最後の男

深冬 芽以

文字の大きさ
56 / 212
8 アプローチ

しおりを挟む




 二人の視線が交わったことに気がついたのは、俺だけだと思う。




「馬鹿野郎! 何年営業やってるんだ!!」

 二課の平野さんが、溝口課長のデスクの前に立ち、肩を竦めていた。



 だから、どうしてすぐに怒鳴るかな……。



 二課の忙しさには同情する。

 溝口課長は、口は悪いし多少強引だが、成績はトップ。だから、慢性的に忙しく、人手不足。それなのに、女性社員はよく入れ替わり、男性社員も課長の陰に隠れて積極性がない。

 課長は常に三人分の仕事量をこなしている。

 そこに来て、平野さんのミス。

「受注数の桁を間違えるなんて、新人でもやらねーだろ!」

 部内が騒めく。

 平野さんは二課の主任で、大口の得意先を任されているはずだ。

 このミスはかなり痛い。

「すみませんでした!!」と、平野さんは直角に腰を折り、大きな声で謝った。

「お前がいくら謝っても、納品日は変えられないんだよ!」

「すみません!」

「謝るだけなら子供ガキでも出来るんだよ!!」と言って、課長が持っていたファイルをデスクに叩きつけた。

 部内が緊張と静寂に包まれた。



 そういうことをすると――。



 以前、課長が怒鳴り散らした時の堀藤さんの怯えた表情が思い出された。

 ハッとして彼女を見る。

 やはり、ディスプレイで顔を隠すようにして、やり過ごそうとしている。

 コーヒーを頼んで、この場から遠ざけようと口を開いた時、声帯が震える前に彼女がゆっくりと顔を上げた。

 視線の先には、溝口課長。

 謝るしか出来ずにいる平野さんに向かって大きく口を開いた課長が、その口を閉じた。

 堀藤さんの視線に気づいたから。

「とにかく、納品可能数を工場に問い合わせろ」

 いつもならばまだまだ続く怒鳴り声が止んだことに、平野さんが少し拍子抜けしたのがわかった。

 おそらく、ここにいる全員が拍子抜けしただろう。堀藤さんを除いては。

「はい!」

 平野さんは足早にデスクに戻り、受話器を取った。課長も受話器を上げたが、すぐに置いた。

 堀藤さんがデスクの上のカップを手に、席を立つ。

 二分ほどして、課長も。

 気にならないわけがない。

 課長が給湯室に入ったのを確認して、俺も立ち上がった。

 盗み聞きするつもりはなかったが、給湯室の入り口まで行くと聞こえてきた。

「――――飯はいいや」

 課長の足音に、思わずその場を離れ、トイレに入った。



 飯……を作ってもらうような関係なのか――?



 ショックだった。

 三週間ほど前の休日出勤で二人が一緒に帰ったことで、何かあるのだろうとは思っていた。けれど、社内で二人が話しているのも見かけなかったし、俺が気にし過ぎなのだろうと思いかけていた。



 恋人……なのか――?



 彼女に、憧れのような感情を持っていたことは自覚していた。

 落ち着いた大人の女性の、優しさ、温かさに惹かれていた。

 けれど、この瞬間、それが間違いだったとわかった。



 憧れなんかじゃない……。



 俺は、彼女が好きなんだ。

 憧れなんてフワフワしたものじゃなく、彼女に好かれたい、彼女に触れたいと思う、俗物的な感情。



 溝口課長あの人に渡したくない——!



 強く、そう思った。

 けれど、五歳年下の俺が行動を起こすには慎重にならざるを得ない。

 堀藤さんへの恋愛感情を自覚しても、すぐに出来たことと言えば、来週末の送別会に参加できるかを確認するだけ。

「出来れば全員参加してもらいたいんですけど、難しいですか?」

「いえ、大丈夫です。参加します」

 彼女の返事に、心臓がスキップを始めた。
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

小野寺社長のお気に入り

茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。 悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。 ☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。 ☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。

禁断溺愛

流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。

恋愛短編まとめ(現)

よしゆき
恋愛
恋愛小説短編まとめ。 色んな傾向の話がごちゃ混ぜです。 冒頭にあらすじがあります。

体育館倉庫での秘密の恋

狭山雪菜
恋愛
真城香苗は、23歳の新入の国語教諭。 赴任した高校で、生活指導もやっている体育教師の坂下夏樹先生と、恋仲になって… こちらの作品は「小説家になろう」にも掲載されてます。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

サディスティックなプリテンダー

櫻井音衣
恋愛
容姿端麗、頭脳明晰。 6か国語を巧みに操る帰国子女で 所作の美しさから育ちの良さが窺える、 若くして出世した超エリート。 仕事に関しては細かく厳しい、デキる上司。 それなのに 社内でその人はこう呼ばれている。 『この上なく残念な上司』と。

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

処理中です...