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しおりを挟むスルリ、スルリと少し冷たい手で頬を撫でられる。ああ、どうやらあのまま酔っ払って眠ってしまったらしい。くすぐったくて唇の端が自然と上がる。
「ん.....も、ふふ、やめてよひびき、くすぐたい...」
やめてと言いながらもピタリと止まった手に寂しさを覚えてしまうのはなぜだろう?
「そろそろ起きる?」
「...やだ...もうすこしねてようよぉ」
お互いまだ全然寝たりないだろうになんでそんな酷いことを言うのだろう?体感としては3時間しか寝てない気がする。
やだやだと顔まで布団を被り、響に背を向けるようにして寝返りをうつ。すると後ろからぎゅっと抱き締められた。...というかいつ寝室まで来たっけ?響が引きずって寝室のベッドに寝かせてくれたのだろうか?まったく覚えていない。
「ゔー...ひびき...くるしい...はきそうになるか...ら」
「少し飲み過ぎじゃない?」
「んぁ...?それよりちからゆるめて?そのてがくるじいのっ」
ぺちぺちとその手を叩けば、拘束された身体が緩まり楽になる。でも完全にはまだ僕を離してくれなくて鬱陶しい。僕は目を閉じたまま眉間を険しくして「ウ~ン」と唸る。
変なの...まさか響が自分より先に起きてるなんて...。珍しいにも程がある。毎朝響を叩き起こして、寮の食堂に引きずっていくのはいつも自分の役目だったのに。
お互いの体温が合わさりぬくぬくと暖かくて、再び睡魔襲ってくる。
「あったかい...ひびき」
そう呟いた次の瞬間、突然息ができなくなる。鼻をつままれている感覚に驚いてカッと目を開けた。死ぬ!!
「...っ...!!んぅっ、」
驚いた声をあげながら慌てて起き上がる。これは怒るぞ!
「ちょっ、なにするの!ひびっ...き!!.......へ......?」
鼻をおさえて涙目で響を睨み付けてやる、はずだった。はずだった、のだが...。
「へ....」
どうしよう?頭が真っ白になり思考が止まりそう。
なぜなら今目の前にいる人物が、さっきまで一緒にいたはずの響ではなく、遠い海外にいるはずのシキ先輩だったから。
「息しよっか?藍ちゃん」
「...ぷはっ!はぁっはぁっ、.........なっ?!えっ!!???なんで?!」
「おはよう、藍ちゃん」と、ニコリと微笑みながらベッドに横になっているシキ先輩。それじゃあ今まで一緒に寝ていたのはシキ先輩ということになる。
「どうして...」
言葉が喉で詰まる。状況が飲み込めないまま先輩の姿を凝視した。確かにその声も、仕草も、彼だ。なんで?どうして?が頭を駆け巡るなか、先輩がゆっくりと起き上がりこちらに向かい合う。
柔らかな光の中で、サラサラと流れるようなマッシュスタイルの黒髪が揺れた。目の下の小さな涙ぼくろも、雪のような滑らかな白い肌も、どこか儚げな雰囲気もあの頃と変わっていない。
深く黒い瞳に真っ直ぐ整った鼻筋。美しさと冷たさが混じり合った顔が、柔らかい笑顔をこちらに向けている。
そういえばこのアンバランスさが皆を虜にしていたけど、最初は少し怖くて実は苦手な存在だったっけ...と、なぜかそれを今思い出す。
「そんなに驚く?」
その言葉に高速でコクコクと頷いた。
「昨日の夜こっちに着いたんだ」
「昨日...」
「そうだよ、昨日。ねえ、お帰りとは言ってくれないの?」
「...おっ、お帰りなさい!」
「うん、ただいま」
ふふっとイタズラっぽく笑うシキ先輩の透明度の高い目にじっと見つめられ、ドドドと顔を赤くして下を向く。
久しぶり過ぎてこんなの耐えられない。というかこの人の浮世離れした美しさに限界はないのだろうか。変わってないなんて大きな間違いだった。やっぱり前よりもっと洗練されてカッコ良くなってる...。こんなんズルい!!
本当に先輩が目の前にいるんだ...。夢じゃない?と頬をつまんだ。普通に痛い。夢じゃない。でもどうしよう?なんで?!
「.............っていうか、ここどこっ?!!」
色々と頭が追い付いてないなか、まず知らぬ間に知らない部屋の知らない大きなベッドの上にいる自分に気付き困惑する。今さらながら辺りを見回せば、目に飛び込んできたのはホテルのスイートルームのような広々とした部屋だった。
天井には繊細な装飾が施されたシャンデリアが煌めき、壁には重厚感のある額縁に収められた絵画がいくつも飾られている。よく見てみれば、あれもこれも一目で高価だと分かるような品の良さだ。
「ここはうちの別荘だよ」
「別荘?!い...いつの間に...?!昨日は響と年越し蕎麦を食べてワイン飲んでコンビニ行って...また飲んで気持ちよくなって寝ちゃって...あれ?!なんで?!」
「二人でだいぶ飲んだみたいだねぇ。抱きかかえようが、車に乗せようがまったく起きなかったよ」
「!」
それ拉致では?!そう言葉を発そうとするものの驚きが勝り、結局パクパクと口を動かすだけになってしまった。とりあえず自分の危機管理能力を疑おう。もうお酒やめたほうがいいのでは?
それにしてもまさかの多賀宮家の別荘...。やはり規模が違う。
「あの、僕を抱えたって、シキ先輩が?」
「オレ以外の誰が藍ちゃんを抱っこすんのさ?」
「え...?いや」
にこりと三日月のように細めた視線に、なぜだか責められている気がして緊張する。でも。
「だっ、だめでしょう?!大切な指や肩に何かあったらどうするんですか!」
「大丈夫だよ、藍ちゃん一人くらい。でも少し痩せたんじゃない?ちゃんと食べてる?」
「僕のことは今いいんです!もし無茶をして先輩がピアノを弾けなくなったら...僕...」
想像しただけでも駄目だ。先輩がピアノを弾けなくなるなんて、考えられないし有り得ない。
「藍ちゃん...」
「もっと大切にしてください」
「うん、でも藍ちゃんもだよ。ちゃんと食べて」
「...はい」
そっとその綺麗な手が僕の頭を撫でる。同時に顔を上げれば、少し困った顔をしたシキ先輩。きっと分かったふりをして納得はしていないそんな顔だ。先輩ってそういう人なのだ。こんなにも才能に恵まれているのに、いつピアノが弾けなくなってもいいと本気で思っている人。
もうこの話はしない方がいいと思いながらも、思わず拗ねたような声が出る。
「...あの、シキ先輩はどうやって僕の部屋に入ったんですか?」
「ああ、一応チャイムは鳴らしたよ?でも藍ちゃん出てくれなかったから」
いや、そもそも真夜中にチャイムって...本来23時には寝ちゃってるんたけど...。まあシキ先輩もまあまあ常識外れな所があったもんなぁ。
「鍵かけてあったと思うんですが...」
「鍵開いてたよ?」
「え!」
昨日は確か響が部屋に入ってきて、そのまま「鍵かけておいて(僕)」からの「御意!(響)」だった。
響の奴、全然御意じゃないじゃん。やっぱり響には戸締まりを任せられない。そういえば寮の時もよく鍵をかけ忘れたりして、何度か注意したっけ。
「...えっ、あれ、でも響は」
「知らない。まだ寝てるんじゃない?」
「あ...」
少しそっけない顔をした先輩が、頬杖をついてぷいと横を向く。そんな姿もまた可愛くて胸がキュンとなる。たまに見るレアな姿。なにを拗ねているのかいつも謎だったけど、気まぐれか猫みたいで可愛かったんだよなぁ。
それよりなんで僕はここに連れてこられたんだろうか?やはりきちんと別れ話をしにきたのかな?だとしたら一刻も早くここから逃げたい。面と向かって振られるのとかキツすぎる。そもそもシキ先輩って自由人だったから、先輩次第であっけなく終わるモノだと思っていた。あえて言葉にしなくたって。
だから案の定あんなニュースが出てしまい、やっぱりシキ先輩と僕の関係は曖昧なものだったのだと思い知ったのだ。
「ねえ藍ちゃ...」
シキ先輩がなにか言いかけた時、不意にサイドテーブルに置かれたシキ先輩のスマホが震えた。軽やかな着信音が部屋中に響く。
視線が自然とスマホに向かう。画面にははっきりと、先輩の例の婚約者の名前が表示されていた。
――ドクン。
心臓が嫌な音を立てる。胸の奥がざわつき、何か冷たいものが背筋を這うような感覚に襲われた。
「...先輩、出なくてもいいんですか?」
「うん、今は藍ちゃんといるんだから」
「...」
シキ先輩といえど、元恋人の前では婚約者からの電話には出る気はないらしい。それはそれで複雑な感情になる。
「先輩、僕顔を洗ってくるので電話に出てあげてください。洗面所、あそこですよね?少し借りますね」
「え?ちょっと藍ちゃ....」
広い寝室の一角、ドアの向こうにあるおそらく浴室と洗面所が一緒になった空間へと急いで足を運ぶ。扉を開けてみればビンゴで、すぐさまその部屋に入り扉を閉める。そして入るやいなや勢いよく蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。
ふぅっと…顔を上げると大きな鏡に映る自分の姿と目が合う。濡れた髪から水滴がポタポタと落ちる音だけが響く中、思わず深いため息が漏れた。
みっともない、まだ酒の抜けきれていない不細工な顔に。
いつからだろう。あんなにも可愛いと言って貰っていたこの顔が、全く可愛いとは思えなくなったのは。鏡に映る自分を見ても、そこにいるのは中身のない空っぽな人間。ただの殻だ。もしあるとすれば醜い劣等感だけ。
そんな無価値な自分が、どうしてシキ先輩の隣にいるべきだと思えるのだろう――。先輩の隣には、あの人のようなキラキラした人がお似合いなのだ。
「会わなければ、それで良かったのに」
遠距離恋愛にありがちな自然消滅という都合の良い別れ。
どうせ終わる恋ならば、そんなふうに静かにそっと終わらせたかった。深い傷は負いたくない。それが僕の最たる願いだったのに。けれどそんな自分勝手は、許されなかったみたいだ。
そっとドアレバーに手をかけ、音を立てないように慎重に下げる。わずかに開けた隙間からこっそりと顔を覗かせた。
部屋の中ではすでに電話を終えたのか、先輩が静かにソファに腰掛けていた。僕の視線を感じたのかこちらに目を向ける。
「大丈夫?二日酔いしてない?」
柔らかな声に、思わず身を縮めながら答える。
「…大丈夫です」
そう言うと、先輩は困ったように、そして少しだけ微笑みを浮かべ「何か温かいものでも入れるね」と立ち上がる。その後ろ姿を見て、迷った末に声を上げた。
「あのっ、シキ先輩!」
僕の声に先輩が振り返り、不思議そうな顔でこちらを見つめる。
「ん?」
緊張で言葉が詰まりそうになる。だけど言わなきゃ。
「えっと...、ちゃんと分かってますから」
「なにを?」
「...僕、シキ先輩とちゃんと別れます」
少し声が震えた。言葉を出し切った瞬間、胸が苦しくて立っているのもやっとだと思った。けれどシキ先輩だけには面倒な奴だと思われたくない。
「だから、もうこんな風に気を使ったり構わなくてもいいですから。いっ...今までありがとうございましたっ」
短く振り絞るように言い切ると、先輩の顔を見ないまま小さく頭を下げて足早でドアへ向かう。早くこの場を離れたかった。みっともなく泣いてしまう前に。
先輩、大好きでした。
遠慮がちになってしまう僕の性格を知ってか、離れ離れになっても僕が寂しくないようメールや手紙、電話だって沢山くれましたよね?多分ずっと...、あらゆる方法で寄り添ってくれたこと、感謝してるし忘れません。
やばい、視界が涙でぼやける。
そうだ、帰ったら響に慰めて貰おう。まだうちにいるかな?西園寺先輩には申し訳ないけど、もう少しだけ側にいて欲しい。
急いでドアノブに手を伸ばしたその瞬間、すぐ後ろに気配を感じた。振り向く間もなく長い腕がスッとドアの上に伸びる。
「っ、」
視界の端に映る先輩の手。それだけでまるで自分が囲まれてしまったような感覚に襲われた。全身が固まる。
「せ...んぱ」
「言いたいことはそれだけ?」
低い声が耳元で響く。感情を抑えたようなその声に、逃げたくてももう一歩も動けなかった。
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