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女(おなご)の公事師〈壱〉
しおりを挟む月が改まったある晩、与岐は今度は兄が寝起きする座敷に呼ばれた。襖を開けると、すでに父が床の間を背に座している。
あわてて与岐が入り口近くの一番下座に腰を下ろすと、
「——与岐の身の振り方のことでござるが……」
兄は開口一番告げた。
「やはり、おまえが町家にて手習所を開くことは断じて認めるわけにはいかぬ」
「お、お待ちくだされっ、兄上っ」
与岐は思わず金切り声を上げてしまった。
「黙れ、与岐。武家のおなごがはしたのうござる。おのれを弁えて、兄の話をしかと聞け」
父は我が意を得たり、と満足げに肯いている。
「さりとて……」
兄は憐憫の眼差しで妹を見つめて云った。
「おまえが先の婚家と目の鼻の先である八丁堀の組屋敷で暮らしとうない心持ちは、よう分かってござる」
「さすれば、なにゆえ……」
与岐は兄から目を逸らして、ぐっと唇を噛んだ。
「心して聞け、与岐。某は町家へ移ることを認めぬとは、一言も云うてござらん。
おまえ、町家にて手習所ではなく『公事師』をやってみる気はござらんか」
——『公事師』とな……
与岐は目をぱちくりさせた。
「なっ、何を勝手なことを申してござるっ。わしは与岐が町家で住むなぞ赦した覚えはないぞっ」
てっきり嫡男として武家に相応しき沙汰をするものと信じ切っていた父は、当然のことながら激昂した。
「兄上、公事師とは如何なるものでござりまするか」
何か生業のごときものであろうと思うが、与岐は今までに聞いたことがなかった。
「虚け者めが。おなごの公事師なぞ、わしは生まれてこの方見たことも聞いたこともござらんわ。そもそも、おなごの分際で男の役目なぞできるはずがなかろうが」
父が吐き捨てるように云った。
——ならば、なにゆえ兄上はわたくしにさような生業を……
与岐は兄を訝しげに見つめ返した。
「南北の奉行所に持ち込まれる『訴え』には、大きく分けて二つござってな。
御奉行様が直々にお白洲で罪人に磔や獄門などお裁きになられるのは『吟味筋』(刑事裁判)と称して、百姓たちが住まう村同士の諍いなどを我ら与力が双方の云い分を聞いて取りまとめてござるは『公事方出入筋』(民事裁判)と称してござる。
百姓たちの訴えを恙無く取りまとめてござるには刻を要するがゆえ、農村より江戸へ参った者たちは『公事宿』に泊まってござる。
その間、公事宿が百姓たちに公事師と云う生業の者を手配して雇わせ、奉行所の役人との遣り取りを百姓たちに代わって行わせるのでござる」
奉行所に出す訴え状一つとっても、仮名の読み書きが精一杯の百姓たちにはたいそう荷が重い。
されど公事師に頼めば、書状を支度するところから奉行所との遣り取りまで万事指南してもらえるのだ。
「確かに、父上のおっしゃるごとく某もおなごの公事師を目にも耳にもしたことはござらんし、そもそも本来の公事師の役目を与岐がやりおおせるとも思わぬ。
それでな、与岐がどうにか本田の御家の面目を保ちつつ町家での暮らしを立てられるよう思案してござった折に、受け持ちの公事宿から耳に入ってきた話でござるが……」
実は、本田家が奉行所で代々受け継ぐ「赦帳撰要方与力」は人別帳を管理することから、農村より江戸に入ってくる者たちに目を光らせねばならぬゆえ、公事宿を取り締まる御役目を担っていた。
「なんと町家の女房が時折、公事師を求めて公事宿に訪ねてくるらしい」
「亭主や子もいる市井の女房には、とんと縁なき処にて思えてなりませぬが……」
不思議に思った与岐は思わずつぶやいた。
「女房は離縁しようと思えどどうにもはぐらかされる亭主から、なんとしても『去り状』をもぎ取りたく、その指南を求めて公事宿へやってくるそうでござる。
いくら公事師が書状に詳しかろうとも、去り状は役目違いゆえ帰るようにと申せど、中には『百姓の味方はしても町家の女房は見捨てるのか』と梃子でも動かぬおなごがおって、公事宿は頭を抱えて困り果ててござった」
与岐はなるほど、と合点がいった。
そして、意を決して公事宿を訪れた女房たちの心持ちが、ほんの少し前の我が事のごとく思えた。
「——さような女房たちを世話する『指南役』であらば……『女の公事師』として、おまえでもやりおおせるのではござらんか」
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