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第1話 運命の糸が切れた日
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夜会のホールには、華やかな光が溢れていた。
幾重にも連なるシャンデリアの光が貴族たちのドレスや宝石に反射し、そのきらめきがまるで星々のように宙を漂っている。
会場に響く優雅な弦楽の調べのなかで、リディア・フェルナンドは微笑を浮かべていた。完璧な令嬢として、誰にも弱さを見せてはいけないと幼い頃から叩き込まれてきたからだ。
淡い桜色のドレスが、細やかに縫い込まれた刺繍とともに彼女の動きにあわせて揺れる。姿勢を崩さず、ただ淡々と社交辞令を繰り返す。内心は少しも楽しくない。それでも、婚約者であるアルベルト・クロフォードが隣にいる限り、彼女の笑顔は“幸せそう”に見えた。
――少なくとも、今まではそうだった。
「リディア」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
優しげな笑みを浮かべたアルベルトが、わずかに視線をずらして言葉を続けた。
「少し、話があるんだ。ここでは人の目が多い。外の庭に出よう」
彼の声音に、どこか冷たさが混じっている気がした。
一瞬の違和感に、リディアは胸を締めつけられる。それでも、拒む理由はなかった。彼は婚約者。愛する人。未来を共に歩むと信じてきた相手だ。
庭へ出ると、夜風が二人の頬を撫でた。冷たく、冬の匂いがした。
人影のないテラスに出た瞬間、アルベルトの表情が少しずつ固くなっていく。
笑顔を張り付けるようにしていた彼が、ため息を吐いた。
「リディア。……すまない」
「……どういう意味?」
「婚約を、破棄させてほしい」
その瞬間、世界が音を失った気がした。
頭の奥が真っ白になり、何を言われたのか理解できない。
唇が震える。笑おうとしたが、声にならなかった。
「……冗談?」
「冗談じゃない。君は立派な令嬢だ。誰からも称賛される女性だ。でも……僕には、もう別の人がいる」
ひゅう、と夜風が吹き抜けた。
アルベルトが視線を落とす。その目は罪悪感と決意で濁っていた。
「……名前を聞いても?」
「マリアンヌ・ロゼッタ嬢だ」
その名を聞いた瞬間、リディアの胸に痛みが走った。
マリアンヌ。学院時代からの友人だ。明るく、誰からも愛され、彼女もまたリディアを“親友”と呼んでくれていた。
「マリアンヌは……あなたのことをずっと?」
「僕が惹かれたのは、最近だ。彼女は純粋で……君とは違って、誰に対しても優しい」
“君とは違って”。
その一言に、リディアの中で何かがはっきりと音を立てて崩れた。
「つまり、私は優しくなかったと?」
「君は完璧すぎるんだよ。息が詰まる。隙がなくて、傍にいても安らげない。だから……もう終わりにしたい」
言葉が凍りつく。
“完璧”と褒められるたびに、努力を積み重ねることしかできなかった。
愛されたいからこそ、彼の理想に近づこうと必死だった。それが、苦しめていたのだと――今、告げられた。
リディアは静かに息を吸い、微笑を作った。
涙は見せない。それが令嬢としての矜持。
「わかりました。……婚約を破棄します」
アルベルトが驚いたように目を見開いた。
彼女が泣き崩れるとでも思っていたのかもしれない。
「……すまない。本当に君を尊敬している」
その言葉に、リディアは小さく首を振った。
「その言葉、いりません。尊敬より、愛がほしかった」
彼女は背を向け、夜の庭を歩き出した。
冷たい風が頬を刺す。涙が一粒、静かに零れた。
* * *
屋敷に戻る馬車のなか、リディアは窓の外を見つめていた。
街の灯りがにじむ。遠くで笑う人々の声が、まるで別の世界の音のように遠く感じられた。
婚約破棄。社交界では一大スキャンダルになるだろう。
彼が誰と結ばれるのか、明日には噂が広まっているに違いない。
でも、不思議と恐ろしくはなかった。
心の奥には静かな痛みとともに、妙な冷静さがあった。
――泣くのは今日だけでいい。
その夜、鏡の前でドレスを脱ぎ、乱れた髪をほどいた。
美しく整えられていた黒髪が肩を流れ落ち、彼女の横顔を覆う。
薄明かりの中で、赤い瞳が揺れた。
「もう、終わり。今の私とは、さよなら」
リディアは小さく呟き、胸元の宝石を外した。
それは彼――アルベルトが初めて贈ってくれたものだった。
宝石が床に落ち、鈍い音をたてる。
「もう二度と、誰にも壊されない。私は私のために生きる」
そう誓った瞬間、胸の奥に小さな炎が灯った。
失ったものは大きい。けれど、それ以上に、この痛みが彼女を強くする。
どんなざわめきも、どんな噂も、もう怖くない。
翌朝、夜明けとともにリディアは旅立った。
すべての未練を断ち切るように、馬車は王都を離れていく。
彼女が再び都に戻るのは、半年後。
そしてそのとき、社交界の誰もが彼女を見る目を変えることになる――
あの夜、彼女を“放棄した”男ですら。
続く
幾重にも連なるシャンデリアの光が貴族たちのドレスや宝石に反射し、そのきらめきがまるで星々のように宙を漂っている。
会場に響く優雅な弦楽の調べのなかで、リディア・フェルナンドは微笑を浮かべていた。完璧な令嬢として、誰にも弱さを見せてはいけないと幼い頃から叩き込まれてきたからだ。
淡い桜色のドレスが、細やかに縫い込まれた刺繍とともに彼女の動きにあわせて揺れる。姿勢を崩さず、ただ淡々と社交辞令を繰り返す。内心は少しも楽しくない。それでも、婚約者であるアルベルト・クロフォードが隣にいる限り、彼女の笑顔は“幸せそう”に見えた。
――少なくとも、今まではそうだった。
「リディア」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
優しげな笑みを浮かべたアルベルトが、わずかに視線をずらして言葉を続けた。
「少し、話があるんだ。ここでは人の目が多い。外の庭に出よう」
彼の声音に、どこか冷たさが混じっている気がした。
一瞬の違和感に、リディアは胸を締めつけられる。それでも、拒む理由はなかった。彼は婚約者。愛する人。未来を共に歩むと信じてきた相手だ。
庭へ出ると、夜風が二人の頬を撫でた。冷たく、冬の匂いがした。
人影のないテラスに出た瞬間、アルベルトの表情が少しずつ固くなっていく。
笑顔を張り付けるようにしていた彼が、ため息を吐いた。
「リディア。……すまない」
「……どういう意味?」
「婚約を、破棄させてほしい」
その瞬間、世界が音を失った気がした。
頭の奥が真っ白になり、何を言われたのか理解できない。
唇が震える。笑おうとしたが、声にならなかった。
「……冗談?」
「冗談じゃない。君は立派な令嬢だ。誰からも称賛される女性だ。でも……僕には、もう別の人がいる」
ひゅう、と夜風が吹き抜けた。
アルベルトが視線を落とす。その目は罪悪感と決意で濁っていた。
「……名前を聞いても?」
「マリアンヌ・ロゼッタ嬢だ」
その名を聞いた瞬間、リディアの胸に痛みが走った。
マリアンヌ。学院時代からの友人だ。明るく、誰からも愛され、彼女もまたリディアを“親友”と呼んでくれていた。
「マリアンヌは……あなたのことをずっと?」
「僕が惹かれたのは、最近だ。彼女は純粋で……君とは違って、誰に対しても優しい」
“君とは違って”。
その一言に、リディアの中で何かがはっきりと音を立てて崩れた。
「つまり、私は優しくなかったと?」
「君は完璧すぎるんだよ。息が詰まる。隙がなくて、傍にいても安らげない。だから……もう終わりにしたい」
言葉が凍りつく。
“完璧”と褒められるたびに、努力を積み重ねることしかできなかった。
愛されたいからこそ、彼の理想に近づこうと必死だった。それが、苦しめていたのだと――今、告げられた。
リディアは静かに息を吸い、微笑を作った。
涙は見せない。それが令嬢としての矜持。
「わかりました。……婚約を破棄します」
アルベルトが驚いたように目を見開いた。
彼女が泣き崩れるとでも思っていたのかもしれない。
「……すまない。本当に君を尊敬している」
その言葉に、リディアは小さく首を振った。
「その言葉、いりません。尊敬より、愛がほしかった」
彼女は背を向け、夜の庭を歩き出した。
冷たい風が頬を刺す。涙が一粒、静かに零れた。
* * *
屋敷に戻る馬車のなか、リディアは窓の外を見つめていた。
街の灯りがにじむ。遠くで笑う人々の声が、まるで別の世界の音のように遠く感じられた。
婚約破棄。社交界では一大スキャンダルになるだろう。
彼が誰と結ばれるのか、明日には噂が広まっているに違いない。
でも、不思議と恐ろしくはなかった。
心の奥には静かな痛みとともに、妙な冷静さがあった。
――泣くのは今日だけでいい。
その夜、鏡の前でドレスを脱ぎ、乱れた髪をほどいた。
美しく整えられていた黒髪が肩を流れ落ち、彼女の横顔を覆う。
薄明かりの中で、赤い瞳が揺れた。
「もう、終わり。今の私とは、さよなら」
リディアは小さく呟き、胸元の宝石を外した。
それは彼――アルベルトが初めて贈ってくれたものだった。
宝石が床に落ち、鈍い音をたてる。
「もう二度と、誰にも壊されない。私は私のために生きる」
そう誓った瞬間、胸の奥に小さな炎が灯った。
失ったものは大きい。けれど、それ以上に、この痛みが彼女を強くする。
どんなざわめきも、どんな噂も、もう怖くない。
翌朝、夜明けとともにリディアは旅立った。
すべての未練を断ち切るように、馬車は王都を離れていく。
彼女が再び都に戻るのは、半年後。
そしてそのとき、社交界の誰もが彼女を見る目を変えることになる――
あの夜、彼女を“放棄した”男ですら。
続く
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