寂しいを分け与えた

こじらせた処女

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 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
 昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。




「昼にしよう」
腹が減った。空きすぎて修行中ずっと米のことしか考えられなかった。
 おむすび2つに、漬物に、味噌汁。口いっぱいに頬張って喉を詰まらせそうになってむせる。
「そんなに焦るな。飯は逃げない」
「っ、はい、申し訳ありません、」
ああ、もう終わってしまった。もう食べ切ってしまった。満たされない。まだ腹が減っている。漬物も、味噌汁も一つも残っていない。

 師匠は無口だ。修行中は凄く厳しくて、それがまた近寄りがたい理由にもなっている。でも、大師匠であるじいちゃんは対照的にとてもよく喋る人だった。
庭になったビワを一緒に食べたり、畑仕事を手伝ったり、虫を捕まえて遊んだり。どんな時でもじいちゃんが会話の中心だった気がする。
 今年、病気で死んでしまってからはこの怖い師匠と2人きりになってしまった。昼食中も、休憩中も一言も会話はない。ずっと緊張していて、前よりもすごく疲れる。

 でも、師匠の家に行けば飯が食える。家の中には誰もいないし食べるものもない。将来の働き口もここが無くなったら一から探さなくてはならない。1日に1回の昼食は俺にとっての生命線そのもの。簡単に手放せるわけがない。
 本当は早く師匠に相談するべきだ。食べるものがないから住まわせてください、って。でも、言えなかった。もしもじいちゃんが生きていたら相談できただろうか。分からない。だって、何で言えないのかが自分でもよく分かっていないから。


 1日1食で師匠の修行をこなすのは結構辛い。ずっと腹が減っていて、夜も眠れなくて。全然集中ができなくて凄く怒られてしまう。体が言うことを聞いてくれなくなったのも案外早かった。




「ぅ、」
日が登って鳥の声が聞こえた。でも、体を起こそうとしたらグラグラと目が回って上手く起き上がれない。気持ち悪くて、頭がボーッとして。早く行かないと師匠は遅刻に凄く厳しいのに。強く動けと命じても、体は拒否反応を示す。
 少し待ってやっと動けるようになった。慌てて顔も洗わず家を出た。
(あれ…なんで、)
少し走っただけで息が切れる。体が重くて重くて仕方がない。耐えきれなくてしゃがみ込む。早くしないと怒られる。でも、ゆっくりでしか歩けない。
「ぁ、」
門の前で師匠が待っている。きっと遅刻だ。怒られる、泣きそうだった。遅れているのに歩いているだなんてバレたら大激怒。だから、気持ち悪いのを必死で堪えて走る。
「ししょ、おくれて、申し訳ありません、」
息、苦しい。脇腹が痛い。それに、頭がクラクラする。
「何時だと思っているんだ」
いつもより声が低い。相当怒っている。さぁって頭から血の気が引いた。
「もうしわけ、ありません、」
「…次はないからな」
凄く怒っている。いつもと比べて段違いにピリピリしている。けれど、作業場には連れてってくれた。いつものように彫刻刀を持つ。息がやっと落ち着いて、そこで初めて下腹部の違和感に気づいた。
(あ…今日朝から厠行ってない…)
いつもは無意識のうちに済ませている1回。気づいた時にはもう限界に近くて、ブルリと身震いをした。彫刻刀を持つ手に力が入って削ってはいけないところまで削ってしまう。
「…おい、」
「も、もうしわけありません、」
「集中しろ」
 ああもう出来るわけない。ずっしりと重くて、少しでも力を抜いたら前を濡らしてしまいそうで。夜のうちから溜められたものは、腹が減りすぎてガブガブと飲んだ水もたっぷり含まれているわけで。起き抜けの目眩とだるさですっかり見落としていた。
(でも…ただでさえ遅刻してるのに…)
ピリピリとした空気にあてられて、余計緊張して。絶対休憩までもたない。絶対に我慢できないってわかるのに、言えない。
 おしっこしたい。漏らしてしまいそう。足をそわそわと組み替えて、ぐっと腰を引いた。止めないとだめなのに。手元が狂ってまた失敗するのに。
 言わなきゃ作業場を汚してしまう。絶対怒られるどころじゃ済まない。手遅れになる前に言わなきゃ、そう思うのに言おうと口を開いた瞬間、喉が詰まる。
 我慢。我慢我慢我慢我慢と何回も唱えた。早くしたい。スッキリしたい。そんで、この下腹の痛みから解放してほしい。
「おい」
なんて雑念まみれの頭だったからだろう。後ろからいきなり声がして、先端から耐えきれなかったものが垂れた。
「そんな握り方をしろと言ったか?」
「ぁ、いえ、」
「まっすぐに彫れていない、深さもバラバラ。これに金を出すやつがいると思うか?商品なんだぞこれは」
「…いえ、っ、」
あ、やばい。止まらない。何度も何度も腹に力を入れ直すけれど、何本も足を伝って落ちてゆく。
「ここもここもここも。前の方が丁寧だった。細かいところに拘れなくなった職人から消えていくんだからな」
もう何も頭に入ってこない。足がガクガク震えて、今に抜け落ちそう。
「聞いてるのか?」
じゅっっっ、
あ。だめだ。少し大きめに言われた声で、ぷつんと張り詰めたのが切れてしまった。どんどん履き物が重くなって、地面にけたたましい音が叩きつけられる。
「……………………ぁ、」
全部、出てる。どんどん腹に力が抜ける。どうしようって思って、でもどうしようもなくて自分の手元を眺め続けた。
「……………………かわや、いってもいいですか、」
 全部ぶちまけた後で何言ってるんだよ。頭の中がごちゃごちゃで、息がひたすらに苦しい。
「………ぁ、」
しぃぃいいい……
全部、終わった。腹の中だけは清々しいほどにスッキリしていて、でも頭は急にフラフラする。目の前がぐらぐら揺れて、思わずしゃがむ。
「厠に行きたいなら言え。怒らないから」
ビクビクした心とは裏腹に、頭に乗せられた手は存外優しいもので。その大きな手に何だか懐かしくなって、泣きそうになった。
 ゆっくりと立ち上がって、脱衣所に連れて行かれる。濡れたタオルで軽く拭われ、新しい服を着せてもらった。
 なんか、疲れた。頭は相変わらず揺れて、ボーッとする。
「やっぱり俺は怖いか?」
「……え、」
「…いや…なんでもない。どうする?今日はもう帰るか?」
「ぁ…はい…」
 まだ飯、食べられていない。流石に明日の昼まで無しはキツいかもしれない。でも今日は何もしていないから、飯を食わせて下さいなんて図々しいことは言えない。
 門を出て、いつもの道を何倍もの時間をかけて歩いた。ようやく着いた自分の家は、あまりにも静かで。なんかもう、何もしたくなかった。お腹が空いて、今日は日も出て暖かいはずなのに寒くて。いつもみたいに水を飲むけれど全く紛れない。むしろ胃が痛くなるだけ。眠れなくてただ目を瞑った。



 足音が聞こえて目が覚めた。こんな山奥の辺鄙なところに来る人なんて居ない。
 もしかして、帰ってきたのかな。そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「し…しょ…?」
「こんな所で何をしているんだ」
玄関先で壁にもたれていたからだろう。
「…ししょう…こそ…」
「昼飯を渡すのを忘れていたからな。母親は?」
「…今…出かけていて…」
「そうか。昼は?」
「まだです、」
「なら食べろ」
握り飯が2つに、漬物に。ゆっくり食べようと気をつけていても、がっついてしまう。美味しい。もっと食べたい。余計お腹が空きそう。
「…本当に母親は出かけているのか?」
「………はい、」
急に顔を掴まれ、目の下を捲られた。
「本当に?」
「……はい、」
「昨日の夕飯は?」
「…食べました、焼き魚を…」
「嘘をつくのはやめろ。いつから帰ってきていない?」
「………っ、」
「母親が帰ってくるまで待つからな」
「…………5日前…から…」
「何故言わなかった?」
「………それは…」
何でだろう。俺だって分からない。あるのは胸の気持ち悪いモヤモヤだけ。
「子供だけで生活できるわけないだろ。現に俺が今日来なかったらどうなっていた?」
分かっているよそんな事。俺だけじゃまともに飯も食えなくて、洗濯も掃除も手が回らない。子供だからどこも雇ってくれない。金もないから何もできない。
 叱られながら少ない服と私物をまとめる。俺のものがなくなった部屋はいよいよ、本当に殺風景になった。
(ほんとに捨てられたんだ)
ずっと前から分かっていたはずなのに何を今更、と自虐じみた笑いが浮かんだ。悲しいのかどうかも分からない。ずっと頭はボーッとしていて、何も考えたくない。でも、母さんの手紙はどうしても捨てられなくて。そんな自分に嫌気がさした。
 
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