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第1話 婚約破棄の宣告
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王都の中心にある大理石の大広間は、初夏の朝だというのに冷たい空気に包まれていた。天井のシャンデリアから降り注ぐ光が、磨き上げられた床に反射してまぶしい。けれどその輝きは、今のレティシア・グランベルの心に一片の暖かさももたらさなかった。
王太子エドワード・クラウン。レティシアの婚約者であり、幼い頃から共に学び、未来を誓い合った相手。その口から放たれた一言が、彼女の人生を粉々に砕いた。
「レティシア・グランベル。お前との婚約を破棄する。」
その瞬間、大広間にざわめきが走った。出席していた貴族たちの間から低い囁き声が起こり、誰もが信じられないという顔で二人を見つめていた。
レティシアは、崩れ落ちそうになる膝を必死にこらえた。唇が乾き、声が出ない。何度も聞き間違いであってほしいと思いながら、震える声を絞り出す。
「……今、なんと仰いましたの?」
「何度も言わせるな。」エドワードの声音は冷ややかだった。「お前は伯爵令嬢ミリア・ハートリィを虐げ、学園内で彼女の名誉を傷つけた。それを王家の婚約者として看過することはできない。」
その言葉にレティシアの胸が締めつけられた。ミリア。穏やかで控えめな少女として知られているが、レティシアの目の前では違った。密かに人の弱みを握り、笑顔の裏で他人を利用する、狡猾な女。だがそんなことをここで言っても誰も信じないことを、レティシアはもう知っていた。
「そんな……それは誤解ですわ。わたくしは彼女に何も——」
「証言も証拠も揃っている。」エドワードは食い気味に遮った。「お前が彼女を侮辱する場面を見た者もいる。お前の令嬢としての品位は、もはや婚約者として相応しくない。」
膝が震える。手袋に包んだ指先が冷たくなり、心臓の鼓動が遠ざかっていく。まるで夢の中にいるようだった。昨日までは確かにあった未来が、いま粉々に崩れ去っていく。その様子を、大広間の人々は面白そうに、あるいは同情を装って見つめている。
「そ、そんなはずありません。殿下、どうかお考え直しを……」
「もう遅い。」エドワードは彼女に背を向けながら言った。「明日付けでこの件は正式に布告される。グランベル家にも通達は済ませてある。」
「……父にも?」
「もちろんだ。」
レティシアの瞳から色が消えた。自分の父が——この婚約にどれほどの誇りを抱き、どれほど夢を託していたかを思うと、恐怖で体が動かなくなった。父は王家との縁を何よりの栄誉としており、それを失うことは家名の汚点になる。娘の名誉よりも、体裁を取るに決まっている。
「では、私は……」
「本日限りで王宮から退去せよ。」エドワードは冷たく言い放った。その視線には、かつての優しさも迷いもなかった。隣に立つミリアが、同情を装った柔らかい笑みを浮かべ、彼の腕にそっと触れる。
「レティシア様、ごめんなさい……。きっと誤解なのかもしれませんわ。でも、殿下の決断を否定するのは……」
その声音には、勝ち誇った響きがあった。レティシアは唇を噛みしめ、背筋を伸ばした。こんな場で泣いてはならない。絶対に、彼女たちの思う通りにはならない。
「……承知いたしました。」わずかに震える声でレティシアは応えた。「殿下のご判断を、謹んでお受けいたします。」
その瞬間、ざわめきが再び広がった。誰もが驚いたのだろう。誇り高い令嬢が、涙も見せずに退場を告げたのだから。だがレティシアの胸の奥では、何かが静かに砕け散っていった。
大広間を出た瞬間、彼女はようやく深く息を吐いた。吐息が喉を刺すほど熱い。こみ上げる涙を堪えながら、長い廊下を歩く。絹の裾が擦れる音だけが響く中、頭の中では同じ言葉が繰り返されていた。
——終わった。
部屋に戻ると、荷物はすでにまとめられていた。王宮の侍女たちは、彼女を見ることもなく礼儀的に頭を下げ、そそくさと去っていく。誰も味方はいないのだと、静かに思い知らされた。
窓の外には、朝日が昇り切っていた。かつては美しいと感じたこの景色も、今は別れを告げる世界にしか見えない。ドレスの裾を握りしめ、レティシアは小さく呟いた。
「どうして……こうなってしまったの……」
涙が頬を伝い落ちた。けれど泣いていられる時間はなかった。父に会わなければならない。どんな叱責が待っているか、想像するだけで足がすくむ。それでも行かなければならない。
王城を出ると、すでに馬車が用意されていた。王家の紋章を外された彼女専用の馬車。哀れな元婚約者を運ぶためだけの車両に乗り込み、扉が閉まると同時に、全ての音が遠ざかった。
車窓の外、通り過ぎる街の人々が笑い合っている。自分だけが別の世界に取り残されたような錯覚。だが、もう戻る場所はない。父の館を思い浮かべ、胸が締め付けられる。
────
グランベル侯爵邸に足を踏み入れた瞬間、冷たい視線が突き刺さった。玄関先で迎えた父エドモンドが、怒気を押し殺した声で言った。
「よく戻ったな。」
「父上……お話を。どうかお聞きください。わたくしは何も——」
「黙れ!」低く鋭い声が響いた。年老いた執事ですら顔を上げられないほどの怒りだった。「お前がどんな真実を並べようと、結果は変わらん。王家の信頼を失った娘など、グランベル家には不要だ!」
胸の奥で何かが裂けたように痛んだ。父は彼女を見ていなかった。家の評判と損失だけを見ている。幼い頃、優しく微笑んでくれた面影はどこにもなかった。
「あなたを王家に嫁がせるために、どれほどの代償を払ったと思っている! それを一夜にして台無しにしたのだぞ!」
「でも父上、わたくしは何もしておりません! ミリア嬢の策略に——」
「言い訳するな! 恥を知れ、レティシア! これ以上我が家に災いをもたらす前に、今夜中に荷をまとめて出ていけ。」
その言葉に、レティシアは息を失った。母は遠くの階段上から目を逸らし、兄も沈黙を守った。誰も彼女の肩を抱いてはくれなかった。全てが終わったのだ。
その夜、涙はもう出なかった。
孤独と悔しさと、どうしようもない喪失感が胸に広がる。暖炉の火が小さく揺れ、心に刺さる。
——どうして、誰も信じてくれないのだろう。
だからこそレティシアは、決意した。
このまま消え去るように生きるのではなく、自分の手で何かを掴み直すと。いつか、あの人たちが間違いを後悔するその日まで。
屋敷を追われ、冷たい夜風の中に立ち尽くしていたレティシアの前に、一台の馬車が止まった。銀の紋章が月光に反射してきらりと光る。その扉が静かに開き、低い声が響いた。
「……行き場がないようだな。グランベル令嬢。」
顔を上げると、漆黒のコートを纏った一人の男性が立っていた。氷のように澄んだ青い瞳。誰もが恐れるほど冷徹なことで知られる、公爵アラン・ルミナスだった。
「少し話がある。お前に、提案したいことがある。」
風が吹き抜け、レティシアの金の髪が揺れた。運命の歯車が静かに動き出す音が、確かに聞こえた気がした。
続く
王太子エドワード・クラウン。レティシアの婚約者であり、幼い頃から共に学び、未来を誓い合った相手。その口から放たれた一言が、彼女の人生を粉々に砕いた。
「レティシア・グランベル。お前との婚約を破棄する。」
その瞬間、大広間にざわめきが走った。出席していた貴族たちの間から低い囁き声が起こり、誰もが信じられないという顔で二人を見つめていた。
レティシアは、崩れ落ちそうになる膝を必死にこらえた。唇が乾き、声が出ない。何度も聞き間違いであってほしいと思いながら、震える声を絞り出す。
「……今、なんと仰いましたの?」
「何度も言わせるな。」エドワードの声音は冷ややかだった。「お前は伯爵令嬢ミリア・ハートリィを虐げ、学園内で彼女の名誉を傷つけた。それを王家の婚約者として看過することはできない。」
その言葉にレティシアの胸が締めつけられた。ミリア。穏やかで控えめな少女として知られているが、レティシアの目の前では違った。密かに人の弱みを握り、笑顔の裏で他人を利用する、狡猾な女。だがそんなことをここで言っても誰も信じないことを、レティシアはもう知っていた。
「そんな……それは誤解ですわ。わたくしは彼女に何も——」
「証言も証拠も揃っている。」エドワードは食い気味に遮った。「お前が彼女を侮辱する場面を見た者もいる。お前の令嬢としての品位は、もはや婚約者として相応しくない。」
膝が震える。手袋に包んだ指先が冷たくなり、心臓の鼓動が遠ざかっていく。まるで夢の中にいるようだった。昨日までは確かにあった未来が、いま粉々に崩れ去っていく。その様子を、大広間の人々は面白そうに、あるいは同情を装って見つめている。
「そ、そんなはずありません。殿下、どうかお考え直しを……」
「もう遅い。」エドワードは彼女に背を向けながら言った。「明日付けでこの件は正式に布告される。グランベル家にも通達は済ませてある。」
「……父にも?」
「もちろんだ。」
レティシアの瞳から色が消えた。自分の父が——この婚約にどれほどの誇りを抱き、どれほど夢を託していたかを思うと、恐怖で体が動かなくなった。父は王家との縁を何よりの栄誉としており、それを失うことは家名の汚点になる。娘の名誉よりも、体裁を取るに決まっている。
「では、私は……」
「本日限りで王宮から退去せよ。」エドワードは冷たく言い放った。その視線には、かつての優しさも迷いもなかった。隣に立つミリアが、同情を装った柔らかい笑みを浮かべ、彼の腕にそっと触れる。
「レティシア様、ごめんなさい……。きっと誤解なのかもしれませんわ。でも、殿下の決断を否定するのは……」
その声音には、勝ち誇った響きがあった。レティシアは唇を噛みしめ、背筋を伸ばした。こんな場で泣いてはならない。絶対に、彼女たちの思う通りにはならない。
「……承知いたしました。」わずかに震える声でレティシアは応えた。「殿下のご判断を、謹んでお受けいたします。」
その瞬間、ざわめきが再び広がった。誰もが驚いたのだろう。誇り高い令嬢が、涙も見せずに退場を告げたのだから。だがレティシアの胸の奥では、何かが静かに砕け散っていった。
大広間を出た瞬間、彼女はようやく深く息を吐いた。吐息が喉を刺すほど熱い。こみ上げる涙を堪えながら、長い廊下を歩く。絹の裾が擦れる音だけが響く中、頭の中では同じ言葉が繰り返されていた。
——終わった。
部屋に戻ると、荷物はすでにまとめられていた。王宮の侍女たちは、彼女を見ることもなく礼儀的に頭を下げ、そそくさと去っていく。誰も味方はいないのだと、静かに思い知らされた。
窓の外には、朝日が昇り切っていた。かつては美しいと感じたこの景色も、今は別れを告げる世界にしか見えない。ドレスの裾を握りしめ、レティシアは小さく呟いた。
「どうして……こうなってしまったの……」
涙が頬を伝い落ちた。けれど泣いていられる時間はなかった。父に会わなければならない。どんな叱責が待っているか、想像するだけで足がすくむ。それでも行かなければならない。
王城を出ると、すでに馬車が用意されていた。王家の紋章を外された彼女専用の馬車。哀れな元婚約者を運ぶためだけの車両に乗り込み、扉が閉まると同時に、全ての音が遠ざかった。
車窓の外、通り過ぎる街の人々が笑い合っている。自分だけが別の世界に取り残されたような錯覚。だが、もう戻る場所はない。父の館を思い浮かべ、胸が締め付けられる。
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「よく戻ったな。」
「父上……お話を。どうかお聞きください。わたくしは何も——」
「黙れ!」低く鋭い声が響いた。年老いた執事ですら顔を上げられないほどの怒りだった。「お前がどんな真実を並べようと、結果は変わらん。王家の信頼を失った娘など、グランベル家には不要だ!」
胸の奥で何かが裂けたように痛んだ。父は彼女を見ていなかった。家の評判と損失だけを見ている。幼い頃、優しく微笑んでくれた面影はどこにもなかった。
「あなたを王家に嫁がせるために、どれほどの代償を払ったと思っている! それを一夜にして台無しにしたのだぞ!」
「でも父上、わたくしは何もしておりません! ミリア嬢の策略に——」
「言い訳するな! 恥を知れ、レティシア! これ以上我が家に災いをもたらす前に、今夜中に荷をまとめて出ていけ。」
その言葉に、レティシアは息を失った。母は遠くの階段上から目を逸らし、兄も沈黙を守った。誰も彼女の肩を抱いてはくれなかった。全てが終わったのだ。
その夜、涙はもう出なかった。
孤独と悔しさと、どうしようもない喪失感が胸に広がる。暖炉の火が小さく揺れ、心に刺さる。
——どうして、誰も信じてくれないのだろう。
だからこそレティシアは、決意した。
このまま消え去るように生きるのではなく、自分の手で何かを掴み直すと。いつか、あの人たちが間違いを後悔するその日まで。
屋敷を追われ、冷たい夜風の中に立ち尽くしていたレティシアの前に、一台の馬車が止まった。銀の紋章が月光に反射してきらりと光る。その扉が静かに開き、低い声が響いた。
「……行き場がないようだな。グランベル令嬢。」
顔を上げると、漆黒のコートを纏った一人の男性が立っていた。氷のように澄んだ青い瞳。誰もが恐れるほど冷徹なことで知られる、公爵アラン・ルミナスだった。
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続く
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※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。
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