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アンチノック・スターチスの誤算
8.
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反省すべき点はいくつかあった。
そもそも、子供だけで何の保証も保険もないこの場所に来るべきではなかっただとか、保護者同伴でないことを自覚して、出発の折、もしくは到着の際に烏丸に一報を入れることに関してもう少し執着すべきだっただとか。
重要視されるべくは、太陽が傾く角度ではなく、子供二人でどうにもならないような状況に陥らないよう、迂回をするか石橋を叩く慎重さを持ち続けることだった。もし、巻き戻すことができるなら。今この時が録画したテレビ番組のように編集が可能になり、はいどうぞとリモコンを渡してもらえたのなら、すぐにでも左に尖った角が向いている正三角のマークがデザインされたボタンを押していたに違いない。浮かれた頭で、いそいそと水筒に氷を入れていた時に、いやいっそ恭介と肩を並べて食器の片付けをしていた時にまで戻したい。例え可愛い顔で「初めて」だとねだられたとしても、その初めてをすぐにでも奪いたいと暴れる獣の喉元を秒速で仕留め、間違いなく二人きりでデートできるチャンスを逃したくないと逸る両足の皿を割ってでも引き留めていただろう。
けれどどうあがいたって、現状圭吾の喉仏は無事のままであるし、両足の皿も皸ひとつ入っていないし、それらを引き換えにしてなかったことにできる過去などあるはずもなかった。
圭吾は改めて、己の頭が動いてなかったことを思い知る。浮わついていた足の裏に、ようやく体重が乗ったような感覚。ふう、と息をひとつ。切り替えるための意味のない動作が、今の圭吾には必要だった。選択肢は逃げるの一択だったが、おとなしく見逃してくれるような相手ではないだろう。倒すまではいかないまでも、目眩ましになるレベルの応戦は必要だった。
そこまで考えて、はっと気づく。そう言えば、妙に静かだった。
例えばそれは空気のように、或いは大地のように、そこにあって当たり前すぎて、馴染んでしまったものだった。圭吾の相棒はこちらから声を掛けなければ姿を現さない殊勝な一面があるが、このような非常事態であれば己から指示を仰ぎにくるような過保護さもある。それより、何より――事態に非常と思われる要素があろうがなかろうが、圭吾の焼きもちを刺激する程度には常に隣にいてやいのやいのと口を出す恭介の相棒がまるで姿を見せていない。
(待てよ、これ)
(いつからだ……?)
「しの」
恭介の声は冷静だった。乾いた喉を、ようやく唾液が通過した。喉が乾いていただなんて、圭吾は今初めて知った。
「走れるか?」
「……どういう意味です?」
「この森に入ってから、いなくなってた」
頭にあった疑問を、直接拾い上げるような言い方で恭介が言った。恭介の視線が右側のやや上を確かめるように動いたので、主語がなくてもいなくなったのが何かは理解できた。
「嫌な予感はあった。だから一応、仕掛けてきた。目印もある。しのと俺にだけ、わかる目印だ」
そう言ってから、ぐり、と親指を圭吾の制服の裾へ擦りつけた。
恭介がまるで圭吾のように端的に話すのは、必要性と信頼があったから。目の前の敵の耳にどこまでのことを拾われてしまうのかわからない中、あの時こう思ったので具体的にこういうことをしましたなどとあけすけに話す訳にはいかない。袖口に擦り付けられた恭介の血を、こめかみの汗を拭うふりをして口に含む。
じわり。布のざらついた感触が唾液を吸うかわりに、とろりと無味無臭のそれが口の中に溶けた。三日三晩水を与えられなかった野犬のように、口の中に広がるそれを一滴も取り残さないよう嚥下する。ごくり。喉を通過する生々しい音が、圭吾の後ろめたさを逆撫でた。
「ねえ、ひとつ聞きたいんだけど」
今にも降り出しそうな曇り空のような顔で、女は笑った。
「私、そんなにひどいことをしたかしら……?」
細い指で拾った石をお手玉のように宙へ投げ、左手で受け止める。
「先に、酷いことをしたのはそっちじゃない」
もう一度、石を空へ放って、二度目のキャッチ。ぐにぐに、と感触を確かめるように握って、中身のないコメディ映画を鑑賞した直後のような興醒めた顔で目を伏せた。
「弟が、寂しがってるといけないから……一緒にいてくれる友達が欲しかったけど、駄目ね。霊力のないペテン師の魂は、何ひとつ役に立たない」
「だから、逃したんですか?」
まともに相手するつもりなどなかったけれど、掌に握り込まれた弾丸が振り翳されるまでの時間稼ぎで圭吾は問い掛けた。てるてる坊主の数に関する圭吾の推測が正解なら、霊能力がなかったからこそ無事だったペテン師がひとりいるはずだった。
「ええ、そうよ。でもだからって、他の三人も、直接殺してなんかないわ。自分で死んだのよ」
「自分で……?」
殺傷能力など余りあるだろう小石を握りしめた女が、意外なことを口にした。惚れた男を目の前にした遊女のような顔でうっとりと笑いながら、酷く楽しげに言葉を紡ぐ。
「私、その人がこの先の人生で、最も絶望する瞬間を見せることができる能力を持っているの。それで、見せてあげただけ」
飴玉を拳の中に隠した子供のように圭吾たちの前へ突き出して、人差し指、中指、薬指。一本一本広げられてゆく指に目を奪われた圭吾に、揺りかごを揺らすような心地良い声で女が話し掛ける。
「つらい未来が先にあることに耐えられなくて、勝手に死んだの。だからあなたも」
「……っ、しの……!」
囚われていることに漸く気づいた恭介が、圭吾の袖を強く引いた。それは、僅かな差だった。圭吾が、瞬きも呼吸も忘れたように固まる。恭介ははく、と喉を詰まらせた。
もう、この声は圭吾に届いていない。視線を目の前に動かせば、女が小指を伸ばしきってしまった後だった。
「あなたも、死んだら?」
重力に引っ張られて落下する石に釣られるようにして、ぐらり。圭吾の上半身が傾いて、ホトケノザとヤエムグラが生い茂る雑草の中に顔面から崩れ落ちた。
見覚えのある天井だった。
寝ることに関しては他の追随を許さぬ程に真摯に取り組む恭介を起こそうとして、袖ごと布団の中に引きずり込まれたのが、七回。九尾に取り込まれることを欠片も恐れずに、裏切り者の後輩と周りの人間をたった一人で傷ひとつつけることなく守ろうと無茶をした結果昏倒した恭介の頬を見ていられず天を仰ぐようにして上を向いた時に、一回。見覚えのある今にも軋みそうな天井は、昭和後期に流行した某バラエティ番組のように、突然丸ごと降ってきてもおかしくない程度には老朽化していた。
ビキリ、と左側頭部に走る、鈍器で殴られたかのような、局所的な痛み。目を細めてあたりを伺いながら、圭吾はゆっくりと頭を持ち上げた。
仏壇の目の前に敷かれた布団に胡座をかけば、祭壇が視界に入った。伏せられた写真立ての隣に、供えられた大判焼きが見える。きれいな丸の形に整えられた和菓子の、一番端。自分なら、それだけを粒あんにするから気がついてしまった。閉じられた口から、僅かに溢れているのが餡だということも、豆のような粒が見え隠れしているから、それが粒を崩さないままコトコトと煮込まれた小豆だということも。
クリームやチョコは上手に生地の中にしまい込むくせに、粒あんだけは溢れるサービス精神も相まってか、少しはみ出してしまうくらい詰め込んでしまう店長の顔を思い出そうとして、靄がかかる。圭吾が常連であってもなくても、きっとあんなふうに、自身の持っているものをパンパンに詰め込んで、相手にできるだけ多くを持たせようとする優しい人だった。
「気がついたか」
ぞくり。どこか聞き覚えがあるのに、通行人に不意に声を掛けられたような空々しさもある声。腹の底から冷えたような心持ちになった。
まさか、そんな訳がない。
某都市伝説の番組のネタにでもなりそうな、現実離れした現状。それでも、どこかで納得もしていた。この優秀な頭は、その声を生まれた瞬間から聞き続けているということを。
「懐かしいな、その制服」
唇の端をいびつに歪めながら、男は笑った
「あの人が生きていた頃の僕だ」
「……っ」
絶望は、穏やかな声でやってきた。
趣味の悪いジョークならどれほど良かったか。けれど、決して自分はこのような悍しい冗談を言語化しないだろうということは、自分だからこそよくわかっている。あの人、と彼は言った。名前を言われた訳じゃない。それでも、圭吾がこんなにも愛おしそうに、狂おしい程の執着で閉じ込めてしまいたい、触れがたい宝物のように呼ぶ人間は――この世に一人だけだ。
「そんな訳がない」
震える喉が、受け入れがたい未来を否定した。伏せられた写真立てを目の前で起こされ、まざまざと見せつけられても。それは、そうなんですかと認めるわけにはいかない、何を差し置いても、どんな犠牲を払ってでも、圭吾が一番回避したいバッドエンドだ。
「僕が、生きているのに……先輩が死んでいるなんてあり得ない」
「間に合わなかったんだよ」
憐れむような声が、残酷な未来を端的に述べた。
「呪いを解く方法が見つかる前に、あの人の命が尽きてしまった。僕だけが……生き残ったんだ」
「僕だけが……?」
妙な言い回しだと圭吾は思った。現時点では――少なくとも圭吾が中学三年生の時点では、その呪いにかけられたのは自身と、恭介だけだ。
なのにまるで今、圭吾の周りにいる人間が、殆ど死んでしまったような言い方だった。
「城脇も死んだよ」
ヒュッ、と木枯らしのような音を立てて、空気が喉を通った。一点の曇りもない朗らかな鳴海の笑顔を思い出しかけたが、その残像は陽炎のようにぼやけていて輪郭がない。
「勘違いしないでほしいんだけど、別に一之進を諦めきれなくて自殺した訳じゃないよ。まぁ……結果的に、同じ死後の世界に行けたことには、満足はしているかもしれないけど」
「いつ」
心当たりなんかなかった。鳴海はいつも冷静で、無意識下で体の半分をどっぷり初恋に飲み込まれてしまったが故に恭介の足枷になろうと自身の命を使ってまでも同じ土台に立とうとした圭吾に反し、公平を期すために外野にいるとはっきり宣った男だ。今更彼が何かしらの選択を誤り、九死に一生を得ることなく絶命したとはとても思えない。
「恭介さんを助けようとして、失敗したんだ。あの人の呪いの半分を、ひとりで背負い込もうとしてそれが叶わなかった」
僅かな嫉妬が、大人になった圭吾の唇を醜く歪ませた。嫉妬、だと思う。はっきりとはわからない。向けられた憎悪が、哀愁が、何によって生まれ、どこにぶつけられているのかなんて。
ひどく、喉がカラカラだった。
「言ってたろ」
「……何を」
「あの時、この家の玄関で。外野にいるって僕に、言った日の朝」
――俺もしかしたら、恭ちゃんを助ける方法、見つけちゃったかもしんない。
「あの時は、城脇の方から……具体的なことを話してくれるまで、待つのが正しいと思っていた。だけど」
日が差し込んでいた、石畳の玄関。パリの街路樹を彩るお洒落なレンガのそれではなく、川辺の砂利を拾えるだけ拾って敷き詰めたみたいなランダムなデザインも、足のツボを絶妙に外したところにボコボコの表面が当たるあの感触も、まるで昨日の出来事のように脳裏に蘇るのに。
「あんなことになるなら、無理矢理にでも聞き出せば良かったな……」
それは、もう手の届かない遠い過去。今圭吾が選んでいる、現在の道が、このどうしようもない寂寥と後悔を握りしめるみたいに、生き続けなきゃならない未来につながっている――なんて。
「どうにもならなかったのか……!?」
胸倉を掴んで、糾弾している側が、されている側に救いを求めているかのように縋りつく。
「本当に、先輩も……城脇も、誰一人助ける道はなかったのか……!?」
「恭介さんが、僕を庇ったことがあったんだ」
それは、まるで溺れている人間の放つような、救助がいると思わせる弱々しい声だった。
「何……」
「その時、お腹にできた傷が深くて……葬儀の時に触ってみたんだ。指に」
大人になった圭吾が、記憶をなぞるようにして、中指と親指をこする。
「傷痕の感触がして……僕が、あの人に残してあげられたものなんて、それくらいだよ」
「……」
ゴツゴツとした醜い痕を思い出そうとして、失敗したのだろう。現実には、傷ひとつついていないなだらかな指が、自身の肌を滑るだけだった。陶器のように美しい、柔らかなそれに、まるで木の枝を無理矢理押し込んだみたいな、痛ましい傷痕が残っていたのだと疲れた声が語る。
「情けなくて、悔しくて……でも、この人にこんなふうに、一生消えない傷痕を残せたのが僕だと思うと……嫌な、優越感もあって」
残夏の気温が、首筋に、腕に。まとわりつくのがひどく不快だった。べっとりと貼り付く半袖のシャツも、熱を籠もらせたまま肌を閉じ込めるスラックスも。何もかもが振り捨てたいくらいに煩わしかった。
煩い。やめろ。何ひとつ諦めていないのに、こんな未来が用意されているなんて誰が信じるか。
こめかみを伝う汗が瞼を滑り、大人になった圭吾の眦を濡らす。
「言ってしまえば良かった、好きだって」
石が喉に詰まっているような掠れた声で、彼は言った。
「あんなに、早く……いなくなってしまうなら、聞かせてしまえば良かった。この、忌々しい気持ちを」
震える指は、きっとまだあの傷痕の感触を探しているのだろう。寝間着も私服も、黒装束みたいな色の着物しか好まなかった彼のことを、思い出のように語るのが嫌だった。
本人は知らないだろうが、はだけた時に不意に見えるふくらはぎも、項も、二の腕も。漆黒の布地がその白い肌をより一層艶めかしくさせていたのがたまらなかった。何もかもを諦めて、些細な優しさに触れるたびに泣きそうになって。それは、その顔が涙でぐちゃぐちゃになるまで愛して、追い詰めて、そんな身勝手な圭吾の感情を全部無条件で許して欲しいと膝をついて、無様に縋りつきたくなる程の横暴な愛だった。
その人を失って、この両足に成人になった己の体重を乗せ、立っていることなんかできるのだろうか? あれ以上動くことのない感情と心臓を抱えて、二人で過ごした記憶ごと閉じ込めたみたいな、そこら中に彼を思い起こさせる名残のあるこの家に一人きりで?
「……お前は、この世界に来るなよ」
低いそれは、死にかけの肉食獣みたいに獰猛で頼りない声だった。
「もし、この未来につながることが、正しい道筋だというのなら」
ぐらり。回転扉に押し込められたみたいに視界がひっくり返る。慌てて視線を戻すと、無表情だった唇を僅かに震わせて、未来の圭吾だと名乗るその男は言い捨てた。
「歪めろ」
「――しの!」
台風の真ん中に突き落とされたみたいに、暴風音が鼓膜を突き抜ける。圭吾の体は、まるで初めからそこにあったみたいに、野草の上に横たわっていた。思案げに覗き込んでいるのは、恭介だった。両手足も、あの悍ましい写真立てで見た大人のように成長していないし、髪の長さも、幼さの残る顔立ちも、圭吾が記憶していた彼のままだった。
「先輩、」
次にどうつなげるつもりだったのかも忘れてしまう程、大きな衝撃があった。圭吾には悟られないようにと体を捻って死角を作っていたって、赤黒い染みがアルノブルーのブレザーにまで広がっているからわかる。どう見ても軽傷ではないものが、恭介の腹を抉っている証拠だった
「どうしたんですか、その怪我……!?」
飛び起きて、圭吾は華奢な肩を掴む。更に身を捩って逃げようとする腰を引き寄せて、まるで強引に事に及ぼうとしているかのような姿勢で、恭介の体を閉じ込めた。
「まさか、僕を庇って」
「気にするな。大した傷じゃない」
気にしないでなんて、いられる訳がなかった。血が止まる気配のない傷口も心配だったが、何よりそれは――確実に痕が残るであろう深さだ。ペンキをひっくり返して塗りつぶしてしまいたい程の嫌な現実に、逃げる術もないまま飲み込まれているような気がした。
あのねっとりとした熱帯雨林のような絶望が、足首から直接這い上がって来ている感覚。
まさか、本当に――本当に、二十歳になった、彼は。
「それより、走れるか?」
「え……?」
そういえば、あの女はどうしたのだろう。すっかり、自分と恭介のことだけで頭がいっぱいになって忘れていた。慌てて後ろを振り返ると、ニ枚の札で動きを封じられた女が、四つん這いになっているのが見えた。
「そろそろ、飲んだ俺の血が巡ってきた頃だろ。ここに来るまでの道のりで、何箇所か木の幹に血で印をつけておいた。それを辿って逃げろ。あの札は、そんなに長く動きを止めることができないんだ。もう一枚使ってからすぐに、俺も後を追うから」
ここに来るまでの道すがら、恭介が時々よろめくようにして、木の幹に手をつけながら体を支えていたのを思い出す。慣れない山道を、ローファーで歩いたせいで疲弊しているのだと思っていた。実際は、この上司は上司として、このような事態になった場合の避難ルートを確保していたのだと今更知る。
圭吾には、何か予感めいたものを感じる程度の警戒心はあっても、もしもの時に備えられるよう動く程の余裕はなかった。恋に浮かれた思考回路が今、恭介に一人で先に走れと言わせ、それが未来に――あの一人で暮らすには広すぎる神社の仏壇に、一つだけ粒餡の大判焼きを供え、手を合わせるだけのことしかできない未来に、つながっているのだ。
「入り口の近くに、血液で囲った結界がある。その中で夜明けを待って、明るくなったら町へ降りろ。電波がつながる場所まで逃げたら、師匠を呼んでくれ」
入り口付近でぐるぐると、迷うように木の周りを歩いていた恭介を思い出す。その言い方はもう、圭吾一人で逃がすことが確定になっていた。後から追いかけるだなんて、真っ赤な嘘だ。本当は最初から、一人で犠牲になるつもりのくせに。
「僕だけ先に行かせて……あんたはどうするんですか」
「心配しなくても、うまく逃げるよ」
パチパチと、爆ぜるような音が僅かに聞こえる。札から出ていたオーロラのような膜に、僅かな歪みが生じていた。
「ぐずぐずしてたら、あっという間に燃え尽きるぞ……あれ。いいから、早く行」
「ふざけるな!」
「しの……?」
恭介の手首をもぎ取る勢いで掴んだ。理性は半分失っていた。けれど何も学ばなかった訳じゃない。圭吾は、残り半分の理性で現状把握と現段階の選択肢とその中から選りすぐったベストアンサーを叩き出すまでの思考を秒速で行った。
敵は一人。拘束はできているが、時間はない。幽霊である可能性が高いが、特別な能力と長年の恨みつらみを抱えただけの人間という可能性も捨てきれない。生身の人間にも、幽体にも効果のある目晦ましが必要だった。
「僕は、絶対に貴方の傍を離れません。一緒に結界まで走りましょう」
気持ちは籠りすぎていた。結界に着いたって、たとえ二十の頃にこの体が死体になったって、傍を離れないと心に強く決めていたから。
(いや、違う)
(死体になんかさせない……!)
「でも、他に方法なんか……」
恭介の反論を聞かず、圭吾はポケットに収納したまま存在を忘れていた携帯を手に取った。電源ボタンを、指を押し込むように強く潰して再起動をする。その間に恭介を両手を取り、背中から胸へと回させた。
「っ、何……」
脇腹の後ろに、べっとりと血が貼り付く感触がする。これだけの出血量で、先に行けだなんて。改めて恭介の人となりを思い出して腸が煮える。
一度明るく発光してから、緊急通報を問い掛ける画面へと切り替わった。親指で四桁の数字を入力し、エンター。待受画面が開くや否や、表面に指を滑らせ下から上にスワイプ。コントロールセンターをタップすると同時に、左手でしっかり恭介を抱え直した。
左足を軸にして踏み切り、スタートダッシュにスピードを乗せる。慌てた恭介が瞬時に落下する可能性を恐れたのか、ぎゅう、と圭吾に絡みついてきた。心配しなくても、誰が落とすもんか。しなやかなふくらはぎは期待以上に圭吾の跳躍を助け、またたく間に蠢く女の目の前にへと着地した。
右手で掴んだままだった携帯に、再び指を走らせる。選択したのは、フラッシュライトのボタン。長押しして、スライダを大きくドラッグした。光量はマックスだ。女の視線の位置をしっかり把握して、腕を振り上げる高さのイメージを微調整。圭吾自身は両目をしっかり閉じてから、フラッシュライトを起動させた。
女の目に翳すと、強烈なストロボが、視界を大きく白で焼き尽くす。女が呻き声をあげ、腕を動かして目を覆うのを気配で感じ取ってから、ライトをオフにしてスラックスのポケットに戻し一気に坂を駆け下りた。
「いやおまえ……先に、言え……」
どうやら同じように目をやられたらしい恭介の恨み言が聞こえたが、しっかり両手で抱えられるようになったので問題はなかった。
来た道を辿るようにして山道を走り抜ける。足跡をつけておきたかったので、恭介の体重を背負えたのは僥倖だった。階段のような、或いは足を引っ掛けるトラップのような隆々とした木の根を踏みしめながら、圭吾はとある一角に辿り着いた途端、わざとルートを変えた。散策道程確立されてはいないが、ぎりぎり人が通れそうな獣道。圭吾はそこに足跡をつけ、木の枝の一部を折る。靴跡は、急いでここに逃げ込んだと想像するのが容易いよう、踵を深めに抉ることも忘れなかった。その後近くの草むらで土を削ぎ落とし、足跡の残りにくい砂利や石を踏みながら別の道へと逃走を続ける。
普段から鈍いところのある恭介だったが、先日動画配信サービスで観た続き物の海外ドラマで、主人公が同じようなことをしていたのを思い出す。ジャングルで枝を折り、足跡を残すのは、逃走した方角をミスリードさせるためだった。某ドラマの主人公は、確か軍の出身ではなかったか。まさかそれと同じような作戦を、年下の中学生が実践するなどとはゆめゆめ思いもしなかった。もしかしたら、戦国時代にタイムリープしても前線で活躍できるレベルの、ものすごい傭兵をバイトとして雇っているのかもしれない。恭介は静かにそう思った。
背負われているからこそわかる。急いでいるようで、圭吾はとても慎重だった。大きく揺らして、恭介の腹の傷に響いたり、閉じ切っていないそれが開くようなことがないよう、丁寧に足場を選んでいる。大事にされていることが申し訳なくて、それでもどこか、月明かりの下で揺れる蝋燭のような、ほの暗い喜びもあった。
「すごかったな、さっきの」
人に知られたら谷底に落ちた方がマシだと思えるようなこの感情を、誤魔化してしまいたくて軽口を装い圭吾に話しかける。
「時々お前、本当に中学生か? って気分になるよ……そういうの、どこで覚えるんだ」
「恭介さん」
「えっ」
改まって、名前を呼ばれて心臓が跳ねた。普段、苗字さえまともに呼んでくれない小憎らしい生意気な後輩が、急にこんな声で、こんなふうに恭介を呼ぶだなんて。
「どうしたんだよ急に」
何か裏があるのかもしれない。恭介は反射的にそう思い、わざと茶化すような口調でその先を促した。
「貴方が、好きです」
そもそも、子供だけで何の保証も保険もないこの場所に来るべきではなかっただとか、保護者同伴でないことを自覚して、出発の折、もしくは到着の際に烏丸に一報を入れることに関してもう少し執着すべきだっただとか。
重要視されるべくは、太陽が傾く角度ではなく、子供二人でどうにもならないような状況に陥らないよう、迂回をするか石橋を叩く慎重さを持ち続けることだった。もし、巻き戻すことができるなら。今この時が録画したテレビ番組のように編集が可能になり、はいどうぞとリモコンを渡してもらえたのなら、すぐにでも左に尖った角が向いている正三角のマークがデザインされたボタンを押していたに違いない。浮かれた頭で、いそいそと水筒に氷を入れていた時に、いやいっそ恭介と肩を並べて食器の片付けをしていた時にまで戻したい。例え可愛い顔で「初めて」だとねだられたとしても、その初めてをすぐにでも奪いたいと暴れる獣の喉元を秒速で仕留め、間違いなく二人きりでデートできるチャンスを逃したくないと逸る両足の皿を割ってでも引き留めていただろう。
けれどどうあがいたって、現状圭吾の喉仏は無事のままであるし、両足の皿も皸ひとつ入っていないし、それらを引き換えにしてなかったことにできる過去などあるはずもなかった。
圭吾は改めて、己の頭が動いてなかったことを思い知る。浮わついていた足の裏に、ようやく体重が乗ったような感覚。ふう、と息をひとつ。切り替えるための意味のない動作が、今の圭吾には必要だった。選択肢は逃げるの一択だったが、おとなしく見逃してくれるような相手ではないだろう。倒すまではいかないまでも、目眩ましになるレベルの応戦は必要だった。
そこまで考えて、はっと気づく。そう言えば、妙に静かだった。
例えばそれは空気のように、或いは大地のように、そこにあって当たり前すぎて、馴染んでしまったものだった。圭吾の相棒はこちらから声を掛けなければ姿を現さない殊勝な一面があるが、このような非常事態であれば己から指示を仰ぎにくるような過保護さもある。それより、何より――事態に非常と思われる要素があろうがなかろうが、圭吾の焼きもちを刺激する程度には常に隣にいてやいのやいのと口を出す恭介の相棒がまるで姿を見せていない。
(待てよ、これ)
(いつからだ……?)
「しの」
恭介の声は冷静だった。乾いた喉を、ようやく唾液が通過した。喉が乾いていただなんて、圭吾は今初めて知った。
「走れるか?」
「……どういう意味です?」
「この森に入ってから、いなくなってた」
頭にあった疑問を、直接拾い上げるような言い方で恭介が言った。恭介の視線が右側のやや上を確かめるように動いたので、主語がなくてもいなくなったのが何かは理解できた。
「嫌な予感はあった。だから一応、仕掛けてきた。目印もある。しのと俺にだけ、わかる目印だ」
そう言ってから、ぐり、と親指を圭吾の制服の裾へ擦りつけた。
恭介がまるで圭吾のように端的に話すのは、必要性と信頼があったから。目の前の敵の耳にどこまでのことを拾われてしまうのかわからない中、あの時こう思ったので具体的にこういうことをしましたなどとあけすけに話す訳にはいかない。袖口に擦り付けられた恭介の血を、こめかみの汗を拭うふりをして口に含む。
じわり。布のざらついた感触が唾液を吸うかわりに、とろりと無味無臭のそれが口の中に溶けた。三日三晩水を与えられなかった野犬のように、口の中に広がるそれを一滴も取り残さないよう嚥下する。ごくり。喉を通過する生々しい音が、圭吾の後ろめたさを逆撫でた。
「ねえ、ひとつ聞きたいんだけど」
今にも降り出しそうな曇り空のような顔で、女は笑った。
「私、そんなにひどいことをしたかしら……?」
細い指で拾った石をお手玉のように宙へ投げ、左手で受け止める。
「先に、酷いことをしたのはそっちじゃない」
もう一度、石を空へ放って、二度目のキャッチ。ぐにぐに、と感触を確かめるように握って、中身のないコメディ映画を鑑賞した直後のような興醒めた顔で目を伏せた。
「弟が、寂しがってるといけないから……一緒にいてくれる友達が欲しかったけど、駄目ね。霊力のないペテン師の魂は、何ひとつ役に立たない」
「だから、逃したんですか?」
まともに相手するつもりなどなかったけれど、掌に握り込まれた弾丸が振り翳されるまでの時間稼ぎで圭吾は問い掛けた。てるてる坊主の数に関する圭吾の推測が正解なら、霊能力がなかったからこそ無事だったペテン師がひとりいるはずだった。
「ええ、そうよ。でもだからって、他の三人も、直接殺してなんかないわ。自分で死んだのよ」
「自分で……?」
殺傷能力など余りあるだろう小石を握りしめた女が、意外なことを口にした。惚れた男を目の前にした遊女のような顔でうっとりと笑いながら、酷く楽しげに言葉を紡ぐ。
「私、その人がこの先の人生で、最も絶望する瞬間を見せることができる能力を持っているの。それで、見せてあげただけ」
飴玉を拳の中に隠した子供のように圭吾たちの前へ突き出して、人差し指、中指、薬指。一本一本広げられてゆく指に目を奪われた圭吾に、揺りかごを揺らすような心地良い声で女が話し掛ける。
「つらい未来が先にあることに耐えられなくて、勝手に死んだの。だからあなたも」
「……っ、しの……!」
囚われていることに漸く気づいた恭介が、圭吾の袖を強く引いた。それは、僅かな差だった。圭吾が、瞬きも呼吸も忘れたように固まる。恭介ははく、と喉を詰まらせた。
もう、この声は圭吾に届いていない。視線を目の前に動かせば、女が小指を伸ばしきってしまった後だった。
「あなたも、死んだら?」
重力に引っ張られて落下する石に釣られるようにして、ぐらり。圭吾の上半身が傾いて、ホトケノザとヤエムグラが生い茂る雑草の中に顔面から崩れ落ちた。
見覚えのある天井だった。
寝ることに関しては他の追随を許さぬ程に真摯に取り組む恭介を起こそうとして、袖ごと布団の中に引きずり込まれたのが、七回。九尾に取り込まれることを欠片も恐れずに、裏切り者の後輩と周りの人間をたった一人で傷ひとつつけることなく守ろうと無茶をした結果昏倒した恭介の頬を見ていられず天を仰ぐようにして上を向いた時に、一回。見覚えのある今にも軋みそうな天井は、昭和後期に流行した某バラエティ番組のように、突然丸ごと降ってきてもおかしくない程度には老朽化していた。
ビキリ、と左側頭部に走る、鈍器で殴られたかのような、局所的な痛み。目を細めてあたりを伺いながら、圭吾はゆっくりと頭を持ち上げた。
仏壇の目の前に敷かれた布団に胡座をかけば、祭壇が視界に入った。伏せられた写真立ての隣に、供えられた大判焼きが見える。きれいな丸の形に整えられた和菓子の、一番端。自分なら、それだけを粒あんにするから気がついてしまった。閉じられた口から、僅かに溢れているのが餡だということも、豆のような粒が見え隠れしているから、それが粒を崩さないままコトコトと煮込まれた小豆だということも。
クリームやチョコは上手に生地の中にしまい込むくせに、粒あんだけは溢れるサービス精神も相まってか、少しはみ出してしまうくらい詰め込んでしまう店長の顔を思い出そうとして、靄がかかる。圭吾が常連であってもなくても、きっとあんなふうに、自身の持っているものをパンパンに詰め込んで、相手にできるだけ多くを持たせようとする優しい人だった。
「気がついたか」
ぞくり。どこか聞き覚えがあるのに、通行人に不意に声を掛けられたような空々しさもある声。腹の底から冷えたような心持ちになった。
まさか、そんな訳がない。
某都市伝説の番組のネタにでもなりそうな、現実離れした現状。それでも、どこかで納得もしていた。この優秀な頭は、その声を生まれた瞬間から聞き続けているということを。
「懐かしいな、その制服」
唇の端をいびつに歪めながら、男は笑った
「あの人が生きていた頃の僕だ」
「……っ」
絶望は、穏やかな声でやってきた。
趣味の悪いジョークならどれほど良かったか。けれど、決して自分はこのような悍しい冗談を言語化しないだろうということは、自分だからこそよくわかっている。あの人、と彼は言った。名前を言われた訳じゃない。それでも、圭吾がこんなにも愛おしそうに、狂おしい程の執着で閉じ込めてしまいたい、触れがたい宝物のように呼ぶ人間は――この世に一人だけだ。
「そんな訳がない」
震える喉が、受け入れがたい未来を否定した。伏せられた写真立てを目の前で起こされ、まざまざと見せつけられても。それは、そうなんですかと認めるわけにはいかない、何を差し置いても、どんな犠牲を払ってでも、圭吾が一番回避したいバッドエンドだ。
「僕が、生きているのに……先輩が死んでいるなんてあり得ない」
「間に合わなかったんだよ」
憐れむような声が、残酷な未来を端的に述べた。
「呪いを解く方法が見つかる前に、あの人の命が尽きてしまった。僕だけが……生き残ったんだ」
「僕だけが……?」
妙な言い回しだと圭吾は思った。現時点では――少なくとも圭吾が中学三年生の時点では、その呪いにかけられたのは自身と、恭介だけだ。
なのにまるで今、圭吾の周りにいる人間が、殆ど死んでしまったような言い方だった。
「城脇も死んだよ」
ヒュッ、と木枯らしのような音を立てて、空気が喉を通った。一点の曇りもない朗らかな鳴海の笑顔を思い出しかけたが、その残像は陽炎のようにぼやけていて輪郭がない。
「勘違いしないでほしいんだけど、別に一之進を諦めきれなくて自殺した訳じゃないよ。まぁ……結果的に、同じ死後の世界に行けたことには、満足はしているかもしれないけど」
「いつ」
心当たりなんかなかった。鳴海はいつも冷静で、無意識下で体の半分をどっぷり初恋に飲み込まれてしまったが故に恭介の足枷になろうと自身の命を使ってまでも同じ土台に立とうとした圭吾に反し、公平を期すために外野にいるとはっきり宣った男だ。今更彼が何かしらの選択を誤り、九死に一生を得ることなく絶命したとはとても思えない。
「恭介さんを助けようとして、失敗したんだ。あの人の呪いの半分を、ひとりで背負い込もうとしてそれが叶わなかった」
僅かな嫉妬が、大人になった圭吾の唇を醜く歪ませた。嫉妬、だと思う。はっきりとはわからない。向けられた憎悪が、哀愁が、何によって生まれ、どこにぶつけられているのかなんて。
ひどく、喉がカラカラだった。
「言ってたろ」
「……何を」
「あの時、この家の玄関で。外野にいるって僕に、言った日の朝」
――俺もしかしたら、恭ちゃんを助ける方法、見つけちゃったかもしんない。
「あの時は、城脇の方から……具体的なことを話してくれるまで、待つのが正しいと思っていた。だけど」
日が差し込んでいた、石畳の玄関。パリの街路樹を彩るお洒落なレンガのそれではなく、川辺の砂利を拾えるだけ拾って敷き詰めたみたいなランダムなデザインも、足のツボを絶妙に外したところにボコボコの表面が当たるあの感触も、まるで昨日の出来事のように脳裏に蘇るのに。
「あんなことになるなら、無理矢理にでも聞き出せば良かったな……」
それは、もう手の届かない遠い過去。今圭吾が選んでいる、現在の道が、このどうしようもない寂寥と後悔を握りしめるみたいに、生き続けなきゃならない未来につながっている――なんて。
「どうにもならなかったのか……!?」
胸倉を掴んで、糾弾している側が、されている側に救いを求めているかのように縋りつく。
「本当に、先輩も……城脇も、誰一人助ける道はなかったのか……!?」
「恭介さんが、僕を庇ったことがあったんだ」
それは、まるで溺れている人間の放つような、救助がいると思わせる弱々しい声だった。
「何……」
「その時、お腹にできた傷が深くて……葬儀の時に触ってみたんだ。指に」
大人になった圭吾が、記憶をなぞるようにして、中指と親指をこする。
「傷痕の感触がして……僕が、あの人に残してあげられたものなんて、それくらいだよ」
「……」
ゴツゴツとした醜い痕を思い出そうとして、失敗したのだろう。現実には、傷ひとつついていないなだらかな指が、自身の肌を滑るだけだった。陶器のように美しい、柔らかなそれに、まるで木の枝を無理矢理押し込んだみたいな、痛ましい傷痕が残っていたのだと疲れた声が語る。
「情けなくて、悔しくて……でも、この人にこんなふうに、一生消えない傷痕を残せたのが僕だと思うと……嫌な、優越感もあって」
残夏の気温が、首筋に、腕に。まとわりつくのがひどく不快だった。べっとりと貼り付く半袖のシャツも、熱を籠もらせたまま肌を閉じ込めるスラックスも。何もかもが振り捨てたいくらいに煩わしかった。
煩い。やめろ。何ひとつ諦めていないのに、こんな未来が用意されているなんて誰が信じるか。
こめかみを伝う汗が瞼を滑り、大人になった圭吾の眦を濡らす。
「言ってしまえば良かった、好きだって」
石が喉に詰まっているような掠れた声で、彼は言った。
「あんなに、早く……いなくなってしまうなら、聞かせてしまえば良かった。この、忌々しい気持ちを」
震える指は、きっとまだあの傷痕の感触を探しているのだろう。寝間着も私服も、黒装束みたいな色の着物しか好まなかった彼のことを、思い出のように語るのが嫌だった。
本人は知らないだろうが、はだけた時に不意に見えるふくらはぎも、項も、二の腕も。漆黒の布地がその白い肌をより一層艶めかしくさせていたのがたまらなかった。何もかもを諦めて、些細な優しさに触れるたびに泣きそうになって。それは、その顔が涙でぐちゃぐちゃになるまで愛して、追い詰めて、そんな身勝手な圭吾の感情を全部無条件で許して欲しいと膝をついて、無様に縋りつきたくなる程の横暴な愛だった。
その人を失って、この両足に成人になった己の体重を乗せ、立っていることなんかできるのだろうか? あれ以上動くことのない感情と心臓を抱えて、二人で過ごした記憶ごと閉じ込めたみたいな、そこら中に彼を思い起こさせる名残のあるこの家に一人きりで?
「……お前は、この世界に来るなよ」
低いそれは、死にかけの肉食獣みたいに獰猛で頼りない声だった。
「もし、この未来につながることが、正しい道筋だというのなら」
ぐらり。回転扉に押し込められたみたいに視界がひっくり返る。慌てて視線を戻すと、無表情だった唇を僅かに震わせて、未来の圭吾だと名乗るその男は言い捨てた。
「歪めろ」
「――しの!」
台風の真ん中に突き落とされたみたいに、暴風音が鼓膜を突き抜ける。圭吾の体は、まるで初めからそこにあったみたいに、野草の上に横たわっていた。思案げに覗き込んでいるのは、恭介だった。両手足も、あの悍ましい写真立てで見た大人のように成長していないし、髪の長さも、幼さの残る顔立ちも、圭吾が記憶していた彼のままだった。
「先輩、」
次にどうつなげるつもりだったのかも忘れてしまう程、大きな衝撃があった。圭吾には悟られないようにと体を捻って死角を作っていたって、赤黒い染みがアルノブルーのブレザーにまで広がっているからわかる。どう見ても軽傷ではないものが、恭介の腹を抉っている証拠だった
「どうしたんですか、その怪我……!?」
飛び起きて、圭吾は華奢な肩を掴む。更に身を捩って逃げようとする腰を引き寄せて、まるで強引に事に及ぼうとしているかのような姿勢で、恭介の体を閉じ込めた。
「まさか、僕を庇って」
「気にするな。大した傷じゃない」
気にしないでなんて、いられる訳がなかった。血が止まる気配のない傷口も心配だったが、何よりそれは――確実に痕が残るであろう深さだ。ペンキをひっくり返して塗りつぶしてしまいたい程の嫌な現実に、逃げる術もないまま飲み込まれているような気がした。
あのねっとりとした熱帯雨林のような絶望が、足首から直接這い上がって来ている感覚。
まさか、本当に――本当に、二十歳になった、彼は。
「それより、走れるか?」
「え……?」
そういえば、あの女はどうしたのだろう。すっかり、自分と恭介のことだけで頭がいっぱいになって忘れていた。慌てて後ろを振り返ると、ニ枚の札で動きを封じられた女が、四つん這いになっているのが見えた。
「そろそろ、飲んだ俺の血が巡ってきた頃だろ。ここに来るまでの道のりで、何箇所か木の幹に血で印をつけておいた。それを辿って逃げろ。あの札は、そんなに長く動きを止めることができないんだ。もう一枚使ってからすぐに、俺も後を追うから」
ここに来るまでの道すがら、恭介が時々よろめくようにして、木の幹に手をつけながら体を支えていたのを思い出す。慣れない山道を、ローファーで歩いたせいで疲弊しているのだと思っていた。実際は、この上司は上司として、このような事態になった場合の避難ルートを確保していたのだと今更知る。
圭吾には、何か予感めいたものを感じる程度の警戒心はあっても、もしもの時に備えられるよう動く程の余裕はなかった。恋に浮かれた思考回路が今、恭介に一人で先に走れと言わせ、それが未来に――あの一人で暮らすには広すぎる神社の仏壇に、一つだけ粒餡の大判焼きを供え、手を合わせるだけのことしかできない未来に、つながっているのだ。
「入り口の近くに、血液で囲った結界がある。その中で夜明けを待って、明るくなったら町へ降りろ。電波がつながる場所まで逃げたら、師匠を呼んでくれ」
入り口付近でぐるぐると、迷うように木の周りを歩いていた恭介を思い出す。その言い方はもう、圭吾一人で逃がすことが確定になっていた。後から追いかけるだなんて、真っ赤な嘘だ。本当は最初から、一人で犠牲になるつもりのくせに。
「僕だけ先に行かせて……あんたはどうするんですか」
「心配しなくても、うまく逃げるよ」
パチパチと、爆ぜるような音が僅かに聞こえる。札から出ていたオーロラのような膜に、僅かな歪みが生じていた。
「ぐずぐずしてたら、あっという間に燃え尽きるぞ……あれ。いいから、早く行」
「ふざけるな!」
「しの……?」
恭介の手首をもぎ取る勢いで掴んだ。理性は半分失っていた。けれど何も学ばなかった訳じゃない。圭吾は、残り半分の理性で現状把握と現段階の選択肢とその中から選りすぐったベストアンサーを叩き出すまでの思考を秒速で行った。
敵は一人。拘束はできているが、時間はない。幽霊である可能性が高いが、特別な能力と長年の恨みつらみを抱えただけの人間という可能性も捨てきれない。生身の人間にも、幽体にも効果のある目晦ましが必要だった。
「僕は、絶対に貴方の傍を離れません。一緒に結界まで走りましょう」
気持ちは籠りすぎていた。結界に着いたって、たとえ二十の頃にこの体が死体になったって、傍を離れないと心に強く決めていたから。
(いや、違う)
(死体になんかさせない……!)
「でも、他に方法なんか……」
恭介の反論を聞かず、圭吾はポケットに収納したまま存在を忘れていた携帯を手に取った。電源ボタンを、指を押し込むように強く潰して再起動をする。その間に恭介を両手を取り、背中から胸へと回させた。
「っ、何……」
脇腹の後ろに、べっとりと血が貼り付く感触がする。これだけの出血量で、先に行けだなんて。改めて恭介の人となりを思い出して腸が煮える。
一度明るく発光してから、緊急通報を問い掛ける画面へと切り替わった。親指で四桁の数字を入力し、エンター。待受画面が開くや否や、表面に指を滑らせ下から上にスワイプ。コントロールセンターをタップすると同時に、左手でしっかり恭介を抱え直した。
左足を軸にして踏み切り、スタートダッシュにスピードを乗せる。慌てた恭介が瞬時に落下する可能性を恐れたのか、ぎゅう、と圭吾に絡みついてきた。心配しなくても、誰が落とすもんか。しなやかなふくらはぎは期待以上に圭吾の跳躍を助け、またたく間に蠢く女の目の前にへと着地した。
右手で掴んだままだった携帯に、再び指を走らせる。選択したのは、フラッシュライトのボタン。長押しして、スライダを大きくドラッグした。光量はマックスだ。女の視線の位置をしっかり把握して、腕を振り上げる高さのイメージを微調整。圭吾自身は両目をしっかり閉じてから、フラッシュライトを起動させた。
女の目に翳すと、強烈なストロボが、視界を大きく白で焼き尽くす。女が呻き声をあげ、腕を動かして目を覆うのを気配で感じ取ってから、ライトをオフにしてスラックスのポケットに戻し一気に坂を駆け下りた。
「いやおまえ……先に、言え……」
どうやら同じように目をやられたらしい恭介の恨み言が聞こえたが、しっかり両手で抱えられるようになったので問題はなかった。
来た道を辿るようにして山道を走り抜ける。足跡をつけておきたかったので、恭介の体重を背負えたのは僥倖だった。階段のような、或いは足を引っ掛けるトラップのような隆々とした木の根を踏みしめながら、圭吾はとある一角に辿り着いた途端、わざとルートを変えた。散策道程確立されてはいないが、ぎりぎり人が通れそうな獣道。圭吾はそこに足跡をつけ、木の枝の一部を折る。靴跡は、急いでここに逃げ込んだと想像するのが容易いよう、踵を深めに抉ることも忘れなかった。その後近くの草むらで土を削ぎ落とし、足跡の残りにくい砂利や石を踏みながら別の道へと逃走を続ける。
普段から鈍いところのある恭介だったが、先日動画配信サービスで観た続き物の海外ドラマで、主人公が同じようなことをしていたのを思い出す。ジャングルで枝を折り、足跡を残すのは、逃走した方角をミスリードさせるためだった。某ドラマの主人公は、確か軍の出身ではなかったか。まさかそれと同じような作戦を、年下の中学生が実践するなどとはゆめゆめ思いもしなかった。もしかしたら、戦国時代にタイムリープしても前線で活躍できるレベルの、ものすごい傭兵をバイトとして雇っているのかもしれない。恭介は静かにそう思った。
背負われているからこそわかる。急いでいるようで、圭吾はとても慎重だった。大きく揺らして、恭介の腹の傷に響いたり、閉じ切っていないそれが開くようなことがないよう、丁寧に足場を選んでいる。大事にされていることが申し訳なくて、それでもどこか、月明かりの下で揺れる蝋燭のような、ほの暗い喜びもあった。
「すごかったな、さっきの」
人に知られたら谷底に落ちた方がマシだと思えるようなこの感情を、誤魔化してしまいたくて軽口を装い圭吾に話しかける。
「時々お前、本当に中学生か? って気分になるよ……そういうの、どこで覚えるんだ」
「恭介さん」
「えっ」
改まって、名前を呼ばれて心臓が跳ねた。普段、苗字さえまともに呼んでくれない小憎らしい生意気な後輩が、急にこんな声で、こんなふうに恭介を呼ぶだなんて。
「どうしたんだよ急に」
何か裏があるのかもしれない。恭介は反射的にそう思い、わざと茶化すような口調でその先を促した。
「貴方が、好きです」
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