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第17話 あなたの愛はもう要らない
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夜の帳が下りたころ、リリアーナは書斎の灯火を細め、ひとり静かにペンを置いた。
机上には王国議会での報告書と、新しい任命書が並んでいる。
すべてが彼女を称える文面だった――「王の特命補佐」、「新制度管理代表」。
かつて“悪女”と呼ばれた令嬢が、今や国の中枢を担う存在になった。
だが、栄光の重みは静かで、どこか痛みを伴っていた。
窓の外を見れば、王都の灯りがゆらぎ、遠くで人々の笑い声がかすかに響く。
その明るさが、かつての自分には眩し過ぎたことを、リリアーナは思い出していた。
あの日、愛されたいがためにすべてを委ね、そして踏みにじられた。
今では、それがすべて遠い夢のようだ。
「お嬢様……また夜までお仕事を。どうかお体をお労りください」
ミリアの声に、リリアーナは微笑んで返す。
「ありがとう、ミリア。でも今夜は早く終わるはずよ。今宵、客が来るわ」
「お客様……ですか?」
「ええ。多分、最後の客」
ミリアは不安を滲ませた。だが主の瞳には揺るぎがない。
そしてその予想通り、扉を叩く音が響いたのはしばらくしてからだった。
「リリアーナ。……少し、話をさせてくれないか」
低く疲れた声。エドモンドのものだった。
ミリアは驚きで目を丸くするが、リリアーナは平然と扉を開けた。
かつての伯爵邸で、彼と初めて出会った時と同じ――けれど、違う。
彼の目の中には、もうあの栄光に満ちた光はなかった。
後悔と懺悔だけが、ひどく人間らしい影を落としていた。
「まさか貴方が、ここへ来るとは思いませんでしたわ」
「罰を受け、全てを失って初めてわかった。……君に会う資格などない。それでも……一度だけ謝りたかった」
リリアーナは静かにソファに腰を下ろし、紅茶を注いだ。
「謝罪なら、三年前にすべきだったわ。あの時の一言があれば、私の人生は違っていたかもしれない」
「本当に……俺は愚かだった」
エドモンドの手が震えていた。
「君を愛していた。でも、その愛を信じきれなかった。周囲の言葉に惑わされ、結果として君を苦しめた」
その“愛していた”という言葉に、胸の奥が少し疼いた。
あの頃の情景が、断片となって蘇る。
春の花の下、彼が笑って差し出した手。
彼の言葉にすべてを賭けた、幼い自分の瞳――だが、それはもう他人の記憶だ。
「もう、その言葉は要りませんわ」
「リリアーナ……」
「愛なんて、あなたのような人が口にすると、傷になってしまうの」
「違う。俺は今でも――」
「言わないで」
強く遮る。彼女の声は氷のように澄んでいた。
「あなたの愛は、私を縛るもの。過去を繰り返すような囁きは、もう必要ない」
「君は……本当に変わったな」
「変わらないと、生き残れなかったのよ」
沈黙が落ちた。
暖炉の中で薪が崩れ、その音がやけに大きく響く。
エドモンドは視線を落とし、絞り出すように言った。
「俺には、何をしても償えないのか……?」
「赦しを望むなら、過去の自分を忘れなさい。罪の影に生き続けるのは、誰のためにもならないわ」
「……君は、本当に強いな」
「違うの。弱さを隠すのが上手になっただけ」
彼の瞳に、涙が滲む。誇り高い男が頭を下げた。
「リリアーナ、どうか……生きて幸せに」
「その願いは受け取るわ。けれど、あなたのいない未来でね」
彼女の言葉は刃のように鋭く、同時に弔いのように優しかった。
エドモンドはしばらく何も言えず、ただ立ち尽くした。
長い沈黙の後、ようやく背を向ける。
「もう二度と、君の前には現れない」
「それが、唯一の償いよ」
扉が閉まり、静寂が戻った。
リリアーナは紅茶を飲み干し、窓を開けた。
夜風が頬を撫でる。
心の奥で、何かが静かにほどけていくような感覚。
怒りではなく、哀しみでもなく――それはまるで鎖が解かれる音。
「これで、本当に終わったのね」
ミリアがそっと部屋に戻ってきた。
「お嬢様……お辛くありませんか?」
「辛い? いいえ、不思議と何も感じないの。長い間閉じていた扉をやっと閉め直しただけ」
「でも……お嬢様、あの方を憎んでいたのに……」
「憎しみって、長く握っていると、いずれ溶けて消えるの。私には、もう掴むものが残っていない」
ミリアが涙ぐみながら頷いた。
リリアーナは立ち上がり、夜空を見上げた。
月が雲間から顔を出し、穏やかな光で部屋を照らす。
ふと、風に乗って花の香りが届いた。
それは、庭の“涙草”の香り。
「ああ……春の終わりね。あの花も、もう散る頃かしら」
「はい。でもまた次の季節に咲きます」
「ええ。人の心も、きっとそう」
そこへ扉を叩く音。
「リリアーナ、もう一度だけ確認しておきたくて」
アランだった。彼の声は慎重で、どこか切ない。
「彼はもう行ったのか?」
「ええ、すべて終わったわ」
「……辛くないのか?」
「辛いという感情も、もう感じないの。きっと、やっと“自由”になったのね」
「君はよくやった。報いを求めずに終わらせるとは、誰にもできないことだ」
「そう言ってくれるのは、あなただけね」
リリアーナは振り向き、月明かりの下で微笑んだ。
その微笑は、これまでのどんな笑顔より柔らかかった。
「もうひとつだけいいか?」
「なに?」
「愛を拒むのが自由なら、誰かに愛されるのもまた救いだと思わないか」
彼女の息が止まった。
アランがゆっくりと歩み寄る。
「俺は君を縛らない。君がどこへ行こうとも見守る。それでも、君の隣にいさせてくれ」
沈黙。
リリアーナは月を見上げ、微かに笑った。
「それなら……あなたの愛は、縛るための偽りじゃないのね」
「誓って違う」
「なら、少しだけ、信じてみるわ」
彼女はそっと目を閉じる。
夜風が二人の間を通り抜け、キャンドルの炎が揺れた。
“復讐”という言葉が、もうこの部屋には存在しない。
ただ静かに、新しい“物語”の始まりが芽吹いていた。
(続く)
机上には王国議会での報告書と、新しい任命書が並んでいる。
すべてが彼女を称える文面だった――「王の特命補佐」、「新制度管理代表」。
かつて“悪女”と呼ばれた令嬢が、今や国の中枢を担う存在になった。
だが、栄光の重みは静かで、どこか痛みを伴っていた。
窓の外を見れば、王都の灯りがゆらぎ、遠くで人々の笑い声がかすかに響く。
その明るさが、かつての自分には眩し過ぎたことを、リリアーナは思い出していた。
あの日、愛されたいがためにすべてを委ね、そして踏みにじられた。
今では、それがすべて遠い夢のようだ。
「お嬢様……また夜までお仕事を。どうかお体をお労りください」
ミリアの声に、リリアーナは微笑んで返す。
「ありがとう、ミリア。でも今夜は早く終わるはずよ。今宵、客が来るわ」
「お客様……ですか?」
「ええ。多分、最後の客」
ミリアは不安を滲ませた。だが主の瞳には揺るぎがない。
そしてその予想通り、扉を叩く音が響いたのはしばらくしてからだった。
「リリアーナ。……少し、話をさせてくれないか」
低く疲れた声。エドモンドのものだった。
ミリアは驚きで目を丸くするが、リリアーナは平然と扉を開けた。
かつての伯爵邸で、彼と初めて出会った時と同じ――けれど、違う。
彼の目の中には、もうあの栄光に満ちた光はなかった。
後悔と懺悔だけが、ひどく人間らしい影を落としていた。
「まさか貴方が、ここへ来るとは思いませんでしたわ」
「罰を受け、全てを失って初めてわかった。……君に会う資格などない。それでも……一度だけ謝りたかった」
リリアーナは静かにソファに腰を下ろし、紅茶を注いだ。
「謝罪なら、三年前にすべきだったわ。あの時の一言があれば、私の人生は違っていたかもしれない」
「本当に……俺は愚かだった」
エドモンドの手が震えていた。
「君を愛していた。でも、その愛を信じきれなかった。周囲の言葉に惑わされ、結果として君を苦しめた」
その“愛していた”という言葉に、胸の奥が少し疼いた。
あの頃の情景が、断片となって蘇る。
春の花の下、彼が笑って差し出した手。
彼の言葉にすべてを賭けた、幼い自分の瞳――だが、それはもう他人の記憶だ。
「もう、その言葉は要りませんわ」
「リリアーナ……」
「愛なんて、あなたのような人が口にすると、傷になってしまうの」
「違う。俺は今でも――」
「言わないで」
強く遮る。彼女の声は氷のように澄んでいた。
「あなたの愛は、私を縛るもの。過去を繰り返すような囁きは、もう必要ない」
「君は……本当に変わったな」
「変わらないと、生き残れなかったのよ」
沈黙が落ちた。
暖炉の中で薪が崩れ、その音がやけに大きく響く。
エドモンドは視線を落とし、絞り出すように言った。
「俺には、何をしても償えないのか……?」
「赦しを望むなら、過去の自分を忘れなさい。罪の影に生き続けるのは、誰のためにもならないわ」
「……君は、本当に強いな」
「違うの。弱さを隠すのが上手になっただけ」
彼の瞳に、涙が滲む。誇り高い男が頭を下げた。
「リリアーナ、どうか……生きて幸せに」
「その願いは受け取るわ。けれど、あなたのいない未来でね」
彼女の言葉は刃のように鋭く、同時に弔いのように優しかった。
エドモンドはしばらく何も言えず、ただ立ち尽くした。
長い沈黙の後、ようやく背を向ける。
「もう二度と、君の前には現れない」
「それが、唯一の償いよ」
扉が閉まり、静寂が戻った。
リリアーナは紅茶を飲み干し、窓を開けた。
夜風が頬を撫でる。
心の奥で、何かが静かにほどけていくような感覚。
怒りではなく、哀しみでもなく――それはまるで鎖が解かれる音。
「これで、本当に終わったのね」
ミリアがそっと部屋に戻ってきた。
「お嬢様……お辛くありませんか?」
「辛い? いいえ、不思議と何も感じないの。長い間閉じていた扉をやっと閉め直しただけ」
「でも……お嬢様、あの方を憎んでいたのに……」
「憎しみって、長く握っていると、いずれ溶けて消えるの。私には、もう掴むものが残っていない」
ミリアが涙ぐみながら頷いた。
リリアーナは立ち上がり、夜空を見上げた。
月が雲間から顔を出し、穏やかな光で部屋を照らす。
ふと、風に乗って花の香りが届いた。
それは、庭の“涙草”の香り。
「ああ……春の終わりね。あの花も、もう散る頃かしら」
「はい。でもまた次の季節に咲きます」
「ええ。人の心も、きっとそう」
そこへ扉を叩く音。
「リリアーナ、もう一度だけ確認しておきたくて」
アランだった。彼の声は慎重で、どこか切ない。
「彼はもう行ったのか?」
「ええ、すべて終わったわ」
「……辛くないのか?」
「辛いという感情も、もう感じないの。きっと、やっと“自由”になったのね」
「君はよくやった。報いを求めずに終わらせるとは、誰にもできないことだ」
「そう言ってくれるのは、あなただけね」
リリアーナは振り向き、月明かりの下で微笑んだ。
その微笑は、これまでのどんな笑顔より柔らかかった。
「もうひとつだけいいか?」
「なに?」
「愛を拒むのが自由なら、誰かに愛されるのもまた救いだと思わないか」
彼女の息が止まった。
アランがゆっくりと歩み寄る。
「俺は君を縛らない。君がどこへ行こうとも見守る。それでも、君の隣にいさせてくれ」
沈黙。
リリアーナは月を見上げ、微かに笑った。
「それなら……あなたの愛は、縛るための偽りじゃないのね」
「誓って違う」
「なら、少しだけ、信じてみるわ」
彼女はそっと目を閉じる。
夜風が二人の間を通り抜け、キャンドルの炎が揺れた。
“復讐”という言葉が、もうこの部屋には存在しない。
ただ静かに、新しい“物語”の始まりが芽吹いていた。
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