13 / 130
温室には
2
しおりを挟む
その日、ノエルは、実験のためにネコ魔獣を檻から出していた。
「ほら、じっとしていろ」
このネコ魔獣の耳の後ろから出る分泌腺から出る香りは、貴重なポーションの材料となるのだ。次の実験で必要な材料の一つで、魔術院ではこのネコ魔獣をはじめ、ポーションの材料として数頭の魔獣を管理している。
ネコの耳の後ろを専用の布で拭っていると、急にネコが暴れ出した。
「あ!こら」
この魔獣は非常に気が荒い。
いつもは檻に入れて管理して、こうして必要な時に檻から出すのだが、今日はノエルの手からするりと抜け出して、ネコ魔獣は研究室から飛び出してしまった。
「おい、ちょっと待て!」
ノエルは実験の手を止めて、魔獣を追いかける。
小さな魔獣にも関わらず、案外逃げ足が速い。するりと建物からからうっかり飛び出していってしまった。
「待て、おい、くそ、速いな」
ノエルは走って魔獣を追いかける。
随分追いかけていった遠くの先に、ノエルの放置していた専用の温室が見えてきた。
息が上がってきた。
(あ、あれはベスの温室・・)
「ナーン」
「あら、シロちゃんいらっしゃい」
どうやら魔獣の目的地は、温室だったらしい。
ガチャリと温室の扉が開いて、ベスが出てきたのが遠くから見える。
ベスは何かの作業の最中だったらしい。土だらけの手をして、気性の荒いネコ魔獣を迎え入れていた。
ベスは、シロと名付けたらしい。
(確かに雪のように白い魔獣だが、名前が安直すぎないか?他にもあるだろうに・・)
そして、ノエルはこのネコ魔獣に自分は名前すらつけていなかった事に思い至る。
息を整えながら温室に歩みを進めていくと、ベスもノエルの姿を認めて、大きく笑顔を見せた。
「あら!ノエル様珍しい。よかったわ。ちょうどナーランダ様もきてるので、よかったら一緒にお茶をしませんか」
ーーーーーーーーーーーー
「ああ、マンドレイクの鑑定か」
「はい。今日あたりが最高の仕上がりだと、ベスから聞いていたので」
温室には先客がいた。ナーランダだ。先日ベスに植物の発注をかけたのはノエルだ。
そろそろ鑑定の時期で、間違いない。
ナーランダの手には、小さな人参のような植物があった。
まだ発声能力を持つ前の、マンドレイクの幼体だ。
マンドレイクは、そう繁殖は難しくはない植物で、魔素の多い森などには野生でも生息するのだが、状態の良い幼体は稀だ。
状態の良い幼体は貴重な錬金術の材料となるため、魔術師の温室で栽培される場合が多い。
(エロイースのいう通りだ)
温室に足を踏み入れたノエルは、思わず深呼吸をした。
なるほど、エロイースの言っていた通りで間違いない。ノエルは思わず、この美しい光景に心を奪われてしまった。
実に、どの植物も伸び伸びと、広く葉を広げておもいおもいに花を咲かせ、実をつけている。
どの植物にも無理がない。
光に満ち、状態の良い植物に満たされているこの心地の良い温室に一足踏み入れると、何か色々と抱えているものや、しがらみや、自分を縛り付けている様々なものが、解けていくように感じる。
(私の研究室の植物とは大きな違いだ)
魔力を限界値まで入力した植物や、無理な掛け合わせをした植物からポーションの材料を抽出する事に、ノエルは疑問を抱いたことはなかった。だが、ノエルの植物は非常に不幸そうで、ベスのものは、なんと幸せそうか。
そして、ベスの植物の仕上がりは、ノエルか年月をかけて、珍しい堆肥や魔力を与え続けて寝食を忘れて世話したものより、よほどの高品質なのだ。
温室の隅に目をやると、、己の研究室から逃げ去った、ネコの魔獣が心地よさそうに腹を見せて、ベスに触らせている。
獰猛なネコ魔獣と認識していた、生き物だ。
呆気にとられているノエルを促して、ベスはノエルを布製の座り心地の良いソファに腰掛けさせた。
「シロちゃんはそこで大人しくしてなさいね」
そうベスはネコ魔獣に話しかけて、小さな鉢に、ミルクを注いだ。
ネコ魔獣ことシロちゃんは、嬉しそうにミルクの鉢に走っていく。なお、ネコ魔獣とネコは、全く違う生き物だ。
ネコ魔獣は実に獰猛で頭が良い。気に入らない人間など、喉笛を噛み破る事など朝飯前だというのに、ベスの前だとまるで飼い猫のごとく振る舞いだ。
ぽわ、とナーランダは魔術で明るい光を浮かべると、マンドレイクの幼体を光らせた。
光の中に何かが浮かび上がったらしいが、もちろんベスには見えない。
ノエルとナーランダは、固まった顔を見合わせた。
ナーランダは手元の紙に、「S級」と書きつけて、大切そうにマンドレイクの幼体を、絹の布に包んだ。
(信じられない)
マンドレイクの幼体の、S級などノエルは人生でお目にかかったこともない。
せいぜいC級くらいの仕上がりの幼体を提出してくれれば、良い材料になると踏んでの発注だったのだ。
ノエルがマンドレイクの鉢を育てていた一角に目をやると、そこには特に変わったところのない、普通の鉢がいくつか並んでいるだけだ。傍らには、石灰や卵の殻や、馬のヒズメやら、特に珍しい材料でもない園芸用の品々が揃っていたが、ノエルの見たことのないものは、何一つなかった。
ベスは言葉を失っている二人を後ろに、特に感慨もなさそうに、立ち上がって、お茶の準備を始めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ベス、魔術師同士はあまりお互いの事を詮索しないという暗黙の理屈があるんだけれど、君は魔術師ではないから、立ち入った事を聞いてもいいかな」
鑑定が終わった後、3人は温室の角に置いている小さなテーブルを囲んでいる。
ベスの出してくれるハーブティーは人気だ。
この温室で育った大して珍しくもないハーブを使ったお茶なのだが、口にすると心の底にたまっていた、いろんなものが溶けていくような気がすると、高い緊張にいつもさらされている魔術師たちからは喜ばれている。
一度葉をもらってエロイースが自分の部屋で飲んでみたが、同じ味だがべスが入れるものほどは、美味くなかったといっていた。
そんなハーブティーを3人で飲みながら、ナーランダは少し逡巡して、真剣な顔をしてそう切り出した。
ベスはお茶菓子で口をいっぱいにしていたので、うんうんと頷いて「是」を示した。
田舎娘のベスに、テーブルマナーなどはわからない。
ノエルは、同じ事を聞きたかったのだろう。
本題を言い出し兼ねているナーランダの言葉を自ら引き取った。
「なあベス。一度聞きたかったんだが、大体お前はなぜそんなに植物の事がわかるんだ?まるで物言わぬ植物の言葉が通じているみたいに。お前は粉挽きの娘だろう」
いわば、べスの手の内を教えてくれと言っているのだ。
魔術師同士の、それも高位貴族の会話では、決してあり得ないマナー違反の質問だ。
この高貴な魔術師二人は、田舎娘に恥を偲んで聞いているのだ。
もぐもぐとベスは咀嚼を終えると、特に気にした様子もなくようやくでた言葉を繋いだ。
「…きっと、おじいちゃんに引き取られたからですかね」
「お前の祖父は、粉挽きだと聞いているが」
二人の男達には解せない。
ベスの祖父が高名な庭師であったり、両親の一人が植物に特化した魔術師であったりする場合は、ベスの能力も理解できるのだが、ベスは全く魔力はないし、ベスの祖父は退役軍人の粉挽きだ。
ベスの預かり知らないところで、ノエルに詳しくその生い立ちを調べ上げられていたのだが、どこをどうひっくり返しても、ベスの異様なまでの植物の状態を整える能力を説明するものはなかったのだ。
べスは淡々と話しはじめた。
「お爺ちゃんは、耳が聞こえなくて、それから口がきけない人でした。前の魔族との戦争で耳をやられたらしくて。元騎士だとかなんだとか、よくわからないんですけどね。だから音に頼る事ができなくて、文字を覚える前は、お爺ちゃんとの意思疎通は、全部身振り手振りで察するしかなかったんです。そうこうしているうちに戦争がひどくなってきて」
「粉挽小屋は街からも村からも外れているから、不便な場所だけど安全でしょう?お爺ちゃんは昔は騎士をしていたくらい強かったし、戦争の間だけでいいから赤ちゃんを避難させてくれって、一人外国の難民の子供を預ったら、次々にたくさんの外国の難民の子供が預けられるようになって。お爺ちゃんも断れないものだから本当にあの時はお世話が大変でした」
前の魔族との戦争の際は、そんな話は珍しくもなかった。調査書にも、粉挽き小屋で合計8人もの子供を一時的に面倒を見ていた事は記録にある。全て外国からの難民の子供だ。みな魚屋やら宿屋の子供たちばかりで、ここにも魔術師はおろか、農家すらいなかった。
ベスは話を続ける。
「みんな親から引き離された。外国の小さな子供だし、言葉も通じなかったんです。おじいちゃんも口が聞けないし、まだ赤ちゃんも何人もいたし、病気の子供もいたから、誰も死なせてはいけないと私必死で。赤ちゃんや子供達の全部少しの呼吸やら、動きやらで必死で感じとるしかなかったんです」
「だから、ものを言わない生き物が何を求めてるかなんて、本当に簡単にわかるようになったんですよ。犬とか猫とか、なんなら鳥とかとの意思疎通も得意ですが、植物が一番得意みたいです」
「どうやって、わかるんだ」
少し声を上ずらせて、ノエルが質問の核心の答えを求めた。
ベスはなんともない事のように、ネコ魔獣の腹を撫でながら答えた。
「まず、呼吸を一緒に合わせるんです。そして、お互いがお互いである境界線のぎりぎりまで意識を近づけて行って、それからゆっくり自分が自分である事を手放して、相手と自分が一緒の生き物になるんです。そしたら自然に相手が何を感じて、何を求めているかが感じます。ただそれだけですよ」
とベスは笑った。
「そうか。それだけ、か・・」
それだけ。ただそれだけ。そうベスは言った。
それが、どれだけの難行であるか、まるきり本人は気がついていないらしい。
高位魔術師には、高位魔術を会得する際に同じような訓練を課されるのだ。風魔法の使い手は風と一体になり、炎の魔法の使い手は、炎と己を境界を消し、己が炎となる。
魔力の持たないべスは、同じ事を子供の命を守る為に、必死で学んだのだ。
二人は顔を見合わせた。
あ、昨日エズラ様からもらったクッキーがあるんです、一緒に食べましょう。
もう先ほどの会話など頭にないように、ベスは嬉しそうにクッキーの入っている箱をとりに言ってしまった。
「ほら、じっとしていろ」
このネコ魔獣の耳の後ろから出る分泌腺から出る香りは、貴重なポーションの材料となるのだ。次の実験で必要な材料の一つで、魔術院ではこのネコ魔獣をはじめ、ポーションの材料として数頭の魔獣を管理している。
ネコの耳の後ろを専用の布で拭っていると、急にネコが暴れ出した。
「あ!こら」
この魔獣は非常に気が荒い。
いつもは檻に入れて管理して、こうして必要な時に檻から出すのだが、今日はノエルの手からするりと抜け出して、ネコ魔獣は研究室から飛び出してしまった。
「おい、ちょっと待て!」
ノエルは実験の手を止めて、魔獣を追いかける。
小さな魔獣にも関わらず、案外逃げ足が速い。するりと建物からからうっかり飛び出していってしまった。
「待て、おい、くそ、速いな」
ノエルは走って魔獣を追いかける。
随分追いかけていった遠くの先に、ノエルの放置していた専用の温室が見えてきた。
息が上がってきた。
(あ、あれはベスの温室・・)
「ナーン」
「あら、シロちゃんいらっしゃい」
どうやら魔獣の目的地は、温室だったらしい。
ガチャリと温室の扉が開いて、ベスが出てきたのが遠くから見える。
ベスは何かの作業の最中だったらしい。土だらけの手をして、気性の荒いネコ魔獣を迎え入れていた。
ベスは、シロと名付けたらしい。
(確かに雪のように白い魔獣だが、名前が安直すぎないか?他にもあるだろうに・・)
そして、ノエルはこのネコ魔獣に自分は名前すらつけていなかった事に思い至る。
息を整えながら温室に歩みを進めていくと、ベスもノエルの姿を認めて、大きく笑顔を見せた。
「あら!ノエル様珍しい。よかったわ。ちょうどナーランダ様もきてるので、よかったら一緒にお茶をしませんか」
ーーーーーーーーーーーー
「ああ、マンドレイクの鑑定か」
「はい。今日あたりが最高の仕上がりだと、ベスから聞いていたので」
温室には先客がいた。ナーランダだ。先日ベスに植物の発注をかけたのはノエルだ。
そろそろ鑑定の時期で、間違いない。
ナーランダの手には、小さな人参のような植物があった。
まだ発声能力を持つ前の、マンドレイクの幼体だ。
マンドレイクは、そう繁殖は難しくはない植物で、魔素の多い森などには野生でも生息するのだが、状態の良い幼体は稀だ。
状態の良い幼体は貴重な錬金術の材料となるため、魔術師の温室で栽培される場合が多い。
(エロイースのいう通りだ)
温室に足を踏み入れたノエルは、思わず深呼吸をした。
なるほど、エロイースの言っていた通りで間違いない。ノエルは思わず、この美しい光景に心を奪われてしまった。
実に、どの植物も伸び伸びと、広く葉を広げておもいおもいに花を咲かせ、実をつけている。
どの植物にも無理がない。
光に満ち、状態の良い植物に満たされているこの心地の良い温室に一足踏み入れると、何か色々と抱えているものや、しがらみや、自分を縛り付けている様々なものが、解けていくように感じる。
(私の研究室の植物とは大きな違いだ)
魔力を限界値まで入力した植物や、無理な掛け合わせをした植物からポーションの材料を抽出する事に、ノエルは疑問を抱いたことはなかった。だが、ノエルの植物は非常に不幸そうで、ベスのものは、なんと幸せそうか。
そして、ベスの植物の仕上がりは、ノエルか年月をかけて、珍しい堆肥や魔力を与え続けて寝食を忘れて世話したものより、よほどの高品質なのだ。
温室の隅に目をやると、、己の研究室から逃げ去った、ネコの魔獣が心地よさそうに腹を見せて、ベスに触らせている。
獰猛なネコ魔獣と認識していた、生き物だ。
呆気にとられているノエルを促して、ベスはノエルを布製の座り心地の良いソファに腰掛けさせた。
「シロちゃんはそこで大人しくしてなさいね」
そうベスはネコ魔獣に話しかけて、小さな鉢に、ミルクを注いだ。
ネコ魔獣ことシロちゃんは、嬉しそうにミルクの鉢に走っていく。なお、ネコ魔獣とネコは、全く違う生き物だ。
ネコ魔獣は実に獰猛で頭が良い。気に入らない人間など、喉笛を噛み破る事など朝飯前だというのに、ベスの前だとまるで飼い猫のごとく振る舞いだ。
ぽわ、とナーランダは魔術で明るい光を浮かべると、マンドレイクの幼体を光らせた。
光の中に何かが浮かび上がったらしいが、もちろんベスには見えない。
ノエルとナーランダは、固まった顔を見合わせた。
ナーランダは手元の紙に、「S級」と書きつけて、大切そうにマンドレイクの幼体を、絹の布に包んだ。
(信じられない)
マンドレイクの幼体の、S級などノエルは人生でお目にかかったこともない。
せいぜいC級くらいの仕上がりの幼体を提出してくれれば、良い材料になると踏んでの発注だったのだ。
ノエルがマンドレイクの鉢を育てていた一角に目をやると、そこには特に変わったところのない、普通の鉢がいくつか並んでいるだけだ。傍らには、石灰や卵の殻や、馬のヒズメやら、特に珍しい材料でもない園芸用の品々が揃っていたが、ノエルの見たことのないものは、何一つなかった。
ベスは言葉を失っている二人を後ろに、特に感慨もなさそうに、立ち上がって、お茶の準備を始めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ベス、魔術師同士はあまりお互いの事を詮索しないという暗黙の理屈があるんだけれど、君は魔術師ではないから、立ち入った事を聞いてもいいかな」
鑑定が終わった後、3人は温室の角に置いている小さなテーブルを囲んでいる。
ベスの出してくれるハーブティーは人気だ。
この温室で育った大して珍しくもないハーブを使ったお茶なのだが、口にすると心の底にたまっていた、いろんなものが溶けていくような気がすると、高い緊張にいつもさらされている魔術師たちからは喜ばれている。
一度葉をもらってエロイースが自分の部屋で飲んでみたが、同じ味だがべスが入れるものほどは、美味くなかったといっていた。
そんなハーブティーを3人で飲みながら、ナーランダは少し逡巡して、真剣な顔をしてそう切り出した。
ベスはお茶菓子で口をいっぱいにしていたので、うんうんと頷いて「是」を示した。
田舎娘のベスに、テーブルマナーなどはわからない。
ノエルは、同じ事を聞きたかったのだろう。
本題を言い出し兼ねているナーランダの言葉を自ら引き取った。
「なあベス。一度聞きたかったんだが、大体お前はなぜそんなに植物の事がわかるんだ?まるで物言わぬ植物の言葉が通じているみたいに。お前は粉挽きの娘だろう」
いわば、べスの手の内を教えてくれと言っているのだ。
魔術師同士の、それも高位貴族の会話では、決してあり得ないマナー違反の質問だ。
この高貴な魔術師二人は、田舎娘に恥を偲んで聞いているのだ。
もぐもぐとベスは咀嚼を終えると、特に気にした様子もなくようやくでた言葉を繋いだ。
「…きっと、おじいちゃんに引き取られたからですかね」
「お前の祖父は、粉挽きだと聞いているが」
二人の男達には解せない。
ベスの祖父が高名な庭師であったり、両親の一人が植物に特化した魔術師であったりする場合は、ベスの能力も理解できるのだが、ベスは全く魔力はないし、ベスの祖父は退役軍人の粉挽きだ。
ベスの預かり知らないところで、ノエルに詳しくその生い立ちを調べ上げられていたのだが、どこをどうひっくり返しても、ベスの異様なまでの植物の状態を整える能力を説明するものはなかったのだ。
べスは淡々と話しはじめた。
「お爺ちゃんは、耳が聞こえなくて、それから口がきけない人でした。前の魔族との戦争で耳をやられたらしくて。元騎士だとかなんだとか、よくわからないんですけどね。だから音に頼る事ができなくて、文字を覚える前は、お爺ちゃんとの意思疎通は、全部身振り手振りで察するしかなかったんです。そうこうしているうちに戦争がひどくなってきて」
「粉挽小屋は街からも村からも外れているから、不便な場所だけど安全でしょう?お爺ちゃんは昔は騎士をしていたくらい強かったし、戦争の間だけでいいから赤ちゃんを避難させてくれって、一人外国の難民の子供を預ったら、次々にたくさんの外国の難民の子供が預けられるようになって。お爺ちゃんも断れないものだから本当にあの時はお世話が大変でした」
前の魔族との戦争の際は、そんな話は珍しくもなかった。調査書にも、粉挽き小屋で合計8人もの子供を一時的に面倒を見ていた事は記録にある。全て外国からの難民の子供だ。みな魚屋やら宿屋の子供たちばかりで、ここにも魔術師はおろか、農家すらいなかった。
ベスは話を続ける。
「みんな親から引き離された。外国の小さな子供だし、言葉も通じなかったんです。おじいちゃんも口が聞けないし、まだ赤ちゃんも何人もいたし、病気の子供もいたから、誰も死なせてはいけないと私必死で。赤ちゃんや子供達の全部少しの呼吸やら、動きやらで必死で感じとるしかなかったんです」
「だから、ものを言わない生き物が何を求めてるかなんて、本当に簡単にわかるようになったんですよ。犬とか猫とか、なんなら鳥とかとの意思疎通も得意ですが、植物が一番得意みたいです」
「どうやって、わかるんだ」
少し声を上ずらせて、ノエルが質問の核心の答えを求めた。
ベスはなんともない事のように、ネコ魔獣の腹を撫でながら答えた。
「まず、呼吸を一緒に合わせるんです。そして、お互いがお互いである境界線のぎりぎりまで意識を近づけて行って、それからゆっくり自分が自分である事を手放して、相手と自分が一緒の生き物になるんです。そしたら自然に相手が何を感じて、何を求めているかが感じます。ただそれだけですよ」
とベスは笑った。
「そうか。それだけ、か・・」
それだけ。ただそれだけ。そうベスは言った。
それが、どれだけの難行であるか、まるきり本人は気がついていないらしい。
高位魔術師には、高位魔術を会得する際に同じような訓練を課されるのだ。風魔法の使い手は風と一体になり、炎の魔法の使い手は、炎と己を境界を消し、己が炎となる。
魔力の持たないべスは、同じ事を子供の命を守る為に、必死で学んだのだ。
二人は顔を見合わせた。
あ、昨日エズラ様からもらったクッキーがあるんです、一緒に食べましょう。
もう先ほどの会話など頭にないように、ベスは嬉しそうにクッキーの入っている箱をとりに言ってしまった。
843
あなたにおすすめの小説
【完結】旦那様、どうぞ王女様とお幸せに!~転生妻は離婚してもふもふライフをエンジョイしようと思います~
魯恒凛
恋愛
地味で気弱なクラリスは夫とは結婚して二年経つのにいまだに触れられることもなく、会話もない。伯爵夫人とは思えないほど使用人たちにいびられ冷遇される日々。魔獣騎士として人気の高い夫と国民の妹として愛される王女の仲を引き裂いたとして、巷では悪女クラリスへの風当たりがきついのだ。
ある日前世の記憶が甦ったクラリスは悟る。若いクラリスにこんな状況はもったいない。白い結婚を理由に円満離婚をして、夫には王女と幸せになってもらおうと決意する。そして、離婚後は田舎でもふもふカフェを開こうと……!
そのためにこっそり仕事を始めたものの、ひょんなことから夫と友達に!?
「好きな相手とどうやったらうまくいくか教えてほしい」
初恋だった夫。胸が痛むけど、お互いの幸せのために王女との仲を応援することに。
でもなんだか様子がおかしくて……?
不器用で一途な夫と前世の記憶が甦ったサバサバ妻の、すれ違い両片思いのラブコメディ。
※5/19〜5/21 HOTランキング1位!たくさんの方にお読みいただきありがとうございます
※他サイトでも公開しています。
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた辺境伯様と一緒に田舎でのんびりスローライ
さくら
恋愛
美人な同僚の“おまけ”として異世界に召喚された私。けれど、無能だと笑われ王城から追い出されてしまう――。
絶望していた私を拾ってくれたのは、冷徹と噂される辺境伯様でした。
荒れ果てた村で彼の隣に立ちながら、料理を作り、子供たちに針仕事を教え、少しずつ居場所を見つけていく私。
優しい言葉をかけてくれる領民たち、そして、時折見せる辺境伯様の微笑みに、胸がときめいていく……。
華やかな王都で「無能」と追放された女が、辺境で自分の価値を見つけ、誰よりも大切に愛される――。
前世の記憶を取り戻した元クズ令嬢は毎日が楽しくてたまりません
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のソフィーナは、非常に我が儘で傲慢で、どしうようもないクズ令嬢だった。そんなソフィーナだったが、事故の影響で前世の記憶をとり戻す。
前世では体が弱く、やりたい事も何もできずに短い生涯を終えた彼女は、過去の自分の行いを恥、真面目に生きるとともに前世でできなかったと事を目いっぱい楽しもうと、新たな人生を歩み始めた。
外を出て美味しい空気を吸う、綺麗な花々を見る、些細な事でも幸せを感じるソフィーナは、険悪だった兄との関係もあっという間に改善させた。
もちろん、本人にはそんな自覚はない。ただ、今までの行いを詫びただけだ。そう、なぜか彼女には、人を魅了させる力を持っていたのだ。
そんな中、この国の王太子でもあるファラオ殿下の15歳のお誕生日パーティに参加する事になったソフィーナは…
どうしようもないクズだった令嬢が、前世の記憶を取り戻し、次々と周りを虜にしながら本当の幸せを掴むまでのお話しです。
カクヨムでも同時連載してます。
よろしくお願いします。
実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~
空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」
氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。
「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」
ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。
成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
【完結】身を引いたつもりが逆効果でした
風見ゆうみ
恋愛
6年前に別れの言葉もなく、あたしの前から姿を消した彼と再会したのは、王子の婚約パレードの時だった。
一緒に遊んでいた頃には知らなかったけれど、彼は実は王子だったらしい。しかもあたしの親友と彼の弟も幼い頃に将来の約束をしていたようで・・・・・。
平民と王族ではつりあわない、そう思い、身を引こうとしたのだけど、なぜか逃してくれません!
というか、婚約者にされそうです!
悪役令嬢に転生したので地味令嬢に変装したら、婚約者が離れてくれないのですが。
槙村まき
恋愛
スマホ向け乙女ゲーム『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の悪役令嬢、リシェリア・オゼリエに転生した主人公は、処刑される未来を変えるために地味に地味で地味な令嬢に変装して生きていくことを決意した。
それなのに学園に入学しても婚約者である王太子ルーカスは付きまとってくるし、ゲームのヒロインからはなぜか「私の代わりにヒロインになって!」とお願いされるし……。
挙句の果てには、ある日隠れていた図書室で、ルーカスに唇を奪われてしまう。
そんな感じで悪役令嬢がヤンデレ気味な王子から逃げようとしながらも、ヒロインと共に攻略対象者たちを助ける? 話になるはず……!
第二章以降は、11時と23時に更新予定です。
他サイトにも掲載しています。
よろしくお願いします。
25.4.25 HOTランキング(女性向け)四位、ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる