恭介&圭吾シリーズ

芹澤柚衣

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アンチノック・スターチスの誤算

11.

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 人間とは、おそらく誰しもが心のなかに大型の獣を飼い慣らしているのだと圭吾は思う。

 本当は、もっと好きなものを貪欲に手に入れたいし、己を攻撃してくる相手には牙を向けて噛みつきたい。ご飯をお腹いっぱい食べたらその場で寝転んでしまいたいし、恥や外聞や体裁などを気にせず、思うがままに自分の意志のまま振る舞いたい。
 けれど現実では、飲食店でコース料理を平らげた後その場に寝転ぶことはできないし、手に入れられるものは得てして、己の所得から貯金と学費、及び交際費や生活費に回したいお金などを差し引いて手元に残る額の範囲内で、その対象にこの金額までなら払えると自身が納得できるものに限られてくる。人は欲望という名の獣を、己の理性でうまく抑え込むことができるからこそ人であり、そうやって世界は成り立っているのだと思っている。
 圭吾だってずっとそのように生きていたし、自らを律しながら生活を送るなどという初歩的な行動は、彼にとってひどく簡単なことだった。

 なのに、その世界が、丸ごとひっくり返った。

 凌駕した瞬間は、息が止まったのかと思う程苦しかった。ずっと力を入れずに抑えることができていた某かが、圭吾自身さえ見たことも聞いたこともない魔物に変化し、いとも簡単に圭吾の両手足を飲み込んでしまった。
 抗えない、と悟るのは存外早かった。
 圭吾の瞬きさえも待たずに、穏やかな世界は急速にその表情を変えたのだ。
 両手を前足のように床につき、爪を立て、目の前で好きだと告げてくれた世界一可愛い男目掛けて牙を向く。傷つけたい訳ではなかった。ただどこにも逃したくなくて、彼の何もかもをしゃぶりつくした上で、圭吾の手の中に捕らえてしまいたかった。
 思考が完全に野獣のそれに切り替わる前にそのすべてをゼロに戻したのは、圭吾の中の人間性が打ち勝った訳ではなく、恭介本人から直々に静止の言葉があったからでもなく、一滴の鮮血が視界に入ったからに他ならない。
 どう見ても深くまで抉られた腹の手当が後手後手になっていても、圭吾の判断を信じ、その背に全体重を預け、作戦があるなら先に話せよと呆れたように笑ってくれた。無防備と思える程に何もかもを委ねてくれた彼の手当を、これ以上遅らせる訳にはいかないと我に返ったからだった。

「……すみません、傷……痛かったですよね」
 恭介の肌に張り付くシャツを引きちぎらんばかりだった勢いを押し殺し、まろい頬にゆっくりと指を滑らせて、圭吾は己の情けなさに力なく笑う。
 自身の痛みや傷を軽んじ、下手をしたら死ぬまで痛かったとは口にせず、周りのことばかりを優先する彼の性格はわかっていた筈だったのに。
「いや……そんなには、別に」
 しょっちゅう足蹴にされる後輩に、このように甘ったるく撫でられることにはまるで耐性がなく、恭介は上擦った声でどうにか答えた。
「何か、手当の代わりになりそうなものがないか探してきますね」
「あ、それなら俺持ってるぞ」
「は?」
「師匠に、ファーストエードキット? っていうの、持たされてたから……確か鞄に、ほら」
 恭介は、赤色の布でできた巾着のようなものを取り出した。
 表面にはざらついた感触あり、防水効果のある布地だとわかる。事実、ゲリラ豪雨に襲われたとは思えない程湿っぽさを感じなかった。
 ファーストエードキットというものが何かということを圭吾は知らなかったが、その赤い生地にデザインされた白十字で中身の想像はつく。
「一応山に行くからって」
「そうですか……」
「おい、お前何て顔してんだ」
 買ったばかりの自転車を目の前で盗まれたかのような顔で救護袋を受け取る圭吾に、思わずといった口調で恭介が突っ込む。圭吾とて、大人の周到さに手を合わせて感謝したい気持ちは最低限あったが、保護者としても師匠としても非常によくできたあの男と自分を比べてしまう。
 いつだって、圭吾は恭介を傷つけてばかりだ。
 守りたい。支えになりたい。大事にしたい。
 そんな決意とはうらはらに、現実が圭吾の理想のままに動いてくれることはなかった。二人が二人でいるだけで、いつもボロボロになってしまうのに。それでも、離れがたく思うのだから嫌になる。

「……信じてくれないと思ってたんです」
 使い捨ての消毒液のパッケージを口で割いて、簡易バサミで切り裂いた脱脂綿に染み込ませる。お釣りがくるくらい溢れたその液は、染み込んだ側から圭吾の指に滴っていた。
「何を?」
 なるべく痛い思いをしないよう、そっと患部に当てる。血の固まってしまった部分が苔ように表面を覆ってはいたが、それでも生々しい傷口には血液が滲んでおり、その深さを物語っていた。
「僕が先輩を好きだってこと」
 ピクリ、と動いたのは、消毒液が染みたのか、それとも有耶無耶にならなかった告白を蒸し返されたことが原因か。
 丁寧に傷回りの血を拭き取りながら、圭吾は少しだけ間を置いた。
 言葉を組み立てる時間が必要だった。
「どうして」
「だって、先輩は」
 どんなふうに伝えたら、重ねてきた日々の虚しさだけが伝わるのだろう。
 責めたい訳ではないし、どちらかというと非は自分にある。さまざまな思いを巡らせた結果、圭吾はそのままを素直に口にすることにした。
「先輩は……あんたの傍に誰がいたって、それが続くとは信じてない顔、してたから」
「……」
「だから、嬉しかったんです」
 急に、喉が焼けるように熱くなった。間抜けな話、嬉しかったんです、と言葉にしてから漸く、自分は嬉しかったのかと遅い自覚がやってくる。
 恭介という男は、圭吾の手の届かないところへ、何も言わずにふらりと消えてしまうような人だった。だからいつも益体もない焦燥感に襲われ、何日もまともに食事をしていないかのような飢えを覚え、その両手足を縛り付けてでも、傍に置いておきたいなどという凶暴な感情とのバランスを取り続けなければならなかった。
 だからこそ、不意に口に出てしまったあの一言を――真正面から、すぐに受け取ってもらえるとは思えなかったのだ。
「俺も、不思議なんだ……」
 ぽつりと恭介が言った。
 それは、迷子になった子供のように心細い声だった。
「多分……今までだったら、しのが俺を好きでいてくれる幸運なんて、ある訳ないって……思って」
 自分でも手探りで何かを探しているみたいに、ゆっくりと言葉を手繰り寄せているような話し方で、恭介は少しずつ心の内を語った。
「でも、しの……いつも俺のそばに、いてくれたじゃん」
 傷口にガーゼをあてて、保護テープをクロスするように貼り付ける。何かをしていないと、落ち着いて聞いていられないと思った。
「俺の家が、めちゃくちゃになってさ……もうどこにも出られない牢屋に、俺が閉じ込められても、しのは」
 震える指が、包帯を取りそこねる。慌てて手を伸ばしても、触れることさえ出来ない。もうそれは、圭吾の指がぎりぎり届かないところまで、転がってしまったのだと思った。
「俺のいるそこを目指して、手に豆ができるまで強く握った枝で、あんなに深くまで掘り起こして……助けに来たって、しるしの石、投げてくれて」
 届かないと、思っていたのに。
「俺が、神社に帰ったら、全力で抱きしめてくれて、ここ……噛んだじゃん」
 そろりと、自身の鎖骨を撫でる指が震えている。すみませんでしたと咄嗟に謝りかけた圭吾が、背筋を正す前に恭介と視線が合った。
「そんなしのに、好きって言ってもらえたら……ちゃんと伝わるよ。本当のことだって」
「……」

(――ああ)

 有神論者でもないのに圭吾は、跪いて、頭を垂れ、指を重ね合わせて神に祈りたくなった。
 届いていた――いや、届いていなかったそれに、恭介の方から手を伸ばしてくれた。

 常に空振りしているような両手で、最終的に彼の核心に、皹のひとつさえ入れることができないかもしれないという覚悟を抱えて。原子炉を出ることさえ叶わなかったフィルター・スラッジのような恋心を燻ぶらせながら、それでも恭介の手を一生離さないという執着だけで、この人の隣に居座っていた。その意味が、理由が、虚しさが――ちゃんと、恭介に伝わっている。
 口の内側を噛んで、胸を締め付ける歓喜に圭吾は震えた。血の味がその咥内を穢しても、泣き笑いのようにはにかむ恭介を視界に入れる以外大事なことなんてどこにもなかった。
 
「すげー……嬉しい」
 花が綻んだように、愛らしく口元を歪めながら恭介が言った。耳のすぐ後ろに心臓があるみたいに、どくどくと響いて圭吾の鼓膜を揺らす。
「先輩」
「何……」
 トーンのまるで違う、大人の男のような声で呼ばれたから。
 恥ずかしくてもどうにか顔を上げたのに、視線が合う前に唇を塞がれる。
「んぅ、」

 それは、焼けつくように情熱的で、乱暴で――何もかもを奪うようなキスだった。

 容赦のない熱にあてられ、頭がくらくらする。
「は、あ……っ」
「ね、先輩。ちょっとだけ、舌」
「やっ……」
「口、あけて」
 強引に指を入れられた。そのまま、まさぐるように舌を探られ、緩く開いてしまった恭介の口から、圭吾の舌が捩じ込まれる。
「んん、ん……っ」
 背中に回された指で、背骨のをあたりをいやらしく撫でられる。濡れたシャツ越しのその感覚は、直接肌を触られるよりもエロティックだった。
 逃げようと咄嗟に後ろへ下がろうとしても、強い力で尻を掴まれる。
「だ、めだっ……しの、だめ……あっ、」
 スラックスの中に入り込んだ手で、割れ目をなぞるように愛撫され、ゾクゾクと腰のあたりに熱が走る。
「先輩、くち」
「や……あ、んん」
 閉じかけてしまった小さな口を、甘く叱るように、唇に噛みつかれた。圭吾が再び舌を絡めようとするので、恭介は震える指でそれを制す。
「しの、お願い……」
「……何」
 聞いてあげられる余裕があるかもわからなかったが、あまりに可愛い声でお願いと啼くから静止してあげたのに。
「あんまりそれ、奥に入れないでくれ……」
 案の定、事態が恭介にとってより最悪になっただけだった。
 そんなことを言われて止まれる男がどこにいるのか。奥歯が潰れそうな程強くギリ、と噛みしめてから、恭介の口をこじ開けて、いたいけに震える舌の裏に自身の舌をねじ込もうとした――その瞬間だった。

 ブブブブッ、と振動音が響く。
 震源は恭介の指定鞄の中だった。

「あ……でん、わ……?」
 恭介が、ポヤポヤとした声で呟く。圭吾としては再び舌を絡めたくなる程の可愛い声だと思ったが、連絡の手段がなく四方八方塞がれていたこの状況で掛かってきたそれに、出ないという選択肢はない。
 恭介の生尻に忍ばせていた手を未練たらたらの仕草で抜き取り、切り替えるために息をつく。
「今まで、ずっと圏外だったのに、何で……?」
「先輩の血液で囲った影響で、この空間が浄化されたのかもしれませんね」
 まったく切れる様子のないねちっこい着信からして誰からの通知か想像するまでもなかったが、本人の許可も取らずに鞄から抜き取ったそれの節電モードを解除した瞬間、圭吾は心からの「うわあ」という言葉が出そうになった。
 常識的に考えて、着信の回数としては数値のおかしいものが、それでも不在着信として記録に残っている。
 のべつ幕なしに恭介に掛けてくる男が誰なのか最早決定的になったが、圭吾は圭吾でさまざまな意味でおいしいところを無遠慮に邪魔されたという逆恨みがない訳でもなかったので、通話ボタンを押すなり言う言葉は決まっていた。
「どちら様ですか」
『恭介に代われ!!』
 鼓膜が破れる懸念のある声だったので、無言で携帯の音量ボタンの下部を静かに連打した。
「僕でも良いでしょう。用件をどうぞ」
『お前ら、俺の言いつけを守らず勝手に依頼主のいる山に向かったな!?』
「向かったか向かってないかで言ったら、まぁ向いましたけど」
『いちいち腹の立つ言い方をするな! それについての説教は後だ! 恭介を出せ!』
「……何かあったんです?」
 単に恭介と二人で勝手に出掛けたことを叱っているにしては、切羽詰まった声だった。
 携帯を耳から外して、スピーカーに切り替える。コトン、と床に置かれたそれに、何かを察知した恭介が膝歩きで近づいた。
『ごめんなさい圭吾さん。お電話代わりました。拓真です』
 学級委員がホームルームの開始を告げる時のように生真面目な声で拓真が言った。圭吾は、思わず恭介と顔を見合わせる。
『落ち着いて聞いてください。実は僕、個人的に烏丸さんに依頼をしていたことがあったのですが……どうやら、恭介さんたちに来ていた依頼と深い関係があるようです』
「深い関係?」
 オウム返しに圭吾が呟いた。律儀にはい、と答えた拓真が、どうやらこのタイミングでスピーカーに切り替えたよう。背後でやいのやいのと喚いている烏丸の声がさっきよりも近くなった。
『今、どのあたりにいますか?』
「山からは出られてないよ。しのが昔のキャンプ場みたいなとこを見つけてくれて、一時的に避難してる」
『状況は?』
「先輩が右腹部に怪我をしています。応急処置はしましたが、血の止まりが悪く、傷は深いです。なるべく早く下山して、病院に連れていく必要があると思います」
「しのだって、肩に怪我してるだろ」
 そうですか、と苦々しい声で拓真が答えた。おい待て恭介腹に怪我をしてるってどういうことだと騒ぐ烏丸の喉元を仕留める鈍い音がした直後、周りは一気に静まり返った。ありがとうございます智也さん、とお礼を言っている声が聞こえたので、どうやら喉への一撃は、その場にいるらしい彼の仕業のようだった。
「待て拓真。さっき……落ち着いて聞いてください、って言ったな」
「ということは、何か悪いニュースでも……?」
 大変申し訳ありませんが、とクレーム対応をしている百貨店のフロアリーダーのように丁寧な前置きをしてから、言葉の通り大変申し訳なさそうに拓真が言った。

「現状、恭介さんたちを助けに行く術がないんです」
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