた。派生スキル【身体強化】で動体視力を上げれば、造作もないこと。
「……いいから!それだけじゃない」
「あぁ、ラシェルと婚約でも結びましたか?おめでとうございます。どうぞお幸せに」
「……はあ、お前は……、せっかく穏便に済ませてやろうと思った俺の配慮を返して欲しい。そうだ、正式にラシェルが俺の婚約者となった。指先一本でも触れたら容赦しない」
「そうですか。望むところです。僕とて触りたくもありません。僕はもう寮に移りましたし、良かったですね?邪魔者が消えて」
人の婚約者を盗むような人間は、頼まれたって関わりたくない。ディディアはそう蔑みを込めて言えば、レイヴンは負けじと嘲笑する。
「はあ?どうだか。今の言葉、覚えておくことだ」
レイヴンはそう言い捨てて、去っていく。その後ろからクラスメイトたちが、『婚約解消、おめでとうございます!』だの、『ようやく真実の愛が実を結びましたね!』と囃し立てている。あの様子では小一時間後には会話の全てが拡散されていそうだ。
それも考慮に入れて、“寮へ入った”ことを大声で話せて聞かせたのだ。
もうファントム侯爵家にいないディディアは、ラシェルに関わるとしても学園にいる間だけ。そう印象づけたかったのだ。
*
レイヴンは困惑していた。
あれだけしつこく監視し、『愛さなければ許さない』とばかりに悪鬼の顔をしてラシェルを罵倒していたディディアが、全く接触してこなくなった。
せいせいしたと思った。ようやく迷惑行為だと気付いたのだと。
可愛らしいラシェルが始終落ち込み、涙を溢すほど、追い詰めたディディア。学園に在籍したままなのも腹立たしく、一刻も早く辞めさせて追放したいが、成績優秀なだけあって証拠を掴ませなかった。悪知恵は働くようだ。
晴れてディディアが復帰して、婚約はつつがなく解消された。常時感じていたあのねっとりした視線は消え失せ、ラシェルと穏やかなひと時を過ごせるようになった。
もう手は出させやしない。あいつは家からも追い出された。
大丈夫なはずなのに、胸の辺りがすうすうとするのは、何故か?
今日もラシェルを家へ送り届けるのに、一緒に馬車へ乗り込む。二人の会話は、あまり弾んでいない。障害が無くなったのだからもっと近づいても良いのに、ラシェルはモジモジするばかりで、レイヴンもどうしていいのか分からない。
(思えば…………ラシェルとの会話のほとんどは、ディディアだったな)
まだ婚約を結んだばかりだ。もう少し慣れたら、この気まずい沈黙もきっと、心地良いものになるのだろう。レイヴンはそう割り切って、目を閉じた。
このところ穏やかな毎日だったから、油断をしていた。レイヴンが目を閉じてすぐ、ラシェルが堰を切ったように泣き出したのだ。
「うっ…………うっ…………」
「ど、どうしたんだラシェル!?」
「い、いえ……っ、なんでも、ないのです……っ」
「まさか、またディディアが……っ!?何をされた!?」
『ディディア』という言葉に、ビクン!と震えた小さな体。可哀想で抱き締めると、ラシェルは健気にも首を横に振った。
「い、いえ……!違うんです。だって……わからなくって…………っ」
ラシェルはそう言うと、鞄をソッと開けた。ズタズタに引き裂かれたノートや教本、折られたペン。その上全ては、泥まみれに汚れている。
「卑劣な……っ!やはり、アイツはまだ……っ」
レイヴンの脳裏にチラリと浮かんだのは、ディディアが静かに読書をする姿だ。
朝も休憩時間も昼休みも、レイヴンはディディアを監視していた。寮から学園、学園から寮までも、下位の令息を使い異常行動を起こしていないか報告させていたのだ。
(一体いつ……?そんな時間は無かったはずだ)
下位貴族の令息は、ディディアは特に寄り道もせず、まっすぐ、ゆったりと、侯爵令息らしい気品で往復しているだけと報告してくれている。
凛と伸ばした背筋に、さらさらの銀髪が揺れているのを、良く見るようになった。整えられた指先でページがそっと捲られるのさえ、どこか艶めかしい。
黙ってさえいれば神々しい容色なのだ。どうして早く、こうなってくれなかったのかと文句を言いたくなるのをどうにか堪えながら、ラシェルへ危害を加えないよう見張っていた。
もうファントム侯爵家という目の届かない場所では、ディディアは何もできないはずだ。だから学園でだけ気を付ければいい。そのはずだった――――。
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