5 / 26
武家の女(おなご)〈肆〉
しおりを挟む与岐に来た再嫁の縁組は、同じ南町奉行所の与力とのものだった。数年前の冬に流行った病によって前妻に先立たれたのだと云う。
二人の子を産んで弱った与岐の身体を慮ってか、先方にはもうすぐ元服を迎える嫡男がいて跡取りどころか子どもすら望まれなかった。
その代わり、親子ほどとは云わぬものの、十歳以上も歳の離れた相手だった。
「……父上、御家同士の結びつきを重んじる武家に生まれながら、離縁なぞいたしたわたくしには身に余る縁組で……誠にありがたく存じまする」
「おお、さすれば此の話を進めてよいのでござるな」
脇息に片肘ついていた父が、とたんに身を乗り出した。
「いえ……折角のお話でござりまするが、畏れながらご遠慮いたしとう存じまする」
与岐は身を二つに折って深く頭を下げた。
「なにゆえだっ」
父は声を荒げた。座敷じゅうにその声が響く。
「——此れより、我が心に偽りなく答えますることをどうかお赦しくださりませ」
与岐は神妙な面持ちでさように前置くと、
「再嫁先で子を望まれぬのは、確かに安堵いたしてござりまする。
さすれども、嫡男となられる生さぬ御子の心持ちやら、新しく仕える姑君のことやらを鑑みますると……」
先方には嫡男以外に姑もいた。その姑は夫と死別して久しいと云うから、さようでなくとも嫁が亡き今、家中を一手に引き受けて差配しているに相違ない。
またしても、与岐が気苦労するのは今から目に見えていた。
「——わたくしめでは、とても大任を果たせるとは思えませぬ」
「……とはいえどものう……」
与岐の「仔細」を聞いた父は、また脇息に片肘をついた。
「一度他家に嫁したおまえを、いつまでも当家に置くわけにはゆかぬのだ」
与岐も其れは重々承知していた。
未だ家督は父にあり、奉行所での御役目に任ぜられているのも父ではあったが、数年前に妻を娶った兄はすでに嫡男・政五郎をもうけており、着々と次代を担う礎を築いていた。
さらに、此度生家に身を寄せてみてはっきりと分かったのは、今や本田家の家中は母と嫂によって動いていると云うことだ。与岐はとっくの昔に「客人」になっていて、この家に居場所なぞない。
「本田の御家に面倒をかけることは、わたくしの本意ではござりませぬ。
かくなる上は——町家に下がって余生を過ごしとう存じまする」
「町家だとっ。おまえは武家の身でありながら、町家で暮らすと申すかっ」
脇息から飛び跳ねるように身を起こした父が怒鳴った。その声が座敷じゅうに轟く。
すると、次の間の襖がすーっと開いた。
「父上、如何なされた。さように大きな声を出されては、いくら壮健なお身体でござろうと何かと差し障りが……」
二人きりでの話を案じて、おそらく隣の間に控えていたのであろう。
見るに見かねた兄が、とうとう座敷の中に入ってきた。
我に返った父は一つ咳払いをすると、改めて与岐に問うた。
「——して、町家で暮らすなどと軽々しく申してござるが、如何にして活計を立てる心算でござるか」
「町家で手習所を開きとう存じまする」
与岐はきっぱりと答えた。「手習所」とは、子どもたちに読み書きを教える学問所である。
63
あなたにおすすめの小説
完結 貴方が忘れたと言うのなら私も全て忘却しましょう
音爽(ネソウ)
恋愛
商談に出立した恋人で婚約者、だが出向いた地で事故が発生。
幸い大怪我は負わなかったが頭を強打したせいで記憶を失ったという。
事故前はあれほど愛しいと言っていた容姿までバカにしてくる恋人に深く傷つく。
しかし、それはすべて大嘘だった。商談の失敗を隠蔽し、愛人を侍らせる為に偽りを語ったのだ。
己の事も婚約者の事も忘れ去った振りをして彼は甲斐甲斐しく世話をする愛人に愛を囁く。
修復不可能と判断した恋人は別れを決断した。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる