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アンアームド・エンジェルの失言
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「ほら先輩、早くご飯片しちゃってくださいよ。今日は朝から依頼が入ってるんでしょう?」
まったく仕方がないんだからとでも言いたげに、片手鍋をコンロに載せながら圭吾が愚痴を溢した。オール電化とはかけ離れた造りの木造住宅には世間で言うところのお洒落なIHもシステムキッチンもなく、手狭な台所にはカチカチと、ガスのスイッチを捻る音が響いている。面倒臭そうにちくちくと食卓への着席を促す圭吾の声には何故だか上野公園の花見客のような浮わついた空気も感じられ、はて自分は今愚痴とノロケのどちらを聞かされているんだろうかと犬神は虚空を見つめて首を捻った。
〝何だか前より生き生きしてンなぁ……〟
「案外向いてたかもね。恭ちゃん専属のおさんどん」
からからと明るい鈴の音のような声を響かせて、鳴海がてらいもなく台所の小窓から入ってきた。彼にとってのこの家には入り口だの出口だのという概念はないようで、身軽に体を翻しながらどう考えても入り口でも出口でもないような風通し窓からあっさり部屋へと侵入している。正式に玄関の敷居を跨がないこの珍客の来訪は最早珍しいものでもなく、前世がお庭番だったのかとでも問い詰めたくなる鳴海の所業に誰しも眉を潜めることはなかった。
「まぁ……はっきり割り切るには時間が掛かりそうだし、何やかや複雑な気持ちもあるみたいだけど」
靴を片方ずつ手に持って、鳴海が心得たように笑った。
きっと圭吾の本来の望みは、恭介の隣に立って、もう一本の柱になることだったに違いない。それを自らの失態で無期限に取り上げられる羽目になり、もどかしさがないと言えば嘘になるだろう。けれど反省しなければならない行為は確かにあったし、懲罰という形でしっかりその機会を与えた恭介の英断に、誰一人異論を唱える者はいなかった。
武器をひとつ手にした圭吾に、そんなものあってもなくてもいいから傍にいてくれないと生きていけないなどと後から思い返せばこちらの方が赤面しそうな熱い告白を言ってのけた恭介本人は居たたまれないかもしれないが、それによって圭吾の蟠りはその殆どが霧散したと言って良かった。傍にいるための理由を闇雲に探していた彼に、何かの理由を与えるでもなく、そんなものがなくても一緒にいたいだなんて、とんでもない殺し文句だと改めて思う。
〝……しっかし圭吾は、何のために今以上の力を必要としてたんだろな。白虎と盟約を交わしてるだけでも充分依頼はこなせてただろうし、戦闘能力が必要になるような、具体的な敵だっていねーだろ〟
今までだってさりげない圭吾の機転に何度も助けられたことのある犬神は改めて彼に付加価値が必要だと思ったことは一度もなく、そのような結論に至ってしまった圭吾の思考回路を読み解くことができずに首を傾げる。
「んー……多分だけど。恭ちゃんの心臓を守る方法がどうしても見つからなかった場合は、倒すしかないと思ったからじゃない?」
〝何を〟
「九尾を」
まるで天気の話をするかのごとくさらっと放り投げられたとんでもない言葉に、犬神は思考が追い付かずわかりやすく固まった。ちやほやと恭介の世話を焼いている圭吾の横顔を盗み見るように伺ったが、その本心までは推し量ることはできない。
先輩いつもご飯の時は左手を使っていたでしょう、え? 実は両利きで右手でも箸を持てるんですか? でも普段と違う手で食べるのはいろいろ不都合もあるでしょうから、暫くは僕に任せてください等々畳み掛けるように謎めいた理論を並べ立て、恭介の背後に回り込んでその体を抱きくすめながらも器用にその左手には優しく自身の手を添えている。烏丸がここに居たら八つ裂きでは済まないような光景に目眩がし、犬神はそら恐ろしいような心持ちになって師匠の不在を再度確かめるが如く目を泳がせた。
「な、な、鳴海っ……!」
最終的に恭介を膝の上に乗せて緩く抱き締めながらご飯を食べさせるという姿勢に落ち着いた圭吾を目の当たりにし、犬神は背中に滝のような汗を流しながらもさすがにここは突っ込みどころじゃないかと判断したが、いよいよ「あーん」をするしないで揉めるなどというバカップルのようなやりとりにまでエスカレートした現状には恭介自身が先に音をあげ、お腹に回された圭吾の腕を振りきりながらついぞ助けを求めるように鳴海の名を叫んだ。
「はいはーい! なぁに?」
元気よく片手をあげて返事をした鳴海とは対照的に、まるで近未来にタイムスリップしたら想像以上に環境破壊が進んでおり絶望と共に現代に戻ってきたという設定を背負ったタイムトラベラーか何かのように、打ちひしがれた声で恭介はただ鳴海を呼んだ。背後にへばりつくバイト要員のピンチヒッターとなったご機嫌な返事が得意な美少年の名を数度無駄に連呼した後、震え声を絞り出しどうにか次の指示を出す。
「俺、依頼の前に……っ、境内の掃除してるから……! ご飯食べたら出、てきてくれっ!」
そう言うや否や圭吾の用意した朝餉を猛スピードでかき込み、恭介は転がるようにして台所を出ていった。ギネスにでも申し込めそうな早業記録を叩き出しながらも去り際にご馳走さまでしたを言い置いていくあたり良い子に育ってくれたなと犬神は思ったが、去り行くその横顔は可哀想な程真っ赤に染まっており瞳などは殆ど涙を溢していないのが不思議なくらい潤んでいた。弾みでキスのようなことをしてしまった後輩相手にただでさえどんな顔をすればいいのか悩んでいたところ、このようにベッタリと介護されてしまっては息つく暇もなかっただろうと、犬神は憐憫にも似た眼差しでその背中を見送る。
「ごちそうさま~! んじゃ、俺らも行ってくるね。ワンちゃん、お出掛けするよ」
朝御飯は五秒以内に済ませるブルドーザー系美少年が今日も今日とて四・五秒で完食するという記録を叩き出し、まるで飼い犬を散歩にでも連れて行くかのような口調で犬神を呼ぶ。
ピクリと、ご機嫌そのものだった圭吾の眉が動いたのを気にしながら、一応土屋家でいうところの玄関にあたる扉へと向かい犬神は尻尾を翻した。
「……土屋先輩の依頼、お前が手伝うのか」
改めて玄関のあがりかまちで靴を片方ずつ履いている鳴海の背後から、まるで噴火前の活火山に手足が付いて動いていたらこんな姿形をしているのかもしれないとぼんやり犬神が思う程度の不穏さを纏って圭吾がやってきた。
「そりゃあ、どっかの誰かさんが謹慎になっちゃったからねぇ」
ガタガタとその噴火に恐れている犬神の隣で、欠片も臆すことなく鳴海がけろりと答える。
「恭ちゃんは嫌がったけど、霊は視えるに越したことないでしょ? もう、一人で危険な真似なんか二度とさせたくないし……かといって、圭吾はそんなんだから同伴はできないじゃん。ワンちゃんが贔屓目に俺を守ってくれるって約束して、漸く了承してもらえたんだよ」
自分が挨拶もできないうちに勝手に一之進を帰してしまったことへの腹いせもあって、鳴海はわざと棘ばかりを拾ってぶつけるような言い回しをした。
「だからおさんどん係に成り下がった誰かさんはせいぜいのんびりご飯でも作って待っててね」
避難勧告を出す暇もない程すらすらと圭吾の地雷を踏みまくる鳴海の隣で、犬神は無意識に両前足を合わせるようにしていっそ神に祈った。ここが神社でとりあえず良かったとぼんやり思う。恭介が最近祭壇の榊をないがしろにしがちですみません今日あたり新しいものを買って来させますと誰に言うでもなく頭の中で静かな誓いを立てた犬神だった。
怖いもの見たさで、ふと圭吾の顔を伺ってから秒で後悔する。うわぁ大層不機嫌な顔をされていらっしゃるという言葉が口をついて出そうになって、ぎりぎりのところで踏み留まった。それは思わずその現状に敬語を使いたくなるような、重々しくも恐ろしい顔付きだった。あれに比べたら阿修羅像などチワワレベルだ。夢に見たら間違いなく悪夢である。視線だけで草木を枯らしてしまいそうな圭吾と朗らかに活火山の中心部をどつきまくる鳴海に挟まれ、犬神は心静かに諸行無常を悟っていた。
「……無茶するなよ」
いろいろ言いたいことはあっただろうに、最終的に圭吾が選別した言葉はその一言だった。圭吾が大人でよかったと、犬神はそっと胸を撫でおろす。活火山扱いして本当にすみませんでしたと心の中で静かに謝った。
「どの口で言う~」
ひらひらと片手を振って、鳴海はおどけたように笑う。爪先を入れただけの靴をトントンと玄関のたたきに打ち付けて、人差し指と中指でかかとを内側へと誘導。緩く縛られた靴紐を最大限まで引っ張り、漸くその靴は、鳴海の大きな足を収納した。
「圭吾」
扉を横へスライドさせる直前、鳴海が小さくその名を呼んだ。いつものような間延びした明るいトーンではなく、それは清閑さの滲む声だった。
「何だ」
「そのままでいいから聞いてくれる? ……俺もしかしたら、恭ちゃんを助ける方法見つけちゃったかもしんない」
「……は?」
短い感嘆詞とも疑問詞ともとれる単語だった。圭吾の口から出た言葉なのか犬神の発した一言なのか、わからない程一匹と一人を包んだ衝撃は凄まじかった。
「でも、まだ確証はもてないし、危険なやり方には違いないから。調べなきゃいけないことも、いろいろあるんだ……だから、俺が改めて『方法』として圭吾に報告するまで、待っててくれる?」
「あ、ああ……」
にわかには信じがたい鳴海の言葉に動揺を隠せないまま、圭吾は僅かな猜疑心を引き摺りながら返事を返す。大きな目を眇めて、鳴海は少しの間押し黙った。そこにはまだ、少しの迷いがあったのかもしれない。
「俺は、外野にいるよ」
はっきりとした鳴海の声が、天井の高い玄関にぽつりと落とされた。
「圭吾みたいに当事者になっちゃえば、見えなくなるものもあるかもしれないもの。外側に立って他の方法を見つける役目は、きっと俺にしかできないと思うから」
「……巻き込んで悪かった」
鳴海の決意を改めて聞いて、気圧されたようにした謝罪以降改めて詫びていないことを思い出す。徳義に反するような真似をしてしまった自分の行為は、あのような謝り方では足りない程に酷い仕打ちだった。改めて頭を下げる必要がある。誰に指摘されるまでもなく、そのことは圭吾が一番よくわかっていた。
「謝ってほしいのは、そこじゃないんだけどなぁ……」
唇を尖らせて不満を溢す鳴海の声に被さるようなタイミングで、白虎が玄関に顔を覗かせた。どこまでも圭吾しか見えていないのかお前はと確かめたくなるほどまっすぐにマスターに近づき、気高い虎霊は恭しく頭を垂れる。
〝マスター、そろそろ茶碗蒸しが蒸しあがります〟
〝お前は白虎に何を命令してンだよ……〟
同じ動物霊として聞き逃す訳にはいかず、何とも複雑な思いで犬神は力なく突っ込んだ。
「……あ、そっか! そう言えば今日だったね。恭ちゃんにだけ内緒のサプライズちらし寿司パーティ」
〝サイドメニューで茶碗蒸しと吸い物も作る予定です〟
まるでシェフのように、自慢げに白虎が答えた。
「えー、どうしよう。人数って多い方が良いよね? 帰りに烏丸さんでも拾ってくる?」
〝そんな……犬か何かのように……〟
「ワンちゃんが犬か何かって言うの、ちょっとシュールだよね」
「連絡先も知らないのにどうやって拾ってくる気なんだお前は」
「そりゃあ、俺らは知らないけどさ。恭ちゃんは弟子なんだから、烏丸さんがよく落っこちてるところくらい知ってるでしょ? それを聞いて拾ってこればいーじゃん」
〝そんな……遺失物か何かのように……〟
自分だってそこまで敬意を払ってなどいないが、犬以上遺失物未満の扱いをこぞってされている烏丸の心中を慮り、犬神は彼の名誉のためにそっと嗜めた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「――ああ。気をつけて」
その瞬間鳴海の右腕を、妙な手応えが襲った。戸口の極端な開きの悪さに手首を盛大に捻って痛みに悶絶する鳴海をぼんやり眺めながら、そう言えばその扉結構ガタがきているからすごく開けにくいぞ、と今更遅いだろうかと思いつつ圭吾は真面目にアドバイスする。案の定ヒステリックに遅いよ! と叫んで、鳴海はひっくり返るようにたたきの上に転がった。
ガスの火を止め、不要だったアラームをリセットにする。強火で二分蒸した後、弱火で更に十分。優秀な相棒のお陰で、そのどちらの作業も大した誤差なく仕上げることができた。
すが入らないよう蓋と蒸し器の間に挟んでいた菜箸を抜き、上蓋を包んでいた布巾を剥がす。取っ手を掴み蓋を持ち上げると、熱の籠った蒸気が勢い良く顔にかかった。
瞼の奥まで染みた水滴に堪えるように、圭吾は強く目を瞑る。
恭介をただ、守ろうとして。
犬神に、白虎に、一之進に、烏丸に、鳴海に――正しく自分は守られていた。
〝マスター、何から始めましょうか〟
いつも静かな白虎の声が、少しだけはしゃいでいるのがわかる。それは、おそらくマスターの自分だけが気づくことのできる、ささやかな違い。
その僅かな変化を理解できる自分になれたことが、圭吾はただ嬉しかった。
「そうだな。まずは金糸玉子から作ろうか」
まったく仕方がないんだからとでも言いたげに、片手鍋をコンロに載せながら圭吾が愚痴を溢した。オール電化とはかけ離れた造りの木造住宅には世間で言うところのお洒落なIHもシステムキッチンもなく、手狭な台所にはカチカチと、ガスのスイッチを捻る音が響いている。面倒臭そうにちくちくと食卓への着席を促す圭吾の声には何故だか上野公園の花見客のような浮わついた空気も感じられ、はて自分は今愚痴とノロケのどちらを聞かされているんだろうかと犬神は虚空を見つめて首を捻った。
〝何だか前より生き生きしてンなぁ……〟
「案外向いてたかもね。恭ちゃん専属のおさんどん」
からからと明るい鈴の音のような声を響かせて、鳴海がてらいもなく台所の小窓から入ってきた。彼にとってのこの家には入り口だの出口だのという概念はないようで、身軽に体を翻しながらどう考えても入り口でも出口でもないような風通し窓からあっさり部屋へと侵入している。正式に玄関の敷居を跨がないこの珍客の来訪は最早珍しいものでもなく、前世がお庭番だったのかとでも問い詰めたくなる鳴海の所業に誰しも眉を潜めることはなかった。
「まぁ……はっきり割り切るには時間が掛かりそうだし、何やかや複雑な気持ちもあるみたいだけど」
靴を片方ずつ手に持って、鳴海が心得たように笑った。
きっと圭吾の本来の望みは、恭介の隣に立って、もう一本の柱になることだったに違いない。それを自らの失態で無期限に取り上げられる羽目になり、もどかしさがないと言えば嘘になるだろう。けれど反省しなければならない行為は確かにあったし、懲罰という形でしっかりその機会を与えた恭介の英断に、誰一人異論を唱える者はいなかった。
武器をひとつ手にした圭吾に、そんなものあってもなくてもいいから傍にいてくれないと生きていけないなどと後から思い返せばこちらの方が赤面しそうな熱い告白を言ってのけた恭介本人は居たたまれないかもしれないが、それによって圭吾の蟠りはその殆どが霧散したと言って良かった。傍にいるための理由を闇雲に探していた彼に、何かの理由を与えるでもなく、そんなものがなくても一緒にいたいだなんて、とんでもない殺し文句だと改めて思う。
〝……しっかし圭吾は、何のために今以上の力を必要としてたんだろな。白虎と盟約を交わしてるだけでも充分依頼はこなせてただろうし、戦闘能力が必要になるような、具体的な敵だっていねーだろ〟
今までだってさりげない圭吾の機転に何度も助けられたことのある犬神は改めて彼に付加価値が必要だと思ったことは一度もなく、そのような結論に至ってしまった圭吾の思考回路を読み解くことができずに首を傾げる。
「んー……多分だけど。恭ちゃんの心臓を守る方法がどうしても見つからなかった場合は、倒すしかないと思ったからじゃない?」
〝何を〟
「九尾を」
まるで天気の話をするかのごとくさらっと放り投げられたとんでもない言葉に、犬神は思考が追い付かずわかりやすく固まった。ちやほやと恭介の世話を焼いている圭吾の横顔を盗み見るように伺ったが、その本心までは推し量ることはできない。
先輩いつもご飯の時は左手を使っていたでしょう、え? 実は両利きで右手でも箸を持てるんですか? でも普段と違う手で食べるのはいろいろ不都合もあるでしょうから、暫くは僕に任せてください等々畳み掛けるように謎めいた理論を並べ立て、恭介の背後に回り込んでその体を抱きくすめながらも器用にその左手には優しく自身の手を添えている。烏丸がここに居たら八つ裂きでは済まないような光景に目眩がし、犬神はそら恐ろしいような心持ちになって師匠の不在を再度確かめるが如く目を泳がせた。
「な、な、鳴海っ……!」
最終的に恭介を膝の上に乗せて緩く抱き締めながらご飯を食べさせるという姿勢に落ち着いた圭吾を目の当たりにし、犬神は背中に滝のような汗を流しながらもさすがにここは突っ込みどころじゃないかと判断したが、いよいよ「あーん」をするしないで揉めるなどというバカップルのようなやりとりにまでエスカレートした現状には恭介自身が先に音をあげ、お腹に回された圭吾の腕を振りきりながらついぞ助けを求めるように鳴海の名を叫んだ。
「はいはーい! なぁに?」
元気よく片手をあげて返事をした鳴海とは対照的に、まるで近未来にタイムスリップしたら想像以上に環境破壊が進んでおり絶望と共に現代に戻ってきたという設定を背負ったタイムトラベラーか何かのように、打ちひしがれた声で恭介はただ鳴海を呼んだ。背後にへばりつくバイト要員のピンチヒッターとなったご機嫌な返事が得意な美少年の名を数度無駄に連呼した後、震え声を絞り出しどうにか次の指示を出す。
「俺、依頼の前に……っ、境内の掃除してるから……! ご飯食べたら出、てきてくれっ!」
そう言うや否や圭吾の用意した朝餉を猛スピードでかき込み、恭介は転がるようにして台所を出ていった。ギネスにでも申し込めそうな早業記録を叩き出しながらも去り際にご馳走さまでしたを言い置いていくあたり良い子に育ってくれたなと犬神は思ったが、去り行くその横顔は可哀想な程真っ赤に染まっており瞳などは殆ど涙を溢していないのが不思議なくらい潤んでいた。弾みでキスのようなことをしてしまった後輩相手にただでさえどんな顔をすればいいのか悩んでいたところ、このようにベッタリと介護されてしまっては息つく暇もなかっただろうと、犬神は憐憫にも似た眼差しでその背中を見送る。
「ごちそうさま~! んじゃ、俺らも行ってくるね。ワンちゃん、お出掛けするよ」
朝御飯は五秒以内に済ませるブルドーザー系美少年が今日も今日とて四・五秒で完食するという記録を叩き出し、まるで飼い犬を散歩にでも連れて行くかのような口調で犬神を呼ぶ。
ピクリと、ご機嫌そのものだった圭吾の眉が動いたのを気にしながら、一応土屋家でいうところの玄関にあたる扉へと向かい犬神は尻尾を翻した。
「……土屋先輩の依頼、お前が手伝うのか」
改めて玄関のあがりかまちで靴を片方ずつ履いている鳴海の背後から、まるで噴火前の活火山に手足が付いて動いていたらこんな姿形をしているのかもしれないとぼんやり犬神が思う程度の不穏さを纏って圭吾がやってきた。
「そりゃあ、どっかの誰かさんが謹慎になっちゃったからねぇ」
ガタガタとその噴火に恐れている犬神の隣で、欠片も臆すことなく鳴海がけろりと答える。
「恭ちゃんは嫌がったけど、霊は視えるに越したことないでしょ? もう、一人で危険な真似なんか二度とさせたくないし……かといって、圭吾はそんなんだから同伴はできないじゃん。ワンちゃんが贔屓目に俺を守ってくれるって約束して、漸く了承してもらえたんだよ」
自分が挨拶もできないうちに勝手に一之進を帰してしまったことへの腹いせもあって、鳴海はわざと棘ばかりを拾ってぶつけるような言い回しをした。
「だからおさんどん係に成り下がった誰かさんはせいぜいのんびりご飯でも作って待っててね」
避難勧告を出す暇もない程すらすらと圭吾の地雷を踏みまくる鳴海の隣で、犬神は無意識に両前足を合わせるようにしていっそ神に祈った。ここが神社でとりあえず良かったとぼんやり思う。恭介が最近祭壇の榊をないがしろにしがちですみません今日あたり新しいものを買って来させますと誰に言うでもなく頭の中で静かな誓いを立てた犬神だった。
怖いもの見たさで、ふと圭吾の顔を伺ってから秒で後悔する。うわぁ大層不機嫌な顔をされていらっしゃるという言葉が口をついて出そうになって、ぎりぎりのところで踏み留まった。それは思わずその現状に敬語を使いたくなるような、重々しくも恐ろしい顔付きだった。あれに比べたら阿修羅像などチワワレベルだ。夢に見たら間違いなく悪夢である。視線だけで草木を枯らしてしまいそうな圭吾と朗らかに活火山の中心部をどつきまくる鳴海に挟まれ、犬神は心静かに諸行無常を悟っていた。
「……無茶するなよ」
いろいろ言いたいことはあっただろうに、最終的に圭吾が選別した言葉はその一言だった。圭吾が大人でよかったと、犬神はそっと胸を撫でおろす。活火山扱いして本当にすみませんでしたと心の中で静かに謝った。
「どの口で言う~」
ひらひらと片手を振って、鳴海はおどけたように笑う。爪先を入れただけの靴をトントンと玄関のたたきに打ち付けて、人差し指と中指でかかとを内側へと誘導。緩く縛られた靴紐を最大限まで引っ張り、漸くその靴は、鳴海の大きな足を収納した。
「圭吾」
扉を横へスライドさせる直前、鳴海が小さくその名を呼んだ。いつものような間延びした明るいトーンではなく、それは清閑さの滲む声だった。
「何だ」
「そのままでいいから聞いてくれる? ……俺もしかしたら、恭ちゃんを助ける方法見つけちゃったかもしんない」
「……は?」
短い感嘆詞とも疑問詞ともとれる単語だった。圭吾の口から出た言葉なのか犬神の発した一言なのか、わからない程一匹と一人を包んだ衝撃は凄まじかった。
「でも、まだ確証はもてないし、危険なやり方には違いないから。調べなきゃいけないことも、いろいろあるんだ……だから、俺が改めて『方法』として圭吾に報告するまで、待っててくれる?」
「あ、ああ……」
にわかには信じがたい鳴海の言葉に動揺を隠せないまま、圭吾は僅かな猜疑心を引き摺りながら返事を返す。大きな目を眇めて、鳴海は少しの間押し黙った。そこにはまだ、少しの迷いがあったのかもしれない。
「俺は、外野にいるよ」
はっきりとした鳴海の声が、天井の高い玄関にぽつりと落とされた。
「圭吾みたいに当事者になっちゃえば、見えなくなるものもあるかもしれないもの。外側に立って他の方法を見つける役目は、きっと俺にしかできないと思うから」
「……巻き込んで悪かった」
鳴海の決意を改めて聞いて、気圧されたようにした謝罪以降改めて詫びていないことを思い出す。徳義に反するような真似をしてしまった自分の行為は、あのような謝り方では足りない程に酷い仕打ちだった。改めて頭を下げる必要がある。誰に指摘されるまでもなく、そのことは圭吾が一番よくわかっていた。
「謝ってほしいのは、そこじゃないんだけどなぁ……」
唇を尖らせて不満を溢す鳴海の声に被さるようなタイミングで、白虎が玄関に顔を覗かせた。どこまでも圭吾しか見えていないのかお前はと確かめたくなるほどまっすぐにマスターに近づき、気高い虎霊は恭しく頭を垂れる。
〝マスター、そろそろ茶碗蒸しが蒸しあがります〟
〝お前は白虎に何を命令してンだよ……〟
同じ動物霊として聞き逃す訳にはいかず、何とも複雑な思いで犬神は力なく突っ込んだ。
「……あ、そっか! そう言えば今日だったね。恭ちゃんにだけ内緒のサプライズちらし寿司パーティ」
〝サイドメニューで茶碗蒸しと吸い物も作る予定です〟
まるでシェフのように、自慢げに白虎が答えた。
「えー、どうしよう。人数って多い方が良いよね? 帰りに烏丸さんでも拾ってくる?」
〝そんな……犬か何かのように……〟
「ワンちゃんが犬か何かって言うの、ちょっとシュールだよね」
「連絡先も知らないのにどうやって拾ってくる気なんだお前は」
「そりゃあ、俺らは知らないけどさ。恭ちゃんは弟子なんだから、烏丸さんがよく落っこちてるところくらい知ってるでしょ? それを聞いて拾ってこればいーじゃん」
〝そんな……遺失物か何かのように……〟
自分だってそこまで敬意を払ってなどいないが、犬以上遺失物未満の扱いをこぞってされている烏丸の心中を慮り、犬神は彼の名誉のためにそっと嗜めた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「――ああ。気をつけて」
その瞬間鳴海の右腕を、妙な手応えが襲った。戸口の極端な開きの悪さに手首を盛大に捻って痛みに悶絶する鳴海をぼんやり眺めながら、そう言えばその扉結構ガタがきているからすごく開けにくいぞ、と今更遅いだろうかと思いつつ圭吾は真面目にアドバイスする。案の定ヒステリックに遅いよ! と叫んで、鳴海はひっくり返るようにたたきの上に転がった。
ガスの火を止め、不要だったアラームをリセットにする。強火で二分蒸した後、弱火で更に十分。優秀な相棒のお陰で、そのどちらの作業も大した誤差なく仕上げることができた。
すが入らないよう蓋と蒸し器の間に挟んでいた菜箸を抜き、上蓋を包んでいた布巾を剥がす。取っ手を掴み蓋を持ち上げると、熱の籠った蒸気が勢い良く顔にかかった。
瞼の奥まで染みた水滴に堪えるように、圭吾は強く目を瞑る。
恭介をただ、守ろうとして。
犬神に、白虎に、一之進に、烏丸に、鳴海に――正しく自分は守られていた。
〝マスター、何から始めましょうか〟
いつも静かな白虎の声が、少しだけはしゃいでいるのがわかる。それは、おそらくマスターの自分だけが気づくことのできる、ささやかな違い。
その僅かな変化を理解できる自分になれたことが、圭吾はただ嬉しかった。
「そうだな。まずは金糸玉子から作ろうか」
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2025.0808
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