小さな国だった物語~

よち

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【48.守りたいもの】

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トゥーラの城内。外周と居住区とを隔てる空間。

北西の守備線をスモレンスクの副将ブランヒルに突破されると、兵隊長ルーベンの悲痛な叫び声が、トゥーラの重臣ラッセルの鼓膜へと届いた。

ラッセルが走りながら後ろを振り向くと、甲冑を身に纏い、見るからに屈強そうな槍を持った一人の兵士が、鬼のような形相で迫ってくるのが目に入った。

「ひぃぃ」

追いつかれたら、命は無い。
慣れない鎧兜から覗く狭い視界の中、ラッセルは必死に走った。
次の十字路を左に曲がり、北の城壁を視界に入れたら、味方の兵士が居る筈だ――

(え?)

だが、ラッセルの足が思わず鈍った。
視線の先に、大地に膝をついて小さな子供を抱えている、女性の姿が飛び込んできたのだ。

「は、早く中に!」
「は、はい…」

ラッセルが腕を横に振って指示を飛ばすと、それに気付いたライラがハッとした表情で立ち上がり、女の子の右腕を引っ張って、民家の中へと逃れようとした。

「あっ」

だが、衝動的な動きに足がもつれ、民家の戸口に倒れ込んでしまう。
思わず右手が緩んで、掴んだ筈の女の子の右腕がすっぽ抜けた――

(くっ…)

路地に残された女の子。
ラッセルは足を止めると、膝を折って女の子の両脇に自分の腕を差し込んだ。

「早く、中へ!」
「は…ひぃ」

戸口に倒れ込んだ、女性にしては長身のライラが、民家の奥へと手足をもがいて這っていく。

「残念だったな…」

足の止まったラッセルに追いついたブランヒルが、槍の射程に背中を捉え、切っ先を放とうと走りながら構えを取った。

「はあっ!」

槍の一突き。
ライラが空けたスペースへ、ラッセルが飛び込んだ。

「ちっ」

間一髪。その切っ先が、僅かに臀部に触れた。
擦れた金属音が、緊迫する空気に伝わって、確かに鳴った――

「ラ…ライエル様…」
「く…」

薄暗い小さな民家の壁に背中を預け、腰を落とし、膝を折って戸口の方を向いたライラの震えた声が、ラッセルの耳へと届く。
抱えた女の子を手放すと、男は振り向きざまに立ち上がり、腰に帯びた剣を引き抜いて、ブランヒルと対峙した。

「なんだ? 拍子抜けだな。その腕章は飾りか?」

戸口の向こうから、残念そうな声がした。幾多の戦場を駆けてきたブランヒルにとっては、ラッセルなど赤子も同然なのだ。
兜の下の表情は分からなくとも、立ち振る舞いや気配から凡その力量を測ることはできる。
それでなくとも、戦場に於いて、剣は槍に遠く及ばない――

「はあ…はあ…」

それでも息を切り、両手で剣を構えるラッセルの脳裏は冷静を求めて、練兵場でライエルに稽古をつけてもらった当時の言葉を思い出していた――


「戦場で大事なのは、文字通り『戦う場所』 です。槍と対峙する時は、狭い場所で戦う事。振り回されると、懐に入れません。突く方向が一定であれば、ラッセルさんでも対処できるかもしれません」
「相手が、お前でも?」
「…それは、無理ですね」

苦笑いを浮かべて、ライエルは語った――


(中に入られたら、ダメだ…)

暗い室内。背後には、女性と女の子。幅2メートル弱の戸口を越えて侵入されたら、終わりだ。
それだけは、本能で分かる。

「うわぁぁぁん」

突然、女の子が泣き出した。身体的な自由が生まれ、感情が湧き出したのだろうか。
嘆きのような大声が、石壁で囲われた、狭い民家に轟いた。

「ちっ」

今は戦場で戦うブランヒルにも、小さな娘がいる。
戦場へと向かう朝、妻に左手を繋がれたまま、右手で小さく手を振る愛娘に微笑みを作り、手を振って別れた――
思わぬ慟哭に、嫌でも心が揺れ動く。

「う、うおおお!」

背中の声に、ラッセルの足が動いた。
間合いを詰めて、戸口を挟んで戦おうとしたのだ。

「むん!」

しかし、ブランヒルが怯む事は無かった。
相手の勢いに後れこそ取ったものの、咄嗟の判断で前へと一歩を踏み出したのだ。
肩口から剣を振るったラッセルの懐に入り込んで、斜めに構えた槍の柄で細い手首を受け止めた。

「く…」

勢いだけは、ラッセルにあった。しかしながら、ブランヒルは平然としている。
両者が睨み合った戸口では、ラッセルの右足が一歩だけ、狙い通りに戸口の外を踏んでいた――

「軽いな…ふんっ!」

ブランヒルは一声を吐き出すと、腕力だけでラッセルの身体を弾いた。
続いて素早く槍を返すと、ガラ空きとなった貧弱者の腹部をつかの先端で鋭く打突した。

「ぐふっ!」

細身のラッセルが吹き飛んだ。
薄暗い民家の土床に、ドサッという鈍い音色おんしょくが響くと、彼の身体は再び石壁の中へと戻された。

「ふぇっ!」
「あ…あ…」

吹っ飛んできた、鎧姿の男…
絶望に身をすくめる場景に、小さな女の子の泣き声が止み、これから迎えるであろう惨劇を予感して、ライラの声にならない声が震えた――


「まだ…だ…」

暗がりの民家の中で、それでも男は立ち上がる。
戸口の向こうでは、明るい陽射しに照らされた屈強な漢が峙立じりつしていた――

光と闇は、そのままの力量差。

暗がりの土床に剣を刺し、ふらつきながらも立ち上がったラッセルが、開いた距離を再び詰めようと、よろよろっと一歩だけを踏み出した。

(悪く、思うなよ…)

ここは戦場で、神の審判を仰ぐ対等な舞台――
僅かに腕を引き、ブランヒルは最期の一突きを繰り出そうと、薄暗い住居の中に足を踏み入れた――



<先ずは、相手の攻撃をかわす事からです>

じりっと間合いを詰めてくる死神におののく中で、ラッセルは必死となって思い出す。

「躱す?」
「はい。初手くらいは見切って下さい。攻撃は、その後です。『後の先』という言葉があります」
「……」
「あと、気持ちで負けない事。ですかね」
「気持ち…」
「そうですね…例えば、絶対に守りたいものを、想ってみてください」
「はあ…」


(絶対に、守りたいもの…)

それこそは、問われた当時、答えの出なかったもの――

(そんなもの…俺にあるのか?)

生まれ育ったリャザンを離れ、トゥーラへとやってきた。
文官という触れ込みだったが、農作業に始まり、馬術を仕込まれて、果ては自衛の為に剣技の鍛錬までやらされた。

(クソッ…)

巡った日々の結末が、目の前に迫る。
忌々しい、恨みの声が胸に灯って、思わず奥歯を噛み締めた――

「……」

そこに、一人が浮かんだ…

駆ける馬の背中。両腕の中に納まった、芳香漂う小さな身体――

大きな琥珀色の瞳が見上げる、憂いを抱えた淡い微笑み…

シーツを両手に、半裸で飛び出して、作戦を練った困り顔…

夕暮れの草原で、膝を折って祈りを捧げる、神聖なる姿――


(リア様…)

それは、何度も心に灯した名前である。

想った刹那、刀を握った指先が、絶望を享受してふっと緩んだ――


それでも…

細い瞳が、カッと見開いた。
空気を切り裂いて、槍の穂先が向かってくる。
ラッセルは身体を横に滑らせて、握り締めた刀剣で穂先を叩き落とそうとした――

(え…)

その刹那、槍の穂先の下側が、片鎌になっている事に気が付いた。
戸口から差し込む明るさに、獲物を捕らえんとする姿が悪鬼のように浮かび上がった――

(まっ…)

相手の躱す方向へ、鎌の向きを変える。
ブランヒルの突きは、最初から意図したものであったのだ――

無力な努力…
ラッセルの脇腹に、鍛錬の結末が激しく伝わった――

「があっ…」

鈍い金属音を先にして、ラッセルの呻き声が後を追う。
躱そうとした左方向へと弾かれたラッセルは、住居の石壁に背中を叩き付け、遅れて後頭部にも衝撃が伝わった。

「ライエル様ぁ!」

握っていた刀剣が土床にカランと落ちると、同時に耳をつんざくようなライラの悲鳴が、薄暗い小さな住居に響き渡った。

「く…」

衝撃によってズレが生じ、殊更に狭くなったラッセルの兜越しの視界には、それでも僅かではあったが、敵兵の姿が認められた。

「くぁっ」

前へと崩れるように、身体ごとを投げ出す。
それは既に、戦うという意思から生まれたものではなく、生命の危険に抗うだけの、本能が起こした行動であった。

「なっ! 離れろっ」

ラッセルは、ブランヒルの腰にしがみついた。
生への衝動が、猛者の動きを確かに止めた。

「離れろ!」

それでも、圧倒的な力量差の前に、そんなものは通じない。
ブランヒルが筋肉質の太い右腕を高々と翳し、それを力ずくで肘から振り下ろすと、ラッセルの後頭部が大きく沈んだ。

「ぐあっ」
「見苦しいわ!」

膝を落としたラッセル。
一歩を引いて距離を空けたブランヒルは、一声を吐きながら、怒りと侮蔑をめた渾身の膝蹴りを、無様な男の顎先に見舞った。

「やめてぇ!」

甲高いライラの声も空しく、衝撃を受けた民家の石壁は鈍い重低音を発した――

呻き声すら上げる事も無く、石壁に背中を叩き付け、腰を落とし、膝を折って頭をもたげた無力な鎧姿の男は、そこからピクリとも動く事はなかった――

「そ…そんな…」

両腕で抱えた、小さな女の子。
そのぬくもりの先で繰り広げられた絶望に、ライラはただただ、言葉を無くした――


動きのある戦場に於いて、刃物で鎧を貫く事は難しい。
命を奪うには、鎧の隙間に短剣を刺し込んで、止めを刺す事が殆どだ。

「……」

だが、相手は動きを止めている。
仁王立ちしたブランヒルは、愛用の槍で以ってそれを成す為に、一歩を踏み出そうとした。

「そこですか!」

その時だ。外から響いた大声に、ブランヒルが動きを止めた。
戸口を複数人で塞がれては、流石に分が悪い。

戻した足で戸口をまたぎ、声が叫んだ方に目をやると、一筋先、馬の背で、輝く銀色の鎧を纏った若い男が、こちらを見据えているのが目に入った。

「そっちが、本物か…」

右肩に巻かれた腕章の色こそ同じだが、漂うオーラが違う。
察したブランヒルは、鋭くなった眼光と鍛え上げた肉体を男に向けると、片鎌の槍をスッと中段に構えた――

「私が、相手になりましょう」

栗毛の馬からひらりと降りて、侵入者に立ち向かう。

姿を見せたのは、普段は左右に流している金髪を後ろで縛り、整った顔立ちに静かな闘志を燃やす、トゥーラの若き美将軍、ライエルであった――



王妃の代役として、トゥーラ城の屋上で監視役を引き受けたラッセルだったが、国王ロイズから注意するようにと念を押されていた北の動向を、あろうことか見過ごすという、大失態を犯した――

彼は挽回すべく、急いで城下へと駆け下りて、北側に迫った危険をルーベンに伝えると、次に西側で弓を引くライエルの元へと向かったのだ。

「北が? 分かりました。ここを落ち着かせて、後から向かいます」
「お願いします。私は、北へ戻ります」

ライエルの言葉を受け取って、ラッセルは踵を返し、息を切らして北へと向かった――

「そろそろ、ですかね…」

戦火の激しい西側では、城壁を越え、設けた足場に降り立つ侵略者たちの姿が、いよいよ増してきた。
ライエルは奮闘する部下に今後の策を示すと、一旦南側で戦う大将軍グレンの元へと走って情勢を伝えた後で、トゥーラの中心部を、馬を駆って、真っ直ぐに北へと向かったのだ――



カンッ
カシュッ
ザリュッ
 
乾いた茶褐色の土の上。居住区の十字路で、ライエルとブランヒルが槍を持って対峙する――

しかしながら、穂先の交わる音がいくら響いても、二人の間合いが縮まる事は無かった――

「ここまでです。諦めてください」

僅かに背丈で勝るライエルが、涼しい顔つきで、諭すような声を発した。

しなやかな鋼のような肉体を持つトゥーラの美将軍ライエルと、鍛え上げた厚みのある筋肉を誇るスモレンスクの副将ブランヒル。
実際のところ、二人の力量は等しかった。

たった一つ。ライエルの握る槍が、十センチほど長いのだ。その僅かな違いが、踏み込む足を鈍らせる。

「くっ」

焦りの表情を浮かべたブランヒルは、相手の穂先を見極めつつ、北の都市城壁の様子をチラリと横目で確認をした。

「後続を、待つつもりですか?」

擦れた金属の匂いの中で、相手の視線に気が付いて、ライエルが冷静に問い掛けた。

「……」

しかし、意図を当てられたブランヒルは、敢えて沈黙を貫いた。

城壁の足場には、味方の兵士が連なって、順調に作戦が遂行されているのが見て取れる。
自身が率いた西からの兵だけではなく、そろそろ東から向かってくる兵も梯子を登ってくる頃だ。

「……」

それでも歴戦の将には、何かしらの違和感が残った。
根拠としては、現在対峙する若い男に、強い危機感というものが見受けられないからだ――

危機感があるのなら、決死の覚悟で間合いを詰め、力強い踏み込みで打突をしてくるに違いない。

後続の侵攻を待つ為に、ここらで時間を稼ぐつもりだった事は間違いないが、むしろ猶予を与えられている…そんな気さえした。

「引いて回って!」
「引け! 引け!」

するとブランヒルの右後方、北東の方から、突然男たちの高い声が鼓膜を揺らした。
声の主はトゥーラの国王ロイズと、護衛の兵士達である。

「気の毒ですが…」

それを受けて、目の前のライエルが小さく口を開いた――


ガラッ

「うおっ」
「わあっ」

ガラガラッ

「わああああっ」

ズシャッ
ドズシャッ


北側から、何かが崩れる重低音と、幾多の悲鳴が上がった――

「なっ…」

連れてやってきた地響きに、確認したばかりの北側へもう一度視線を向けたブランヒルは、瞳を見開いて絶句した――

自身も両足を置いた、都市城壁に設けられていた木製の足場が、一部を残して崩れ落ちていたのだ――

混ざり合って崩落したスモレンスク兵に対し、待ち構えていたトゥーラの兵士達が、槍で以って襲い掛かっている。

「くっ」

飛び込んできた惨劇に、咄嗟の判断でブランヒルは一騎打ちを放棄して、城壁へと向かった。
仲間の援護は勿論だが、それ以上に、脱出する手段が無くなることを危惧したのだ――

「やられた…」

窮地に追い込まれる覚悟と共に、ブランヒルはぐっと奥歯を嚙み締めた――



西側で敵と対峙していたルーベンの援護をするでもなく、ラッセルが北へと向かった理由が明らかになる。

都市城壁に設けられた足場は、積み上げられた石の壁に打ち込まれた杭と、10メートル間隔で備えた、梯子とを結んだ麻紐によって支えられていた――

しかしながら、結び方には仕掛けがあった。

引き解け結び。

文字通り、梯子の裏側に沿って垂らした紐を引いたなら、抜けるように結び目が解けていくのだ――


一方、北の異変を屋上のラッセルから知らされたロイズは、先ずは奮闘を続ける東側で今後の指示を伝えると、北へと向かった。
到着が遅れたのは、都市城壁に沿って護衛を伴い走った結果、城壁を越えてきた侵略者たちと遭遇したからである。


「く…」
「もう、大人しくしてください」

呆然となって動きを止め、嘆きの声を上げるブランヒルに、背後からライエルの落ち着いた声が届けられた。

一声は、この区画から逃がすつもりはないという意思表示でもある。

「……」

撤退か、残るのか…
どちらにしても、難しい選択だ。

しかしながら、退いたなら、勝機は無い――

「足場が無くとも、降りられる! そのつもりで登ってこい!」

顔に決意を浮かべたブランヒルは、都市城壁の向こう側へ届けと、ありったけの大声で叫ぶのだった――



足場が崩れたのは、北側だけでは無い。トゥーラの都市城壁に設けられた総ての足場が、ほぼ同時に崩落をしたのだ。

「怯むな! 元から、無かったもんだ!」

バイリー将軍配下のブランヒル隊とは違い、数年に渡ってトゥーラの攻略に参戦しているギュース将軍配下の兵士たちにとっては、足場など、むしろ想定外のシロモノだ。
東側で指揮を執るスモレンスクの副将ベインズが、怯んだ兵士の士気を下げまいと、長身から大きな声を張り上げた。

「おう!」
「その通りだ!」
「進め、進め!」

足場が崩れたというだけで、都市城壁に苦労して掛けた梯子が消えた訳ではない。気を取り直した兵士達から、幾つもの前向きな声が飛び出した。


「なに!? ブランヒルさんが?」
「はい。隊長自ら、乗り込んだと…」

そんなところへ、北側から報せが届くと、面長のベインズの太い眉毛が吊り上がる。

「ここはお前らに任す! 俺は、北へ向かう!」

足場の崩落で孤立する…ブランヒルが危ない…
弟分と自覚するベインズは、大声で指示を飛ばすと、馬へと急いだ。

「はあっ」

やがて馬へと跨ると、得意の槍を左手に、北の城壁に向かって勢いよく駆け出していった――



『遠慮なく、武功は上げていくからな』

スモレンスクの夕焼けの大広場。
酒を酌み交わした、あの日のブランヒルの発言が、脳裏を過ぎった――


(ブランヒルさん…)

同じ頃。

西側でも童顔の副将カプスが槍を右手に掴んで、必死の形相になって北へと向かって馬を駆っていた――
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