愛するということ

緒方宗谷

文字の大きさ
31 / 192
9.資料館 

2.アンネ・フランク

しおりを挟む
 ヨーロッパの、しかもドイツでこんな事が起きるのか。当時だってドイツは先進国のはずだ。里美は、第一次世界大戦の事を知らない。ここで展示された資料にベルサイユ条約に関する記述を見つけて、戦争に突入せざるを得なかった理由をかろうじて知ることができた。
 フランスやイタリアに埋もれて華やかさが無いように思っていたが、よくよく考えるとベートーベンを生んだ音楽大国だ。文化レベルや教育レベルが低いわけがない。それでもなおここまで過激な、人の所業とは思えない暴挙が出来てしまうと思うと、集団心理は恐ろしい、と思った。
 このような状況の中で、みんなは間違っている、と言えるだろうか。里美は自分だったら言えない、と思った。未曾有の大災難に見舞われて絶望するユダヤ人を救ったドイツ人も多くいることを知ったが、それも隠れて行うしかなかったようだ。公然と行えば、殺されてしまうかもしれない。
 更に驚いたのは、強制収容所に収監されたのは、ユダヤ人だけではないらしい。多くの異民族が収監された。そればかりか、同じドイツ人でも、高齢者や障害者も対象になったらしい。最初に収監されたのは、同性愛者だったという。
 地域によっては、平然と兵士(親衛隊)によって銃殺が行われている。まさにこの世の地獄としか言いようがない。
 収容所では、すぐに命の選別が行われた。身長や年齢が規定に達していないと、即処刑対象になる。処刑にならなくても、死体の処理を担わされる。
 満足な食事も与えられず、虱が頭や衣服にわく中、おふろにも入れない。トイレも短い時間で済ませなければならず、不衛生な環境で多くの者がチフスにかかって死んだという。
 少しでも兵士(親衛隊)の気に触れようものなら、体罰を受けたり、牢屋に入れられた。ガス室の存在は知っていたが、他にも餓死室や立ち牢など、虐待を行う部屋もあったらしい。
「これって、ドイツだからあったことなの?」
 里美は震える声で、そばにいたスタッフに訊ねるように呟いた。
「そんなことありませんよ、いつの時代もどこの国でもあり得ることです」
 確かにそうだとひいちゃんが言った。ニュースを見ると、外国で過激な思想を掲げる政党が出現したり、それを支持する人々が闊歩している。ひいちゃんはそれを憂いだ。
 日本でもこんなことがあり得るのだろうか。平和な日本では、全く想像ができない。こんなことは無いと願いたい。こんな目に遭いたくないのは当然だが、こんなことをしたくもない。最初に見たレンガの家に移動する道すがら、里美はそう思った。
 この建物は、アンネの生きた証を展示していた。中に入った里美は、真っ先に一番奥まで行く。そしてすぐに、角に展示されていたアンネについての記述に目が留まった。
 ――アンネリース・マリー・フランク――アンネの本名、初めて知った。写真を見渡して振り返って、模型の前に歩み寄る。展示されているアンネの隠れ家のなんて小さいことか。こんな小さな中で8人が何年も住んでいたのだ。一歩も外に出られずに、支援者が持ってくる食べ物だけが頼りの中。
 里美は想像した。もし自分がアンネだったら、と。今自分が享受している全ての喜びや楽しみ、美味しい食事やファッション、遊ぶことも何もかも奪われてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。もし自分の身に降りかかったらと思うと、慄然するしかない。
 思い出すアンネの文章は凛としていて、何ものにも負けない精神の気高さを感じる。ちょうど私と同じ年頃だと思うと、他人事ではない。そして、もしアンネが生きていれば、ひいちゃんよりも年下なのだ。
 この現実は、今まで生きてきた人生(高校生になった現在においても)の中で、一番の衝撃だった。アンネ・フランクは、歴史上の人物ではない。今まさに生きているかもしれなかった同じ時代の女性なのだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

誰でもイイけど、お前は無いわw

猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。 同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。 見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、 「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」 と言われてしまう。

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

すべてはあなたの為だった~狂愛~

矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。 愛しているのは君だけ…。 大切なのも君だけ…。 『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』 ※設定はゆるいです。 ※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。

王妃は涙を流さない〜ただあなたを守りたかっただけでした〜

矢野りと
恋愛
理不尽な理由を掲げて大国に攻め入った母国は、数カ月後には敗戦国となった。 王政を廃するか、それとも王妃を人質として差し出すかと大国は選択を迫ってくる。 『…本当にすまない、ジュンリヤ』 『謝らないで、覚悟はできています』 敗戦後、王位を継いだばかりの夫には私を守るだけの力はなかった。 ――たった三年間の別れ…。 三年後に帰国した私を待っていたのは国王である夫の変わらない眼差し。……とその隣で微笑む側妃だった。 『王妃様、シャンナアンナと申します』 もう私の居場所はなくなっていた…。 ※設定はゆるいです。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

某国王家の結婚事情

小夏 礼
恋愛
ある国の王家三代の結婚にまつわるお話。 侯爵令嬢のエヴァリーナは幼い頃に王太子の婚約者に決まった。 王太子との仲は悪くなく、何も問題ないと思っていた。 しかし、ある日王太子から信じられない言葉を聞くことになる……。

幸せな番が微笑みながら願うこと

矢野りと
恋愛
偉大な竜王に待望の番が見つかったのは10年前のこと。 まだ幼かった番は王宮で真綿に包まれるように大切にされ、成人になる16歳の時に竜王と婚姻を結ぶことが決まっていた。幸せな未来は確定されていたはずだった…。 だが獣人の要素が薄い番の扱いを周りは間違えてしまう。…それは大切に想うがあまりのすれ違いだった。 竜王の番の心は少しづつ追いつめられ蝕まれていく。 ※設定はゆるいです。

処理中です...