婚約破棄された令嬢は氷の公爵に拾われ、気づけば溺愛されていました~見下してきたあなた、後悔してももう遅いわ~

exdonuts

文字の大きさ
2 / 4

第2話 絶望の夜と一輪の花

しおりを挟む
王都の外れ、街灯がほとんど届かぬ石畳の道を、レティシアは一歩ずつ歩いていた。足元の泥に裾が濡れ、それでもかまわなかった。つい数時間前まで、彼女は王太子の婚約者として人々に祝福される存在だった。それがいまでは、誰にも頼ることのできない孤独な女。泣きたいほど現実離れしていたが、涙はもう乾いて出てこなかった。

生暖かい夜風が髪を撫でていく。通りの角では飲み屋の明かりがまだ灯っているが、貴族の令嬢がそんな場所に足を踏み入れるわけにもいかない。屋敷は追われ、所持金も侍女に預けられたまま。唯一の荷物は小さなハンドバッグと、指にはめていた婚約指輪だけ。

その指輪を見つめて、レティシアはかすかに笑った。輝きはまだ失われていないが、その輝きを誇りに思える理由はもうなかった。震える指で静かに外し、近くの噴水の中へと投げ入れた。石の底に落ちていく金色の軌跡が、一瞬だけ夜空に反射して消えた。

「……さようなら。」

小さな呟きが風に溶けた。  
婚約破棄された令嬢に未来などない。  
家族にも突き放され、友人たちは皆沈黙を守った。王家に逆らうような真似をした者がどうなるか、皆知っているのだろう。裏切りではない。ただ、現実という名の冷たい選択。

——行くあてもない。

視線の先に立っている馬車。その扉を開けて待っているのは、漆黒のマントを肩に掛けた男。月光を背負って立つその姿が異様に美しく、どこか現実味がなかった。

「……あなたが、あの……公爵アラン・ルミナス様、でいらっしゃいますか?」

かろうじて声を出すと、男は一つ頷いた。その瞳はまるで氷のように冷たい光を湛えているのに、不思議と恐ろしさよりも安心感を覚えた。理由は分からない。

「話があると言われましたが……」

アランは短く息を吸い、静かに言った。「このままでは行く場所がないだろう。だから、うちへ来い。」

「え……?」

冷静な口調にレティシアは耳を疑った。今夜だけ泊めてくれるという意味なのか、それとも……。  
「なぜ、わたくしを?」

「お前が王太子に冤罪を着せられたことは、すでにいくつかの口から聞いている。真偽を確かめたい。そして、俺が求めるものと、お前が失ったものは、案外よく似ている気がしてな。」

彼の言葉の意味をすぐに理解することはできなかった。それでも、目の前の差し伸べられた手は確かな救いだった。これ以上、孤独に夜を彷徨うことはもう無理だと思った。

揺れるランプの灯を見つめながら、レティシアは静かに頷いた。「……お世話になります。」

アランが頷くと、軽く手を上げる。その仕草に従って馬車の扉が開かれた。中は深い青のビロード張りで、想像以上に温かい。車輪が動き出すと、王都の明かりが遠ざかっていった。

────

どれほど走っただろう。窓の外には森が広がり、やがて遠くに白い城館の影が見えてきた。月光を受けて輝くその館は、静謐で、まるで雪の宮殿のようだった。

「ここがルミナス公爵領、ですのね……」

「そうだ。」アランは短く答えた。「王都から離れている分、噂や監視の類いもない。お前のことを知る者もほとんどいない。」

馬車がゆるやかに止まると、館の玄関前には年配の執事が出迎えていた。白髪の美しい老人で、見るからに人格者の佇まいをしている。彼はアランに一礼すると、レティシアに目を向けた。

「お客様でございますか?」

「そうだ。今夜からこの館に滞在してもらう。部屋を用意しろ。」

「かしこまりました、公爵様。」

執事の落ち着いた声に、レティシアの胸が少しだけ緩んだ。だが、同時に新しい不安も芽生える。貴族の館で身寄りもない令嬢が保護されるなど、世間が知ればすぐに噂となる。ましてや相手が“氷の公爵”と呼ばれる男なら、なおさらだ。

「どうして私をここに……?」

扉の前で立ち止まったまま問うと、アランは振り返らずに答えた。「理由が気になるか。……お前の瞳に、まだ光が残っていた。それを見捨てるほど、俺は冷たくはない。」

その言葉に、胸の奥が震えた。これまで誰にも、そんなふうに言葉をかけられたことがなかった。けれど彼の横顔は変わらず冷ややかで、感情を読ませない。

与えられた部屋は思いのほか広かった。淡い青のカーテン、白い寝台、窓際には花瓶に一輪の白百合。まるで心の傷を癒すような静けさがそこにあった。

「お休みくださいませ、レティシア様。」  
執事が恭しく頭を下げた。「食事は明朝お運びいたします。ご安心ください。」

扉が閉じられ、室内に静寂が戻る。レティシアはベッドに腰を下ろし、震える手でスカートの裾を握った。  
ようやく、涙がこぼれた。

もう誰も見ていない。  
強くあろうと張りつめていた糸が、静かにほどけていく。王宮での屈辱、父の怒声、そして未来を失った痛み。そのすべてが波のように押し寄せ、胸を締めつけた。

泣き疲れて顔を上げると、窓の外に月が沈みかけていた。白い花瓶の百合が、淡い光を受けて揺れている。  
「あの花も、アラン様が……?」  
ふとそう呟いた。名も知らぬ冷徹な公爵が、果たして花など愛でる人なのか。けれどその香りは、確かに優しかった。

——優しさを信じてはいけない。  
そう心のどこかで警鐘を鳴らす声がした。これまで何度も裏切られてきたから。だが、あの瞳。その奥に宿った淡い光を思うと、どうしても完全に疑うことができなかった。

気づけば、眠りに落ちていた。夢の中で、誰かが白いマントをふわりとかけてくれる感触を覚えた。それが幻ではなく現実であったことを、翌朝の朝日が告げていた。

────翌朝。  
窓を開けると清々しい風が流れ込んだ。目を覚ますと、枕元に一通の封筒が置かれている。美しい筆致で「レティシアへ」と書かれていた。震える手で開くと、中には短い手紙が入っていた。

『朝食の用意ができている。俺の部屋まで来い。話をしよう。  
アラン・ルミナス』

字の一つひとつが冷たいのに、その冷たさに不思議な温度があった。レティシアは深呼吸して立ち上がる。  
破滅したと思っていた自分に、再び“朝”が訪れるとは思わなかった。

鏡の前で髪を整える。涙の跡が少し残っているが、表情は昨日よりも強くなっていた。胸の奥に小さな灯が灯っている。  
──また生きていけるかもしれない。

白百合の香りが部屋中に広がる中、レティシアは初めて、自らの足で扉を開けた。  
その先に待っているのが運命か、それとも試練かはまだわからない。だが、一つだけ確かなのは、昨夜の絶望はもう過去になろうとしていることだった。

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冬薔薇の謀りごと

ono
恋愛
シャルロッテは婚約者である王太子サイモンから謝罪を受ける。 サイモンは平民のパン職人の娘ミーテと恋に落ち、シャルロッテとの婚約破棄を望んだのだった。 そしてシャルロッテは彼の話を聞いて「誰も傷つかない完璧な婚約破棄」を実現するために協力を申し出る。 冷徹で有能なジェレミア公爵やミーテも巻き込み、それぞれが幸せを掴むまで。 ざまぁ・断罪はありません。すっきりハッピーエンドです。

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

悪役令嬢の涙

拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

婚約破棄されたので、ミドリアイランドの住人を買収して国を統合します

常野夏子
恋愛
婚約破棄——それは、リリアーナ・ヴァルディスから 「王子の婚約者」という肩書きを奪った。 だが同時に、彼女を縛っていたすべての“正しさ”を解き放つ。 追い出されるように向かった辺境の地、ミドリアイランド。 そこは王国から見捨てられ、 しかし誰の支配にも完全には屈していない、曖昧な土地だった。

王子様への置き手紙

あおた卵
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯

元婚約者からの嫌がらせでわたくしと結婚させられた彼が、ざまぁしたら優しくなりました。ですが新婚時代に受けた扱いを忘れてはおりませんよ?

3333(トリささみ)
恋愛
貴族令嬢だが自他ともに認める醜女のマルフィナは、あるとき王命により結婚することになった。 相手は王女エンジェに婚約破棄をされたことで有名な、若き公爵テオバルト。 あまりにも不釣り合いなその結婚は、エンジェによるテオバルトへの嫌がらせだった。 それを知ったマルフィナはテオバルトに同情し、少しでも彼が報われるよう努力する。 だがテオバルトはそんなマルフィナを、徹底的に冷たくあしらった。 その後あるキッカケで美しくなったマルフィナによりエンジェは自滅。 その日からテオバルトは手のひらを返したように優しくなる。 だがマルフィナが新婚時代に受けた仕打ちを、忘れることはなかった。

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

処理中です...