恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンリミテッド・スノーマンの情景

6.

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 あ、と思った時にはもう遅かった。カウンターの上に無造作に置かれたカッターナイフが危ないななど、ちょうどいいタイミングで余所事を考えていたせいかもしれない。案の定配布する予定だった部屋割りのプリントが二枚足らなかったことにすべての意識が持っていかれたらしい修学旅行の実行委員は、たった今自身が使ったカッターが絶妙に危うい箇所に投げ出されてしまっていることや、それが少し刃を出しているかどうかなんてことには気にも留めていないようだった。
 委員会に属さない圭吾には優先順位の何たるかを彼に説く必要性も権限もなかったので、その成り行きをただ静観するより他にすることはない。何かがあればすぐに動けるようにだなんて生真面目に考えていた訳ではなかったが、やはり体は頭で考えるより先に動いてしまったようで。視界の隅で委員の彼が無意識に動かした右腕の肘による最後の一打で、ぎりぎり平衡感覚を保っていたそれは音もなく墜落した。
 大人しく真下に落ちてくれるのであれば大した被害もないだろうと思えたが、どこかにぶつかって跳ね返るなどしてしまっては、件のカウンターを背もたれにしている生徒が怪我を負う可能性もある。そう結論を出す頃には、もう体は動いていた。
「圭吾君!」
 近くにいた女生徒が、悲鳴をあげる。凶器になり損ねたそれを空中で捕まえることには成功したが、歯が出ていたことをつい失念しており力任せに握り込んでしまった。自ら刃先を掌に押し当てるような掴み方をしてしまったせいで、ピリッとした痛みの後に、どろり。何か生温かいものが滴る感覚がする。
「大丈夫……!?」
「圭吾君、これ使って……!」
 駆け寄ってくれた女の子達が口々に声をかけ、ハンカチをあてがおうとするが、見るからに可愛いげのあるフリルや精巧な刺繍に彩られたそれらを止血のために汚してしまうのは躊躇われた。負傷していない掌を相手に向けて、STOPのモーション。砂糖菓子のような甘い笑顔を浮かべながら、圭吾はやんわりと断った。
「大丈夫だよ。ありがとう」
 保健委員が慌てて脱脂綿とガーゼを持って来たため、それはありがたく頂戴する。脱脂綿で軽く血を拭き取って、消毒液を患部に垂らした。傷口自体は小さかったため、なかなか命中しない消毒液を、つい過分にふりかけてしまったようで。手首にまで滴った液体を、先程使った脱脂綿の汚れていない箇所で拭き取り、上からガーゼを押し当てる。渡された包帯を使うまでもないような軽傷に思えたが、突き返しても困らせるような気がしておとなしく巻くことにする。およそ男子中学生にしては手際の良過ぎる処置であったが、それらのすべては自身の怪我に一切の頓着がなく、あまつさえそれを隠そうとする非常に面倒くさくて可愛げのない某先輩に日々特訓されたが故の恩恵であった。
 交換用の予備にガーゼを何枚か貰い、胸ポケットに収納する。立ち上がって消毒液を返しに行こうとしたタイミングで、太腿のあたりに振動音を感じた。
 バイブレーションの発信源は、確認するまでもなく小型のスマートフォン。相手の状況次第で変わるだろう伝達手段が電話とメッセージアプリのどちらになるか判断がつかなかったため、短い振動でも感知できるよう肌に一番接触するポケットに入れておいて正解だった。
 申し訳なさそうにこちらを気に掛ける実行委員に軽く手を振って、親指で画面を下にスライドし、ポップアップを開く。短い文章でのSOSコールは、予想通りの人物からのものだった。

『恭ちゃんを助けて』

 普段うるさい程に使われている絵文字がひとつもない。切迫された状況を察知するには十分すぎるメッセージだった。だから言ったじゃないですか。反射で口をつきそうになった言葉を、ギリギリのところで飲み込んだ。きっと、あの上司は一生こんな人だから。無理に変えるのが難しいのであれば、そこまで考慮して先回りするのが自分の役目。
「先生」
 近くにいた担任を捕まえ、圭吾はすぐに表情を作った。
「出発前にご相談していた件なんですが……姉の調子が良くないみたいで。その……やっぱり僕、旅行は中断して、自宅に戻っても構いませんか……?」
 申し訳なさそうに頭を少し下げて、緩く開く口許で力なく笑う。普段見せないおどおどとした話し方を意識し、僅かな動揺をも滲ませた。
 いきなり姉の不調を訴えて早退を提案しても――普段優等生を気取っている分疑われることはないだろうが――余計な疑惑を持たれたり、早退の許可が降りるまで時間が掛かるのも避けたかった。いざという時にすぐ動けるよう万全の状態を整えておくために、前もって姉の調子が良くないと担任にはあらかじめ話しておいたのだ。
 調子が悪いどころか元気を有り余らせている姉について体調不良などと不謹慎な嘘をつくのは多少良心の呵責に苛まれたが、二人暮らしの彼女に心配事があるという理由が、今の圭吾の家庭環境も相まって、一番帰宅しやすい口実になると踏んでのことだった。
「そうか……! それなら駅まで送るよ」
 案の定少し人の好すぎるその教師は、まるで自分の身内に何かあったかのように胸を痛め、保護監督責任を担うべく付き添い役を買って出た。
「それなんですけど……ちょうどこの近くに親戚が住んでいて、付き添ってくれることになったので大丈夫そうです」
「そうなのか? いや、でもそれならせめて親戚の方が迎えに来るまでの間」
「あ、すみません……! 到着したようなので、もう待ち合わせ場所に向かいますね」
 圭吾は努めて動揺している演技を心掛け、不都合な提案をされる前に駆け出した。圭吾に寄り添うことを選べば、必然このクラス全体の生徒を見る先生がいなくなってしまう。保護者が無事到着したことを伝えれば、追いかけてくるような事態にはならないだろうと読んでいた。
 案の定、人の良い彼は近くにいた生徒に絡まれている。そのうちに視界から消えてしまうつもりで、走り出した足にスピードをのせた。
〝マスター、乗り換え口なら逆方向です〟
「白虎、霊道を探してくれ」
 賑わしい駅から寂れた路地裏へと走る圭吾を引き留めるが、鮮やかな程端的に命を下された。
〝霊道……ですか?〟
「前に、烏丸さんの札で霊道を通って移動したことがあっただろ?」
〝はい〟
「あれが、霊門から現世までもを移動できる手段であるなら、からも可能な筈だと思って、あらかじめ頼んでおいたんだ」
 何を誰に、という言葉は飲み込んだ。圭吾が内ポケットから取り出したのは、習字紙のような素材の紙に、朱色の引き文字が書かれた札。見覚えのありすぎるそれがどういった経緯で彼の手元にあるのかということは、改めて確認の必要がない程に明確だ。
〝あの男が、よく作ってくれましたね……〟
「目に入れても痛くないくらい可愛いと思っている先輩の安否が掛かってるなら、目に入るまでもなく痛いと思う僕の依頼でも引き受けてくれるらしいよ」
 青汁と苦虫をドッキングさせてシェイクしたジュースを飲んだ直後かのような苦悶顔で圭吾の依頼を渋々ながらも引き受けたその男は、まるで気が進みませんという感情を隠しもしない表情に反して仕事は早かったようで、次の日にはもうこの札を用意してくれていた。渡す時にお前マジで夜道とか背後に気を付けろよなどと物騒な忠告をする程度の刺は向けられたが、それでも圭吾の意図は理解してくれたようで、それ以上の毒を浴びせられることはなかった。
〝マスター!〟
 白虎が艶々と光る尻尾を翻し、中央改札口の横に設置された、遺失物取扱所の柱に向けて吠える。片目を細めて凝視するが、圭吾の目では特に異変を見つけることは叶わない。けれど、用意していた札を白虎が指し示す場所に投げた瞬間、空気がどろりと溶けるのがわかる。
 恭介の身が危険に脅かされるようなことがあれば、駆けつける方法として新幹線では遅かった。まさに今彼に危機が近づいているというのに、一時間半の復路をおとなしく耐えられる気はしなかったから。
背をしならせて横へ傅く従順な霊に向け、圭吾はマスターとしての指示を出す。
「飛んでいくぞ、白虎」
 圭吾をコーティングするかのごとく、その姿を薄い膜に変えた白虎は、主を包むなり黒い靄の中へと飛び込んだ。

「いちくん……」
 縋るような声になってしまったのが恥ずかしくて、思わず片手で口を覆う。鳴海のそんな葛藤などまるで気がつかない鈍感なその男は、いたずらを思い付いた子供のようにニヤリと笑い犬神の頭を乱暴に撫で回した。
〝事情は知らねーが、鳴海が怪我してて近くに圭吾もいねェ、犬神が恭介の傍にいねェ、ってこたそれなりに緊急事態ってことだろ〟
 この場にいるメンバーから推測できる方程式によって、粗野のようで存外頭の回転が早い元商人の霊は、盟約主の傍を離れて戦闘に巻き込まれている犬神の異常事態を素早く理解し、迷うことなく臨戦態勢をとる。
〝前に拓真を助けて貰ったよしみだ。鳴海のことは俺に任せて、お前は恭介の元へ走れ〟
〝だがよ……!〟
〝信頼するのも、のひとつだぜ? これは放棄じゃなく、役割分担だ。見たところあのいけ好かねェ金髪野郎も見当たらねェが、あのヤローが万一恭介と一緒にいたからと言って、戦力としてはマイナスなぐらいだろ。九尾はまだ使えないだろうし、第一……〟
「第一?」
〝……いや、今話すことじゃねェわ〟
 言葉尻を濁した一之進は鳴海の問い掛けに応えず、前髪を掻き上げながら嘆息した。
〝いいか犬神。これはごく単純な作戦だ〟
 すう、と腹いっぱいに息を吸い込み、この近距離で不親切な程の声量で怒鳴る。
〝俺らのことを信じてんなら、走れ!!〟
〝すまねェ、一之進……!!〟
 後ろ足で地面を蹴りつけるように、犬神が飛び出した。足止めするように放たれた智也の追撃を、阻むように一之進が石つぶてを巻き上げる。
 相殺されて跳ね返った瓦礫の雨から守るように、拓真が鳴海を背に庇った。
〝クソッタレ! 結局俺の力も、物を介してじゃなきゃ通用しないってことかよ……!〟
「おんなじように見えても、生き霊と死霊の違いってあったんだねぇ……」
〝感心してる場合か!〟
 まるでさして面白くもなかった映画についてあたりさわりのない感想を言う時のように気の抜けた口調で呟く鳴海に歯を剥いて、一之進が飛んでくる灯籠に瓦礫の残骸をぶつけて応戦する。既に足止めできそうな大きな石は、その殆どが粉々に砕けてしまった後だった。
「――鳴海さん」
 何かを考えるように押し黙っていた拓真が、ふいに口を開いた。
「なぁに?」
「ひとつ、策があります」
〝……策だと?〟
 ピアノに関しては他の追随を許さぬ才があるのは知っているが、やれ戦闘だのお祓いだのといったことについては一番の素人だ。訝る一之進に、拓真は訴えるような視線を向ける。
「以前……兄を助けていただいた日、家まで送ってくださった烏丸さんが、どんな状況だったのかを簡単に説明してくれたんです。鳴海さんに一之進がとり憑いて、暴走する兄の霊と対峙してくれたって……またそのような状況を作れば、彼と応戦できませんか?」
「……」
〝なるほど……確かに鳴海の体を介せばそれはの力になるし、単純にパワーアップにもなるな〟
 前回、予定していたより長く、鳴海の体に入っていたことを思い出す。あれだけの時間憑依していても体は動かしやすかったし、鳴海の持つ本来の霊力も相まって、一之進は実力以上の働きを見せることができた。
「でも……あの時はもともと俺が気を失っていたから……」
 当時と決定的に違う現状を嘆く言葉に、三人は一同押し黙った。故意に意識を失う方法を瞬時に思い付くことはできず、鳴海が途方に暮れたように俯く。
「……方法なら、あります」
 右手に提げていた紙袋の中から、拓真が見覚えのある瓶を取り出した。
「それは……!」
「私の荷物に、紛れていたんです。今日……実はこれから恭介さんに、改めて兄のお礼と、一之進のことを報告するつもりでご自宅へ向かっていたのですか……そのついでに、お返しするつもりで持ってきました」
 震える掌の上で、拓真が瓶をひっくり返す。ラムネ程の大きさの一粒が、乳白色の肌の上へ転がった。
「これって確か……頭に思い浮かべた霊を、体から引き離すことができる、んですよね……?」
 僅かな違和感と根拠のない警告に鳴海の視界がちかちかしたが、鳴海が何かを言う前に、一之進が会話を遮った。
〝駄目だ。そんな物騒なもん、鳴海に飲ませる訳にいかねェよ〟
 忌々しさを隠さずに告げられた彼の言葉によって、拓真の提案はただちに唾棄された。
(でも……それじゃあどうするの……?)
 現状、その案以上の打開策はない。こうして作戦を立てている間にも、一之進の作った瓦礫の盾が、みるみる崩れていくのに。方法はあっても、それを選ぶことができない。理由は簡単だ――鳴海が、ここにいる人間のから。
(恭ちゃんは、躊躇いなく飲んだのに)
 そうやって、誰かの背中にばかり庇われていた。大人の烏丸だけでなく、同年代の圭吾でさえそうだ。誰一人、自分に戦えなどと命じてくれる人間はいない。まるで、柔らかな戦力外通告だ。盟約相手も、その手段もない鳴海はいつも、庇護対象の域を出られない。
(また、俺ばっかりが守られるのは嫌だ)
 理屈はわかっている。仲間外れされているとは思わない。頭のどこかで、そのような扱いをされることには納得していたし、もし鳴海が別の立場にいたとしても、自分のような存在がいれば同じように動いていた、と思う。
「俺……飲むよ」
〝鳴海……!?〟
 けれどそれを、いつまでも仕方のないこととして片付けていたくはなかった。鳴海にだって、守りたいものがある。優しい元商人の霊にゆうるりと微笑んで、鳴海は小さく首を振った。
「いち君、心配してくれてありがと。でも、いいんだ。手段があるなら、それを選びたい……俺の体を使ってくれるのがいち君なら、何にも怖くないよ」
 握りしめていた手を、拓真の前に差し出す。提案した筈の拓真が、びくりと肩を揺らせた。僅かに潤んでいる、迷いのある瞳。まったく危険がないとは言い切れないその小さな粒を、故意に飲ませるにはどうしても躊躇いがあるのだろう。
「もとに戻る方法は……後で、恭ちゃんか烏丸さんに聞くから、大丈夫」
「鳴海……さん」
 怖くないのは嘘じゃなかった。だって、それは何の武器も持たない自分にだけ許された、一之進と共鳴できる特権。背徳感とそれを遥かに凌駕する幸福感で、くらくらするくらいだ――自分の体を好き勝手にしてくれるのがこの世界で唯一彼だけだなんて、甘美とも言える快感だと、思える程に。
「……いち君。俺の体に乱暴しないでね?」
 優し過ぎるその霊に、わざと茶化すような言い方をしてみる。鳴海の軽口が何を意図したものか、悟れないほど鈍感じゃない。如何ともしがたい顔で一之進は、呻くように「しねぇよ、バカ」と呟いた。
 その顔があまりに可愛くて、恐怖さえ忘れ鳴海は一息でその粒を飲み込む。犬歯で噛み砕き、唾液に素早く溶け込ませた。くらり。揺れる視界に映る心配そうな一之進の顔が、鳴海をどこまでも勇敢にさせる。
 嚥下すると同時に、意識がぶれた。倒れ込む自分の体を、文字通り俯瞰した位置で確認する。鳴海がふいに一之進の姿を探そうとした瞬間、強い風ですべての瓦礫か巻き上げられた。それはひとつの巨岩に固められ、頭上高くから振り落とされる。
「主もろとも、死んじまえ」
 智也の冷たい声が耳に届き、一縷の逃げ道も許さない瓦礫の粒が降り注いだが、不思議と怖くはなかった。鳴海と拓真の前に立ちふさがるように、ゆらりと現れた人影が誰なのかを、知っているから。
 ひと凪ぎですべての弾丸を弾き返したその男は、くつくつと喉で笑いながら肩を鳴らした。
「おい……てめェ無防備な女子供に容赦ねーことしやがって、マジ覚悟しとけよ」
 黙っていればウィーン少年合唱団に在籍しているかの如く華のある可憐な美少年が、たった今出所したばかりの極悪人もかくやという程卑劣な笑みを歪めて、ポキポキと指を鳴らしている。
〝もー! だから俺は男の子だってば……〟
 拗ねたように反論しながらも、失礼な発言をしたこの男にこんなふうに揶揄われることは、存外気分の悪いものではなかった。
 ――だって、それは鳴海だけにしか向けられない、彼の可愛い意地悪だから。
「おい、細目野郎。尻ごんでねェでかかってこいよ。てめーの肋骨、上から順番に折ってやらねェと気が済まねェんだわ」
 おおよそ自分は一生口にしないだろうなという程物騒な一言を鳴海の前で吐き捨てて、一之進はゆっくりと右肩を回してみせた。
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